二十一話

「おふたりさん、いくら何でもくっつきすぎじゃないかしら」


 昼休みに弁当を食べていると委員長が呆れたように言ってきた。


「……冬だしな」

「そういう問題じゃないと思うのよ」


 誤魔化せなかった。弁当を持ってきた委員長はため息をついて一つ前の席に座る。

 俺と由紀は一つの机に二つの弁当を広げていた。体は必要以上に密着状態である。指摘されて数センチ距離を離した。もともと見せつけるつもりはなく、無意識のうちにお互いすり寄っていたのだ。


 この数日で感覚がマヒしていたのかくっつくことが当たり前だと認識していた。あ~んさえしなければいいだろうと……。


 由紀も自分のしていることに気付いたのか顔を赤くしている。


「まさかここまでバカップル……というかただのバカになるとはね。望月を嫌いと言った由紀はどこに行ったのよ」

「……朔夜なんて嫌いだし」

「その距離感で言われても説得力ないって」


 むぅ、と由紀は不覚そうに口をとがらせる。

 ぶっきらぼうな委員長だがどことなく嬉しそうだった。本気で俺たちを心配してくれていたのだろう。関係の進展を誰よりも喜んでくれた。


「あ~あ、みんなのアイドルの由紀がついに陥落ねぇ。もう金魚の糞って言えないじゃない。望月が夜道で刺されなきゃいいけど」

「委員長、最近そういうドラマ見たのか? ドロドロ系」

「み、見てないわよ……」


 露骨に目をそらされる。あまりにもわかりやすい性格だった。


「陥落してない。朔夜はずっと金魚の糞」

「……由紀、またくっついてるの気づいてる?」


 はっとして距離をとる。さっき離れたばかりなのに、無意識のうちにくっついていた。


「さ、朔夜が私のこと好きって言うから仕方なくくっついてるだけ。私は別に」

「別に?」

「…………」


 委員長に問いただされると拗ねたように押し黙る。


「ま、いいけどね。あたしははよくっつけって思ってたし。おめでとう、二人とも」


 微笑には揶揄でもからかいでもなく心からの祝福が込められていた。優しさに胸がじんと熱くなる。俺と由紀がくっついたという噂はすでに広まっており、朝から不躾な視線をずっと向けられていたので疲れていたのだ。


 ……いま考えればず~っとべたべたしていたから自業自得なんだけど。


「ありがとう美緒」

「色々大変でしょうけど頑張んなさいよ」


 委員長の視線が一瞬ソラの方を向いた。新しくできた友達と弁当を食べている。ようやくこの学校の制服ができたらしく、新鮮な姿だった。


 ソラとはまだうまく話せないままだ。今日の登校も別々だった。


「あまり気にしないことね。あんたは悪くないんだから。悪くないのに謝っても余計こじれるだけよ」

「……ああ」


 誰が悪くなくても、世界の歯車がかみ合わなかったらギシギシと嫌な音を立てる。

 どうにもそれを取り除くのは難しかった。


 今度こそ時間が解決してくれるのだろうか……。










 定期テストは散々だった。一学年八百人で俺は下から二十番、由紀は上から三十四番。俺はともかく、十番以内をキープしている由紀にしてはひどい結果だ。


「負けたのは朔夜のせい」

「なんでそうなるし」


 抗議の目を向けられる。言わんとすることはわかった。由紀も俺も勉強していると互いを思い出してしまったのだろう。あと単純にテスト前にいちゃつきすぎた。


「朔夜のせいで眠れなかった。責任取って慰めて」

「はいはい……」


 どういう理屈だよと思ったがすり寄ってくる由紀を抱きしめる。俺も由紀も確実にバカになっていた。


 その体勢のままいじわるな問題を作った教師たちへの悪口大会が始まった。あのひっかけ問題は性格が悪いとか、逆にあそこは簡単すぎるとか。問題用紙とペンを広げて解説されたがあまり理解できなかった。いつもテスト後は涼し気な顔をしている由紀がここまでムキになるのは珍しい。それほど精神が参っているのか、俺に甘えてくれているのか。


「テストも終わったんだし楽しいこと考えようぜ。クリスマスイブの予定とか」


 わけがわからなくなったので話題を変えた。


「楽しみにしてる」

「全投げかよぉ~。希望とかないのか?」


 クリスマスデートとかしたことないから全くわからない。とりあえずラーメン屋に行くのだけは避けようと思っているくらいだ。


 イルミネーションを見ても由紀は喜ばないだろう。他の選択肢はディナーくらいしか思いつかない。だがこの前のデートでさえ夕飯は家で食べる由紀を誘うのはなんとなくはばかられた。


