あの日の帰り道

佐々森渓

 

「じゃあねー」「また月曜に~」「宿題忘れんなよぉ」

 ひとり、また一人と別れていく。子供が少なくなって登下校は変わってしまった。

 一番遠くに住んでる者が、必ずひとりぼっちになる貧乏くじを引くようになった


 とはいえ恩恵もある。最後まで一緒に歩ける仲良しとの時間は長くなった。


 彼女はその時間が好きだった。今日あった楽しいこと、嫌なことを交わしあう、ささやかな時間。

 まるで、お泊まり会の時に、同じ布団でこしょこしょ内緒話をするみたいで、たまらなく楽しかった。

 ほんの数分だけど、深い友情を育むには十分な時間だった。


「最近ね、なんか不安になることが多いんだ」


 ぽつり、彼女の呟きに、親友が心配そうな顔をした。


「ここんとこヤな事件多いもんね……ご両親に相談した?」

「ううん……ママもパパも忙しそうだし。勝手に不安になってるのに、悪いかなって」

「あーそっか……」


 彼女の両親は共働きだ。

 SNSとかで耳にするような悪い親ではないけれど、もっと構ってほしいと思うことはある。


「あたしはさ、あんたの味方だからね。もちろん、うちのパパとママも」

「うん……ありがと。麗奈ちゃんは優しいね」

「どういたしまして。そりゃーさ、美緒ん家までの道、なんか怖いしさ。静かなんだろうけど、ちょっとヤダよね」

「うん、怖い」


 彼女の家は閑静な住宅街の奥にある。

 大通りからも遠く、騒がしさとは無縁だけれど、その静けさが彼女には少し厳しい。


「でも大丈夫だよ! こうして麗奈ちゃんと話したら、いっつも元気になれるんだから」

「ほんと? 無理しちゃダメだよ。キツかったらうちで時間潰しな? ご両親には連絡入れたら大丈夫でしょ」

「うん、ありがと。本気でやばいときは甘えさせてもらう、かも」


 そんな話をしているうちに親友の家の前に着くと、どちらともなくお揃いで買ったキーホルダーを取り出した。

 模様はだいぶ擦れてしまっているけれど、二人ともそれを大切にしていた。


「じゃあ、また」

「うん、また学校で」


 お互いのキーホルダーを見せ合って別れる。

 それが二人のルーティンで、彼女が家に着くまでの長い道のりを支える勇気のもらい方だった。


 けれども、その日はなんだか怖くて、麗奈が家に入るのをじっと見守っていた。

 ぎゅっとキーホルダーを握りしめ、少しでも多く勇気をもらおうとしていた。


 そんな彼女にいたずらっぽい笑みを向けながら、麗奈は家に入っていった。


「……かえろ」


 ふう、と一息ついて、キーホルダーをしまった。

 それから小さな声で最近流行りのアイドル曲を口ずさむ。

 あのキラキラした光が、私に勇気をくれますようにと。

 


 彼女の家は麗奈の家からさらに遠くの、緑の多い閑静な住宅街にあった。

 わざわざ謳い文句にするだけあって緑は多いけれど、子供の目からすると、下校途中で突然現れる雑木林は恐怖の対象だった。

 見通しの悪い狭い道が多く、事故も多かった。

 横断歩道のすぐ近くに、ひき逃げ犯を探す赤茶けた看板とたむけられた花という、怖くてたまらない光景をよく見かけた。


 そんな道を何本も横切る。

 白いポールに浮かぶ赤錆が、血飛沫のように見えて身がすくむ。

 まだ陽は高いのに、林のせいで道はどんよりと暗かった。


(はやく、はやく帰ろう)


 もう何回も通った道だ。

 何もないって知ってる。わかってる。


 事件は解決した。看板ももうない。

 それでも怖い。怖くてたまらない。


 かちゃん、かちゃんと背負ったスクールバッグがやかましい。


 家の脇を通るたび、バラエティの笑い声や、ドラマの緊迫したセリフが聞こえてくる。

 それが働かなくてよくなったお年寄りたちの、楽しい暇つぶしだとわかっている。


 なのにこんなに怖いのは、きっと学校でミッドナイトシャドウホラー動画について話し合ったせいだろう。

 街に迷い込んだ人間を、自分たちの仲間に引き込もうとする影絵の街。

 どうせ作り話だよって、チャンネル主さん達も言ってるのに。

 

 ――テレビの音が混じらない、ぼそぼそとした声がする


「かわいそうにねえ」「いなくなって」「かわいそう」

 繰り返される言葉に、胸が内側から掻きむしられるような感覚がして、

 

 ――ワン!!!!

 

 目の前で弾けた犬の鳴き声に、いよいよ恐怖が決壊した。

 

 走る。走る。走る。

 どっちにいけば早くうちにつけるんだっけ?

