首折れ女

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首折れ女

 窓の外は、灰色の雲が空を覆い尽くし、細かい雨がしとしとと降り続いている。

 いつもの昼休憩時になれば生徒たちがそこに飛び込んで遊び始めるのだろうが、中学校のグラウンドには水たまりができ、ぬかるみになっているせいで誰も近づこうとしない。

 雨に濡れるのは誰だって嫌なものだ。

 普段なら元気に走り回る生徒たちは教室や廊下に留まっていた。教室の窓には雨粒がつぶれながら滑り落ち、まるで泣いているかのように見えた。

 そんな教室の窓辺で、外の景色をぼんやりと眺めている少女がいた。

 陰を感じた。

 性格が暗いという意味ではない。

 日陰で育った花の様に、どこか、か弱さを感じてしまうのだ。

 でも、それも少女の持つ魅力でもあった。

 髪型は、シンプルなミディアムストレートで、自然なままの美しい髪を大切にし、素肌を整えた清潔感のある印象がある。

 小柄で物怖じするように感じてしまうのは、少女の人見知りする性格だったのかも知れないが、それ故に清楚に感じた。

 名前を渡瀬わたせ春香はるかという。

 春香は、頬杖をつきながら、ずっと窓の向こうを見つめていた。

 何かを待ちわびているようにも思える仕草だが、その表情は曇りがちである。

 そこへ一人の少女が近づいてくる。

 まるで、野の花のように優しい雰囲気を纏う少女。

 少女は、肩まで伸ばした艶やかな黒髪に縁取られた顔立ちは整っており、瞳は大きく綺麗な二重瞼をしている。

 身長は高くも低くもなく、腰はくびれ脚は長くすらっとしていたが、胸元の膨らみは小さく華奢だった。

 名前を三国みくに初穂はつほという。

 彼女は明るい笑顔を向けながら、元気よく話しかける。

 ただ、その声は決して大きなものではなく、ささやくような話し方であった。

 それでも透き通るような声はとても綺麗であり、彼女の持つ独特の声質と相まって心地の良い声色となっていた。

「どうしたの春香? 元気ないね」

 そう話しかけられた春香は少し驚いた表情をしながらも答えた。

「うん。私のいる演劇部で集団カゼが出ちゃって……それで練習が出来なくなったの……」

 少し寂しそうな表情を浮かべて俯く春香に、初穂は明るく励ますように言った。

「そっか。それは残念ね。大丈夫。きっとすぐに良くなるよ」

 その言葉に、少しだけ気持ちが楽になったのか、俯いていた顔をゆっくり上げて、春香は言った。その笑顔には、まだ不安が残っているものの、ほんの少しだけ希望の光が見えた気がした。

