人消しゴム

popurinn

第1話 第一章

     第一章


 颯真そうまは逃げた。

 中学校の裏手の、運動部の倉庫の脇の、フェンスが破れた穴をくぐり抜け、静かな住宅街の道をひた走る。

 背後から、いつきたちの声が追いかけてくる。


 どっちだ? 


 裏だよ、裏! 


 追いかけろ!


 おまえ、そっちな。


 二手に分かれようぜ。


 声が重なり合って、徐々に迫ってくる。五人か、六人か。いつだって樹のまわりには、数人の手下がくっついている。


 国道へ抜ける道は、途中から片側が土手になった。人の行き来が少なく、危険なのはわかっていた。樹たちだって、颯真をいたぶるのに、人目があるときはおとなしい。

 夕暮れのこんな時間、この道には、犬の散歩をする主婦か、幽霊みたいにふわふわと歩く老人しかいない。

 しかも、彼らは助けてなんかくれないのだ。見て見ぬフリをするというだけじゃない。そもそも、走る少年と追いかける少年たちが友達だと思っている。同じ制服を着ているというだけで、ふざけて遊んでいるとしか見てくれない。


 背中のリュックサックの中で、空の弁当箱に入れた箸箱が、シャラシャラとのんきな音を立てている。

 今日は唐揚げだったな。ふと、そんなことを思う。出来合いだったが、母親がこれもまた出来合いのポテトサラダとともに入れてくれた。一日中、働き詰めで疲れているというのに、給食のない日、母親が弁当を忘れたことはない。母親は、颯真が学校でどんな扱いを受けているか知らない。


 走り続けると、道の片側は、古い鉄工所のトタンの壁になった。

 瞬間的に、ヤバいと思った。

 静かだ。そうだった。ここには廃工場があるんだった。

 おあつらえ向きだ。弱い者をいたぶるには、格好の場所じゃないか。

 

 通り過ぎようと思ったが、案外トタンの壁は長く、振り返ると、樹たちの中でいちばん足の早いたけるの姿が見えた。健は校内でも飛び抜けて足が早いのに、問題を起こして陸上部をやめた。それから樹たちとつるむようになっている。

 このままじゃ、工場の先へ行くまでに追いつかれてしまう。

 どうするか。


 このまま道の上でむざむざ捕まるよりは、工場の中へ入ったほうが逃げ切れるかもしれない。


 毎回、こうすれば逃げ切れるかもしれないと、自分の甘い予測が当たったためしなどないのに、また、颯真はそう思った。

 いつ終わるともしれないゲーム。そう。多分、樹たちにとってはゲームでしかないのだろう。放課後、ふとしたきっかけで始まるこのゲーム。逃げるのは、颯真。追いかけるのは樹たち。


 自動販売機が道に飛び出すように置かれ、その脇に大きな缶の灰皿があった。その後ろで、トタンの壁に隙間がある。隙間の幅は五十センチほど。多分、ここに工場で働く者たちが煙草を吸いに来ていたのだろう。

 颯真は、壁の隙間を通り抜けた。背後からの声は近づいてくる。


「おい、消えたぞ!」

「どこ行ったんだよ!」

「工場だ、工場へ入ったぞ!」

 最後の叫び声に、颯真は今日も気持ちが萎えそうになった。

 あれは、大雅(たいが)の声だ。小学生の頃からの親友だった大雅たいがの声。


 樹たちにいたぶられるとき、何がいちばん辛いかといえば、そこに大雅がいることだ。颯真が樹たちのターゲットになったとき、大雅は樹たちの仲間ではなかった。大雅は、そんなやつじゃなかったんだ。

 変わってしまったのは、部活の顧問の先生とちょっとしたことで揉めてから。それ以来、大雅は颯真を避けるようになってしまったのだ。多分、大雅から愚痴を聞かされたとき、颯真が顧問の先生の肩を持ったせいだったのだろう。その時期と、樹たちが颯真をターゲットに選んだ時期が一致した。


 樹たちに何を言われても何をされても、怒りと憎しみは湧くが、悲しくはならない。だが、大雅も同じだと思うと、颯真は絶望的な気持ちになる。樹たちと同じ嘲りの言葉を大雅が口にすると、颯真は世界で自分はたった一人なんだと思い知らされる。

 

 工場の中は、見事なほどのがらんどうだった。学校の体育館ほどの大きな工場だ。 

 その空間に、大きな鉄の柱が数本、地面に突き刺された杭みたいに立っている。薄暗くて、墓場のようだった。墓場。思わずぞっとして、首を振りながら走る。

 砂埃が舞った。どうしよう。隠れる場所がない。


 ともかく前へ進まなくては。

 

 前方に扉が見えた。壊れたままなのか、鉄の扉が半開きだ。そこから、夕暮れの弱い光が差し込んでいる。

 バタバタと背後から迫ってくる足音に怯えながら、颯真は扉をめがけて走った。

ようやく表へ出た途端、

「うわぁ!」

 目の前に健が立ちふさがっていた。

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