第49話
樹の母親は、二度インターフォンを鳴らしても出てこなかった。もし、秦野がいっしょにいなかったら、ドアを開けてくれなかったんじゃないか。
三度目、秦野がインターフォンに向かって、
「担任の秦野です」
と声を上げると、ようやくドアが開いた。
樹の母親は、ほとんど顔を上げようとせず、渋々といった感じでみんなを招き入れる。
口火を切ったのは、大雅だった。
「樹の文集を見せてみらえませんか」
「どうしてです?」
文集は、居間のテーブルの上に、颯真たちが置いていったままの状態で置かれていた。
「こんなもの見たって、樹の行方がわかるとは思えませんけど」
大雅は文集を手に取ると、樹の作文の頁を開いた。
「この中に、ヒントがあるはずなんだ。だって、樹はこれを隠していたんだから」
秦野が樹の作文を読み始めた。その横で、あのとき感じた違和感を、今、颯真は探ろうとした。
読んだとき、何に違和感を覚えたのだったか。恵奈が言っていたように、放課後まで、会ったばかりの教師を待ったことか? それもある。
「この頃、樹くんは悩み事があったんじゃないですか」
文集から顔を上げて、秦野が訊いた。
「ご主人の志田先生が亡くなられたのは、このすぐ後でしたね」
「そんな頃でしょうか」
文集を一瞥したものの、秦野から顔を背けたままだ。
「もしかして、樹くんは、家に帰りたくなかったから、わたしを放課後まで待つなんてことをしたんじゃありませんか」
ぴくりと母親の肩が動いた。
そうだ。
颯真は違和感の正体がわかった。樹が何かを避けているのを、文面から感じたのだ。樹は放課後まで学校に残り、しかも秦野と夕食まで摂っている。普通の小学生なら、日が暮れてくれば家に帰りたくなるものだ。自分がそうだったからよくわかる。それなのに、樹はグズグズと訪問先の学校に居続けた。
「いいかげんにしてください」
母親の鋭い声が響いた。
「今、樹は行方不明ですよ。わたしがどれだけ心配しているか。それなのに、そんな昔の話を蒸し返して……」
「お気持ちは察します。でも、我々も」
秦野は颯真たちを見回した。
「樹くんに早く戻ってきて欲しい。だからこうして――」
「お帰りください」
母親が視線をそらした。
「話してくれませんか。樹くんが何を悩んでいたのか」
「あの子は何も悩んでいません。今回のことは、どこかの悪いお友達に誘われて」
いつもの言い草なのだろう。『悪いお友達』のせいにすれば責任回避できると思っているのだ。
そんなのずるいよ。
そう思ったとき、恵奈が怒鳴った。
「もっと樹くんのこと、考えてあげてください!」
恵奈の剣幕に、母親がたじろいだ。いや、母親だけでなく、みんなが息をのんだ。
「あ、あたし、樹くんに戻って来て欲しいんです。樹くんがいなくなって――辛いんです」
えっと、翔太郎が顎を上げたのがわかった。その表情が、さっと曇っていく。
「恵奈、樹のこと、好きだったんだ……」
奈都乃の呟きに、恵奈がうんうんと頷きながら掌で両目を覆う。
だからだったのか。
なぜ、熱心に文具店探しをしたのか、初めてわかった気がした。クラスのみんなを戻したい、その一心だと思っていたが、ほんとうは樹のことが好きで……。
「はあーっ」
と、翔太郎がため息を漏らした。
翔太郎の失恋決定。そして、翔太郎と同じくらい落胆している自分に颯真はたじろぐ。
母親は覚めた視線を恵奈に向け、言い放った。
「とにかく樹には何の問題もなかったんですよ」
「そこまでおっしゃるなら、わたしも黙っていられません」
秦野は大雅から文集を取り上げた。
「ここに、当時の樹くんの叫びがある。樹くんは家に帰りたくなかった。それは、あなたと二人になるのを避けたかったからですよ」
母親が、目を剥いた。
「どうしてわたしを?」
「おそらく、樹くんはあなたが学校で盗みを働いていたのを知ってたんでしょう。志田先生は気づいていましたから、もしかすると、家であなたを責め立てたかもしれない」
「わたしは――、やってません。主人にも何度もそう言って……」
「もう、嘘はやめてください」
秦野の声音がやわらかくなった。
「小学校側は、あなたが犯人だと知っていたんですよ。その情報は、教職員の中で共有されていました」
「ど、どうして? おかしいじゃありませんか。それならどうして学校はわたしを警察に突き出さなかったんですか」
「そうする直前に、父親であり、近隣の中学校の教師でもある志田先生が亡くなられたからです。先生は、引越しの準備も済ませ、そして命を絶たれた。小学校側は、迂闊さを悔やんだらしい。まさか、志田先生が自ら命を絶つほど悩んでいるとはわからなかった。志田先生は、正義感の強い、真面目な人でした。だからこそ、自分の身内が窃盗犯だという事実が許せなかったんでしょう。そこで、学校側は話し合いをしました。あなたを警察に突き出すべきかどうか。そして出した結論が、警察に通報しないということだったんです。犯人のあなたも、その息子である樹くんも学校を去る。それなら事を表沙汰にするのはやめようということになったんです。あなたが盗んだ金品が、大した額じゃなかったのも幸いしました。被害者の父兄からも理解を得たと聞いています」
おかあさんの肩が震えた。そのまま両手で顔を覆う。
「樹くんは、小学校での窃盗事件の犯人が、自分の母親であると知っていたんでしょう。それで、悩んでいたのかもしれない」
秦野の言う通りだと、颯真は思った。きっと樹は、母親を責める気持ちと庇いたい気持ちの狭間で悩んでいただろう。
だが、だとしても。
「先生は樹の担任になったとき、この件について何か言ったんですか」
颯真は秦野に顔を向けた。
「いや、何も。そんな話を蒸し返すはずないじゃないか」
「だったら、なぜ、樹は今になって、文集を隠したりしたんだろう。それまでは家にあったはずだろ?」
「ちょっと待って」
恵奈が割って入った。涙で潤んだ目がキラキラしている。颯真は思わず目を逸らした。
「樹が廃工場に文集を隠したのはいつなの?」
「そんなのわかるわけないよ。隠してたんだからさ」
翔太郎が応えると、玄関ドア近くにいた悠人が声を上げた。
「知ってる、いつなのか」
一斉にみんなは悠人を振り返った。
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