 

 そんなこともわからなくて。

 ただ、ここにはいたくなくて。


 いつもなら曲がらない、薄気味悪いお地蔵様のところで曲がってしまった。


 そっちの方がもっと暗いなんて知らなくて。

 暗いことがまた怖くて走って。

 

 ――気づけば、知らない場所にいた。

 

「ここ、どこ?」


 見るからにおかしな場所だった。

 見覚えのない背の高い家が、壁のように左右に並んでいる。

 それはまるで、ファンタジーアニメで見る路地裏のようだった。

 両側の家は墨のように真っ黒で、強い圧迫感があった。


 自分はどうしてしまったんだろう。

 考えながら後ろを振り返る。

 住宅街の中にこんな奇妙な場所があるのなら、来た道を戻れば家に帰れるはず……。


 その考えはすぐさま打ち破られた。


 背後には、真っ黒な壁しかなかった。

 来たはずの道はどこにもない。


 どう考えてもおかしい。

 夢でも見てるんだろうか?


 それにしてはやけにリアルだった。

 夢特有の、薄皮一枚隔てたような感覚がない。


 おそるおそる壁に手を触れる。

 石のようにひんやりしているけれど、その手触りは料理前のお肉のような、ぐんにょりとした感触だった。


「ひっ……」


 気持ち悪さで声が出た。

 そんな壁に囲まれていることが怖くて前に進む。

 一歩進むたび、足の裏からぐにょりぐにょりとした、壁と同じ感触がするのが気持ち悪くて仕方なかった。


 路地を出ても、不思議と明るくなった感じはしなかった。

 どこを見ても黒い、のっぺりとした壁のようなものが、びっしりと敷き詰められている。

 地面から少し高いところには、おそらく窓なのだろう真四角の空白があった。

 そこから溢れてくる光だけが、数少ない色だった。

 けれど、その中で蠢くものもまた黒い。


 その異様な光景に、ふと学校での友達との会話を思い出した。


『影絵といえば、この町のどこかに、真っ黒な影だけの世界への入り口があるんだって』

『えー、そんなのあるわけないよ。でも、もし入ったらどうなるの?』

『私が聞いたのだと……二度と戻ってこられないんだって』

『なにそれ怖っ! でも、どうせ子供騙しの都市伝説でしょ? じゃないと、誰がその噂広めたのってなるしさ』

『だよね~。……だけど、お月様を見てると、たまに見られてる気がするんだ。まるで、どこかの世界からこっちを覗いているみたいに』


 ざわざわ、ざわざわ……背の高い家々の白い光の中から、何かを擦り合わせているような音が響いてくる。

 たぶん声だ。


 それは学校帰りに漏れ聞こえる音とは違う。

 その人たちは彼女を見て言葉をこぼしていた。


 見られてる!

 そう思った瞬間、ぶるりと全身が震えた。

 お腹の底から嫌な肌寒さが登ってきて、呼吸が激しくなっていく。


 そのせいでこの場所は嫌な匂いがすることに気づいた。

 カラスが散らかしたゴミを数倍ひどくしたような……学校の水槽掃除のときに嗅いだものよりもひどい。


 気持ち悪くなりそうで、カバンからマスクを取り出してつけた。

 気休めでしかないけど、多少は楽になった気がした。


 頭がおかしくなりそう!

 どこか、まともな場所はないの!


 泣きそうになりながら俯いて街中を歩く。

 顔を上げたら、窓の向こうの何かと目が合いそうで怖かった。

 走ったら、このぐにょぐにょした地面に食いつかれて転びそうで、早歩きしかできなかった。


 そうして歩いていると広場に出た。

 大きな噴水のある、公園……なんだろうか。

 相変わらず色は真っ黒。吹き出す水は透明だけど、掃除前の水槽の匂いがする。

 敷き詰められてるだろう芝生は、黒すぎてよくわからない。

 ただ、その黒さにもグラデーションがあることから、何かの明かりがあることがわかった。


 たぶん、このあたりなら家の人と目が合わないだろう……怯えながら顔を上げた。


 すると、ガス灯のような、光を先端につけた黒い柱が目に入った。

 あれのおかげで、この真っ黒な世界でも歩けていたのだろう。


 もしかすると、異常に真っ黒で臭いだけで、怖いものはそんなにないのかもしれない。

 そんなふうに考えながら、目線を空に向けた。


 すぐ、後悔した。


「ひっ……」


 空には奇妙なものが浮かんでいた。

 ううん、たぶん月なんだと思う。

 丸くて、でこぼこで、黒くはない。

 この真っ黒な街の中、数少ない色を持っていた。


 むしろ眩しいくらいに黄色かった。

 世界が真っ黒だとお月様はあんなに明るく見えるんだと、ここが現実世界なら感動できたかもしれない。


 だけど、それはただの月ではなかった。


 その表面には大きな口と目がついていた。

 真っ赤に充血した目と、ニンマリと笑みの形で開いた口。

 まるで、お伽話の挿絵のようにポカンと浮かんでいた。


 その目と、目が合ってしまった。

 するとお月様は面白いものでも見たというふうに、口を大きく開いた。


 ――笑われた。


 笑い声は聞こえない。

 代わりに風が激しく吹き出して、色々なものがガタガタと震え出す。


 わけのわからなさに、気づけばその場に座り込んでいた。

 両足に絡みついてくる芝生は生暖かく、指が触れてるかのように不気味な弾力があって気持ち悪い。


 どうすれば、どうすればここから離れられるんだろう?


