五章

二十二話

 由紀の瞳は俺のエゴを見抜いていた。だから……俺を憎んだ。

 つかんだはずの幸せは、俺の手によって虚構に堕ちた。

 ああ……ちくしょう。

 自分がこんなにエゴイストだとは……思わなかったな……。









 メッセージで『迎えに来なくていい』と送った。


 家を出るのが一時間ほど早くなるが、バスを乗り換えて遠回りすれば一人でも学校に通える。それでも由紀が迎えに来てくれたのは愛情で。俺が遠慮しなかったのは嬉しかったからで。


 もう俺にその資格はない。


 手間取りながら靴を履いて家を出る。ソラよりも早い時間だ。まだ辺りは真っ暗で、痛いほどの冷気が肌を刺す。今年初めての手袋は寒さをまったく防いでくれなかった。


 バランスを崩さないようゆっくり歩く。妙に体が重かった。そのくせ胸にはぽっかり穴があいたようで、体と魂の重さが釣り合っていない。金属の体は無駄に重く、空っぽの魂は軽すぎる。


 バスの中も暗かった。習慣的に二人席に座ろうとしたが、その贅沢に気付いて一人席に移動する。隣には誰もいない。寒かった。この暗さと孤独が一晩中続いたら凍えて死んでしまうかもしれない。


 いつもより早い到着になった。バス停からの道は平坦だが、意外に距離があったので杖を持ってくればと後悔した。どこへ行くにも由紀と手をつないでいたのであまり使わなかったのだ。


 教室にはまだ二人しか来ていなかった。由紀の不在を驚いたようにちらちら視線を向けてくる。


 十五分ほどすると拓海がやってきた。へらへらした顔で教室に入り俺を見つけ、目を丸くした。荷物を置いてやってくる。


「……月下は?」低い声で訊いてくる。

「まだ来てないな」


 顔が険しくなる。俺は目を合わせられず、じっと机の模様をながめる。


「何があった」

「……由紀に訊いてくれ」


 プライバシーに関わることだ。担任でさえ苗字を変えないという配慮をしているのに、ぺらぺら話すわけにはいかない。


 拓海は怒ったように眼光が鋭くなる。


「なにもじゃねえよ。先週までラブラブだったのに何があったんだ。相談してくれねえと解決しないだろ?」


 まっすぐな目で貫かれる。見捨てられたくないからいい人であろうとする俺とは違う、純粋な親切だった。それがまぶしくて、偽物の気持ちが強調されるようでいたたまれない。


 こいつは優しいんだな。

 俺に何かあればすぐに飛んできて。自分に何かあっても俺に心配させないようにしている。自分のことしか考えていない俺にはもったいないくらいで……。


 でも――


「わり……今は」


 とてもそんな気分にはなれなかった。

 友人の心配そうな眼差しから逃れるため、手で斜め右の視界を遮る。明確に壁を作ると拓海は声が詰まったように黙っていたが、それ以上は踏み込んでこず、「言う気になったらすぐに言えよ」と残して去っていった。適度な距離感がありがたかった。


 由紀もやってきて俺の隣に座る。距離は数メートルもない。手を伸ばせば愛しい横顔がある。けれど心の壁の分厚さとしては果てしなく遠く、再びつけられた無表情の仮面はどうあがいても破れそうになかった。







 二限目が終わるとソラが心配そうに視線を向けてきた。由紀が黙って教室を去ったのが不思議だったのだろう。ためらいがちにこちらにやってくる。


「サクヤ、次化学室だけど大丈夫?」


 化学室は四階の渡り廊下の先だ。一人で歩くには少し遠い。


「心配すんなって。それくらい」


 下手な作り笑いを怪しまれたがなんとか行ってくれた。新しい友達と楽しそうに――けれど後ろ髪を引かれたように去っていく。


 次の授業が間近に迫り、廊下の人が少なくなってからようやく俺も教室をでる。人が多いと危ないのだ。最後尾からゆっくり一歩ずつ。遅々とした足取りでは間に合わずチャイムが鳴った。だがどうしようもないので二分ほど遅れて化学室に入った。


「む、遅いぞ――っとと、望月か」

「すみません」


 咎められずに着席する。同情的な視線が集まるこの瞬間は最悪だった。


 ――それは憐み。なによりの、屈辱。


 ああ……由紀もこんな気持ちだったんだな……。


 足がなかろうが貧乏だろうが憐みはいらない。ちっぽけなプライドだとしても。


 俺を、そんな目で見るな。


 バカだから授業は頭に入ってこなかった。時間がスキップしたような感覚だ。


 空っぽな時間、空っぽな魂、空っぽな人生。


 そそくさと教室を去る。休み時間に誰と会話をすることもなかった。ただ中身のない休憩時間が過ぎて授業が始まり、それもすぐに終わる。


 何のために学校に来ているのだろうか……。


 少なくとも楽しいとは感じなかった。空いた心を通りぬける風のように、時間はなんの抵抗も意味もなくただ過ぎ去っていく。


 いつだって俺の隣には由紀がいて、手の温もりは連続的だった。人生の一部だったのだ。事故で失った足を義足が埋めたように、事故で失った心を由紀で埋めていた。当たり前にあるはずの身体の一部がない。以前までと別の人間にすり替わってしまった。


