1つのティーカップ
(1)
整理するとこういうことになる。
まず、彼女は交通事故にあった(それは君の元ルームメイトから後で聞いた)。そして、幸いに怪我は軽症で済んだのだが、君は記憶障害におちいっていた。君自身の名前も、家族の名前も思い出すことが出来なかった。スマートフォンには、君の元ルームメイトと僕の名前だけが残されていて、その他の連絡先はすべて消されていた。
これも後から聞いたことだが、その事故は君が自分から自動車の前へと飛び出していったようなものらしい。つまり、その時から君は精神を病んでいたのだ。いや、それよりもずっと以前から。君と君のルームメイトが別居するという話は、ずいぶんと以前から話し合われていた。そのことが確実に君の心をむしばんでいったのだろう。
病院側では、君の名前も分からず、両親の所在も調べることが出来なかった。両親の所在については、君の元ルームメイトも知らないらしかった。それは後で本籍地の情報を調べれば分かるだろう。ただ、まずもって君が誰かを確認するために、病院側では君の元ルームメイトに連絡を取った。彼女は、僕には後で自分から連絡をすると病院側に伝えた。
君はその時、身分証明書のようなものは何も持っていなかったらしい。ただ、君の記事が載っている冊子の切り抜きだけが、君の鞄の中に入っていた。病院側では、それが君のことだとは気づかなかったらしいが。君はそれをどうするつもりだったのだろうか。あるいは、離れて暮らしている両親にでも送り届けるつもりだったのだろうか……。
「とにかく合鍵を渡すから、彼女の家へ行ってみて。そうすればすべてが分かるから。……いいえ、なんとなく分かると思うんだ」
電話口でそう言う君の元ルームメイトのことを、僕はなんと無責任なのだろうと思った。それに、なぜ今さら合鍵など持っているのだろう。そのことを問い詰めると、「あの子に返しそびれてしまって」という答えが返ってきた。
僕は君への思い、というよりは、社会人としての責任感から、君の家へ行くことを同意した。そのほうが、君の治療も早く進むだろうと思えたからだ。君とは何の関りもない、いや、ほとんど関りのない僕が、君にとって重要な役割を担う、ということに僕はいまだに納得出来ないでいた。しかし、今はそうするより他に仕方がないのだろう。
僕たちが1度お茶を飲んだ、茶源堂で僕と君の元ルームメイトとは落ち合うことにした。
「はい、これが合鍵」
「本当に僕が彼女の部屋に入っても良いんですね?」
「あの子もそれを望んでいると思う」
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「友人だからよ」
君の元ルームメイトは、その時だけはきっぱりとした口調で言った。
「身分証明書なんかは、取って来なくても良いんですか?」
「それは後で……病院か警察が手配するんじゃないかな……今、だからあの子の部屋に行ってほしいの」
「今だから?」
「そう」
「今って、個展の前っていうことですか?」
「そういう意味もあるけれど……、あの子の記憶が戻らなかったらって、考えるとね」
「不吉なことを言うんですね」
「そうかな。心配性なのかもしれない、わたし」
僕たちの会話は、落としどころがないようだった。とにもかくにも、君の元ルームメイトは君の部屋へは行きたがらなかった。成り行きからして、それはそうだろうとも思えた。しかし、僕が君の部屋に行くことにも、正当な理由があるのかどうか、僕には分からない。彼女の頼みを断固として断っても良いはずだった。
結局、僕は君の部屋へ行くことを決め、君の元ルームメイトから合鍵をあずかった。そこに何があるのか、僕には分からない。なぜ、そこに行けば何かが理解出来るかもしれないのかも、僕には分からない。画家の感受性が、一般人としての僕の感受性を侵食していた。ただ、そこに答えがあるのであれば、行くべきだと僕は思った。
(2)