 こわい、こわい、こわい。


 叫び出したい気持ちを必死で抑える。

 こんな場所で叫んだら、何が起こるかわからない。

 きっと、もっと怖いことが起こるに決まっている。


 マスクの中で荒く息をしながら、カバンからキーホルダーを取り出して、ぎゅっと握った。

 慣れ親しんだ素材の感触が手を貫いてくる。

 思い出が少し勇気をくれる。


 ぽろぽろと涙だけをその場に落として、なんとか立ち上がる。

 こうしているとお月様に笑われ続けて、風が吹き荒れてしまう。


 道を戻って、建物の影に隠れよう。

 あの人たちに見られるのは怖いけど、我慢するしかない。


 そうして、逃げるように来た道を戻る。


 俯きながら自分の影を追いかけていると、かちゃかちゃと爪が硬いものを引っ掻くような音がした。

 現実なら、その音の主は可愛らしい犬たちだった。

 じゃあ、この世界では?


 きっと怖いものを見る。

 わかっているのに音の発信源へ視線をやってしまった。

 

 ――そこに、いたのは。

 

 それをなんと言うべきだったのだろう。

 薄ぼんやりと見える大きさからして、分類としては大型犬だと思う。


 でも、少しおかしい。

 だって、あるべき物がないのだ。

 それは犬にはとても重要な物であるはずなのに、ないのだ。


 ……頭が、ないのだ。


 元々存在などしていなかったかのように、頭があるべき部位は首の先端が丸くなった毛で覆われている。

 あの濡れた鼻も円らな瞳も、ふかふかした耳も恐ろしい口も、何もかもがない。

 ただ、四つの足と丸い突起があるだけの、犬に似た何かがいた。


 悲鳴を上げそうになって、寸前でこらえる。

 頭が無いから聞こえないかもしれないけれど、もしも飛びかかってきたら、どうすればいいのだろう?


 何度も呼吸して、必死で心を落ち着ける。

 そうしていると、観察する余裕が出来た。


 その犬もどきはお散歩中なのだろう。

 顔の突起からリードが伸びていた。

 その先は、真っ黒なレインコートでも着ているかのような、影絵のような人型が持っている。


 その人は彼女に気づくと一瞬驚いたような気配を出した。

 それから警戒するようにリードを引いて、犬を引き寄せた。


 向こうからすると、こちらが不気味なものに見えているのだろうか?