 そんなおり、数人の生徒達の話し声が春香と初穂の耳に入った。

 静かな教室に響く声は妙にクリアで、春香の好奇心を刺激した。

 耳を澄ませると、彼らの会話の内容が次第に明らかになった。

「昨日の夜、あの心霊スポットに行ったんだって?」

 一人の男子生徒が興奮気味に話している。

「うん、展望台さ。あそこ、本当に出るんだよ!」

 女子生徒が震える声で答える。彼女の声には恐怖と興奮が混ざり合っていた。

「嘘だろ。何が見えたんだよ?」

 別の男子生徒が半信半疑で尋ねる。その声には懐疑的な響きがあり、信じたいけれど信じきれない様子が伺えた。

「本当だってば。首が折れた女の幽霊がさ、展望台のベンチに座ってたんだ。私たち、全員見たんのよ!」

 女子生徒は顔を青ざめながら語った。彼女の表情にはその瞬間の恐怖が蘇るかのように見えた。

「……え? 何の話かな?」

 春香は不思議そうに首を傾げた。

 初穂は、その会話を聞いて背筋が寒くなった。心霊スポットの噂は前から耳にしていたが、実際に体験した生徒たちの証言を聞くのは初めてだった。

「あれは、海沿い展望台にある怪談話よ」

 初穂は小声で呟いた。

 首を傾げる春香に、初穂は丁寧に説明した。

 一人の病弱な女性が、重い病気を患っていたこと。

 女性は治療のために入院していたが、海の景色が好きで、運動をかねて毎日のように見に行っていたらしい。

 しかし、展望台で景色を見ての帰り、急に容態が悪化してしまい、階段から転げ落ち首の骨を折って息を引き取った。

 それ以来、女性の霊が夜になると現れ、展望台近辺を徘徊しているらしい。

「幽霊って、まさか……」

 春香の表情が一気に暗くなる。その様子を見た初穂は慌ててフォローを入れた。

「よくある噂話よ」

 それを聞いた春香は、ほっと胸を撫で下ろした。

「それより、よかったら私が春香の演劇相手になろうか? 私、別に早く帰る予定もないし、練習なら付き合うわよ」

 そう言って微笑む初穂の顔を見て、春香の表情にも明るさが少し戻ったように見えた。

 そして、二人は放課後の練習について話し合うことにした。


 ◆


 雨の音が途切れず降り続く中、放課後の静けさが学校を包んでいた。

 渡瀬春香と三国初穂は、演劇部の部室で向かい合って座っていた。

 そこは旧校舎の3階の一室にあり、普段は誰も立ち寄らない場所だった。そんな場所に二人きりでいること自体が新鮮であり、どこか不思議な感覚でもあった。

 薄暗い部屋の中、蛍光灯の明かりが二人の影を映し出していた。

 春香と初穂は制服姿のまま、机に置かれた台本に目を落としていた。

「じゃあ、始めようか」

 春香が元気よく言った。

「うん、お願いね」

 初穂は少し緊張しながらも、頑張って笑顔を作った。深呼吸して台本を手に取り、春香に向き直った。

「それじゃあ、最初のシーンから始ね」

 春香が指示を出し、初穂は台本を指でなぞる。

「最初に言っておくけど、私は棒読みになるから。そこだけは勘弁してね」

 初穂の言葉に、春香は思わず噴き出してしまった。そんな彼女の反応に、初穂もつられて笑う。

 二人の間に穏やかな空気が流れる。お互いにリラックスしながら演技に取り組むことができた。

 そうして始まった演劇練習だったが、予想よりも順調に進んだ。

 初穂は最初はぎこちなかったセリフ回しや動作も徐々に滑らかになり、自然な会話へと変わっていく。初穂は謙遜していたが、演者としての素質があることを春香は感じていた。

 また、その可愛らしい外見も役柄にぴったりであったし、何より彼女の人柄そのものがキャラクターとして映えていた。

(この子は本当に可愛いなぁ)

 春香はその姿を見て思わず頬が緩んでしまうほど微笑ましく思った。

 二人の演技は次第に熱を帯び、台詞を交わす度に情熱がこもっていく。部屋の中には雨音と二人の声だけが響き、まるで本当にその世界にいるかのような錯覚を覚えた。

「本当にありがとう。初穂と一緒に演技するのは楽しいわ。演者としての才能があるのよ、このまま演劇部に入らない?」

 練習が一段落したところで、春香は感謝の気持ちを込めて言った。

「そんなことないよ。こうしてやってみると、春香がどんなに上手か分かる。セリフを読むには、その登場人物に感情移入することが大切なんだね……」

 照れ笑いを浮かべながら初穂は答えた。

 それからしばらく二人で雑談をして過ごした後、二人は練習を終えることにした。

 夕方の空は、雨雲によって一層暗さを増していた。

 灰色の雲が空一面を覆い尽くし、まるで重い毛布が広がっているかのようだ。雨はしとしとと降り続け、地面に小さな水たまりを作り出している。風は冷たく、時折強く吹くと、木々の枝がざわめき、葉が震えた。

 雲の厚みが光を遮り、薄暗い夕方はまるで夜のような静けさを漂わせていた。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