事故が起こって以来、君の家にはまだ誰も人が入っていないようだった。僕が運んできたコンクリート・ブロックも、まだ玄関先に置かれていた。君の元ルームメイトの部屋は、覗いてみるまでもなかった。そこはがらんどうになっていたことだろう。
僕はまずキッチンに行ってみる。そこには君の生活感が現れていると思ったからだ。すると、シンクの上に1つのティーカップと、レモンが1個置かれているのが目に入った。近くには100円ショップで買ってきたらしいスクイーザーもあった。
(君は紅茶を飲もうとしていたのだろうか、レモネードを飲もうとしていたのだろうか)と、訝る。
しかし、君がレモネードを飲もうとしていた形跡はない。グラスはすべて食器棚の中に納められていたからだ。そして、ナイフもカトラリー・ケースの中にしまわれたままになっている。
(君は一体何をしたかったんだろう……)
「警察は、空き巣でも入ったと思わないだろうか」と、僕は怪しんだ。こんなことをしている自分が意外にも思えたし、自分でも不審な行動を取っているということは十分に承知していた。
何か食事をしようとしていた形跡もなかった。冷蔵庫の扉を開くと、期限切れの食品がいくつか出てきた。ということは、この2、3日は君は食事も作っていなかったことになる。食事をする分には外食でも良いが……。今の僕にとってみれば、君は食事もしていなかった、という考えのほうが自然に思われた。
テーブルの上にはカビたパンが乗っている。僕は、「やっぱり」と思う。
(あの時の僕と同じ状況だろうか)
と、僕は僕が発熱して倒れそうになっていた時のことを思い出していた。しかし、君は歩いて街まで出かけていった。僕のように高熱を出して倒れていたわけではないだろう。ただ、何かが君を食物から遠ざけていたのだ……。
(自分自身を追い込むため? まさか)
画家の意地、というのだろうか。君は気力だけで仕事をしていたのではなかったろうか、と僕は考える。そう思えば、僕にも思い当たる節はあった。僕は仕事中は基本的に食事はとらない。そのほうが仕事の効率が良くなるためだ。しかし、パンがカビてしまうほど、というのはいくらなんでもやりすぎだ。
そんなことから、僕は君が病んでいたのは確実だ、と思うのだった。
「キッチンにはなんのヒントもない」
僕はぽつりとつぶやいた。しかし、君の部屋へと入っていく勇気が湧かない。そこは雑然としているだろうか。整然としているだろうか。カビたパンのように腐った食べ物が転がっているだろうか。それよりも何よりも、そこは以前のままの君の部屋なのだろうか。何か、すべてが変わってしまっているような不安に僕はさいなまれた。
(僕が訪れた日、あの時、君の部屋はどんなだったろうか?)
僕は思いを馳せる。
あの時は部屋の中は雑然としていても、いくらかの整理は付けられていた。壁には、何枚かの空の絵と、君と君の元ルームメイトの絵が飾られていた。君にとってそれらの絵は、いわば見本帳のようなものだったろう。それらの絵を発端にして、それらの絵を根拠にして、君は絵を描いていく。君の絵は、誰にも分からない連作のようなものなのだ。
そして、部屋の隅には過去の絵が丸められて置かれていた。それは君が経てきた道であり、君が捨て去った過去だった。今目にしなくても気になることのない、過去の遺物。そうして、君は君自身を乗り越えて来た。いわば、それらの作品は砂がすっかり落ち切ってしまった砂時計のようなものだ。今の君にとって、それらの絵はもうすでに必要ない。
僕は決心する。泥棒のような気持ちはあいかわらずだった。その日の僕はどうしても大胆な気持ちにはなれなかった。そこには、「もし君がこのまま君自身を失ったままでいたら……」という不安も混じっていた。
(3)
僕は部屋のドアを開ける。
ほっとしたことに、君の部屋は以前のままのようだった。カッターナイフで切り裂かれているような絵もない。つまり、それらの絵は君にとって失敗作ではなかったわけだ。だとしたら、君は創作に行き詰っていたわけでもない……
(では、なぜ君の元ルームメイトは、僕に君の部屋を訪ねてほしいなどと頼んだのだろうか?)