 その態度には敵意すら感じた。

 子供を警戒するだなんて変な大人……と、彼女はなんだかおかしくなってしまった。


 それはともかく、今はこの犬への対処だ。

 道を戻ればまた月に笑われてしまう。

 それは出来れば避けたい。


 ならばと、犬もどきなんか怖くないというように、思い切って近づいていった。

 怯えて待つよりも、さっさと横を通り過ぎればいい。


 手を握りしめて恐怖をこらえる。

 手に食い込んでいくキーホルダーから、麗奈のような強さが湧いてくる。


 彼女は軽く会釈をして、飼い主の脇を通り過ぎた。

 どうやら、あの犬もどきはしっかりとしつけられていたらしい。

 吠えることも飛びついてくることもなく、警戒を続ける飼い主に連れられて去っていく。

 その尻尾はぶんぶんと振られていて、ご機嫌なことを示していた。


 姿形こそ不気味だけど、愛らしさは現実の通りらしい。

 その事実に一安心して、彼女はことをすっかり忘れていた。


 進んだ先にはまた犬がいた。

 今度は、先ほどよりも小さくて中型犬とでも呼べる大きさだった。

 遠目から見た感じ、普通の犬に見えた。

 飼い主こそ影絵だけれど、頭はあったし、どこにも欠損はないように見えた。


 普通も犬もいるんだと安心しながら近づいてから、ようやく気付いた。

 その犬は顔が半分無かった。

 皮を乗せてから気が付いたかのように、顔の右半分が落ちくぼんでいて、目があるべき場所に穴の空いた顔の皮が、ぷらぷらと空気で揺れていた。


「ひっ!」


 悲鳴を上げたせいで、存在する顔の目と目があってしまった。

 人を疑うことを知らない、つぶらな瞳だった。


 その瞬間、びくん、と彼女の体が跳ねた。

 もうなにかを考える余裕はなくて、口から絶叫を垂れ流しながら、その場から逃げ出した。


 必死で走ったせいで足が、胸が痛い。

 マスクをしながらの全力疾走は体に負担をかけすぎた。


 ぜぇぜぇと荒く息を吐きながらマスクをずらす。

 強烈な異臭がするけど耐えるしかない。

 今は酸素が足りないのだ。


 そうして必死で呼吸を整えていると、少し遠くからきぃきぃと音がする。


 また何かくるのかと顔を上げれば、乳母車を押す影絵の人……いや、まだ影絵ではないのかもしれない。

 真っ黒なフードを被っているだけで、よく見ればまだ色がある。


 なぜかはわからないが、それなら話が通じるはずだと彼女は思ってしまった。


「あ、あの!」


 ここにきてから訳のわからないことばかりが起きて、彼女は限界だった。

 少しでいいから会話がしたかった。


 呼びかけにフードの人物が足を止めた。

 乳母車に言葉をかけて、そこに寝てるだろう赤子が泣き出さないようにしていた。


「あの、なんか、気づいたらここにいて。ここ、なんなんですか!? どこなんですか!」


 彼女の必死の叫びに、フードの人物は意味がわからないというふうにこてん、と頭を傾げた。

 そのおかげで、見えなかったフードの中身が見えてしまった。


 それはプラスチックの両目だった。

 小さな頃に遊んだお人形のような、ツヤツヤとした目。


 いや、目だけではない。

 顔全体がテカテカとしていた。そういうお化粧はあるけれど、目の前のそれは明らかに違う。

 血が通った色をしていない。

 人の肌に見せかけた、硬質な肌プラスチックだった。


「ああっ……」


 ここにまともな人などいないのだ。

 希望なんて持つんじゃなかった。


 恐怖に支配されつつある彼女の前で、慌てたようにフードの人物が乳母車に上体を沈めた。


 ダメだ。

 見てはいけない。

 はやく、にげなきゃ。


 わかっているのに体が動かない。

 うまく足が上がらない。


 彼女がもがいているうちに、フードの人物が乳母車から何かを抱き上げた。


 それは複数の人形をドロドロに溶かして合体させたような、めちゃくちゃな物体だった。

 色違いの表皮だったものが溶け合っていて、手足や顔がいろんな方向に突き出ている。

 着ている服もいろんな形のドレスがツギハギにされていて、ただ布の質の高さだけが、フードの人物の人形への愛を示していた。


 最初の犬は嬉しそうに尻尾を振り、二匹目の犬は愛された顔をしていた。

 この世界のメチャクチャなものたちには、主人たちの確かな愛情が感じられた。


 そのアンバランスさが、気持ち悪くてたまらなかった。


 強烈な吐き気を感じた瞬間、彼女はまた逃げ出した。

 真っ暗な道をあてどなく走る。走って走って、疲れきるまで走り続けた。


「う、あ――っ!」


 疲れで足がもつれて、道路に転んでしまう。

 全身を包み込む不気味な柔らかさと、硬い地面を転げたような痛みで頭が変になりそうだった。


 もうあの路地裏へ戻る道はわからない。

 どれだけ走ったかなんて覚えていなかった。


 彼女にはもう、この場所でさまよう以外にできることはない。

 この真っ黒な世界で、柔らかい道か犬もどきか異形の人々に飲み込まれて死ぬのだろう。

 それか、ホラー動画で言っていたように影絵の仲間入りをさせられるのだ。

 家族や友人に忘れ去られ、永遠にこの世界をさまよい続ける……そんな恐ろしい想像が、彼女の頭を埋め尽くした。


 ……それは、やだな。


 みんな心配しているだろうか。

 それとも、もう忘れられてしまっただろうか。


「う、うぅ……」


 涙が止まらなかった。

 犬もどきや人影に見つかるかもなんて、もう考えられなかった。


 それからしばらく、彼女は大声をあげて泣き続けた。

 すると、すぐ近くの家から戸の開く音がして、聞きなれた日本語が頭上から降ってきた。


「うわぁ、ひどい怪我だ。大丈夫?」


 涙を拭いながら顔を上げると、まるでカタツムリのように目だけが飛び出した男がいた。

 けれども悲鳴は出ない。

 彼女はもうそれくらいでは動じないくらい、疲れてしまっていた。

 体の擦り傷も指摘されて気がついたくらいだった。


「……あなたは」

「とりあえず中に入りなさい。傷を洗ってあげよう」


 男が促すように手を差し伸べる。

 彼女が転倒したのは男の家の前だったらしい。


 それを拒むのは簡単だった。

 今はまだ言葉が通じているけど、この男がいつグロテスクな姿に変化するかわからない。


 それでも彼女は中に入ることを選んだ。

 一人でこの世界を走り回るのはもう無理だった。


 家の中は薄暗かった。

 まるで、見たくないものを暗さで隠しているようだった。


 彼女を連れ込んだ男は、足の裏にローラーでもついているみたいに、両足を伸ばしたまま滑るように移動する。

 その姿はさっきすれ違った犬の飼い主とも、溶けた人形を抱いていた人とも違うが、異常なのには変わりがなかった。


 目の飛び出た男は、彼女を洗面所へと連れていった。


 浴室からはシャワーの音がしている。

 だというのに、男はなんの言葉もかけずに扉を開けた。

 たっぷりの湯気が二人を包み込んだ。


 ……え?


