第10話 君に、ボクを殺す覚悟があるかい? 2
昼休みになると僕はトイレの個室へと駆けこんだ。
今日は朝に呼び出されてからずっとお腹にキリキリとした痛みがあった。食欲も全然湧かなくて、昼ご飯はほとんど食べていない。
ひとまず昼休みはここで過ごそう。課のみんながいる分析室よりもひとりでいる方が気が楽だ。僕はなるべくお腹の痛みが軽くなる姿勢を探した。
しばらくして痛みが和らいできたが、そのタイミングで誰かが会話をしながらトイレに入って来た。
「午後からだるいなぁ」
「まったくだ」
短いやり取りだったが、声で同じ課の先輩二人であることが分かった。ひとりは僕の指導をしてくれている一つ上の先輩だ。
和らいでいたお腹の痛みが再び顔を出してくる。
「そう言えば、朝の報告はびっくりしたなぁ」
先輩のひとりがそう言って、僕はお腹だけでなく胸もキュッと痛んだ。
僕の失敗については課長補佐から課長に伝わり、朝のミーティングでは課の全員に共有されている。
「聞いてて呆れたよ。なんであんな失敗するかね」
「それな。あれを見抜けないのはヤバいよな」
先輩二人はそう言って笑っている。
そして一つ上の先輩が大きな溜息をついた。
「あいつ、マジでいつになったらひとりで出来るようになるんだよ」
「最近マシになったと思ったらこれだもんなぁ」
「いい加減あいつのケツ拭くのも嫌なんだけどな。自分の仕事が手に付かねぇんだもん」
「お前も損な役回りだよな」
「マジで災難。課長と課長補佐にも嫌味言われるし。代わってくれよ」
「嫌だよ。面倒はごめんだ」
そこから先の会話の内容は分からない。僕はうずくまって耳を塞いでいたから。とてもじゃないけど聞いていられなかった。あのまま聞いていたら、なにかが壊れてしまう気がした。
気が付けば昼休みの終わりを告げるチャイムが塞いだ耳の奥へと響いてきた。恐る恐る扉を開けると、先輩二人はすでにいなくなっていた。
午後からの仕事は全く集中できなかった。
自分を含め、周りの全員が敵に思えた。自分のやっていることが間違っているのではないか、周りの人間が自分を陥れるのではないかと疑心暗鬼になっていた。お腹の痛みも増すばかりで、刺すような痛みが常にお腹の中心にある。心臓も落ち着かず、無理して動いているような感じだった。
しばらくして、もう無理だ、と直感的にそう思った。今日は無理だ。
15時をまわり、ひとまず溜まっていたサンプルチェックが落ち着いたところで課長に「体調が優れないので早退させてください」と伝えた。課長は「あ、そう。分かった」と短く返事をしただけで、すぐにパソコン作業に戻った。先輩に引き継ぎをお願いしたときも同じ。僕の方を見るのはほんのひと時で、次の瞬間にはもう僕に関心などない。いたたまれなくなって、僕は急いで帰る支度を済ませた。
平日の明るい時間に帰るのはそれだけで非日常な感じがした。体調不良は嘘ではないのに、どこか悪いことをしているような気分になるのはなぜだろう。
ケージに目をやると、ナツはペットシーツに潜っているようだった。おそらくまだ外が明るいから眠っているのだ。それを見て、僕もとりあえず眠ることにした。部屋着に着替え、ベッドに倒れ込むように横たわった。寝不足のせいか、自分の部屋で落ち着いたおかげか、思いのほか早く眠気が襲ってきた。
目が覚めると部屋は真っ暗だった。枕元に置いていたスマホで確認すると20時をまわっている。起き上がって電気を点けると、パッと明るくなって目がくらんだ。ずいぶんと寝たはずが、いまだ目も頭もぼやけている。僕は洗面所に行き顔を洗った。バシャバシャと数回洗い顔を拭くと、思わず、ふっ、と笑いが漏れる。憔悴。そんな言葉が似合う顔が鏡に映っていた。さっきまで寝ていたはずが目の下にはクマがあり、頬も見ないうちにずいぶんとこけて、二十代だけど白髪も目立つようになっていた。
リビングに戻りケージに目をやると、ナツがスルスルと動き回っている。ケージの鍵を開けると、ナツは首を持ち上げてジッと僕の顔を見た。
「ひどい顔だね。ここ最近ずっと顔色は悪かったけど、さらにひどくなった」
「そうか」
僕は自嘲気味に笑う。いったいいつからこんな疲れ切ってしまったのだろう。
「なにがあったんだい? 明るいうちに帰ってくるなんていままでなかったじゃないか」
「……仕事で、失敗したんだ」
僕は事の詳細を話した。
順を追って思い返すと自分に無能さ加減がよく分かる。それでもいまは、誰かに吐き出してしまいたかった。
ナツは時折うなずきながら、遮ることなく最後まで聞いてくれた。
「殻を破ったとか一皮むけたとか、とんだ勘違いだったよ。僕はなにも変わっていない。無能で無価値のままだ」
以前にナツが言っていたことを思い出した。「残った皮は放っておけば壊死して身体を蝕んでいく」
いまの僕がその状態だ。皮なんて一ミリもむけていなくて、ずっと張り付いたまま。成長なんてできていなかった。きっとこのまま、何者にもなれず腐っていくだけ。
「もういっそ、消えてしまった方が楽だよな」
力なくそうつぶやいた瞬間、静かに耳を傾けていたナツが「本気で言っているのかい?」と言った。僕と違って声が張っている。
顔を上げると、ナツはジッと僕を見つめていた。いままでにもあった光景だけど、そのどの時よりも凄みがあって目をそらせなかった。
「君がいなくなったらボクは生きられない。君の死とボクの死は直結しているんだよ。君に、ボクを殺す覚悟があるかい?」
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