(5)――死を噛み締めるように。生を嚥下するように。

 本当に唐突で偶然のできごとだった。

 授業時間中に校内巡回をしていたとき、それは前触れなく現れたのである。

 場所は、三年生の教室が並ぶ第一教室棟二階、その廊下。

 一人の女性が、こちらに背を向け、ぽつねんと立ち尽くしていた。

「――っ」

 俺の進行方向の数メートル先に突然現れ、それに驚きこそすれ、声のひとつも上げなかった自分を褒めてやりたい。

 その女性は、後ろから見た感じ、六十代ほどの女性だろうか。病衣を着ていて、足元は裸足である。そしてなにより、そこにあるべきはずの影が落ちておらず、それで俺は、彼女が幽霊であると確信した。かつてのユウキさんよりは比較的姿がはっきりしているように視えるのは、亡くなったばかりだからなのかもしれない。

「こんにちは」

 深呼吸をしてから、俺は女性に声をかけた。

 アサカゲさんやハギノモリ先生からは、危険を感じたら即座に逃げるように言われている。だが、こうして見る限り、女性から危なそうな雰囲気は微塵にも感じられない。

 これなら、事前に先生と決めていた通り、俺が幽霊に声をかけて、第二教室棟の屋上へ案内し。それを先生に報告すれば、先生から死神へ、迷い込んだ魂が屋上で待っていることが伝えられる。連絡を受けた死神はすぐに魂を回収できるし、腰の悪い先生は極力動かなくて済むという、万全の作戦だ。……まあ、緊急時は、そういうことはすっ飛ばして呼びなさい、とも言われているのだが。

 ともあれ、これが俺にとって、一人で幽霊と対峙する、初めての機会となる。

「……こんにちは」

 女性は俺の声に反応してこちらに振り向くと、半ばぼんやりとした様子でそう言った。

「ここは境山高校だよ。おねーさん、自分のことはわかる?」

「……はは、やだ、こんなおばさんに『おねーさん』だなんて、優しいのね。自分のことは……ええ、わかっているわ。私は、とうとう死んだのね」

 女性は、とても穏やかな口調で言う。

 死を噛み締めるように。

 生を嚥下するように。

「貴方は、私のお迎えに来たのかしら?」

「何故かよく間違われるんだけど、今の俺は、ただの案内人だよ」

 肩を竦め、俺は続ける。

「向こうの教室棟に屋上に行こう。本当のお迎えは、そこに居ればすぐに来てくれるから」

 そうして俺が女性に手を差し伸べると、女性はゆっくり頷き、俺の手を取ってくれた。

 霊体である俺たちは、律儀に階段を上り下りする必要はない。ふわりと少しだけ浮いて、女性に浮遊する感覚を掴んでもらったら、廊下の窓をすり抜けて外に出る。少しずつ上昇しながら移動していけば、あっという間に目的地に到着した。

「ここに居れば、そのうち赤髪か銀髪のお迎えが来るだろうから、それまで待っててもらえるかな」

 屋上に降り立ち、女性から手を離して、俺は言った。

「ええ、わかったわ。ありがとう、親切な幽霊さん」

 微笑みを浮かべそう言ってくれた女性に、俺の顔もつられて綻ぶ。

「どういたしまして。貴女のこれからの旅路が穏やかであるよう、微力ながら祈ってるよ」

 夏の空気を多分に含んだ風が吹く屋上で、俺たちは一期一会の縁に別れを告げた。

「……ハギノモリ先生? 俺、ろむだけど」

 屋上を後にして、適当な空き教室に入ったところで、俺は左手首に着けている組紐に呼びかけた。ほどなくして、リストバンド同様、組紐も淡く光り出す。

『はい、聞こえていますよ。用件は、さきほど迷い込んだ霊についてでしょうかね?』

「あ、やっぱり感知はしてたんだ」

『その為の結界ですからね。無事、屋上まで案内してくれたようですね。ありがとうございます』

「えへへ、どういたしまして」

『では手筈通り、死神への連絡は僕のほうでやっておきますね。ろむ君、お疲れさまでした』

「はいはーい」

 先生のほうから通話が切られると、組紐の光も収束していった。それを眺めながら、俺は内から沸いてくるような達成感に、思わず口角が上がっていた。

 俺みたいなものでも、誰かの役に立つことができた。

 俺の行動に、感謝してもらえた。

 それが、どうしようもなく嬉しかった。

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