 浴室には、ひたすら髪を洗っている人がいた。

 定期的にシャワーから外れて、目の前にあるボトルのノズルを押しては、髪を泡立てて流すことを繰り返していた。

 その顔は、ほとんど影のようになっていて見えなかった。


 男はその影の行動を気にもとめないでシャワーを奪い取り、彼女の傷口を洗い流した。

 その暖かさに、少し、安心した。


 その間も、影はシャンプーを泡立てては流す動作を繰り返していた。


「え、あ、あの」

「ん? どうかした?」

「え、こ、この人は?」


 彼女が影を指さすと、男は困惑したような顔になった。彼には見えないのだろうか……?


「……いえ、その、血で汚れないかなって」

「大丈夫じゃない? 流すだけだし、出血もしてないよ」


 話題を続ける勇気がなく、彼女は話をそらした。

 確かにお湯は赤く染まっていない。

 擦り傷は肌に派手な筋を刻んでいるが、深くないのかもしれない。

 転んだときは痛かったが、今は痛みもない。


 疑問が解けたと思ったのか、男はお湯を止めずにシャワーを戻し、影がまた泡を流し始めた。

 傷を洗い終えた二人は風呂場を出た。洗面所で軽くタオルで拭いたあと、リビングへ移動する。


 リビングも薄暗かった。

 窓の外が明るいと思えるほどに暗く、置いてあるものもよく見えない。見えるのは輪郭くらいだった。


 そして、リビングには何人かの人がいた。

 同じルートを移動してる影絵のような人と、ぐるぐると目を秒針のように回して、豪華な腕時計を覗き込んでいる人。

 鍵束を手繰っては、鍵穴に差し込んで首を振っている人……。

 先ほどの浴室の影といい、この家の住人なのだろうか。


 案内されるままテーブルに座らされて、男と向き合う。

 ……飛び出た目が近い。

 血走った眼球が怖かった。


「こんなところに子供だけでどうしたの。親御さんは」

「え、ええっと迷子になってしまって。一人で、心細くて」

「そうだろうね。見てたけど……あれ? 一人だったっけ?」


 首をかしげる男に、彼女は恐怖を覚えた。


「それは、どういう」

「あれ、自覚がない? そうか……うん、そうだった」

「ひ、一人で納得しないでください!」

「ああ、ごめん。話すのが久しぶりで。みんなこのザマだろう? だから、ちょっと忘れてて」


 男は時計の人と鍵束の人を指さして笑った。

 何一つ面白くはなかった。


「まあたぶん僕も似たようなザマなんだけど。君が僕には一人には見えなくてさ。鏡とか持ってる?」


 男はよくわからないことを言った。

 一人に見えないとはどういうことだろう。

 彼女が一人きりだと、ついさっき男自身が言ったはずなのに。


「鏡……えっと、ないです」

「そうか、困った。僕には二人に見えるんだけど、どう?」

「どう、って言われても……」


 何を話しているのか全くわからない。

 何がどう、なのか。

 この部屋の人数だろうか。


「この部屋の話なら、あなたが指摘しなかった人が二人いますけど」

「二人? つまりこの家に五人いるってこと? 僕含めて三人じゃなく?」

「はい。見えないんですか?」

「こんな目だからかよく見えなくて。特に暗いのがダメなんだよね。この双眼鏡に暗視機能なんかないからさ」


 影絵になっている人は見えていないのだろうか。

 もし見えないとしても、シャワーを使っていることはわかるはずだ。

 彼はそれすら気にしていなかった。

 それに、双眼鏡とは何の話だろう。そんなものはどこにもない。


「えっと、さっきから人数を間違えたり、双眼鏡ってなんの話をしてるんですか?」

「君の方こそ五人って言ったり、二人じゃないって言ったり、僕は変に思うけど」


 話が通じない。

 やっぱり逃げるべきだったんだろうか。

 だけど、あのシャワーの暖かさは本物だった。


 彼は心配してくれている。

 でも、致命的にすれ違っていた。

 見えているものが違い過ぎる。


 鏡は?と聞かれたことを思い出す。

 彼の目には、自分がおかしなものに見えてるのだろうか。


「えっと、聞いてもいいですか? あの人はどう見えてます?」


 時計の人を指さす。


「彼は時間がいつまでも合わなくて困ってるね。高級腕時計なのになあって。あ、もう一人は正確な鍵が見つからないんだって。見つからないと帰れないって言ってたっけ? 二人とも、早くなんとかなるといいんだけど」


 困ってる。

 彼はそう言った。

 けれど、彼女の目に映る二人は困っているのではない。

 狂っている。


 なら、自分はどう映っている?

 何に困っているのか。


 ごくり、唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。


 もしかして、自分もあの人たちのように……。

 ぞわぞわと全身を怖気が駆け抜けていく。


「じゃ、じゃあ、わたしは?」


 問いかけに、彼はぱちぱちと何度かまばたきをした。


「君はずっと誰かと手を繋いでいるように見えるけど?」


 そう言って指さした先……。


 恐怖に抗おうとするたび、キーホルダーを握りしめた手が、いつの間にか誰かの手を握りしめていた。


「ひっ……」


 それは手首から先だけの手だった。

 誰のものかもわからない真っ黒な手。


 放そうと手に力を入れても変わらない。

 まるで固まってしまったかのように手が開かない。

 ぶんぶんと振ってみても、空中にある手はピッタリとついてくる。


 物を持っているときのような遠心力は感じない。

 ただ、いつも通りの手の感覚がある。


 全く気がつかなかった。

 いったいいつこの手を握ったんだろう?