異変は部屋の窓際にあった。そこにはイーゼルが立てられている。そして、作業のしやすい位置に椅子が移動されていた。「君は基本的に戸外で絵を描く画家だったはずだ……」と僕は思う。
部屋ではその仕上げをするだけだったはずだが、その椅子とイーゼルには長く使われているような雰囲気があった。
イーゼルの上には、1枚の絵が置かれている。僕は近づいていって、それを確かめる。そこには、余白を中心に扇形に描かれた青空と、その下にレモネードのグラスとティーカップが1つずつ、描かれていた。
(君は絵の題材にするために、レモネードを作ろうとしていたのか)
と、僕は思い当たる。
(それにしても、なぜレモネードとティーカップだろう?)
画家ではない僕には、その意図はすぐには汲み取れなかった。やがてぼんやりと、僕は気づいていく。レモネードは僕で、ティーカップは君なのだと。それが青空の下で2つ、並んでいる。それは切ない夢のような光景だった。
(君は、僕に恋愛感情を抱いていたのだろうか?)
僕は真っ先にあり得なさそうなことを考えた。いや、これは何度思い返してみても、違っているような気がする。僕たちの関係は共犯関係のようなもので、恋愛関係ではない。最初の出会いでは、僕は彼女の荷物持ちだった。2度目の出会いでも、僕は君と君の元ルームメイトの間を埋める余白のような存在だった。僕と君とは、決してそういう間柄ではない。では、ここから湧き出る気持ちとは何なのだろう……
僕は画家ではなかったが、君もその思いに悩まされたであろうことは、容易に想像出来た。何かが、君の絵をまた変えてしまったのだ。
「今までの絵は失敗作ではない」と、君は考えていただろう。しかし、新しく湧き出る想像力の源、その正体に君は我を失った。君は新しい絵の題材に翻弄されたのだ。いや、新しい人間関係に、新しい人生観に。
(僕が君に出来たことなど何もなかったはずだ)――しかし、「出来る」ということこそが問題だった。
君はいつしか僕を愛し始めていたのだ。今の君にとって、僕は単なる荷物持ちではなかった。単なるお客さんでもなかった。僕は、君にとっては君の元ルームメイトに代わり得る存在だった。そして、そのことが君を悩ませていたとしたら……。彼女が最初に君を裏切ったのではない。君が最初に彼女を裏切ったのだった。その思いが君を切り刻んでいく。
新しい芸術が生まれるたびに、君は自身の裏切りを深く胸に刻み込むことになる。女同士が愛する、ということを、僕は完全に理解出来るわけではない。ただ、君の元ルームメイトがこの部屋を出ていくことを決断したように、そこには誰にもどうすることも出来ない決裂が生じたことだろう。そして、今は君の元ルームメイトがこの部屋に入りたくない理由もよく分かった。
この場所は、すでに君1人の空間であって、彼女と2人の間で共有される空間ではなくなっていたのだ。
僕は、ふたたび画面の上のレモネードとティーカップを見つめる。それは美しい絵に思えた。それゆえに、魔術的なところがあるようにも感じられた。この魔術性に……君は君自身の今後を重ねてみていただろう。自分自身の創作に翻弄される自分。食べることすら忘れて、創作に熱中してしまう自分。それこそが、君の未来の写し絵だった。
しかし、君自身には君のこの絵を破棄してしまうことは出来なかった。
(4)
それから数日が経ち、君の画廊での個展は中止となった。代理として、君の元ルームメイトが出席するという案もあったが、君がどの絵を出品することに決めていたのかは、彼女にも分からなかった。だから、そうした話は自然消滅してしまった。
病院では面会謝絶が続いていた。というより、君自身が自分が誰なのか、周りの人間が誰なのかが分からなかった。入院患者を病室に見舞う際には、家族だけが入室を許される。君の両親はすでに君の病室を訪れたらしかったが、君は無反応だった。君からは、「君」というすべてが失われているようだった。
