眼鏡
翡翠琥珀
眼鏡の心情
ピピピピ……。軽快な電子音が部屋中に鳴り響いた。
もうすぐ俺の主が起きてくる頃合いだ。
俺はじっと主を待つ。ほら、きっと今に起き出す。
……。
………。
あれ? おかしいな。待っていても、起きる気配がしない。
いつのまにか音も止み、しばし静寂に包まれる。
しかし、数分が経つと、また鳴り出す。
正直音がうるさくてたまったもんじゃない。しかし俺はこの場から動くことが
できない。
「うーん……うるさいな……起きるっての……」
あ、主が寝言を言いながら、もそりと起き上がった。 そして、耳障りな音を放っている元凶––––スマートフォンとかいう板を手に取って、音を止める。
「ったく……今日も憂鬱な一日が始まってしまう……
嗚呼会社行きたくねぇ!」
主はぶつくさと文句を言いながら、俺を持ち上げて、装着した。
そう。もう今までの流れでなんとなく察した人もいると思うが、
俺は眼鏡である。
日々人間の手助けをしているといっても過言ではない気がする。
というか、もっと人間たちは眼鏡に感謝しても良いと思う。
眼鏡のおかげで、君たち人間は見えにくいものが見えやすくなったんだし、
もっと感謝されるべき存在ではないのか?
おっと、そんなことを考えていたら主が洗面所に向かって歩いている。顔を洗いに行くのだろう。
俺の予想通り、主は洗面所で顔を洗った。俺を洗面台に置き、顔を洗う。
周りを見回すと、眼鏡用のシャンプーがあった。……嫌な予感がする。おそらく、あのシャンプーで俺を洗うのだろう。
やがて、タオルで顔を拭った主は、眼鏡用のシャンプーを手に取った。予感が的中した。あのシャンプーでゴシゴシ洗われるのは嫌なんだ。普通に指でベタベタとレンズを触られるのも、たまったものではない。
そして、主は無慈悲にもシャンプーをレンズにかけた。そしてゴシゴシと指でレンズを擦り出した。
主め……ぞんざいに扱うんじゃない。こちとら医療器具だぞ?
そして、泡々に包まれたレンズを流水で流した。……はぁ、地獄の時間が終わった。俺は少しホッとした。
そして、主は居間に向かって歩きだした。 そんなに急いで歩くなよ。いつもそうだが主は早歩きの傾向がある。
その癖を直してほしいのだが、なにせ俺は眼鏡で相手は人間なので、意思が伝わるはずもない。必死に俺は主の耳にしがみつくしか為すすべがなかった。
主は居間に着くと、リモコンを操作しテレビを点けた。 そして昨日録画していたお笑い番組を観始めた。
……朝からお笑い番組を観るのか、しかもこれ、一年前に放送していたやつの
再放送じゃないか。 そんなに主はこの番組が好きなのか。
俺としては、社会人なのだからニュースとかを観ればいいのに、と考えてしまうのだが、主にしてみれば余計なお世話だろう。
いつも仕事で疲弊している分、陰鬱な気分になる朝には、気分が晴れやかになるお笑い番組を観て、心のバランスを保っているのだと思う。
主はお笑い番組を観ながらキッチンに移動し、冷凍庫に入れてあったラップで包んでいる白飯を取り出し、電子レンジに入れて加熱した。
それから、冷蔵庫から卵を取り出し、調味料棚から、醤油を出した。
あっ、主はまた卵かけご飯を食うつもりだな。ここのところ、毎日
食っている。よく飽きないな……。
ピピピ……。
お、レンジの温めが終わったみたいだ。解凍が終わったことを知らせるアラームが
鳴り出した。
主はレンジからご飯を取り出し、卵と醤油をご飯にかけて食い始めた。
飯を食べ終わり、主は会社用のスーツに着替えて、テレビを消し、出社した。
っていうかおい、せめて食器を水に浸けてから出かけろ。汚れが落ちやすくなるのに、なぜそうしないのか。
……まぁ、シンクの状態を見るに、皿が山積みだし、このだらしない主に何を
思っても無駄かもしれないが。
主は駅でいつも乗る電車に乗った。……満員電車だし、これは俺(眼鏡)がずれ落ちることも覚悟しないとな。
満員電車に乗るのは毎回嫌な気分になるんだよな。人間がぎゅうぎゅう詰めだし、揺れたりして酔うし……。
電車のドアが閉まった。ここから覚悟しないといけない時間が始まる。
ゆっくり電車が動き始めた。皆すし詰め状態になっている。主も窮屈そうだ。
人間がいっぱいいるので自然と車内の温度も上がる。汗と香水の匂いが入り混じっているのか、咳き込んでいる人間もいるようだ。
……あ、なんだか曇る予感がする。ラーメンとか食べる時もそうなんだよな。
いつも湯気で俺は熱いのなんのって……。
そういや、主は風呂にも俺を持ち込む。風呂で読書をしたいから、というのが理由らしいが、風呂にも眼鏡を持ち込む人間はあまりいない気がする。
