自己探求譚

彌厘

1.失敗

●sideL


 あたしはパソコンと睨めっこをしていた。

 画面には短大のレポートが写されている。ただし、そこにはあたしの名前――吉川 莉乃という文字しか書かれていない。

 提出期限は三日後だというのにタイトルすら思いつかない。それがあたしの現状だ。

 絶望してキーボードに突っ伏す。更に、今年度卒業なのに就活もまともにしていないことを思い出してため息をつく。来年の今頃はニートかもしれない。

「……笑えない」

 呟いて、近くにあるココアに手を伸ばす。それを飲もうと顔を上げた時、何かが光った。

 最初はスマホにメールか電話がきたのかと思った。でもそれならば着信音か受信音がするはず。不審に思い、光った方を向く。

 光はすでに消えていた。目の前にあるのはあたしのノートパソコンと、それを乗せているテーブル。テーブルの上、ノートパソコンの向こう側に足が立っていた。あたしはパソコンの前に座っているのだから、もちろん自分のものではない。

 足をたどって見上げる。そこには当然だが人がいた。ここはあたしの家で、さっきまで誰もいなかったはずなのに。思わず、その人を凝視する。

 見知らぬ美少女だ。繊細で整った顔立ち。短いハニーブロンドの髪はふわふわしている。大きなたれ目はアメジスト色。

(え? 紫?)