「特別なことはしなくていい。ただ、朔夜さえいれば」

「せっかく初めてのクリスマスだぞ? もう二度とないんだぞ?」

「そんな贅沢はしなくても」

「俺がしたいの! クリスマスって特別じゃん。もったいないじゃん」


 由紀は「しょうがないなぁ」と笑った。


「なら期待してる」


 いじわるな笑みを向けられる。甲斐性を試されている気分だ。


 ――意地でも完璧なプランを立ててやる。


 それこそあの百万の指輪とか……いやだからあれは婚約指輪なんだって。無理だって。








 俺のスマホを二人で覗き込み、デートプランを立てていると親父が帰ってきた。時間的にもそろそろお開きだ。本当に二人でくっついて話しているだけで一日が終わっていた。


 遊びに行っていたソラも帰ってきた。由紀の靴に気づいたのかそそくさと自室に入っていく音が聞こえる。二週間たってもまだ二人は一言も会話をしていない。雪解けには時間がかかりそうだ。


「じゃあバイバイ」


 由紀は靴をはいて立ち上がる。


「ああ。クリスマス、楽しみにしとけよ」

「二十四日だけだけどね」

「サンタクロースが来るのはイブの夜だろ」


 恋人はサンタクロース、だからな。プレゼントも考えておかなきゃ。


 由紀はふっと微笑んだ。


「じゃあね、朔夜。テストお疲れ」


 由紀が出てパタンと扉が閉じられた。祭りの後の静けさが満ちていく。キッチンから聞こえてくる料理の音が妙に寂しくて自室へと戻った。特にすることはないんだが……。


「って、あいつペン忘れてんじゃん」


 テストの解説に使ったボールペンが落ちていた。由紀がこんなうっかりをするなんて珍しい。寝不足と言っていたし疲れているのだろうか。


 夕食まで時間もあるし、リハビリの運動もかねて由紀の家まで届けるか。

 次に会ったときでいいはずだが由紀に会いたかったのだ。家族がいるのに声が聞こえないこの家にいたくなかった。


 義足を装着し、コートを羽織って外に出る。この足ではどうせ追い付けないのでせめて転ばないようにゆっくり歩く。外は大分冷え込んでいて、由紀のぬくもりが恋しくなった。


 由紀の家に行くのは久しぶりだ。高校に入ってからは初めてである。集まるのは俺の部屋ばかりだった。


 不思議だったが、彼氏を家にあげるというのは相応の意味が発生する。俺としてもまだそこに踏み込む勇気はない訳で……。


 ……クリスマスならもしかして。


 頭を振って邪念を追い払う。付き合ってまだ半月なのに何を考えているんだ俺は。


 悶々と悩んでいるとアパートに着いた。鉄筋コンクリートで作られているがかなりボロく、夕方の薄暗さもあってか禍々しい雰囲気である。錆びた金属の匂いが鼻につく。通路を歩くとカツンカツンと嫌な音が響いた。


 階段を上って二階の部屋へ。一番奥の部屋が月下家だったはず――


「――あれ、間違えた?」


 表札には別の苗字が書かれていた。そんなはずはないと思いつつ他の部屋も見てみたが、月下家は存在しなかった。


 どうなってるんだ……?