 春香は初穂に感謝の言葉を述べた。

 初穂は照れくさそうに微笑む。

「さ。帰ろう」

 そう言って二人が部室を施錠し、2階から1階に下りる踊り場に差し掛かった時だった。

 不意に廊下の電気が消え、辺りに闇が迫った。

 あまりにも突然のことで、二人はその場で固まってしまった。

 窓の外からは激しい雨が降り注ぐ音が聞こえてくるだけで、それ以外の音は一切聞こえない。

「停電かしら」

 春香はやや不安げに呟いた。

「まだ夜じゃないから見えるわ。足元に気をつけて階段を下ろう」

 初穂はそう言って先に階段を下り始めた。その後を慌てて追うように春香が続く。階段は薄暗く、一歩進むごとに軋んだ音を立てた。

 そんな時だった。

 春香は、自分達が通り過ぎた2階の階段前に人影を見た。

 自分達以外に旧校舎に用があって来たのだろうか? それとも忘れ物を取りに来ただけだろうか?

「あの……」

 春香は旧校舎の鍵を預かっている為、施錠してしまうと出られなくなるので、そんなことを考えながら近づこうとする。

 すると、そこには一人の女が横顔を見せる姿で佇んでいた。

 その姿を見た瞬間、春香の背筋にゾクリとした感覚が走り抜けた気がした。

 生徒ではない。

 顔立ちは非常に整っており、肌の色は透き通るように白い。

 長い黒髪をし、薄手の黒いワンピースを着た若い女だった。年齢は20代前半くらいに見えるものの、落ち着いた雰囲気のせいか年齢不詳にも思える不思議な印象を受ける人物だった。

 女は無表情のまま正面をじっと見つめていたが、春香の視線に気づいた瞬間、緊張感が走ったのを感じた。

 女の口元に笑みが浮かぶのを見た。

 すると、女は振り向くことなく、春香の方を向いた。

 どうやって?

 それは、女の首が花の茎が折れるように折れ曲がり、頭が下に垂れたからだ。

 女の顔は完全に反転し、瞳は無機質な光を放っていた。

 口元には不気味な微笑みが浮かび、唇の端から血のような黒い液体が一筋、滴り落ちた。その姿はまるで現実のものではなく、悪夢の中から飛び出してきたようであった。

 女の首は異常な角度で折れ曲がった姿勢で、じっと春香を見つめ続けていた。

 春香の心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が背中を伝った。足が動かず、まるでその場に凍りついてしまったかのようだった。

 初穂もまた、その異様な光景に目を奪われ、言葉を失っていた。

 不気味な女の姿を目の当たりにした春香と初穂は、その場で一瞬凍りついた。

 しかし、次の瞬間、恐怖が全身を駆け巡り、二人は本能的に逃げ出した。

「春香こっちよ!」

 初穂は叫びながら、春香の手を引いて旧校舎の階段を降りると廊下を全力で駆け抜けた。

 雨音が建物全体に響き渡る中、二人の足音だけが廊下にこだまする。薄暗い廊下の中を全速力で走る二人の姿は傍から見れば滑稽な姿であったが、そんなことを気にする余裕など二人にはなかった。

 ただ必死に逃げることしかできなかったのだ。

「何なのあれ!」

 春香は言う。

「分からないわよ。でも、まともな存在じゃないのは確かよ」

 初穂も息を切らしながら答える。その間も二人は走り続けていた。

 やがて、初穂はおかしいことに気づく。

 階段を駆け下り、1階にたどり着いているハズなのに、窓から見える景色が高いままなのだ。

 そして、薄暗いままの廊下の向こうには教室の扉が見える。そこは先ほど居た演劇部の部室の前であった。

「そんな……」

 初穂は絶望する。

 二人は唖然とした表情で立ち止まるしかなかった。目の前に広がる現実離れした出来事に思考がついていかない。

「どうしよう、どうしよう……」

 初穂は恐怖で震えながら考える。

 廊下の先には薄暗い影が揺れ、まるでどこからでも女が現れるかのような錯覚に襲われた。

「初穂。こっち」

 春香は、手近な教室のドアを開け、初穂を中に引き込んだ。

 二人は廊下から死角になるよう教室の廊下側の隅にしゃがみ込み、息を潜めた。心臓の鼓動が耳に響き、呼吸が荒くなるのを必死で抑えた。

(どうか見つからないで)