「そんなに手を振ったら相手が困っちゃうんじゃないかな?」

「そ、そんなのいません! 手、手が、手だけです!」

「えぇーそんな状況ならこんな落ち着いてないよ。確かに手を繋いでるよ!」


 影絵も見えない人に何が見えているというのか。

 いいや、今見えているものが大事なのか?


「ちゃんと見てください!」

「見る見る。見るよ。見、み、みえ……見えない。見えない? なんで? 度はあって……」


 男はテーブルの向こうから身を乗り出し、血走った目が上下左右を激しく見つめる。

 それでも見えないのか、男は飛び出た目の付け根を、両手でゴリゴリと捻り出した。


 双眼鏡のピント調節ノブを捻るみたいに、ぐるぐると回転させる。

 すると動き回る眼球がぷっくり膨らみ出した。

 まるで風船のように膨らむと、だんだんどす黒く変わっていって……。

 

 ……ぱん!

 

 呆気なく弾けた。


「きゃあああああああ!」


 錆臭く粘っこい液体が彼女の顔に降り注ぐ。

 その生暖かさが気持ち悪くてたまらなかった。


「あ、あぁ! み、みえ、みえない。みみみ、みえ、み、み、みみ!」


 眼球はとっくになくなったのに、男は付け根を激しく捻っている。

 不思議とそこから血は流れてこない。


 代わりに、破裂した眼球から頭が黒く染まっていく。

 闇に飲み込まれるように、男が影絵へ変わっていく。


 日本語を吐いていたはずの口からは、気づけば布を擦り合わせるような異音が響いていた。

 心配の色を乗せたまま、不気味な異音を吐いていた。


「ご、ごめんなさい!」


 家主が変貌したからか、固かったはずの床が、生肉のようにぐんにゃりとし出す。

 飲み込まれる!


 恐怖に怯えながら彼女は逃げ出した。


 去り際、周囲へちらりと目をやった。

 時計の人も鍵束の人も、男と同じように変貌していた。


 腕時計を見つめていた男は、その両目を時計に変えて、もぐもぐと腕時計をつけていたはずの腕をしゃぶっていた。

 鍵束の人はその指一本一本が鍵へと変わり、いっこうに開かない扉に全部の指を突っ込んで、がちゃがちゃとやかましい音を立てていた。


 影絵の人は、唯一変化がなく、同じルートを移動し続けていた。

 申し訳ないとは思ったけど、逃げ出すために押し除けた。


 けれど、押したはずの手からはなんの手応えも返ってこなかった。

 代わりに体温くらいの生暖かな液体が腕に絡みついてくる。


「や、やだやだやだ!」


 ぶんぶんと腕を振ってその液体を振り払う。

 ここにいたら、きっと助からない。

 そう確信した彼女は家を飛び出した。


 あとには、闇の中でうっすらと明るい、真四角の口がぽっかりと空いていて。

 その中から、弾けた両目をぐりぐりと捻り続ける男が外を見つめていた。

 


 走る。

 目の前で起きた惨劇から逃げるために。

 走る。

 固まってしまった手がほどけて欲しいと思いながら。

 走って……転んだ。


 やけに生暖かく弾力を感じるものの海に沈み込む。全身に痛みを感じながら体を起こせば、そこは公園だった。


 帰ってきてしまった。

 そう思う彼女を、燦然と輝く月が見下ろしていた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


 きしきしと痛む体が硬くなっていく気がする。

 繋いでいる手から感覚が消えていく気がする。


 震えながら手を持ち上げた。

 大丈夫、まだ見えている。確かにここに手はある。


 けれど、さっき見たことを考えると、このままだとこの腕は自分のものではなくなってしまう。

 そして、あの影絵たちのように、同じことを繰り返すものへ変わり果ててしまうのだ。


 それは嫌だ。

 だけど、どうすれば元に戻せるんだろう。


 じっと、手を見つめる。


 握ったその中にはキーホルダーがあるはずで。

 けれど固く握りすぎたからなのか、その感触はどこにもない。


「……きー、ほるだー」


 キーホルダー。

 そう、キーホルダーだ。


 思えば、あの変貌した人々も、同じことを繰り返す人も何かに執着していた。


 たとえば人形。たとえば髪。時計に鍵。

 そして、双眼鏡。

 ヒントはこんなにもあった。


 つまり、キーホルダーを手放せばいい……?


 その答えが頭に浮かんだ瞬間、つぼみが開くようにして握りこぶしが開いていく。

 宝物が現れるみたいにキーホルダーが現れる。


 それは半分以上が手のひらに埋まりこんでいた。

 見た目だけなら痛くてしかたないような状態なのに、不気味な安心感がそこからのぼってくる。

 

 はぁ……はぁ……。

 

 我知らず、呼吸が荒くなっていく。

 ゆっくりと埋没したキーホルダーに指で触れる。

 見えている部分を撫でれば、神経が通っているような感覚があった。


 これを、捨てればいい。

 たぶん、そうすればいい。


 だけどもし違ったら?

