夏℃

quark

夏℃

 父の実家は、山々のさらにその向こうにあって、車なしには行けなかった。山道をぼろい車で駆け上るときの大きな揺れは、当時の僕には大きすぎて、ヨットに乗っているような感じだった。集落の一軒家は、古いけれど見事な家で、夏を吸うようにして、飄々とそびえたっていた。標高が高いから、そこまで暑くなく、ときどき風が吹いて、上気したような十歳の頬を冷ました。

「この山にはな、神様が住んどる。入るときは、大事に大事に歩きなさいよ」

祖父は僕が会いに行くたびに僕にそう言った。たった今、車で山肌を押し込めるようにして走ってきたけれど大丈夫なのだろうか、と父のほうを見ると、特にまずそうな様子はなく、長い運転を終えて、一服していた。たばこの煙がセミの鳴き声にとけていった。また涼やかな風が吹いた。僕はゆっくりと山を見た。一面に並んだ木々の、溢れるような濃い緑色の葉っぱたちが、厳しい日差しをいっぱいにたくわえて、水面のようにきらきらと光った。あとで、行ってみよう。僕はどうしてかそう思った。


 その夏は、祖母の三回忌だった。近所の人も来たりして、客間のお菓子の補充を何回か手伝わされた。

「ねえじいちゃん、どうしてキュウリの馬を片付けないの? 来るときのやつなんでしょ?」

僕がそういうと、祖父は笑った。

「また夫婦喧嘩したら、早く帰りたくなるからだろうなあ」

線香を焚くにおいが強くなって風鈴が鳴った。それは祖母が笑っていたときのようなリズムで、聞いていた祖父がまた笑った。遠くに浮かんだ雲の流れが速くなっていた。僕は、山に行こうと決心した。


 山といっても、この家から見れば、ただの林のように見える。遠くから聞こえてくる軽トラのエンジン音、犬の鳴き声、人の息の音、どんな音でも、林に吸い込まれてゆく。あまりに静かで、僕は今が夏であることを忘れそうになった。呼ばれている、そう感じた。軽くお辞儀をして林に入ると、いっそうひんやりした空気に満ちていて、木々が呼吸をするように小さく揺れていた。木漏れ日が何日も前の水たまりを照らしていた。淡い光が縁をぼおっと光らせて、あいまいな輪郭がむせるような緑のにおいを醸している。僕はゆっくりと、進んでいった。


 少しして、さらさらという音が聞こえた。音の鳴るほうへ行ってみる。なぜか鼓動が早くなって、一気に空気の薄まった感じがあった。小さな清流が、苔の蒸した岩々の間を銀色に光りながら糸のように流れていた。トンボが時々石の上にじっと止まって翅を休めている。尻尾は少しだけ水で濡れていて、透明な黒色のしずくを尾の先から垂らしていた。森は明るいのに、入り口はもう見えなくなっていた。十歳のころに昔と思うくらい、本当に昔のこと、僕は親に連れられて廃鉱に行ったことがある。隧道の中を歩いてゆくとき、後ろにあった入口の光がぐんぐんと小さくなっていく、冷え冷えとした感覚。それでも、足を止められずに、ひたすらに歩いていた。小川を上のほうまで遡れば、どんなものがあるんだろう。不思議と僕は、その奥の奥まで行けば神様に会えるんだと信じて足を進めた。


 森が一層暗くなる時があった。入道雲が林の上を通り過ぎて行って、陽ざしを隠してしまうのだ。雲は僕の進むほうとは逆向きに流れていった。見上げると、分厚い白い峰が木々の隙間から覗いて、吹き降ろすようにして風が吹いてきた。見たことのないような大きな白色に、僕は上を見ながら歩いてしまっていた。油断したおかげで、僕は小さな崖に気が付かず、ずるずると滑り落ちてしまった。斜面は凸凹していて、僕の意識は転げ落ちる間にだんだん暗がりを広げていった。


 目が覚めると、僕はまた入り口に立っていた。太陽はまだ高く、祖父の家を出てからあまり時間もたっていないようだった。白昼夢でも見ていたんじゃないか。父親はそういった。ただ、祖父だけが僕の顔をじっと見つめて、神妙な顔をしていた。祖父は、それから数年後に死んだ。ひっそりと仏壇に寄り添うようにして、山のほうを見ながら息を引き取ったという。


 僕はあれから森に入っていない。それは、きっとこれからもだ。でも、たぶんそれで良いのだと思う。僕は森に神様がいることを知っている。

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