 こっそり引っ越したのか、それとも表札が間違っているのか。しばらく来ていなかったとはいえ、こんなボロアパートは近くにないので間違えるはずないのだが。


「――なんで買ってきてないのよこのクズ!」


 怒鳴り声が聞こえた。ヒステリーな女の声が夕方のアパートに響く。近くのカラスが驚いてバタバタと飛び去って行った。


 声はどこかの部屋の中だ。変な人も住んでるんだなぁ、と思いつつもう一度月下家があるはずの部屋に向かう。やっぱり別の表札がかかっていた。


 電話してみるか……。


「――早く! 夕食はまだなの! 私を餓死させる気⁉ そんなこともできないならあんたも働きなさいよ!」


 また怒鳴り声が響いた。今度はさらに大きく。


 ――この部屋の中から聞こえた。


 嫌な予感がした。視線が扉に吸い込まれていく。足が地面にくっついたように一歩も動けない。


 見てはいけない。知ってはいけない。頭の中で警鐘がなっているのに立ち尽くす。


「――ごめん、買いに行ってくる」


 聞きなれた声とともに扉が開かれた。別の表札がかかった部屋から、つい数十分前に分かれたはずの恋人が出てきた。


 当然、目が合った。


 時が凍り付いた。俺たちの間を凍てつく風が通りぬけていく。


 彼女の顔は銃を突き付けられた捕虜のようにみるみる恐怖へと染まっていった。


「さく……や……?」


 声はかすれほとんど音になっていなかった。弱々しい振動はすべて風がさらっていく。


「由紀……なにが、どうなってるんだ……?」


 なぜ表札が違うのか。部屋から聞こえてきた怒鳴り声はなにか。


 どうして、そんなにおびえた表情をしているのか。


 俺もパニックになった。必死に考えようと脳を動かしてもまるで働かない。悪夢の中で必死にもがくように、何も言葉が出てこない。暗い海の底で窒息しているようだ。


「なにか……あったのか……?」


 状況を飲み込めない。けれど、絶望の底より声が聞こえる。


 俺たちの間で、何かが崩壊する音が。


「――ッ!」


 恐怖で耐え切れなくなった由紀は突如走り出した。


 通路に涙が数滴こぼれ落ちていく。俺も突き動かされるようにその後を追いかける。


 だが義足は不自由だ。駆け下りようとした階段を踏み外してバランスを崩し、盛大に地面に転がり込む。ドスン、と大きな音が響いた。


「いって……」


 治ったばかりの右腕がずきずき痛む。また折れてなきゃいいが。

 立ち上がろうと顔をあげると、音をきいた由紀が心配そうにこちらを見ていた。気まずそうにとぼとぼやってきて俺に手を差し出す。


 どんなときでも由紀は優しくて、俺が困ったらすぐに助けてくれる……。


 手をつかんで立ち上がる。だが由紀の身体の震えは収まっていなかった。顔は青白く、恐怖をかき消そうと唇をかみしめている。


 見ていられなくて抱きしめようとした。だが――手で払いのけられる。一歩後ずさり、拒否の姿勢を示していた。


 なんでだよ……。


 数十分前の甘えた由紀はどこに行ったのか。目の前の恋人が別人のように見えてしまった。


「何があったんだよ。教えてくれよ、由紀……」


 俺が家に来るのを拒否したのはこれが理由だったのか……?


「……」


 黙ってうつむいたまま動かない。口を開こうとすらしなかった。


 沈黙が重い。


「とりあえず公園いくか」


 らちが明かないので由紀の手を引いて近くの公園へと向かう。幼いころ、俺たちがよく一緒に遊んだ公園。滑り台とベンチしかない質素な場所だが思い出が詰まっていた。


 ベンチで隣り合って座る。手をつなぐ以外を許してくれなかったので、じっと待つ以外の方法がなかった。


 静寂は十五分ほど保たれていただろうか。ぽつり、由紀は語りだした。


「お父さん、出て行った。離婚もした」


 一瞬、脳が理解を拒んだ。


 彼の顔を思い出す。仕事に一生懸命で、けれど家族をほったらかしにはしない優しい顔。俺も遊んでもらったことがある。忙しくてもクリスマスには必ず家族の時間をつくるし、夕食は一緒に食べる。離婚と言われても想像がつかなかった。


「仕事、忙しいのに給料は少なくて。いつまでも貧乏で。どんどん空気が悪くなって。お母さんもヒステリーになって。たくさん喧嘩をして。もう嫌だって、出て行った」


 実感がない。うちの両親はあまり顔を合わせないが不仲ではない。親父と俺とは気まずいが、喧嘩をするほどではない。親父はいつもくたびれているけど、俺や母ちゃんに文句を言ったりはしない。


 それは――金があるゆえの余裕?


「引っ越したくないからこっちに残ったけど……お父さんがいないと余計に貧乏で。家の空気が悪くて。お母さんもどんどんヒステリーになって。いまじゃ、あんな感じ」


 先ほどの金切り声を思い出す。それに対してごめんと謝る由紀の声も。


 こんな世界があるなんて知らなかった。日本ではない、どこか別の場所を見せられている気分だ。


「お母さん、精神科では病気じゃないって言われたけど。だから対処できなくて。もともと専業主婦だから仕事もなかなか見つからなくて」


 声が震えていく。疲れ果てたかすれ声が震える唇から漏れてくる。


「仕事は見つかったけど、帰ってきてから家事をしなくなったし」


 由紀が必ず夕食時に帰る理由。

 由紀が安さを求めて業務スーパーに行く理由。

 由紀があの日、俺に弁当を作ってきてくれた理由。


 材料が余ったからというのは、買い物慣れしていない由紀のうっかりミスで。あの日の弁当は俺のためでもなんでもなくて。


 ――でもイブだけ。二十五はいい。


 クリスマスは家族と過ごすと言った由紀はどんな気持ちだったのだろう……。


「お父さんいなくて不安なのに……しなくちゃいけないことが増えて。服で隠れるところをお母さんに叩かれることも増えて。どうすればいいのかわかんなくて。でも近所の人は助けてくれなくて」