 驚いて二度見する。何度見ても紫だった。それもカラーコンタクトのような人工的なものではない。自然にこんな色の目が存在するとは、世も末だ。

 あたしより年下に見える少女は、きょとんと周りを見回している。

 服装は白いスーツ、というのか燕尾服というべきか。中はピンクのシャツでネクタイ代わりに赤いリボンを結んでいるのが可愛らしくて似合っている。

 一通り観察を終えた頃には冷静になっていた。そして気がつく。どんな美少女でも、勝手に人の部屋に入ったら不法侵入者である。

 そう告げようとした時、彼女が先に口を開いた。

「あの、すみません。ここ、どこでしょうか?」

 想像より低いが、綺麗な声だ。

「どこって、あたしの家だけど」

「それは、失礼しました! すぐ出ていきます。……あ。すみません、砂糖貸してもらえますか?」

 聞き間違えたのかと思って聞き返した。

「砂糖?」

「はい。砂糖です」

「砂糖で、何するの?」

「元の場所に戻るんです」

 まったく意味がわからない。どうすれば砂糖で帰れるのだろうか。

 あたしは自棄でキッチンの戸棚から上白糖を一袋取りだし彼女に渡した。

 少女は礼を述べて受け取り、懐から手帳を取り出す。それを見ながらなぜか砂糖をばらまき始めた。

 本気で、まったく意味がわからない。なぜ他人の家で、他人の砂糖をばらまいているのか。あたしは怒りのあまりひきつった顔で少女を睨んだ。

 当の本人はとても真剣な表情で、こちらの様子に気がつかない。ひとまず怒りを納め、しばらくその様子を眺めていた。

「――できた!」

 彼女はそう言って砂糖をばらまくのをやめる。

「有難うございました」

 残り少ない上白糖をこちらに差し出してくる。

 あたしはそれを受取ろうとして――砂糖がこぼれた。

「あ! すみません!」

「ん……いいよ、別に」

 かかった砂糖を適当に払い落す。少女がさんざんばらまいたのだから今更だ。

 彼女は深呼吸して目を閉じる。

 突然砂糖が光り始めた。少女の体も光に包まれる。

 あたしはあまりの眩しさに思わず目を閉じた。


 *****


「……やったあ! 戻ってこられましたよリィエさん!」

 例の少女はそう言って、部屋の一角にあるテーブルに駆け寄る。

 そこには深緑の髪の美少年がいて、呼んでいた本を閉じて顔を上げた。

「なんでアンタは召喚術を使ったはずなのに消えたんだ?」

「間違って隣のページを見てたみたいで……召喚じゃなくて送還術を使ってました」

「馬鹿」

「うう……」

 彼女は反論できずに押し黙る。

 ――って。

「ちょっと待て!」

 あたしの声で、ようやく二人は他に人がいることを知ったらしい。少年は怪訝な顔をし、少女は目を丸くした。

「あれ? どうして貴女がここに?」

「それはこっちのセリフだし! ここはどこ?!」

 どう見てもあたしの部屋ではない。広い部屋だが、物はあまりない。少年がついているアンティークのテーブルと、本の詰まった本棚が四つ。それだけである。

 少女が困惑しながらあたしの質問に答えた。

「ここは僕たちの家です。僕にだけ送還術を使ったはずなんですけど……」

 彼女は視線を少年に向けた。あたしもつられて彼を見る。

 少女も相当な美少女だが、少年も彼女に劣らず美しかった。色白で端正な顔立ち。エメラルドのつり目は冷たい印象を受ける。

 服装は左胸に緑の十字架のついた白い半袖ブラウス。肘上まである白の指なし手袋。深緑のズボンに紫のブーツという格好である。

 彼は緑の目を半眼にして少女を睨んだ。

「アンタ、一日に何回失敗すれば気が済むんだ? ――最初から説明しろ」

 ため息交じりにそう言われ、少女はこれまでの事(あたしの家に現れた事など)を説明した。

「……それで、戻ってこれたと思ったら彼女も連れてきてしまったみたいなんですけど……」

 黙って話を聞いていた少年は再びため息をつく。こめかみを押さえて口を開いた。

「砂糖は魔糖と違って魔力の扱いが難しいって言ったよな? その上、ちょっとこぼした? そりゃあ周りも巻き込むに決まっているだろう、鳥頭!」

「す、すみませんでした!」

「謝る相手は俺じゃないだろ?」

 それで我に返ったのか、彼女はこちらを振り返る。

「貴女まで巻き込んでしまって、本当にすみませんでした! すぐに元の世界に返しますから!」

 正直なところ、これまでの話はあたしの理解の範疇を超えていた。

「ちょっと待ってよ! 召喚とか送還とか……何の話? ここは異世界だとでもいうの?」

「はい、そうですけど……?」

 少女がきょとんとして答える。その顔は明らかに、あたしが何に対して疑問を抱いているのかわからないという表情だ。

 思わず絶句する。

 一方の少年はあたしの思いがわかったらしい。

「アンタの世界では、こういった魔術は一般的ではないんだな?」

「一般的も何も、迷信だと思われてる」

「なら、簡単には受け入れられないな。間違い探しでもすればいいんじゃないか?」

 そう言って彼が示したのは窓。自分の目で見て確かめろということらしい。

 あたしは彼の提案を受け入れて窓の前に立つ。

 そこは確かに別世界だった。建物は石造りの洋風建築。地面には美しい石畳が敷かれ、時折馬車のようなものがそこを通る。なぜ「のようなもの」なのかというと、それを引いているのが馬ではなくなんだかよくわからない生物だからだ。

