(3)――「俺には生前の記憶がないから、成仏したくてもできないんだよ」
それから、俺は二人の邪魔にならないよう音楽室の隅に座り、しばし待つことにした。
男子生徒は時計の針が午後六時を指すまで、繰り返し同じ曲を弾き続けた。どうやら女子生徒に演奏を聴かせているというより、ひたすらに練習をしていたらしい。つっかえては止まり、持参したらしい楽譜を凝視する。時折、彼の隣に立つ女子生徒が鍵盤を指でなぞる。幽霊は物に触れられないはずだが、男子生徒はそこからなにかを感じ取って、練習を再開させる。その繰り返しだった。
練習に一区切りついたタイミングで、女子生徒が男子生徒の肩を軽く叩くような動作を取る。これも彼は即座に反応し、
「あ、今日はこれで終わりですね。わかりました」
と言って、慣れた手つきで後片づけを始めた。
譜面台から楽譜を回収して鞄に詰め込み、ピアノの蓋を閉じる。換気の為に開けていた窓を締め、鞄を肩にかけると、ピアノに向かって頭を下げた。
「今日もありがとうございました」
お辞儀の先に、女子生徒の姿はない。
しかし女子生徒は気にしていない様子で、彼に向かって手を振っていた。
「それじゃあ先輩、また明日!」
快活な笑顔を浮かべそう言うと、男子生徒は音楽室を後にしたのだった。
男子生徒の目に、幽霊の姿は確実に映っていない。けれど女子生徒との意思疎通は取れているのだから、奇妙な話だ。女子生徒のほうが、なんらかの能力を使っているのだろうか。
「お待たせしました」
男子生徒の足音が聞こえなくなるまで見送ってから、女子生徒は俺のほうへ向き直り、声をかけてきた。
その声音や態度からは、少なくとも悪意や敵意は感じられない。念の為に最低限の警戒姿勢をとりつつ、俺は意識的に微笑んで口を開く。
「さっきの、『きらきら星変奏曲』だよね。君が教えてるの?」
「半分正解で、半分不正解です」
俺の問いかけに、女子生徒は僅かに苦笑する。
「曲名は正解です。だけど、私が教えているわけじゃありません。私が死んでから、彼が一人で練習し始めたんです。私はただ、それを隣で見守ってるだけ」
そう語る女子生徒の視線はピアノに落とされているが、生前を思い出しているのか、どこか遠くを見ているようである。
ハギノモリ先生の見立てでは、幽霊は死後二週間ほど、という話だったはずだ。
十代で命を落としたにしては落ち着いているようにも見えるが、悔やまれることのほうが多いはずだ。ピアノだって、そのうちのひとつに違いない。
「あのさ――」
本題に入ろうと俺が口を開いたのと、同時。
「貴方は、所謂『お迎え』に来た人ですよね?」
女子生徒は、観念したようにそう言った。
彼女の言う『お迎え』が天使を指すのか死神を指すのかは、一旦置いておくとして。どうやら俺は、そういった存在と思われていたらしい。
「え? ち、違うちがう。俺はただの一般幽霊だよ」
両手を振って否定する。
一体なにが彼女にそんな勘違いをさせたのだろう。疑問に思うが、しかし今それは優先すべき事柄ではない、と思考を切り替えて、俺は言う。
「ハギノモリ先生って知ってる? 俺、あの人に頼まれて、君の様子を見に来たんだ」
「それは……私を除霊する為ですよね?」
先生の名前に聞き覚えのあるらしい女子生徒は、身を固くして言った。
このままでは、せっかく解除されていた敵認定を、今度は強く塗り固められてしまう。そうして逃げられてしまっては、元の木阿弥だ。彼女にとっても良い話ではない。とにかく一旦こちらの話を聞いてもらいたくて、俺は意図的にゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そのままこの世に留まるのは、君にとっても、他の生徒にとっても危ないらしいから、成仏はしてほしいなって思ってるだけだよ。だけど、君が嫌がることや、無理矢理な方法での除霊も浄霊も、絶対にさせない。それは、俺が保証する」
俺の言葉に、懐疑的な視線を向けていた女子生徒は、しかし考え抜いた結果、俺が嘘をついていないと信じてくれたのか、肩を竦めてから、
「……わかりました。貴方の言葉を信じます」
と言ってくれた。
俺がそれに感謝の言葉を発するより先に、女子生徒は、だけど、と続ける。
「成仏すべきは、私より、貴方のほうじゃないんですか?」
言って女子生徒は、俺の足元を指差した。
どうやら一般人の目から見ても、俺という存在は希薄で危篤であるらしい。
俺は苦笑し、
「俺には生前の記憶がないから、成仏したくてもできないんだよ」
と言うほかない。
「ただね、俺が記憶を取り戻す為に協力してもらっている子がいるんだ。その子なら、きっと君が悔いなく成仏できるよう、手助けをしてくれると思う。一度、会って話をしてみない?」
「それって、もしかして朝陰さん……?」
「あ、知り合いだった?」
「いいえ。だけどあの人は、良くも悪くも有名だから、名前だけ知ってます」
良くも悪くも、という言葉に引っかかりを感じざるを得なかった。それだけで、彼女がアサカゲさんに対してどういった印象を抱いているのか、明白になった感があった。けれど、ここで俺が感情に身を任せるわけにはいかない。ここで彼女を見放してしまえば、魂の在りかたが歪み、悪霊化してしまうかもしれないのだ。それは、誰も望むところではない。
俺は喉まで出かけた乱暴な言葉を飲み込み、努めて笑顔で、言う。
「大丈夫。アサカゲさんは、君が思っているようなことは、絶対にしない。それでももし不安なようであれば、俺も同席させてもらうよ。だから、どうかな?」
女子生徒は躊躇うように視線を左右に泳がせ、それからピアノを見遣り、決意を固めるように、ゆっくりと首肯した。
「わかりました」
「ありがとう。早速だけど、今からここに呼んでも良い?」
「は、はい。……あの、貴方の名前、聞いても良いですか?」
「俺の名前は……ろむ、デス」
今度は俺が躊躇う番だったけれど、ここで沈黙は悪手だ。そう自分に言い聞かせて、俺は大人しく名乗ることにした。
予想だにしていなかった名前だろうに、女子生徒は臆することなく、ろむさん、と丁寧に俺の名前を呼ぶ。
「私は
そうして女子生徒――ユウキさんは深々と頭を下げた。
「うん。よろしくね」
それを見ながら、俺はなんとなく、この子がこれほど落ち着いている理由がわかったような気がした。
「それじゃあ、アサカゲさんを呼んでくるから、少し待っててもらえるかな」
そう言い残して俺は音楽室から出て、アサカゲさんに待機場所として指定した非常階段へ向かう。
マスターキーを持っているらしいから鍵は開けられるだろうけど、流石に姿を現すタイミングまでは読めないはずだ。そんなことを考えながら、非常階段へと続く扉をするりと抜けようとした次の瞬間、がちゃりと鍵の開く音がした。
「よお、さっきぶり」
そうして姿を現したのは、アサカゲさんである。
あまりのタイミングの良さに言葉を失う俺に、アサカゲさんは自身の右手首に巻かれているブレスレットを指差した。
「これ伝いに、お前らの会話を聞いてたんだよ」
「そんな機能があるなんて聞いてない……」
「言ってねえからな」
けろりとそんなことを宣うアサカゲさん。
いろいろと思うところはあったが、たぶんこれは俺の身を案じての行動なんだろうと思うと、あまり強く出ることはできなかった。
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