 祈るような気持ちで二人が身を寄せる。

 しばらくすると、廊下の方から足音が聞こえてきた。

 古びた板張りの床が、一歩一歩に合わせて軋む音を立て、その音は不気味に響き渡った。

 足音は、ゆっくりと近づいてくる。

 暗闇の中では足音が鮮明に聞こえ、まるで耳元で鳴っているかのように感じられた。心臓が早鐘を打ち鳴らす中、春香と初穂はその音を聞いていた。

 春香は、ゆっくりと身を動かす。

 廊下に面した窓ガラスに春香は顔を近づける。

 春香の行動理由を理解した初穂は、小声で彼女の行動を制止させる。

「ダメよ。見つかっちゃうわ」

 初穂の言うことは最もだったが、春香は目視で自分達を追う存在を確認せずにはいられなかったのだ。

 恐る恐る窓に顔を寄せる。暗いガラスの向こうに広がる闇の中には、うっすらと人影が見えてきた。

 後ろ姿だ。

(通り過ぎた?)

 春香は一瞬、そう思ってしまったが、女の歩む音は遠ざからない。むしろ大きくなってきていた。

 春香は気づく。

 去っているのではない。

 近づいて来ているのだ。

 女の動きはぎこちないが、異様なほどに静かだった。

 折れた首が背中に向かって不気味に垂れ下がり、黒髪が歩に合わせて揺れる。

 透き通るような白い肌と、黒いワンピースがコントラストを成し、まるで異次元から現れたような雰囲気を漂わせていた。

 女の目に狂気の色が光る。

 それを見た瞬間、春香は悲鳴を押し殺して初穂の隣に座り込む。

「どうしたの?」

 押し殺した声で初穂が訊く。

「……あの女の人。後ろ向きで、こっちに歩いて来てる」

 震える唇で春香は答えた。

「後ろ向き!? ……そっか。首が折れてるから」

 初穂は納得する。

 その間も女は廊下を歩き続けている。一定の速度で響く足音は、やはりどこか不自然なのは、やはり後ろ歩きだからだろう。

 初穂は雨に濡れた子犬のように震えていた。彼女の身体が震えているのが分かると、春香はその手を握り締め、初穂を落ち着かせようとした。

 すると、初穂は少し安心した表情を見せる。

(春香……)

 心の中で感謝の言葉を呟く。

 女は、なおもこちらに向かって歩いているようだった。

 もう距離は僅かしか残されていない。

 女は、ついに二人が隠れる教室にさしかかる。

 窓の外を通過するところとなった。

(お願い、通り過ぎて……)