 それさえなければ、中世のヨーロッパのような街だった。

「……少なくとも、あたしの住んでる国ではなさそう」

「だろうな。世界名は【幻想郷】、象徴は【インフィジア】。町の名前は【中心都市】だ。聞き覚えは?」

「……まったくない」

「じゃあ、貴女の世界の名前は?」

 少女に問われて困惑する。そもそも世界に名前なんてあるものなのか。

「……あたしの住んでる国なら日本だけど。あっ、星の名前なら地球だね」

 少女はきょとんとして少年の方を見た。彼は少し考える仕草をしてから首を横に振る。

「聞いた事がない。象徴は?」

「え? しょうちょう?」

 そういえばさっきもその単語を聞いた。何の事だかさっぱりだけれど。

 すると二人は愕然とした表情になる。

「――象徴を知らないんですか?!」

 少女の勢いに、多少引きながらうなずいた。

 少年が説明してくれる。

「象徴とは世界を表すモノ。言葉であったり意味のない数字の羅列だったり様々だ。――何か、思い当たるものは?」

 考えても考えても、出てくる答えはやはり同じ。

「わからない」

 少年は額に手を当てため息をつく。少女の方は蒼白になってただ突っ立っていた。

 嫌な予感がする。

「なに? それがわからないと、まずいの?」

「象徴がわからないとアンタは元の世界に帰れない」

 今度はあたしが青くなる番だ。

「どういうこと? なんで帰れないの?!」

「召喚と送還を使うとき、特定の世界を対象にしたい場合は象徴を使うんだ」

「でも、象徴がわからないのにあの子はあたしの世界にきたでしょ?」

「それはどこの世界でもよかったから、象徴を使わなかったんだ。アンタを地球に帰すのに象徴を使わなかったら、その世界に帰れる可能性はほぼゼロだ」

 何もかもが突然すぎる。少女が現れたのも、この世界にきたのも、地球に戻れないのも。あまりに突然すぎて呑み込めない。

 しばらく重い沈黙が広い部屋を支配した。

 少年が思い出したように口を開く。

「……アンタさっき国って言ってたな? もしかして、言語が複数あるのか?」

「そうだけど……」

「じゃあ違う言葉で世界の名が知られているかもしれない。地球はどんな世界だ? 特徴を言ってみてくれ」

 あたしは世界という単位で物事を見た事がないので戸惑った。しかしこれであの世界に帰れるかもしれないのだ。必死で言葉を探す。

「――あたしの住んでる国は日本で、武器を持ってるってだけで捕まるのは特徴かな? 世界で一番発言力があるのはアメリカで、一番話されているのは英語。英語で地球のことはアースっていう。地球は六大陸で出来ててユーラシア大陸、アフリカ大陸、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸がある」

