一章

一話

「早くズボンを脱いで」


 月下由紀は無表情のまま淡々と言った。持っていた学校指定のカバンを床に置き、ゆっくりと俺に近づいてくる。すきま風が長い黒髪をふわりと揺らし、威圧するように左右に大きく広がった。朝日を受けてキラキラと輝き、恐ろしくも神々しい。


「や、やめろ……」


 逃げ場はなかった。焦ってベッドから起き上がれず、年季の入ったスプリングがギシギシと音を立てる。自室の空気を掌握されていた。


 なびく由紀の黒髪から漂う甘い香りに、寝起きの頭が痺れるようだ。

 俺は一生、この幼馴染に敵わないのかもしれない……。


「脱がないなら私が――」

「あ、おいこらやめろって!」


 腰に回してくる由紀の手を払いのける。


 こいつには羞恥心がないのだろうか……。


 由紀の目を見据えるも、夜の海のような瞳に感情の色は浮かばない。

 わずかに手が触れ合うだけで心臓が暴れる俺がアホみたいだ。動揺を悟られないよう必死に取り繕うが、見つめられるとすべてを見透かされているような気がしてくる。


「じゃあ、早くして。早くしないと――」


 由紀が俺の隣に座り、吐息が耳をくすぐるほど体を寄せてきた。



「学校に遅れる。いま何時だと」



「着替えは自分でするっていつも言ってるよなぁ!」


 制服のズボンをハンガーからとり抗議する。高校生にもなって同い年の女子に着替えを見られたくはない。


「ボロボロのズボンのくせに。そもそも朔夜が寝坊しなければ急ぐ必要もなかった」

「うぐ……」


 紺のズボンはあちこちが破れていた。転んだわけでも、ケンカをしたわけでもない。


 自分の足に引っ掛けたのだ。銀色に鈍い光を放つ、金属製の左足に。

 金属の足首は曲げられず、カーボンの足先は摩擦が大きい。ズボンを通すのは六年経っても慣れなかった。


 あの事故から。飲酒運転のトラックに奪われてから、六年も経っているのに。


「つべこべ言わずに足を出して。朔夜のパンツごときで今更」

「くっそ……なんか屈辱……」


 時計を見るとたしかに時間ギリギリだった。頑固な幼馴染を説き伏せる時間はなく、諦めて両足を差し出す。由紀は少し口角を上げ、慣れた手つきで義足をズボンに通していった。


 左足を掴まれても由紀の体温は感じなかった。






 玄関で靴を履かせてもらうころには八時を過ぎていた。転ばないようゆっくり立ち上がり、つま先でトントンと地面を叩く。自分で履くよりも足に馴染んでいた。


「ハンカチ、ティッシュ、財布、筆箱」

「持ったよ。お前は母ちゃんか」


 小学生の扱いだが、実際は一人で着替えられない園児以下だ。


 仕方ないのだ。事故だから。義足だから。


 情けない言葉だと自覚しても、言い訳をせずにはいられなかった。プライドはすでに一片も残さず打ち砕かれている。


「ネクタイが緩んでるし」


 呆れたようにため息をつき、すっと俺のネクタイを締めなおす。くすぐったい。

 由紀は「よし」と満足そうに頷いて右手を差し出す。


 俺たちは手をつないだ。


 一人では、学校まで歩けないから。


 外に出ると十一月の冷たい風が首筋をなでる。


 つないだ手から伝わる温もりは柔らかく、鼓動が加速した。一方的に意識するのが悔しくて横顔をちらりと見るも、無表情は崩れていない。


 流れるような黒髪に端正な顔立ち。黒のセーラー服はしわ一つなく、リボンを崩しもスカートを曲げもしていない。華奢だが一本芯が通ったように背筋は伸びており、飾り気はなくとも歩くだけで周囲の目を引いていた。


――やっぱ釣り合ってねぇよなあ。


隣を歩く幼馴染が輝くほど、影が濃くなるようで気分が沈んだ。


『月下由紀の金魚の糞』


 偶然聞いたクラスメイトの陰口が、耳の奥でリフレインする。

 冷たい事実だった。欠けた身体で由紀の隣に立つ資格はないはずだった。


 不安定な身体を温かい右手に支えてもらい住宅街を歩く。一軒家の並ぶ通学路に人の気配はなく、小鳥のさえずりが耳に届く。雪宮町は田舎でも都会でもない中途半端な街だ。朝日が照らす静けさは心の波を鎮めるようで好きだった。


 学校が近くなると「美雪坂」と呼ばれる名所に差し掛かる。積もる雪の美しさが地元民からは愛されているが、坂と雪のコンボは苦しい。手をつないでならギリギリ歩ける。一人ではとても登れない。


 そうして美雪坂の途中にある結婚式場、マリー・フォレストの前を通ったときだった。


 路傍のベンチに座る一人の少女がいた。


 その横顔に目を奪われた。


 左手にはパレット、右手には筆を持ち、視線は目の前の式場とキャンバスを往復している。


 その目に惹かれた。ルビーのような深紅は彼女の気迫を燃料に燃え盛っている。式場とキャンバスを睨みつける集中力とオーラは、凡人と一線を画す特別な輝きを感じた。


 ごくりとつばを飲む。ただ者ではない、と思いよく観察すると少女は意外にも小さかった。華奢な身体は立っても百五十センチあるだろうか。気合で引き締まった横顔は雰囲気と裏腹に幼さが残っている。


 少女は金髪だった。かぶっているベレー帽は右に傾き、頭の左半分にはお団子がある。


 ――あの帽子、どこかで。


「朔夜」


 左隣から身のすくむような冷たい声が届いた。つないだ手が圧力にさらされてミシミシと痛む。


「いてえ! ゆ、由紀⁉」

「鼻の下伸びてる」


 由紀は無表情のままだった。だが、地の底から這い出るような声と見開かれた目に恐怖する。淡々とした抑揚のない声が迫力に拍車をかけていた。


「伸びてないって⁉ なんで急にそんなこと」

「ふーん、そう。あの子、かわいいよね」


 金髪の少女に視線をやる。その目からは何も感情を読み取れない。


 ……マジ怖え。


「あ、ああ。一般的に、世間的に、客観的に見れば可愛い部類だろうな」

「デレデレ。これだから朔夜は」

「ここまで言葉を尽くしたのになんでそうなるし!」


 由紀は手をつかんだまま足を速めた。バランスを崩しつつ何とかついて行く。


「急ぐなって。焦っても遅刻しねえだろ?」

「うるさい金魚の糞」

「人が気にしてることをえぐるな~っ!」


 なぜか由紀はこの陰口を気に入ったらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る