奈落の花嫁 妹に婚約者を奪われた令嬢は余命一年の英雄の溺愛に気づかない
乙川れい
プロローグ
0.全裸でのお目通りで失礼いたします
広々とした
という疲れた体にはこの上ない贅沢を味わいながら、アリーセは窮地に陥っていた。
(どうしてこんなことに……!)
とはいえ経緯はわかっている。
長旅を終えたばかりのアリーセを気遣って、使用人が主人用の湯殿を使えるようにしてくれたのだ。石造りの湯殿には心が安らぐような香草の良い香りがただよい、また温泉から引いてきた湯の温度も絶妙だった。
だから気持ちよくて、入浴しながらつい居眠りをしてしまった。
そして目が覚めたらのぼせて体が動かせなくなっており――湯気の向こうに人がいた。
それがすべてだ。
(どうしよう……さすがにこの状況はマズいわ……)
たちこめる湯気のせいで視界に濃いもやがかかっていても、相手が裸身だということはわかった。しかも男性だ。
細身ながら鍛え上げられた体は実戦で磨かれたのだろう。盛り上がりすぎない適度な僧帽筋に大胸筋。腹直筋はきれいに六つに割れており、広背筋も見事なものだ。
と、思わず魅入ってしまってからアリーセは我に返った。異性の裸体を見てしまったという羞恥に激しく動揺する。慌てて逃げるように、母親譲りの翡翠色の双眸を彼の頭部へと向ける。
額にかかるほどの長さの髪は、ヒルヴィス王国では珍しい銀髪だった。太めの眉は凜々しく、鼻梁は理想的な高さで、切れ長の双眸は濃い疲労がうかがえるものの、その瞳は故郷にある湖を想起させる美しい蒼色だ。
左眼の下に横線を引いたような傷が走っていたが、それすらも彼の容貌をまったく損なわせていない。
(うっ、これは……なんという……)
アリーセの胸がひときわ大きく高鳴る。
妹や元婚約者のせいで美人は見慣れているつもりだったが、それでも目を奪われるほどの美丈夫だ。
しかしその眼差しは熱に浮かされているのか、あるいは単純に疲れて眠くなっているのか、どこか虚ろでぼんやりとしている。
アリーセはバクバクと早鐘を打つ心音を聞きながら、頭の中で再確認する。
銀髪に蒼い瞳の美丈夫、左眼の下に横一本の傷跡。身体的特徴は父から聞かされていたので、間違いないだろう。
(この御方がイグナーツ殿下……人柱になる宿命を負った不運な王子様。そして私の……夫となる人……)
ここ《奈落》にあるゴルヴァーナ城砦へは妹の身代わりとして輿入れした。
妹の婚約者である彼は日々魔物の討伐に明け暮れているはずで、今日でなくともいずれ必ず会うことになるのはわかっていた。
だが輿入れ初日に、全裸で会うことになるとは想定外すぎる。
おかげで事前に考えていた初対面の挨拶がすべて吹っ飛んだ。それでもアリーセはのぼせた頭でなんとか代案を絞り出した。
(お初にお目にかかります。私はヴェルマー公爵の娘クラーラでございます。お見苦しい格好でのお目通りとなり大変失礼いたします……クラーラじゃないってバレたときはなんて言えばいいかしら。殿下の婚約者であるはずの我が妹が私の婚約者の子を妊娠しまして……いえ、これは絶対最初に言ってはダメな……)
ざぷん、と水音がして、湯に波紋が広がるのが伝わってくる。
男が――イグナーツが浴槽に足を入れたのだ。そのまま両足を降ろし、ざぶざぶと湯を蹴るようにして近づいてくる。
ここは城砦にある主人用の湯殿だ。
だから戦場から帰還した彼が入ってきてもおかしなことはない。それがたまたま、彼の不在時に輿入れしたアリーセの使用中だったというだけで。
アリーセが着ていた服は汚れていたから侍女に回収を頼んであり、後から着替えを持ってきてもらう予定だった。脱衣場にまだ着替えが届いていなかったとしたら、湯殿に先客がいることには気づけないだろう。
つまりタイミングが悪かった。
(それにしては、なんだか様子がおかしいような。お怪我はされていないようだけれど――あっ)
角度的に見てはいけないモノがどうしても視界に入ってくるので、アリーセは不敬と思いつつも顔を背けた。動けないのだからしかたがない。
なお、自身もまた見られたくないところを見られていそうなことについては、考えないようにしている。
「ついに幻覚が見えはじめたか。迎えも近そうだな……」
ぽつりと聞こえたのは独り言だろうか。目前まで接近されたらしく、声が近い。
音の距離感からイグナーツも湯に浸かっているようだったので、おそるおそる視線を戻してみれば、端整な顔立ちが目前にあった。
年頃の娘が十人いれば十人が見惚れる美貌。それゆえに、なおさら左眼の下に刻まれた傷跡だけが異質だった。気品のある秀麗な顔立ちに走る一筋の野性味に、アリーセはつい魅入られてしまいそうになる。
そのイグナーツは湯に浸かっているというより、浴槽の中で片膝をついてアリーセの顔をのぞき込んでいるようだった。ぼんやりとしつつもまじまじとこちらを見つめていた表情が、ふ、と微苦笑を漏らす。
「それともまた夢でも見ているのか。まさか〝人魚姫〟が出てくるとは」
アリーセはぎょっとした。
自分が社交界で『人魚』と噂されていることは把握している。生まれ育った領地の湖にある人魚伝説と、自身にまつわる実際のエピソードにちなんだあだ名だ。
(私をご存じなのかしら。確かお会いしたことはないはずだけど……)
『人魚』と『人魚姫』とで認識の違いはあるものの、アリーセの顔と噂が一致しているとは驚きだった。
アリーセが社交界デビューを果たしたときには既にイグナーツはゴルヴァーナ城砦へ移り住んでおり、王宮や貴族邸の催しで顔を合わせる機会はなかったはずだ。
「わ、た……」
アリーセはなんとか声を出そうとしたが、その二音がやっとだった。
のぼせた体は相変わらず言うことを聞いてくれず、もう湯から出たいのに出られない。鼓動は速まるばかりでもはや苦しいほど。もう茹だってしまいそうだ。
ふと、イグナーツが手を伸ばしてきた。
王子らしくない、節くれ立った大きな手だ。
それが水面でたゆたっていたアリーセの赤い髪を一房すくい上げる。ザクロのような赤色の髪は水気を吸って、いつもより色味を増して艶やかだ。
そんなアリーセの髪を、彼は太い指先に絡めて弄ぶ。その手つきや髪を見つめる表情には、なぜか愛おしむような優しさが感じられた。
「幻覚でも歓迎しよう。本当は死ぬ前に、もう一度――」
遠いどこかに向けるようにつぶやくと、イグナーツはすくい取ったアリーセの髪を口元へ近づけ、唇を押しつける。
ちゅ、と軽く吸われる感覚の後、男性らしい喉の隆起がごくりと上下するのが目に入った瞬間、アリーセの羞恥心は耐えられなくなった。
あるいは、限界を迎えたのは体の方か。
「…………無理ぃ」
初対面の夫に髪へ口づけられたまま、アリーセは意識を失った。
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