 思いつく限りを言ってみたが、彼の表情は暗いままだ。

「……やっぱり、わからない?」

「ああ……悪い」

 あたしは途方に暮れるしかなかった。一体これからどうすればいいのか。この異世界で。

「大丈夫。僕が絶対に元の世界に帰します」

 まるであたしの心を読んだかのような発言に、うつむいていた顔を上げる。

 今までずっと黙っていた少女がこちらを真直ぐに見つめていた。

 少年が厳しい表情で彼女の方を向く。

「象徴もわからないのにどうやって帰すって言うんだ? 無責任な事を言うな」

「僕たちは知らないけど、世界中探せば知っている人がいるかもしれないじゃないですか」

「それで、世界中回っても見つからなかったらどうするつもりだ? ただの無駄足じゃないか」

「そのときは僕たちと一緒にここに住めばいいじゃないですか。ずっと一緒にいて、僕にできる精一杯の償いをします。僕がした事ですから」

 少年が押し黙る。そこまで考えているとは思わなかったのだろう。正直あたしも驚いている。

 彼女はこちらに向き直った。

「あきらめるのはまだ早いと思います。どうか一緒にきてくれませんか? 僕が守りますから」

 さっきまでのふわふわした印象が嘘のようだ。

 思わずあたしは言った。

「君もしかして男?」

「は?」

 二人が目を丸くしてこちらを見る。

 言ってしまってから失言に気がついた。なにより、今言うべき事ではない。

「いや! あの、今まで普通に女だと思ってたんだけど、一人称が僕だしなんか言ってることもずいぶん男前だなあと……!」

 全然言い訳になっていなかった。

 少女は感情を抑えるようにゆっくりと言う。

「僕は、男です」

「ええ? 本当に?! ちょっと確かめただけだったのに! ……あ、いや、ごめん」

 少女――改め少年が、下唇を噛んで紫の目を潤めているのを見てあわてて謝る。

 緑の方の少年が苦笑して言った。

「そう言えば俺たち、自己紹介もまだだったな」

 それで金髪少年は気を取り直したらしい。

「僕は吟遊詩人のクライスです。男です! よろしくお願いします」

 そんなに男を強調しなくても……。

「俺は魔術研究者のリィリエリト。わかっているとは思うが、男だ」

「名前が長いので、僕はリィエさんって呼んでます」

「じゃああたしもリィエって呼んでいい?」

「好きにしろ」

 金髪がクライスで、緑がリィエ。

「――で、あたしは莉乃。学生。こんなんでも女です。それから、さっきのクライスの話だけど」

 最後の言葉に、二人の表情が真剣なものへと変わる。

「行くよ。他に帰る方法ないんでしょ? それに、他人の好意には甘えておかないとね」

 なんとかなるでしょ、と笑って言った。

 するとなぜか彼らの方が困惑の表情をする。リィエが反対の声を上げた。

「簡単に決めすぎじゃないか? 町の外は無法地帯なんだ。アンタ、武器も持たない安全なところで生まれ育ったんだろ? 世界を回るのはきついと思うが」

「一応武術の心得はあるから、自分の身は守れると思う」

「実戦経験は?」

「いや、さすがにないけど……」

「それでどうにかなるとは思えない」

「でも、守ってくれるんだよね?」

 クライスの方を見れば、複雑そうな顔をしていた。

「そうなんですけど……。僕のこと恨んでいないんですか?」

「え? なんで?」

 思わず聞き返す。あたし何かされたっけ?

「だって僕のせいで帰れないんですよ?」

 そういえば、そうだった。正直、事が大きすぎていまだに実感できていないのだ。

「そうだね、今のところは恨んでないよ。でもホームシックとかになって暴れるかもしれないから、その時はよろしく」

 クライスとリィエが顔を見合わせた。そんなにおかしなことを言った覚えはないのだが。

 リィエがため息をついて言う。

「……仕方ないか。責任の一端は俺にもある」

「え? どうしてリィエさんに?」

「アンタの性質を知っていたのに、術の確認をしなかった。それさえしていれば防げた事だ」

「過ぎた事を言っても仕方ないって。なんとかなるよ」

 もう一度念を押すように言っておく。

「そうですよリィエさん。というわけで、一緒に行きましょう!」

「……アンタ、最初からその気だったな?」

 リィエに半眼で見られてえへへと笑うクライス。図星らしい。

「わかったよ。最後まで付き合う」

 ため息交じりにそう言って笑う。

 その笑みは今までのきつい印象とは打って変わってやわらかく、花のように綺麗でちょっと驚いた。


 *****


 すぐ目の前にはむさ苦しい男が一人。あたしを縛ろうと縄を握っている。武器は持っていないようだ。

 部屋の入口の見張りにもう一人。こちらは槍を所持しているが、相手が女一人とみて思い切り気を抜いている。

 これならなんとかできるかもしれない。あたしは割と冷静にそう考えた。

 なぜこんな事になったのか。

 あの後クライスとリィエはこの世界のあたしの服が必要だと言って部屋を離れた。あたしはする事もなく本棚を眺めていたのだが、後ろに気配を感じて振り返ろうとした。しかし時すでに遅く、口を布でふさがれて椅子に座らされ今に至る。

 まさかこんな白昼堂々と強盗に出会うとは夢にも思わなかったわけだ。だがしかし、こんなむさ苦しい男に縛られる趣味はない。

 あたしは椅子に座らされたまま、男の股間を思い切り蹴り上げた。

「――っ!」

 声にならない声を上げ、男は床に倒れる。

 それを見た見張りの男があわててこちらに向き直った。

「この!」

 あたしに駆け寄り、槍を突き出す。

 あたしはそれを体をひねってすれすれでかわした。そして勢いのまま突っ込んできた男の腕を両手でつかむ。その場で素早く体を反転し、男を背負い投げる!

「がっ!」

 当たり所が悪かったらしく、そのまま動かなくなった。

(やりすぎた?!)