まぁ、曇るし、何より俺って熱に弱いんだし! 本当に勘弁してほしい。俺が壊れてもいいのか? 俺が壊れたら困るのは主の方だろう。
『まもなく○○駅〜。○○駅〜。お出口は右側です……』
なんてことを考えていると、車内のアナウンスが流れた。もう主の降りる駅だ。
やっとこの苦痛から解放される……。
主はもみくちゃになりながら電車から降りる。俺も、他の人に押されて圧迫されてしまう。
圧迫されて痛いのでこの時間は地獄でしかない。早く、会社に着いてくれぇ……。
ん? 眼鏡に痛覚があるのかだって? 無いと思われがちだけど、実はあるんだよなぁ。眼鏡の柄が折れたりなんかしたら、もう人間で言ったら骨折したかのように痛いんだよ。
「や、やっと着いたぞ……」
主はそう呟き、改札を通り抜けて会社へと歩き出した。声からして、電車に乗っただけでもかなり疲労が溜まっている気がする。
お疲れ、主。俺も辛いけど、主の方がもっと辛いかもしれないな。
––––会社に着いた。ここからは、俺はちょっと休憩した方がいいかもな。
満員電車でかなり酔ったし、主が仕事をしている間、俺はのんびりするとするか。
主は、パソコンという機械に向かってカチャカチャとキーボードを打っている。家ではあんなに愚痴を吐いていたのに、会社に着いたら真面目に仕事をするんだから
真面目なのかそうでないのか分からないな。
主が仕事をしている間、俺は暇である。じっとパソコンとやらを見て、主の打っているテキストや、資料を眺めるだけだ。
これといって、何かが起こる訳ではないからつまらないな。
と、その時だった。
「ちょっと。
誰かに主が呼び止められた。
主が振り向く。と同時に、俺も声の
振り向くと、髪をきっちりとポニーテールに纏めた、黒髪の女性が立っていた。
「昨日頼んでおいた資料、どうなってる? 今日の会議に間に合うわよね?」
どうやら、主の上司らしい。ツンと吊り上がった眉毛からは、まるでテレビで見た
芸能人を思わせる。相当な美人だ。
「あ、
主は自分に声をかけてくれた女性––––
「今日の午後十四時までには、きっちり作っておいてね」
ほら、主よ。タイムリミットが迫っているぞ。さっさと資料の作成をするがいい。
俺はそう主に向けて念じた。すると、俺の念が通じたのか、主はカタカタとさきほどとは違い、ものすごいスピードで資料作成を続けた。
おそらく、先程の上司の言葉が効いたのだろう。このままでは間に合わないと踏んだらしい。
まぁ、曲がりなりにも俺の主だし、ここは応援するのが筋というものだろう。
そう考え、のんびりするのを辞め、俺は再び主に応援を送り続けた。
*
「
「はい!」
ぼーっとしていたら、さきほどの女性––––
何やら、テキパキしている人だ。主とは大違いな人だと感じる。
どうやら資料はちゃんとできたようだ。目の前には、さっきパソコンでカタカタと
作っていた資料が、大量に印刷されてデスクに置かれている。これを会議室に持っていけばいいのか。
「第一会議室に来て。遅れないでね」
「はい! 助かります、ありがとうございます!」
女性に促され、主は大声でそう言った。
「悪い
主の隣のデスクの人に申し訳なさそうに注意されてしまった。
「すみません……」
主は申し訳なさそうに謝る。謝った拍子に、俺はうっかりズリ落ちそうになる。
危ない危ない。これで俺が割れでもしたら、一体どうしてくれるんだ……。
主は隣のデスクの人に謝ったあと、急いで資料を持って第一会議室に向かった。
「じゃあ次。
「は、はい!」
社長っぽい、なんだか威厳のあるおじさんがそう言ったら、主は途端に立ち上がった。
急に立ち上がるんじゃない、びっくりするだろうが。
「え、えぇと……私の提案する新事業の案なんですが……」
主はそう言いながら資料を、会議に集まっている人たちに配った。
……普通、こういうのは先に資料を配ってから話し始めるものじゃないだろうか。
……主、大丈夫かな。俺は段々不安になってきた。
主に一番近い席に座っている人が露骨に嫌な顔を主に向けているのが分かった。
「……あ、まずはお手元の資料か、プロジェクターのスライドをご覧ください……!」
主は忘れていたかのように、慌ててそう言った。なんとか声は震えているものの、大声を出せてはいる。頑張れ、主! 俺はそっと心の中で応援した。
「え、えぇと……では、話していきますね」
主は、全員に資料が行き渡ったことを確認してから、そう言った。
「ちょっと、これ字が小さすぎるんじゃないの?」
主から一番遠い席に座っている人が、主の配ったプリントをトントンと指で叩きながらそう声を上げた。
「あ、ごめんなさい……。あまり余裕がなくて」
主は平謝りするしか術がなかった。
「あのね、こういうのは会議の一週間前くらいから準備するもんじゃないの?