 初穂の思いや念が悪い方向に働く。

 足音が止まった。

 それは、二人の背後――壁一枚を隔てたところに女が立ったことを意味していた。

 春香は、全身の毛穴が開き、どっと冷や汗が流れ出るのを感じる。緊張のあまり、吐き気すら覚えた。

 心臓の音が耳の奥で聞こえるほど大きく鳴り響いている。

 二人が背にしている窓に何かが当たる音がした。

 それは、女が教室を覗き込んでいることを意味する。

 二人は息を殺し、身動き一つ取れない状態で固まっていた。

 窓に当たる音が連続して聞こえてくる。おそらく、教室内を覗き込んでいるのだろう。

 不意に、カツンと硬いものが当たったような音がすると同時に、窓の縁が小さく揺れた。

 女が指で軽く叩いていた。

 二人は、あまりの恐怖に声を出すこともできず、ただただ体を震わせていた。

 初穂は首筋を変質者が舌を這わせるような悪寒に襲われていた。喉が裂けんばかりに悲鳴を上げて逃げ出したい。そんな衝動に駆られた時だった。

 初穂の肩を春香が強く抱き寄せた。

 恐怖で怯えている自分を励ましてくれているのだろうと思い、思わず涙が出そうになる。目を向けると、春香は恐怖に押しつぶされながらも力強い目で頷き返してきた。

 そんな春香の表情を見た時、初穂の中で恐怖心が和らいでいくのを感じた。

 そうだ。

 今は春香がいる。

 一人じゃないんだ。

 そう思うと、少しだけ勇気が出た気がした。

 初穂は頷いて応える。

 すると、二人の背後で気配が動くのを感じた。

 足音が――。女が、ゆっくりと遠ざかって行くのが分かった。

 初穂は安堵の溜息を漏らす。

 春香もまた同じように安堵した表情を浮かべていたが、すぐに何かを思い出したような表情に変わる。

「あのひと。一体誰なんだろう……」

 春香は呟く。

 すると初穂は、表情を氷のように硬直させていた。初穂の様子に違和感を感じた春香が声をかけると、彼女は我に返ったように口を開いた。

「……もしかして、都市伝説にある《首折れ女》じゃないかしら」

 春香の表情が凍りつく。


【首折れ女】

 自殺の名所では、必ずと言っていい程、霊の目撃情報がある。

 山形県鶴岡市金沢の高館山展望台も、その一つ。

 狭い小さな入口を通り、最上階へと続くらせん階段を登ると、階段の途中で、不自然な格好をした女が座り込んでいる。

 どうかしたのかと思い姿をよく見ると、首がへし折れた女の霊がいた。あるいは、階段を登っている時に寒気がして上を見上げると髪の長い女と目が合ったというものがある。

 この展望台では、近くのトイレで心霊写真が撮られたという話や、首吊り男の霊を目撃したという話もあるという。

 自殺者達の霊が、成仏できずに苦しみにもがいているのかも知れない。


 その話を聞いて、春香は昼休憩に生徒達が心霊スポットに行ったという話を思い出す。

「もしかして、お昼に聞いた霊のことじゃ……」

 春香が言うと、初瀬は頷く。

「たぶん。霊が居る場所を踏み荒らしたことで、学校までついて来たんだわ」

 初穂の言葉に春香の背筋が凍る。

 もしそうだとしたら、自分たちはどうなってしまうのだろう。想像するだけで恐ろしい想像が頭を過ぎった。

 だが、ここでじっとしている訳には行かない。あの女が戻ってくる前に早く逃げなければと思った。

「階段を下りても1階まで行けなかった。なら、窓からならどうかしら?」

 初穂の提案に春香は小さく頷いた。

 二人は教室の窓辺へと移動すると窓を開けた。

 そこから見える景色はいつも見ている新校舎の裏手にある景色だ。

 3階から見下ろす風景は数十階建ての建物から見える景色に比べれば迫力に欠けるものだ。

 何もかもが近くに見えるが、見下ろしていると現実的な高さに感じられ、逆に足が竦んでしまう。高さに加え、雨で地面がぬかるんでいる。着地できて無事だとしても転倒は避けられない。

 しかし、このままここにいても仕方がないという想いもあった。

「無理よ……」

 春香は3階という高さに怖じ気づき、後ろへと下がる。

 ここから飛び降りれば間違いなくケガをするし、打ち所が悪ければ死ぬ可能性だってある。とてもではないが、飛び降りようとは思えなかった。

「……でもやるしかないよ。鬼ごっこは終わり。いつまでもここにいる訳にはいかないんだから」

 初穂は振り返って春香を説得しようとする。危険なのは違いないが、霊に襲われればどのみち無事では済まないのだ。ならば少しでも可能性のある方法を選ぶべきだというのが彼女の考えだった。