 あわてて首に触れて脈をとる。ちゃんとあるので、気絶しているだけだ。

「……手ごたえ無いなあ」

 口を塞いでいた布をむしり取り、安心しながら呟く。そしてまだ股間を押さえていた男の鳩尾に拳を叩き込んで昇天させておいた。

 二人を縛ろうと男が落とした縄を探して周りを見回す。そして窓枠に足をかけ、部屋に入ってこようとしている男と目があった。どうやら、まだ仲間がいたらしい。

 目つきの悪いその男は舌打ちする。窓枠を蹴って入室し、そのままこちらに向かってきた。

 あたしはとっさに近くにあった槍を拾い、男に投げつける。

 男は面食らって立ち止まり、持っていた剣で槍を払い落す。

 男とは反対に、あたしは槍を投げた瞬間に走り出していた。そのまま男に体当たりして押し倒す。そして払われた槍をひっつかんで男の首に突き付ける。

 ふと冷静になって男に訪ねた。

「この世界にも正当防衛ってあるよね?」

「安心しろ。ちゃんとある」

 答えは男ではなく、入口の方から返ってくる。

 顔だけ振り返るとリィエとクライスが帰ってきていた。

「……ずいぶん派手に暴れたな」

「莉乃さん大丈夫ですか? お怪我は?!」

「大丈夫だから、こいつら縛ってくれる?」

 二人の協力を得て、三人の男を縛りあげる。

 それからあたしは事の経緯を二人に説明した。

「莉乃さん、お強いんですね……」

「いや、こいつらが弱かっただけでしょ。あたしもびっくりしたもん」

「守るどころか守られたんじゃないか? こいつら多分、希少種族を拉致して人身売買してる盗賊だろう」

 唯一意識のある最後に捕まえた男が舌打ちする。リィエの推測は当たったようだ。

「なるほど。それで僕たちを狙ったんですね」

「二人は珍しい種族なの?」

「……その話はあとでだ。こいつらを警察に引き渡さないと」

 リィエが話をそらした。男たちに聞かせたくない話だったのかもしれない。

「警察に連絡してくるから、アンタは着替えてくれ」

「どっちの服がいいですか? 僕は絶対、こっちがいいと思うんですけど」

 二人の持ってきた服は何とも対照的だった。

 クライスがいいと言ったのはいわゆるゴスロリである。フリルがふんだんに使われたピンクのワンピース。リボンのついたハイソックスに、赤のローファー。ヘッドドレスまである。

 一方リィエが持ってきたのはパンク系だった。灰色のTシャツは無地だが、黒のロングコートは背中に髑髏が描かれている。赤いチェックのキュロット(スカートに見えるが本当は短パン)にタイツ地のニーソックス。黒いパンプスと、キュロットとおそろいのハンチングという服装だ。

 まさか全身コーディネートされるとは思わなかった。

「……このどっちかから選ばなくちゃいけないの?」

 うなずく二人。

(あたしはもっとシンプルなのが好きなんだけどなあ……)

 究極の選択とはまさにこのことだ。

「……じゃあ、リィエので」

「だろうな」

「えー?! こっちの方が似合いますよ!」

 リィエは隣の部屋にいると言って、文句を言うクライスと縛り上げた男たちを連れて出て行った。

 あたしは着替えながら、ふと思う。

(なんであの二人、女物の服持ってたんだろう?)

 酷くどうでもよかった。けれどなんだか、退屈はしなさそうだ。レポートは間に合いそうにないけれども。

 とりあえずあたしは、この世界を楽しむことにした。



●sideR


 わたしは急いでいる。

 商業都市は何しろ人が多い。踏まれないように進むのは結構難しいのだ。おかげで約束の時間はとうに過ぎてしまった。

(カインくんにネチネチ言われるんだろうな)

