向井 百子・53歳・事件現場アパートの大家

 あなたを初めて会ったのは、三年と少し前のことだったね。私は若い頃に働いて貯めたお金と親の遺産で、アパートをいくつか買って、家賃収入で生活していたわ。仲介を頼んでいる不動産屋で、契約の時よ。普段ならオーナーとして契約者と顔をあわせることはないんだけど、本当にその時は偶然その場に居合わせたのよ。すごく驚いた。芸能人とか、アイドルの卵みたいな子たちが私の所有するアパートに住んでいるってこともあったし、若い頃はテレビ局で仕事をしていたこともあったから、並大抵の男を見ても、私は別に男前だとか、イケメンだとか、そんな風に思ったことはなかった。でも、あなたは違った。本当に、びっくりするくらい綺麗で……男なのに、こんな綺麗な男がいるんだと、本当に驚いた。


 だからすっかり、私はあなたのことが好きになってね……

 何、別に恋とかそういうんじゃないよ。この歳になって、あなたのような二十も若い子とどうこうなろうなんて思っていないの。単純に、応援したくなったのよ。「ファン」てやつだよ。今まで芸能人の追っかけとかはしたことがなかったけど、最近流行りの「推し」ってやつだね。

 あなたは笑顔も爽やかだし、とても礼儀正しいしね。あの古いアパートに住んでいるなら、割と生活には困っているんじゃないかと思ったのよ。あなたが務めている会社は、つい何ヶ月か前に社長の息子だとかがパワハラとかセクハラで告発されたせいで、経営が危ないって話を小耳に挟んでいたからね。私はあなたのために、ちょっとでもなればいいと思って……言うなれば、そう、母親とか親戚のおばんさんのように頼ってもらえればいいなと————私は近所に住んでいたし、料理が趣味だけど独り身で……多く作りすぎたおかずをお裾分けしてあげたりしたよね。冷蔵庫に入れておいてあげたこともあったね。ちゃんと全部食べてくれていて、私も作った甲斐があったってものだよ。空になった容器を見たら、嬉しくてね、また新しい料理に挑戦してみようって思えるようになった。あの頃は台湾料理にはまっていたから————近所のスーパーの棚にはね、あそこの店長の趣味なのか、結構珍しい調味料が売っていたりするんだよ。とても便利でね。あとは、近所のコンビニも……あそこは若い店員さんが一人いてね、オーナーの娘さんとかいっていたかな? あの子がとにかく親切で、いつもいい話し相手になってくれているんだよ。聞いたら「彼氏はいないけど好きな人ならいるんだ」って言っていたよ。何度かあなたともあそこで会った事があったわね。ああ、この話は今関係なかったね、ごめん。


 話を戻そうね。そう、あなたが死んだ日のことだよ。私はいつものように新作の台湾料理を作ってね、あなたに食べてもらおうと思ったんだ。私の住んでるマンションからはさ、ベランダがある東南の窓がよく見えるじゃない? だから、電気が点いていればあなたがいるかどうかすぐにわかる。いつもは夕方に届けていたけど、あの日はちょっと作るのに時間がかかっちゃって、あんな時間になっちゃったけど早く食べてもらいたくてね。それに実は、変だと思っていたんだ。いつもならとっくに帰って来ているはずの時間なのに、リビングの電気がついてなくてさ、帰って来たところは見たのにどうしてだろうって、気になってね。そうしたら、玄関のドアが少し空いていて……

 一応、入る前に声をかけたよ。でも、返事がないし、チャイムも鳴らしてもなんの応答もなかった。だから、ドアを開けたんだ。様子が気になってね。そうしたら、血がさ……————床いっぱいに、血が飛び散っていて、体のあちこちから血を流して、玄関で死んでいたあなたと、血だらけの包丁を持っていた女がいた。女の方は後ろ姿しか見ていなかったけど、顔を見られたって思われたら、私は自分が殺されるかもしれないと咄嗟に思った。だから、女が振り返る前に、急いで階段を駆け下りたよ。殺人犯の顔なんて、恐ろしくて見たくもなかったしね。

 その足で、近くの交番に駆け込んだ。巡回中じゃなくて本当によかったよ。この辺りはほとんど犯罪なんて起こらない平和な街だ。人員不足か知らないけど、たまに交番の前を通っても巡回中の札だけ掲げてあるっていう事がよくあったからね。


 それで、警察官二人と一緒にまた戻った。女はまだそこにいて、あなたを刺した包丁を手に持って、自分を刺そうとしているところだったんだ。警官が二人掛かりで必死に止めて、大変だったんだよ。本当に。暴れてさ。だから、私も最初はその女が、隣の部屋に住んでいる大学生の女の子だって気がついたのは、少し後からなんだ。ただただ、泣きながら錯乱しているその様子が恐ろしくてね。

 そうして、私も最初は放心状態だったけど、パトカーが何台も来て、救急車も来て、野次馬とかテレビカメラとか、いろんなのがアパートの周辺に集まって来て、本当に大変だった。あなたが死んじゃった事が、今でも本当に信じられない。何もなかった私に、あなたは生きる活力というか、元気というか……とにかく、あなたがいたから私はこれまでやってこれた。あなたがいるから、今日も頑張って生きてみようって思えるようになっていたのに、もう、どうしたらいいのかわからないよ。

 

 あなたが死んで、このアパートは殺人事件の現場ってことで有名になってしまったし、犯人のあの子はきっと刑務所行きだ。無実を主張してるらしいけど、あんな女、死刑にでもなればいい。私はあの女のせいで推しも、収入源も失ってしまった。マイナスだよ。


 今でも、部屋の窓からあなたがいた部屋を見つめてしまう。夏になると、よくあの窓からベランダに出て、マイルドセブンを吸っていたよね。ああ、今はメビウスっていうんだってね。コンビニのあの子が、教えてくれたよ。煙草なんてとっくの昔にやめたのにさ、あなたが死んでからまた吸うようになってしまったよ。


 一体、どうして殺されてしまったの?

 一体、あの女との間に、何があったの?


 何か悩み事があるなら、私にいつでも相談してくれればよかったのに。私みたいなおばさんに、何かできるかどうかはわからないけど、話を聞くくらいはできたよ。あなたより長く生きている分、知っていることも多いんだ。毎日見守っていたのに、気づいてあげられなくて、ごめんね。

 もし、もしも天国ってものがあって、ちゃんとそこへ行けているなら、もう少しだけ待っていてくれる?

 いつになるかわからないけど、多分、あと何年か、何十年かしたら私もそっちに行くからさ。その時は、何があったか教えてよ。どうかその時まで、生まれ変わって他の誰かのところに行ったりしないでね。私を待っていてよ。そうしたらさ、来世は今度は二人で、同じ年に生まれ変わろうよ。そしたら、きっと、私たち、今よりもっと良い関係が築けたと思うんだ。きっとね、私が生まれたのがもう少し遅かったら、あなたが生まれたのが、もう少し早かったら……————あなたがあんな女に殺される前に、守ってあげられたかもしれない。何かできたかもしれない。


 そんな風に、思っていても良いよね?


 私はこんなにも、あなたを愛していたのだから。



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