 だが、それでも春香はまだ躊躇っていた。

 窓を背にしている初穂を見る。

 春香の瞳孔が大きく開く。

 なぜなら、初穂の背後。窓の下から白い腕が伸びてきていたのだ。その手は蜘蛛を思わせるように、ゆっくりと初穂に向かって伸びていく。

「初穂、後ろ!」

 春香が叫ぶが、窓の向こうで蠢く腕が初穂の手首を背後から掴む。そのまま掴んだ腕を引き寄せるようにして下階から姿を現す者がいた。

 《首折れ女》だ。

 その姿は異様としか言いようがないものだった。顔は青白く、生気が感じられないほど衰弱した表情であるにもかかわらず、目だけは爛々と輝いているように見えた。まるで獲物を狙う肉食獣のように獰猛な目つきをしている。

 そして何よりも異質なのは、折れ曲がった首だ。本来なら有り得ない方向に曲がっている首は明らかに骨折していたことを物語っている。それが不気味さを一層増す要因となっていた。

 《首折れ女》は初穂を人質にでもするように抱え込む。

 初穂は恐ろしいまでの寒気と恐怖を感じた。全身が震え、歯が鳴りそうになるのを必死で堪えることで精一杯になる。

 そんな中でも《首折れ女》の目は、まっすぐに春香を見ていた。

(まずい……)

 本能的に危険を察知した春香だったが、恐怖のあまり身体が思うように動かない。

 いや、たとえ動けたとしても逃げ場はないのだから意味はないだろう。

 永遠とも思える膠着状態が続く中、不意に声が響く。


 ……て。…………の。


 春香は聞いた。

 それは、あまり余りにもか細く弱々しい声だったため聞き取れなかったが、確かに人の声であった。それも女性の声のようだ。声の主を探そうと周囲を見回すものの姿は見えず、気配すら感じない。

 再び声がする。


 ……けて。

 

 今度は先程よりもはっきりと聞こえた気がしたのだが、やはり何を言っているのか分からないまま消えていくだけだった。

「もしかして……」

 春香は意を決したように《首折れ女》に向かって歩き始める。

「だ、ダメよ。春香、逃げて」

 その姿を見て、初穂は必死に止めようとした。このままでは危険だと直感的に思ったからだ。このままでは二人共首折れ女に取り殺されてしまう。自分の為に親友が犠牲になることなど耐えられないと思ったからこその行動だった。

 しかし、そんな願いも虚しく、春香の足が止まることはなかった。

 一歩ずつ近づいていく度に、春香の中に恐怖心とは別の感情が芽生え始めていた。

 春香は首にかけていた、を外し手にした。

 簡素な紐に通されたもの。

 それは翡翠ひすい勾玉まがたまであった。


【勾玉】

 先史・古代の日本における装身具の一つ。

 祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。その為、曲玉ともいう。

 その歴史は、約5500年前の古墳から発掘されることから勾玉の歴史は大変古い。また、鹿児島県・種子島の縄文時代早期の長迫遺跡と二石遺跡を発掘調査した結果、約1万年前の勾玉型をした装身具などの石製品が出土している。

 その形状は、日本独自で、大陸におけるぎょくにも見当たらず、他の国にはない独特のデザインとなっている。勾玉の不思議な形は頭の部分が日(太陽)を、尾の部分は月を表しこの太陽と月が重なりあった形は大いなる宇宙を崇拝していたとされる。

 また、動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがある。

 勾玉は、現代のように単なる装飾品ではなく、大人になったしるしや、社会的な地位を表す為、あるいは魔除けの為とされる。

 勾玉の穴にも意味があり、自分を生かしてくれる祖先と繋がりを持つことによりその霊力の恵みを受けられることを意味し、我が身に降りかかる邪気・邪霊から身を守り、その恩恵を受けるとされる。