 頭を黒に染めているだけで午前中が終わった。虚しい時間だったがそれでも腹は減る。そのことにいら立ちつつ鞄を開けるも弁当はなかった。先週は由紀が作ってくれていたので母ちゃんにいらないと言ったままだった。


 特に困ったとは思わなかった。バカな自分に罰を与えたかったのだ。どうせ授業に集中するわけでもない。空腹は罰のようでむしろ都合が良かった。


「あんた、弁当ないの?」


 委員長に声をかけられた。何でもないように装っているがどこか視線がぎこちない。遠慮がちに、踏み込みすぎないようにおせっかいをしてきた。


「……ある」

「嘘が下手ね~。ちゃんと食べないと風邪ひくのよ」


 パンを差し出される。いらないと断ろうと思ったが、ぐ~と間抜けな音を鳴らす腹がそれを許さなかった。一度空腹を自覚すると強烈な渇望が全身を貫き、気が付けば受け取っていた。袋を開けるのももどかしくメロンパンにかじりつく。


 じんわりと甘さが口に広がる。食べなれた安物の味のはずなのに、なぜか優しい甘さだった。


「それあげる。病院ではあんたにおごってもらったからね」


 奢ったのは相談に乗ってくれたお礼だ。それをわかっていながら言ったのだろう。俺に負い目を感じさせないため。委員長のは純粋な親切だから……。


「ありがとな……」


 たった一つのパンで午後も頑張れる気がした。うまかった。

 由紀がいなくなったら別の人の手を借りていることに気付いて情けなくなった。









 終業式は二十四日だった。午前中でホームルームを終えると各々の冬休みが始まる。予定のない俺は時間を持て余して街へ向かった。


 昼間なのに街は人で溢れていた。どこからか聞こえてくるジングルベルに人々の足取りは軽く、街全体が躍っているようだ。あちこちに置かれたクリスマスツリーは今日の特別さを引き立てている。


 だがどこか軽薄に感じた。金がなければサンタクロースは来ない。家族とすら過ごせない。恵まれた者だけが楽しめる世界だと思い知った。由紀の母ちゃんはこの町のどこかでせっせと働いているのだろうか。理不尽な不平等だ……。


 衝動的に街に来たはいいが歩きたくはない。中央広場のベンチに腰かけてぼーっと行きかう人を見ていた。自室にいるとあの日の後悔が押し寄せてくるので外にいたかったのだ。寒風に吹かれていたならば自分を罰しているようで気が休まる。由紀と顔を合わせられないのでむしろ風邪をひきたかった。


 実のない時間が過ぎていく。昼前には学校が終わったはずなのに、いつの間にか日が傾いていた。身体はすっかり冷え切っている。


 夕方の微妙な暗さが不安を掻き立ててなんとなく立ち上がると唐突に空腹を自覚した。今にも死にそうな胃の悲痛な叫びが聞こえてくる。昼飯すら食べていなかった。


 今から帰っても夕食はまだだ。これくらい、と思ったが男子高校生の飢餓感に耐えられず近くの定食屋へフラフラと入って注文する。


 味は悪くなかったと思う。だが委員長にもらったメロンパンの方がうまかった。もちろん、一番は由紀の弁当だが。


 店を出ると日は落ちていた。イルミネーションが街中を照らし出し、人はさらに増えている。広場の中央にある大きなクリスマスツリーは幻想的に輝いて人々の視線を釘づけにしていた。


 身を寄せ合うカップルも多くなっている。そういうキラキラした人たちを狙ってサンタクロースの格好をした店員がケーキを売り込んでいた。一人でベンチに座る俺に声はかからない。


 もし――俺が選択を間違えなければあの中に入れたのだろうか。由紀と手をつなぎ、身を寄せ合って、将来を語らうことができたのだろうか。困難に直面しても二人で乗り越えられたのだろうか……。


 ありえた未来を想像すると心臓が握られたように痛くなる。永遠に続くと思われた幸せの時間は、あまりにまぶしくて、目を閉じている間に消えてしまった。


 たった二週間。でもあれ以上の時間は手に入らないと予感する。俺はとんでもないハンデを抱えていて、その上致命的なほどバカだから、幸福を手に入れられる未来が見えない。手に入れても、また幻みたいに消えてしまいそうで恐ろしかった。


 煌めくイルミネーションには近づけない。少し離れた日陰から眺めているのが精いっぱいだった。冷たい風に、お前はここがお似合いだとささやかれている。


「寒い……」


 身を寄せ合う人はいない。手のひらを包む優しさもない。死体のように冷たくなった心を抱え、ただまぶしさを前に立ち尽くしていた。


 この街で、俺は一人ぼっちなんだ……。


 涙を誤魔化そうと空を見上げると雪が降ってきた。動かないと次第に頭や肩に積もっていく。冷たかったが、振り落とす気にはなれなかった。


 人工的な光に照らされて雪は美しく映えていた。ホワイトクリスマスへの歓喜が街を包む。


 ひねくれた心でもそれは美しいと感じた。俺の知ってる雪宮町ではないかのような幻想的な雰囲気である。


 俺は立ち上がった。雪が積もっては帰るのが難しくなる。急いでバス停へと向かった。


 美しいものから、逃げるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る