僕自身は、と言えば、自分の仕事に忙しかった。君を見舞ってあげたい、という気持ちがないわけではない。しかし、病室から出て来られない以上、病院を訪ねて行っても無駄だと思えた。看護師に突き返されるのが落ちだっただろう。
精神科の病棟でも、面会室というものはある。そして、患者が外へ出ようという意思があれば、病棟の外で誰かに会うということも可能だ。でも、今の僕は君にとっては何者だったろう。友人でもなく恋人でもない。かと言って、当たり前の知り合いというわけでもなかった。
そうしたある時、
「あの絵にレモネードを描くことを提案したのは、わたしだったの」
と、君の元ルームメイトは言った。今では、彼女を責める気持ちは僕にはなかった。
「レモネードのグラスと、ティーカップを描いたみたら?って」
その後に静かに続けて言う。
「そうすると、途端にあの子の様子が変わってね。わたしが何を言おうとしているのか、気づいたみたいだった。そのころには、あの子にとってはあなたはかけがえのない存在になっていたのよ、きっと。……創作の源としてね」
「創作の源、ですか」
「そう。創作の源。だって、創作の源って『愛』でしょう?」
「彼女は僕を愛していたんですか?」
「上辺では、違ったでしょうね。そして、心の奥底ではまた違っていた」
望まない愛、というのは時に人を不幸にさせるものだ。僕は戸惑う。青空の話、スカイラインの話、入道雲やスーパーセルの話。僕が思い出すのは何気ない話題ばかりだった。しかし、もしかするとそれは君にとっては違ったのかもしれない。芸術を共有出来る可能性というものに、人は時として飲み込まれてしまうことがある。君がまさにそうだったのだろう。
「人の心って、複雑ですね……」
「だから芸術も複雑なの」
今ではもう会計士を目指している、という君のルームメイトは言った。その発言は、その場にあってもビジネスライクなものに思えた。
「ドライですね」と僕は言う。
「なら、彼女を愛せる?」
「分かりません。きっと無理でしょう」
「そうでしょう?」
僕を納得させるかのように、彼女は言う。それは、彼女が彼女自身に納得させたい思いでもあったろう。
「どうにもこうにも、彼女が彼女自身を思い出さなくては、どうにもならない……」
「それはそうね」
僕も君の元ルームメイトも、答えに窮していた。
「彼女は、僕と過ごす幸せな日々を思い描いていたんでしょうか?」
と、僕は聞いてみる。
「あの子は、芸術家のパートナーや家族が幸せにはなれないことを、よく知っていたわ」
君の元ルームメイトの言葉に、僕はその通りかもしれないと思った。
「僕たちに共通するものって、何でしょう?」
「情熱、ね」
君の元ルームメイトが答える。
「仕事への情熱、生きていく上での情熱。生命力、のようなもの」
そして、ぽつりとつけ加えた。
「わたしにはなかったな……」
「なら」と、僕は言う。「彼女は自分を取り戻せるんじゃないですか? 自分が何者なのか、自分の周りにいるのが誰なのか、自分が何をしている人間なのか」
「彼女が自分自身のことを思い出すのは、絵筆を持つ時だけよ」
芸術家だけが持つ鋭さで、今度は彼女は言った。
「でも、今の彼女には絵筆がない……」
(5)
その時の僕に思いつけたのは、君にレモンを贈る、ということだけだった。徹夜明けの日には、毎日君のいる病院に通った。最初は絵筆と絵の具を持って行ったのだが、「うちではそういうのはちょっと」と、看護師に断られた。
君の元ルームメイトも、時折は病院を訪れているようだった。しかし、見舞いにいくのが土曜日か日曜日なので、僕と鉢合わせることはなかった。彼女は彼女なりに、責任というものを感じていたのだろう。いくら捨て去ったとは言え、芸術というのは彼女自身の領域でもあった。
君に直接会うことは、まだ出来なかった。「歩行も困難な状態ですから」と、看護師は言う。「それに、あなたに会っても誰だか分からないと思いますよ。親御さんのこともまだ思い出していないんです。自分自身が誰かも」
でも――と、看護師は言う。「贈り物であれば、受け取ってもらえるかもしれません。彼女が望めばですが……」
