第47話
「コノヤロウ!」
悠人が健の腕を掴んだ。
「離せ、離すんだよ!」
怒鳴りながら悠人は健の腕を引っ張るが、闇の力は凄まじく、悠人も引っ張られる。
「こいつを消せよ!」
体半分絡め取られながら、悠人が叫んだ。
「消すって、どうすればいいんだよ!」
翔太郎が怒鳴り返す。
「おまえらが持っている人消しゴムで、こいつの名前を消せよ!」
「持ってないって言っているだろ。おじいさんに返したんだよ!」
翔太郎は半泣きだ。
そうだ。おじいさんに戻したのだ。あのとき、おじいさんは人消しゴムをどうしたんだったろう。懸命に思い返した。たしか、ポケットに、いや、違う。平台の上に置いたんじゃなかったか。
目の前の平台の上を探した。ない、ない、見当たらない!
「どこだよ!」
悠人と揉み合ったとき、平台にぶつかったのかもしれない。それなら、どこへ転がった?
懸命に床の上を這いずり回る颯真の横で、恵奈も同様にしゃがみこんだ。
「早く、早く見つけなきゃ!」
叫びながら、恵奈も床の上を這いずり回る。
「おい、おまえら、どうするつもり……」
秦野はただ呆然と突っ立っている。目の前で起きていることに驚愕し、思考を中断されているのかもしれない。
「あ、これ!」
ふいに奈都乃が声を上げた。店の隅で震えていた奈都乃が、颯真と恵奈に向けて腕を上げる。
「これじゃない? これだよ!」
奈都乃が走り寄ってきた。
奈都乃が手にしていたのは、あの人消しゴムだった。もう消しゴムの体をなさないほどに使われてしまった消しゴム。
「消そう、早く!」
その間にも、断末魔を思わせる悠人のうめき声が響く。健にいたっては、もう、叫び声すら聞こえない。
「紙、紙を出して!」
平台の上にはノートがある。その中の一冊を掴み、颯真は床に散らばった鉛筆を拾い上げた。
ペンを立てた颯真は、絶望した。
「あ、あ、わかんないよ、覚えてない! おじいさんの名前、わかんねえよ!」
犬を連れたおばあさんから聞いた、ノボさんという名しか思い出せない。だが、そんな名を書いて消しても効果はないはず。フルネームを記さなくては。
「恵奈、憶えてるだろ!」
翔太郎が怒鳴った。
「え、え、ダメ。思い出せないよ」
「だったら、消せないじゃんかよ! どうすんだよ!」
「なんとかノボだよね? 何ノボ? ねえ、誰か考えて!」
「ひしや、のぼる」
秦野の呟きに、颯真と恵奈は弾かれたように床から顔を上げた。
「先生、なんで知ってるの?」
秦野は目の前の倒れた椅子を呆然と見ている。
「ここに――名前が」
秦野に駆け寄った颯真は、椅子の背に書かれた文字を見た。
――ひしやのぼる
たしかに、椅子の背にはそう書かれている。落書きのような、ぞんざいな書き方だった。しかも、つたない字だ。「ひ」という字は下の部分が大きく膨らんでいるし、「ぼ」は左右のバランスがおかしい。おそらく、ひらがなを覚えたての誰かが書いたものだろう。
それは――。
「死んだお孫さん?」
恵奈がはっと目を見開く。
「きっとそう。おじいさんがかわいがってたお孫さんが、おじいさんの椅子に書いたんだよ!」
頷き、颯真は人消しゴムを椅子の文字に当てた。
頼む、消えてくれ。
ゴシゴシと消しゴムを動かす。小さな消しゴムはつまみにくい。焦るせいで、気を抜くと落としてしまいそうだ。
「ね、早く、早く消して」
横で恵奈が騒ぐ。
「やってるよ!」
力を込める。ずいぶん前に記された文字だ。強くこすらないと消えそうにない。
すると――文字が消えていった。ひし、が消えた。や、も消え始める。
「消えたぞ」
思わず叫んだ颯真に続いて、
「見て! おじいさんが!」
奈都乃が泣き叫ぶ。
おじさんに変化が現れていた。頭のほうから、といっても、もうはっきりと頭部とは言い難い場所が、徐々に薄くなっていく。
「わああああぁあ」
と、悠人の叫び声が響いた。
「ぐうううぅうぅ」
と、健も呻き出す。
翔太郎が悠人の腕を引っ張った。おじいさんから引き剥がされて、悠人が床に転がった。
「健、手を伸ばせ!」
続いて、翔太郎は健に腕を突き出す。
あともう少し。
最後のる、を消し終えたとき、瞬間、店の中を照らしていたロウソクの火が消えた。
「な、何?」
恵奈が立ち上がる。
「やだあ、何も見えない!」
奈都乃が喚く。
「待て、火を点ける」
秦野がライターをカチカチと鳴らした。
ほどなくして、一本のロウソクに火が灯された。
いなかった。おじいさんはどこにもいない。薄暗い店の中は、空虚な廃屋に変わっている。
「消えたんだ」
ハアハアと息を継ぎながら、翔太郎が言った。
「うん、消えた」
颯真は指先を見た。まだほんの数ミリ残っていたはずの人消しゴムはなかった。
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