余裕を持って会議資料は準備しろっていつも言ってるよね?」
主に向かって、まるで刃物みたいに鋭利な言葉が飛ぶ。一番遠い席に座っている
目つきの悪いおっさんから放たれた言葉だ。
「す、すみませ––––」
「そんなんだからいつまでも成績が伸びないんだよぉ⁉︎ このまましっかりしてくれないと、君は一生ヒラのままだけどそれでもいいの⁉︎」
主が謝ろうとするも、おっさんは躊躇うことなく、ガンガン機関銃のように主の尊厳を踏みにじるような言葉を浴びせかける。
俺の主に向かって、なんて言い草なんだ。俺はおっさんに段々怒りが湧いてきた。
「ちょっと、平木さん。今は会議中です。声を荒げることはやめてください」
さきほど、主に声をかけてくれた
すると、平木は決まりが悪いような顔をしながら、渋々押し黙った。
本当に、気配りができる良い人だな。俺は、主を庇ってくれた女性に心の中で感謝をした。
「
女性はそう主に促した。
主は女性にペコリと頭を下げ
「……それでは、続けます。私の提案した新事業なんですが、〇〇社と提携して––––」
俺の主、頑張ってるなぁ。なんとかハキハキと喋ることができている。
「……あの、ごめんなさい。ちょっといいですか?」
すると、若い女性が申し訳なさそうに手を挙げた。
「あ、はい。なんでしょうか?」
主はそう聞き返した。
「あの……
若い女性は申し訳なさそうに続ける。
主は、若い女性にそう言われたや否や振り向いた。すると、女性の言う通りスクリーンには何も映っていなかった。
「……全く、紙の資料は文字が小さすぎて読めないし、スクリーンには何も表示されていないし、君はやる気あるの?」
先程の平木とかいういけすかない奴が再び口を出してきた。
「は、はい。申し訳ございません……」
また主は平謝りをするしかなす術がなかった。
「ごめんなさい。今映します……!」
主は慌ててプロジェクターを操作しようとした瞬間
「あっ……」
ガッと主はプロジェクターにぶつかった。
「大丈夫ですか⁉︎」
すぐに
「……全く、話にならねぇな」
静まりかえった会議室に、平木の声だけが響いた。
*
「今日はお疲れ様」
「……すみません。今日は俺のプレゼンで、醜態を晒してしまって……」
主は泣きそうな声になりながらそう言った。
「……大丈夫だよ。私も、新入社員の時はそういうことよくあったし」
とてもじゃないが信じられない。
「え、
主も思わず
酔ってしまった。……これが眼鏡の宿命なのだ。嫌な宿命だが、俺が眼鏡である以上文字通り振り回されたりするのは仕方がないことなのかもしれない。
「そうだよ。だから、自信持って!」
俺はそう思い始めていた。
「……ありがとうございます。……俺、実は
主は、
……おい、直接本人に言うのは、いくらなんでも失礼なんじゃないか? 心の中だけで留めておくべきだろう。
「あはは! 私のこと、そう思ってたんだね!」
……この人、こんな表情もできるんだな。俺は意外に思った。
「……え、あ、ごめんなさい! 失礼でしたよね!」
主は
「いいえ、大丈夫よ。むしろ、正直に言ってくれてホッとしたというか。
「あ、ありがとうございます……」
主は
「あ、ごめんね。もう行かなきゃ。次の会議、始まっちゃう。
「はい」
「じゃ、また明日ね!」
そう言って、彼女は蝶のように去っていった。
*
「……はぁ。今日も、疲れたな」
主はそう呟き、ベッドに入った。
「今日は、すごいでかいミスやらかしちゃったな……。どうにかして、挽回しないと」
どうやら、今日のことで落ち込んでいるらしい。確かに、今日の会議の出来事は俺も思い出したくないな。
「でも、
主は再びそう呟いた。なんか嬉しそうな感じだ。
そして俺(眼鏡)を折りたたみ、ベッド脇のサイドテーブルに置いた。
確かに、
しかも、あいつは会議中だというのに、主に好き勝手言いやがって……。
ダメだ。段々平木に怒りが湧いてきた。こういうときは、心を落ち着かせるんだ……。俺は自分で自分にそう言い聞かせた。眼鏡が何してるんだ、って?
眼鏡も己を信じることはあるんだよ。
ふと、主の寝顔を見た。今日のことはすっかり忘れたように、気持ちよさそうに眠っている。この上なく幸せそうな寝顔だ。
……なんだか、主の寝顔を見たら平木のことなんてどうでもよくなってきた。
今日も、お疲れ様だったな、主。俺は主の寝顔を、ぼーっと眺めていた。
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