 雪宮町は田舎と都会の悪いところを合わせた土地だ。都会のように近所づきあいは淡白で、けれど悪い噂はすぐに広がる田舎の陰湿さもある。


「お金がないから、高校を出たら夜の店で働けって言われて。……もちろん断ったけど。でもそのせいで多分、大学にも行けなくて」


 絶句する。あまりに未知の世界過ぎて、想像すらできなかった。


「もう……全部投げ出したい……」


 涙がこぼれた。ぽとりと地面にシミができる。

 背筋を走る悪寒に足がガクガク震えた。


「……いつからなんだ?」

「お父さんが出て行ったのは、三か月前。正式に離婚が決定したのは……あの日」


 言葉を詰まらせる。由紀の顔は恐怖で満ちていた。

 やがて、闇を吐き出すかのように、呟く。



「ソラが風邪をひいた日」



 ――今からそっちいっていい?


 電話越しの泣きそうな声が蘇る。


 あの時、俺は拒否した。独力でソラを助けたいという、自己満足で。


 何が俺たちのことが心配になってだ。何が嫉妬してるだ。何が拗ねているだ。


 なんで、俺は助けを求められていたことに気づかなかった……?


 わかっていたはずだ。本当に辛いときは傍にいてくれるだけでいいんだって。たった一日、眠れない夜を一緒に過ごすだけでよかったんだって。なぜたったそれだけのことをしなかった……?


「あ……ああ…………あああ……………………」


「正式に離婚が決定して、苗字も表札も変わって。もうわけわかんなくて。辛くて、苦しくて。……でも、朔夜はマナーモードで電話に出てくれないし。鍵も閉められてるし。学校にも来てくれないし。こんなこと他の人に相談できなくて、家族にも頼れなくて、近所の人にはうるさいってクレームを入れられて。担任には呼び出されたけど卒業まで苗字を変えないって気を使われるばかりで何もしてくれなくて。頼れるのは朔夜だけだったのに」


 ――もう遅いよ。


 あの朝の電話。どんな思いで夜を超えて、あの言葉を発したのだろう。


「お母さんもどっか行っちゃったから一人ぼっちで。寒いし、眠れないし、それなのに誰も助けてくれないし!」


 涙声で叫んだ。ぐさりと胸に深々と突き刺さる。


「私は朔夜しかいないのに……朔夜だけなのに…………見捨てられて………………」


 満ち足りていた心が崩れ落ちていく。内部を満たしていたのは嘘の幸せだったのだ。


 誰でもなく、俺のせいで。由紀に認めてもらいたいという、幼稚なエゴを優先したせいで。


 考えてみたらおかしいことだ。この時期に新たな奨学金を申し込むとか。ソラと一緒に寝ただけであそこまで怒るとか。怒っても俺に攻撃するわけじゃなく、疲れたように避け続けるとか。家族に対して今までにないこだわりを見せるとか。由紀らしくない行動は続いていた。


 十年も一緒にいるのに俺は異変に気付かなくて。


 そのせいで由紀はどんどん傷ついて。


 でも――誰にも助けは求められなくて。


 由紀の孤独は強さゆえだなんて勝手に思い込んで。


「私はずっと朔夜を支えてきたのに……私が辛い時は……見捨てられて……」


 ずっと俺に寄り添ってくれていたのに、由紀がきついときに俺はぐーすか寝ていて。自己満足に陶酔して。


 何年、手をつないでくれたと思っている。


「見返りを求めるのはおかしいってわかってるのに……朔夜を責めたくないのに……それでも! 朔夜が嫌いで! 責めるしかなくて! 大嫌いで!」


 声を張り上げる。普段よりずっと饒舌に。がらがらのかすれ声で。


 涙で顔はぐしゃぐしゃだ。握った拳には爪が食い込んでいる。


 今まで優しさで抑え込んでいた憎しみが、とめどなく押し寄せてくる。一度決壊した堤防はもう戻らない。


 かりそめの平和が崩れていく。罪が暴かれていく。


「朔夜のことが好きで助けてきたから、助けてくれなかったってのは自己中で。そんな自分がどんどん嫌になって。もう頭の中がずっとぐちゃぐちゃになってて……。朔夜を嫌いになるしかなくて……」


 ――朔夜なんて嫌い。


 冗談の中に本音が漏れると知っていたのに。


 弁当といい、電話といい、態度といい。なぜすべてを都合よく、自分本位に解釈してしまったんだ?


 自分が犯した罪に気づこうともせず。俺はなにをしていた?