 その効果は、健康を守り、身に襲いかかる災厄を除ける、強力な魔除けを意味する。


 春香は子供の頃から身体が弱く、健やかに育って欲しいという願いの元、勾玉をお守りとして身に着けていたものだ。

 春香は勾玉の首飾りを右手に巻きつける。すると不思議なことに先程まで感じていた寒さや怖さが和らいできたように思えた。いや、むしろ温かく心地良い気分になってきたのである。

 初穂は《首折れ女》に抱きすくめられながらも懸命に春香に向かって手を伸ばす。助けを求めてではなく、友人の行動を抑制し近づかない様に制止させる為にだ。

 だが、初穂の思い届かないのか、それとも無視しているのか、春香は一切反応することなく歩みを進めるのだった。

 春香の手が伸びる。

 そして、ついに《首折れ女》に触れる距離まで近づく。

 折れた首の先にある顔は、生者の顔ではないほどに蒼白であり、口から涎を垂らしている様は死者そのものの姿だ。

 春香はそれを目の当たりにしても怯むことなく、そっと手を差し出した。

 優しく微笑みかける。

 その表情はまるで子供をあやす母親のような慈愛に満ちたものであった。

「私が何とかします」

 春香の言葉に《首折れ女》は一瞬驚いたように目を見開き、それからゆっくりと目を閉じた。まるで安らぎを得たかのように穏やかな表情だ。

 次の瞬間、勾玉巻き付けた手から優しい光が溢れ出した。

 夜明けにも似た淡い光。

 それは春香の持つ優しさと温かさが滲み出たものなのかもしれない。

 そして、その光は《首折れ女》を包み込んでいく。やがて彼女の全身を覆い尽くすと徐々に輝きを失っていく。

 それと同時に春香は意識を失ったように崩れる。

「春香!」

 初穂は《首折れ女》の拘束を振り解く。解放された初穂はすぐに春香の元へ駆け寄り抱きかかえた。

 春香は全身の筋肉が弛緩したかのような脱力感に、初穂は死を連想した。

「春香、春香!」

 初穂は失う恐怖を感じながらも必死に呼びかけると、春香は僅かに反応したように見えた。まだ息があるようだと分かり安堵するが、《首折れ女》が居ることに、すぐに険しい表情へと変わることになる。

 恐怖と戦慄を以って初穂は《首折れ女》を見るが、そこに立っていたのは首の折れていない女性だった。

 首が元に戻ったのだ。

 それも正常な位置へと。

 血の気を失い青白かった肌が元の肌色に戻り、両目には強い意志の光が宿っているように見えるほどだった。先ほどまでの異様な姿とは打って変わって、清楚な印象を与える容姿へと変化していた。

 何が起こったのか分からない初穂の手を、誰かが触れる。

 それは、春香だった。

「私は大丈夫だよ」

 春香は弱々しい声ではあるが確かに生きていたのだ。その事実に、ようやく初穂の顔に笑みが浮かぶと緊張から解放され、涙腺が緩んでしまう。

「……よかった」

 初穂はそう言って泣くことしか出来なかった。

 春香は、友人の優しい姿を眺めながら、女性に目を向けた。

「もう、痛くないですか?」

 春香の問いかけに、女性はゆっくりと頭を垂れた。

 その姿が陽射しによって影が消えるように掠れていく。

 気がつけば、本当にそこに女性が居たのか疑う程に痕跡もなく消えてしまったのだった。

 初穂は春香を抱きかかえたまま呟く。

「……聞こえた。あの人、ありがとう。って言ってた」

 春香は頷く。

「あの人、痛みで苦しんでた。《痛いの》《助けて》って聞こえたの」

 だから助けたのだと言う春香に、初穂は少し呆れたように笑う。

 どうやら春香にとってみれば、苦しむ霊も普通の人と変わらない存在らしい。

(……まぁ、それがこの子の良いところなんだけどね)

 初穂はそう思うと、春香の頭を優しく撫でた。

 もう大丈夫なのだと安心させるために……。

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