 しつこいようだが、わたしは急いでいる。

 当然子どもに抱きしめられている時間などない。

「うさぎさん、わたしお母さんとはぐれちゃったの。一緒に探して?」

 そんな暇はないと言外に示すために少女の腕の中でバタバタ暴れてみる。余計に強く抱かれただけだった。

 脱出は困難なようだ。

 仕方なく周りを見回す。それらしき女性は見当たらない。とはいっても、小さな少女の腕の中から見えるのは人の腹くらいだが。

 耳を澄ましてみる。喧噪にまぎれて女性の誰かを呼ぶ声が聞こえた。鬼気迫った感じだから、きっとこの娘の母親だろう。

 わたしは先ほどより強めに暴れた。

「きゃっ」

 大人しくしていたから油断していたようだ。ゆるんだ腕から地面へ着地する。振り返ると少女は尻もちをついていた。

 わたしは声の方へと跳ねるように駆けだす。

「待ってうさぎさん!」

 立ち止まって彼女が追いかけてくるのを確認してまた走る。

 偶然にも、声はわたしの目的地の広場から聞こえていた。これでようやく厄介払いができる。

「――あ! お母さん!」

 声の主を見つけてその娘は顔を明るくした。そしてわたしに笑顔で言う。

「ありがとう、うさぎさん」

 少女は母親のもとに走って行った。

 やっと解放されたと思ったら、今度はたくましい腕に抱きあげられる。見上げれば、蒼い瞳を半眼にしてカインくんがこちらを見下していた。

「まったく、貴女という人は……探しに行こうとしていたところですよ」

 ほとんど口を動かさず、小声で言ってくる。わたしもカインくんにしか聞こえないように返した。

「人じゃなくて兎だもの」

「他に言う事は?」

「ごめんね」

 彼は相変わらず不機嫌そうに水色の長髪をかき上げる。せっかくの美貌が台無しだ。

「おかげであの女に罵られましたよ」

「『あの女』じゃなくてルインちゃんね。なんて言ってたの?」

「おまえがラック様の足になっていればよかったんだ、というような事を。……大の男が兎を連れて歩いたら目立つ事この上ないのに」

「彼女、ちょっと過保護だから……ごめんね」

 カインくんは目を閉じ、長い溜息をつく。次に目を開いた時には無表情になっていた。

「――それで、もういいんですか?」

「うん。いいの」

 彼はわたしを抱えたまま、広場の中心にある噴水の前に移動する。それの水にあいている右手で触れた。

 カインくんの意思に応えて水が膨れ上がる。そして普段の倍以上の水柱を天高く伸ばした。夕暮れの光を浴びて虹を作っている。

 その場にいた人々は驚きの声を上げて、しばらくそれを見上げた。

 どこか遠くから悲鳴が聞こえる。それと何かが壊れる音も。それらはどんどん増え、広がっていく。まるで広場を包囲するように。

 当然、兎でなくてもこんな大きな音は聞こえる。人々は怯え、その場から動けないようだ。抱き合って震えている者もある。

 わたしとカインくんはそんな様子をただ眺めていた。

 広場には三つの出入り口があるが、そのうちの一つから男が現れた。胸から血を流している。

「【破壊者】、だ……!」

 叫ぶようにそう言ってあおむけに倒れた。瞳孔が開いている。

 一瞬の沈黙の後、ここも悲鳴であふれた。男から逃げるように残り二つの出口に人が殺到する。

 もう兎が喋っても気にする人間はいないだろう。

「それで、カインくんの方はどうだったの?」

「めぼしい人物はいませんでした」

「そっか。こっちも面白そうな人はいなかったの」

 気がつけばうるさかった悲鳴は止んでいた。

 出口に目をやると炎が燃え盛り、人間だったものを消し炭にしている。

「ジィはまたやってるんですね。あれほど止めろと言ったのに」

 カインくんも同じモノを見ていた。

「消しますか?」

「うん。お願い」

 彼が手を上げると噴水の水が再び膨れ、宙に浮かぶ。

 カインくんが手を火の方へと振る。

 すると宙に浮いた水の塊はそれに飛んで行って覆いかぶさり鎮火した。