「朔夜の……裏切り者……」


 ただ、何も動かなかった結果をまざまざと突き付けられている。あの日と同じ言葉で罵られる。


「……ごめん」


 それに対して何も言い返せない。ただ軽い言葉しか出てこない。


 口からでてきた軽薄な言葉に自分でも驚いた。


「俺、頑張るよ。頑張って由紀を支えて……」

「無理だよ」


 精いっぱいひねり出した言葉も即座に両断される。由紀の言葉は氷の刃のように冷たく鋭かった。


「朔夜は金持ちだからわからない。貧乏が辛いって。寒い夜に暖房すらつけられない辛さも……クリスマスにプレゼントのない寂しさも……」

「お、俺の家に来ないか? 一緒に暮らせば……」

「それは憐み。なによりの、屈辱」


 由紀の顔が憤怒に染められていく。悔しそうに俺を睨む。


 言葉を、選択を間違えたのだ。数秒前の自分を殴りつけたい。


「ごめん……でも一生懸命償うからさ。今は許してくれって言わないからさ。いつか絶対、由紀を幸せにするからさ……」


 ――見捨てないでくれよ。


 あまりに情けなくて口には出せなかった。罪悪感よりも保身が先に来ているのだ。言ってから己の浅ましさを突き付けられたことに気付く。


 エゴで由紀を追い払ったあの日から、何一つ成長していない。


 そんな俺を断罪するように、由紀は口を開く。


「もう、疲れたよ。私じゃ、朔夜を支えられないよ」


 由紀の口から出た言葉と思えなかった。言うはずないと思い込んでいた。

 考えてみたら当然のことなのに。自分をすり減らして寄り添ってくれていたのに。

 俺は自分のことしか考えていなかったから。


「そう……だよな…………」


 謝罪すらできなかった。存在自体が罪だった。


「これだけ苦労して手に入れたとしても、幸せは幻で……どんなに一生懸命つかんでも、すぐに消えるんだよ」


 俺が事故でサッカーを奪われたように。由紀が貧乏で幸せな家庭を奪われたように。


 世界の理不尽さは手に入れたものをかすめ取っていく。それも唐突に。


「幸せになっても、また、朔夜に裏切られるって……。そんなこと思いたくないのに。怖くて信じられなくて。朔夜と付き合って幸せなはずなのに、失う恐怖で毎晩眠れなくて。震えてて。悪夢を見て」


 ――朔夜のせいで眠れなかった。

 ――来年のことを話すと鬼が笑う。


 頑なに未来の話をしたがらなかったのは、これが理由なのか……?

 俺たちが長く続かないとを知っていたから。せめて今だけでも幸せを噛みしめようと。


 お前はどんな気持ちで俺に甘えてくれたんだ?

 俺への憎しみと愛情を同時に抱えながらキスをしたのか?

 抱きしめたときの温もりは本物だったのか?


「だから――お願い。私を解放して。朔夜といるのが怖いから……」


 由紀は立ち上がる。涙の筋は寒さで凍り付いたかのように消えており、押し殺したような無表情の仮面が装着されていた。


「ま、待てよ。これから一緒に――」


 引き留めようと左手を伸ばす。


 だが――その手は由紀の右手によって振り払われた。


 どんなことがあっても、どんなに喧嘩をしても、繋がれていたはずの二つの手を、由紀は拒否した。


「ごめんね。せめて朔夜は幸せにね」


 すたすたと歩いて行く。義足では絶対に追い付けない早歩きで。


「くそっ、待ってくれよ、由紀!」


 俺も立ち上がって走り出し――すぐに転んだ。義足で出せるスピードではない。


 しかし由紀は振り返らずに歩いて行く。背中がどんどん遠ざかっていく。


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。下手な悪夢の何百倍もひどい。


 立ち上がろうとしてもうまく体を制御できない。這いずるように公園を出る。


 けれどそのころにはもう由紀の背中は見えない。


 ごめんね、という言葉だけが耳の奥で響いている。あの温もりも、あの微笑みも、なぜだかもう思い出せない。


 ふと――鼻の頭に冷たいものが当たった。


「雪……?」


 薄暗く分厚い雲からは白いものが舞い降りていた。


 十二月十五日。初雪である。


 しんしんと降りだした雪はやむことなく、光を反射して俺らを分かつカーテンのように立ちふさがった。


 地面は濡れてさらに義足に厳しい路面となる。


 冷たい風が鳴らす音も、揺れる木の葉も、その他の静寂さえ俺を責めているようだ。


 冬の夜。愚かな罪人は冷たい道路で孤独に這いつくばっていた。

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