 そうしたら、私は大切なものを投げ捨てただけの人になって。


 この真っ暗な世界で寄る辺すらない、真っ黒な、影絵に――。


 ためらう彼女を嘲るように、びゅうと風が吹いた。


 歪んだ月がげらげらと笑い、風にあおられた芝生がこつこつと肌を叩いてくる。

 それはまるで芸人を囃し立てるようで、異常なまでの心細さが彼女を満たした。


 怖い、気持ち悪い。


 ――勇気が欲しい。


 手こそ握りしめなかったが、考えるだけで手のひらの肉がざわざわと蠢いた。

 粘菌が足を延ばすように、繊維状の皮膚がキーホルダーをのぼっていく。


「や、やだ!」


 気持ち悪い!


 飲み込まれそうになったキーホルダーに指をかける。

 手のひらに埋もれた縁を探して、必死で爪を立てた。


 がり、がりと爪がキーホルダーをひっかく。

 へばりついた皮膚が破れて血があふれた。

 だけど、まだ足りない。

 手のひらにしっかりと埋まった部分は、この程度では外れてくれなかった。


「う、うううううう!」


 痛みと、奇妙な不安感が充満する。

 まるで裏切りを非難するかのように、取り外しすことへの恐怖がお腹を冷やしていく。


 その恐怖で指を止めると、途端に『私は大丈夫だ』という気持ちが湧き出した。


 ――私はこのちっぽけなプラスチックに操られている!


 その事実が、何より一番怖かった。


 これは麗奈との思い出が詰まったものだけど、本当に大切なのはこんな『もの』じゃない。

 麗奈はまだ生きている。

 両親のように、忙しさを理由に自分を蔑ろにするわけじゃない。

 思い出はまた積み重ねればいい。

 無くしたことを素直に謝れば、きっと許してくれるだろう。


 ……ほんとうに?


 キーホルダーから声がした気がする。

 そうやって、不安を煽ってくる。


 心臓が痛いくらいに高鳴っていた。

 怖くて寒い。

 こんな経験は初めてだった。

 

 はっ、はっ、はっ、はっ……。

 

 お腹が気持ち悪い。

 喉がぎゅっと閉まっていて、息がしづらい。


「大丈夫、大丈夫」


 うわごとのように繰り返しながら爪を立てる。

 ようやく、爪先が縁をとらえた。


「う、うう――!」


 ぐ、っと力を入れる。

 みちみちみち、と鳥の皮を剥がすときなような音がする。


 その音がするたびに、体が縮こまりそうなほどの痛みが全身を駆け抜ける。

 やめろと叫んでいるように不安感が増していく。


 今すぐにでも屈したい。

 それくらい不安になった。


 それでも必死に耐えて引っ張っていると、ゆっくりとキーホルダーが浮かんでいく。


 そして――

 

 ぶち、ぶちぶちぶち――!

 

 音と共に、頭の芯を削られているような痛みが走る。

 その痛みが冷静さを与えてくれて、諦めさせようとする不安感を跳ね除けられた。


 そうして、ようやくキーホルダーが手のひらから外れた。

 一瞬だけ見えた手の肉は、あっという間に血の下に隠れていく。


 手のひらから外れた血まみれのキーホルダーは地面に転がっていた。

 鍵が付いたままのそれを拾い上げる。

 指で触れるだけで爽やかな安心感が胸にわき、傷口がもう一度握ろうと促すようにうずく。


「ごめん、ごめんなさい」


 涙を流しながら何度も謝って、彼女はキーホルダーを強く地面に押し付ける。

 外すまでの苦労が嘘のように、それはあっさりと二つに折れた。

 胸の安心感が消えていく。

 破片を蹴飛ばし、もう二度と握ってしまわないように手の破片を遠くへ投げ捨てた。


 頭上の月は、なにかとんでもなくつまらないものを見たというように無表情になった。


 風がやむ。音が消える。

 何も聞こえなくなった世界で、彼女はその場に倒れこみ……意識を失った。

 

 ***

 

「はっ……!」


 息苦しさとともに目覚めると、白、グレー、薄緑色の色彩が飛び込んでくる。

 あの黒一色の世界からすれば色彩の洪水だった。


 白い天井にはぽつぽつと穴が空いていて、まるで保健室みたい。

 ここはどこだろう……疑問に思いつつ上半身を起こして周りを見ると、カーテンで囲われたベッドの隣にテレビ台と鏡がある。

 ここは病院だろうか?