 魔術というものは本当に便利だとこういう時に実感する。

「――助けて……!」

 男の死体がある出口から、小さな女の子がこちらに駆けてくる。その子はわたしたちのすぐそばで転んだ。体中傷だらけである。

「糞ガキ!」

 薄汚い男が少女を追ってきた。額には白い布を巻いている。それには剣の刺さったハートが血色で描かれていた。カインくんが首に巻いているものと同じだ。

 男はこちらに気づいて足を止めた。

「青い髪の男と兎……! じゃああんたが――」

「そう。わたしがラック」

 カインくんの腕から飛び降り、噴水の縁に着地する。

 わたしは少女を見た。今気がついたが、先ほどの迷子の娘だった。体に付けられたばかりの傷は明らかに虐待によるものだ。それを確認して目を男に戻す。

「わたしを知っているなら、掟も知っているのよね? 『破壊はなるべく一撃で、死体は美しく、無意味な虐待は処罰の対象である』……貴方にはお仕置きが必要みたいなの」

 穏やかに言うと、男は見苦しく逃げ出した。

「カインくん。ブーツ出してから行ってくれる?」

 彼はため息交じりに返事をして、腰の巾着袋から掌大の水晶玉を出す。玉が光るとわたしの隣にブーツが一足現れる。

 カインくんは男を追って広場から出て行った。

「うさぎさん……しゃべれたの?」

 少女が地面にうつぶせたまま言う。立ち上がる体力は残っていないようだ。

「うん。喋れるの」

 返事をしてから、わたしは残り少ない噴水の水の中に跳び込む。そして変身した。

(やっぱり人間の姿だと、服がないと寒いな)

 顔を左右に振って邪魔な水を飛ばす。噴水の縁に座って右足にブーツを履く。

 少女はわたしの姿を見て目を見開いた。喘ぎながら質問してくる。

「人間……だったの? すごく、キレイ……」

「有難う。でもわたしはただの兎なの」

 左足も履き終えて立ち上がる。

 少女の目の前まで歩み寄った。

「大丈夫なの。今助けてあげるから」

 右足のかかとを左足のそれにぶつける。カンという音と共に両足首の後ろから刃が出た。

 少女の目に刃が映っている。表情が消えた。すべてを理解したのだろう。わたしをしっかりと見上げて口を開く。

「悪魔」

 わたしはにっこり笑って返事をした。

「よく言われるの」

 そして右足を少女の首に一閃させる。

 娘は首から血を流して絶命した。こちらを見たまま。

 右足を振って血を払う。それぞれのかかとを蹴って刃を再びブーツに収納した。

 噴水の縁に座って右足をブーツから抜いた時、カインくんが帰ってくる。

「あの男は水獄に耐えられませんでした」

「そうでしょうね。そんな感じだったもの」

 左足も脱いで両方のブーツをカインくんに差し出した。彼は水晶を光らせてそれを仕舞う。

 わたしたちの直ぐそばの宙に何の前触れもなく紫色の、人の頭と同じくらいの大きさの水晶が現れる。そして品のいい老齢の男の声で言った。

「ラック様。完了致しました」

「お疲れ様、ジィ。それで収穫はあったの?」

「いいえ、特にございませんでした。しかし、世界はまだ在ります故」

「そうね」

 応えてから、わたしはまた噴水に入る。かがんでなんとか身体を隠す。

 裸を見られるのはかまわないが、変身の瞬間を見られるのは何となく嫌なのだ。

 兎になって噴水から跳び出る。二人に向き直って言った。

「じゃあ、撤収しましょうか」

「はい」

「御意にございます」

 カインくんは噴水の残りの水で再び合図を送った。もう日は沈んでしまったので虹はかからない。

 カインくんが最初に歩きだす。そのあとにジィが浮遊して続く。

 わたしは身体を震わせて水を飛ばした。そして壊れた少女と目が合う。

「……わたしはいつ壊れるのかな?」

 珍しくそんな無意味なことを呟いて、わたしは二人の後を追った。

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