 ふと、目の飛び出た男が鏡を見せたがっていたことを思い出し、慌てて鏡をとると、毎日見る自分の顔が見えた。

 けれど、何か違和感がある。

 顔の半分に別の誰かの面影が重なっているような不思議な感覚。


 そんなことをしていると、ベッドカーテンが開いた。


「美緒!!」

「お、おはよう?」


 珍しく二人そろっていた両親が、無事を喜んで彼女を強く抱きしめた。


 両親によると、彼女は何度も調べたはずのお地蔵さまの奥の雑木林で突然見つかった。

 犯人が彼女をそこへ放棄したと疑っているのか、変なものが見えないか、怖いことはなかったかと何度も聞かれた。


 確かに彼女は別の場所にいたけれど、真っ黒な異世界にいましたなんて誰も信じてくれないだろう。

 だから、何も覚えていないと繰り返した。

 手の傷も全身の擦り傷も、あの異世界が本物である証明なのに、覚えがないとひたすら嘘をついた。


 警察の事情聴取でも、同じことを繰り返した。

 真実なんて通じるわけもない。


 大人たちの様子を見る限り、犯罪の痕跡は体に残っていなかったようで、それが謎を深めたようだった。


 結局、事件の真相には誰も辿り着けず。

 現代の神隠しだなんて、冗談めいた噂が流れるころには、ようやく彼女も元の生活に戻れるようになっていた。


 ……いいや、そんなものはどこにもなかった。

 この事件は、もともと歪んでいた彼女の家庭を決定的に破綻させた。


 両親は表面上は仲良くするようになっていたし、早めに帰ってくるように変わった。

 どうしても無理な日は、麗奈の家に預かってもらうことになった。


 その娘を大切にしているアピールとは裏腹に、夜、彼女が眠る時間になると怒号が飛び交うようになった。

 互いを非難しあうだけの非生産的な時間。

 こっそり覗いてみれば、二人とも彼女よりも大切ななにかをまとわりつかせながら文句を言いあっていた。

 仕事や部下、見たことのない男女の姿……その中に、娘の姿はない。


 そう、異世界から帰った彼女の目はおかしくなっていた。

 その人が大切にするものが、まとわりついていたり、体に埋め込まれているのが見えるようになった。


 それに気が付いたのは、退院して数日後、体調も落ち着いたからと登校をした当日のことだった。


 子供は大人の鏡だ。神隠し事件の話は大人気で、彼女は質問攻めにあった。

 ひとり、またひとり、クラスメイトが通り過ぎていくたびに、変なものが見えたときには、まだ異世界にいるんじゃないかとパニックになりそうだった。


 ――そんな彼女を救ってくれたのも、麗奈だったのだけど。


 そんなに質問したらだめでしょ、と間に入ってくれてて、しつこく粘る人には質問の整理をしてくれた。

 もしも麗奈がいなければ、学校に復帰できなかっただろう。


 それに、麗奈にはそういうものが見えなかった。

 安心半分、残念な気持ちもあった。

 自分がいてくれたらなぁ、なんて欲張りだったのだろうか。


「キーホルダー、なくしちゃってごめんね」

「ううん、そんなこと気にしないで! 美緒ちゃんが無事でよかった」

「ありがとう。パパとママが変なお願いしちゃってごめんね」

「ううん。うちのお母さんも心配してたし、歓迎してたよ。私だって心配したんだから」


 失踪当日、最後の目撃者である麗奈は何度となく事情を聞かれていたらしい。

 本当にたくさん迷惑をかけてしまった。

 それなのに、こうして仲良くしてくれることに胸がいっぱいになる。


 だからこそ、キーホルダーを捨てざるを得なかったことが、苦しい。


「それに、あのキーホルダーぼろぼろだったし、また買いに行けばいいよ」

「えっ、いいの?」


 思わず飛びついていた。


「もちろん! どこ遊びに行く?」

「それじゃね……」

 

 ***

 

 新しいキーホルダーを揺らしながら、彼女は家路を歩く。


 あれから、彼女の生活は変わった。

 両親の帰りが遅い日は麗奈の家に帰り、どちらかが早い日は、そちらが夕食を用意してもう一人を待つ。

 長いことしていなかった、三人での食事が日常になった。


 だけど、それはどこかぎこちない。

 両親は食事中に集中せず、スマホに意識を取られていた。

 その向こうにいる誰かのことで頭がいっぱいなのだ。


 昔なら「もっと私を見て!」と思っただろう。

 けれど、今はどうでもよかった。


 二人が帰ってこないなら、麗奈がいる。

 それでいい。いや、そっちのほうがいい。


 あの家は暖かくて、優しい匂いがしたから。


 そんなことを考えながら、彼女はボロボロのお地蔵様の近くで足を止めた。


 自分の家には続かない、薄暗い道への分岐。

 もう一度進めば、またあの世界に迷い込むのだろうか?

 迷い込んだなら、次は何を捨てるのだろう。


 恐れ半分、好奇心半分。

 そんなことを考えていると、あることに気づいて笑った。

 どうして笑ったのかもわからないまま、鼻歌を歌いながら歩き出す。


 ――分岐に立つカーブミラー。そこに映る彼女の顔。

 

 その半分に、麗奈のものが重なっていた。

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あの日の帰り道 佐々森渓 @K_ssmor

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