その言葉がヒントになった。僕は決まってレモンをいくつか買って、君のいる病院を訪れた。病棟の手前で看護師を呼び出し、君にそのことを伝えてもらう。何度かは拒絶された。しかし、何度目かからは受け取ってもらえるようになった。
「『レモンを贈ってくださる人がいました』と言ったら、『そうですか』って」
看護師が言う。僕のことは、やはり誰だか分からないらしい。僕も、僕自身が何をやっているのか分からなくなってしまうことがあった。それでも、僕は君のいる病院に通い続けた。今では、僕のほうでも「君を愛していたのでは?」と思うようになっていた。
それが何から始まったものなのかは分からない。君と会った時から始まっていたのか、君が事故にあって初めて沸き上がった感情なのか、記憶の底を探っても僕には分からなかった。でも、なんとかして君に君自身を思い出してほしい、という気持ちだけがあった。そして、叶うなら以前のように絵筆を取ってくれたら……
合わせて数回しか会ったことのないような人間がそこまで執着する、ということを僕自身も異様に思わないことはなかった。しかし、それが運命ならば受け入れる、という気持ちはあった。何よりも、そのころにはすでに君という存在が僕の生きる理由にもなっていた。そうでなければ、連日の徹夜仕事などはこなせなかっただろう。
いつしか、「その人は誰?」と、君は看護師に聞くようになった。
「あなたにとって親しい人ですよ」と、看護師は言う。
僕が数回しか君に会っていないということは看護師にも伝えていたから、彼女たちにとっても気まずい面はあっただろう。あるいは不可解な、と思っていたかもしれない。ただ、「あなたのファンですよ」とか、「あなたの知り合いですよ」と言わずにいてくれたのは、感謝しなくてはいけないところなのだろう。
そうしてひと月、ふた月が過ぎていった。君の記憶はまだ戻らなかった。ただ、自分で車椅子に乗って病棟内を動き回れるくらいには、回復したらしいことを看護師に伝えられた。君の両親は、君に会うたびにがっかりして家へと帰って行った。実の娘が自分たちを理解出来ない、というのはどんな気持ちだったろうか。
そして、ある晴れた日のことだった。僕は病棟の外にいる君を見かけた。その日は天気も良く、君自身の体調は良さそうだった。「何も思い出せていない」ということを除いては。
僕ははっとして、君に近づいていく。そして、何の知り合いでもないように、「こんにちは」と声をかけた。君は弱い声で、「こんにちは」と返してくる。僕の手の中には、紙袋に入ったレモンがいくつかあった。
「これを」と言って、僕は君にレモンを手渡す。
君はまじまじとその果物を見ていた後、
「あなたがわたしにレモンをくれる人ですか?」と聞いた。
「そうですよ」と、僕は答える。
「なぜ、レモンをくれるんでしょう?」
「それが、君の思い出につながるかもしれないから……」
「そうなんですか。ありがとうございます」――それは、完全に他人に対する言葉だった。しかし、そう言った後で、君は首をかしげる。「この果物は、良い匂いがしますね?」
君が以前香りに気を使っていた、ということを、その時僕は思い出した。「それならば、レモンが君の記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。君が絵を描いていた時のことを思い出してくれたら……」
「もう一度聞きますが、なぜわたしにレモンをくれるんでしょう?」
「僕はね、レモネードが好きなんです。毎日飲んでいる。君は紅茶が好きみたいだけれど」
「それで、レモンなんですね。あなたはわたしにとって親しい人なんでしょうか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「なんだか、なぞなぞみたいですね」――ふふふ、と君は笑った。
僕は悲しいような、嬉しいような気持ちになった。そこに未来はあるのだろうか、と僕は考える。そこに未来はあってほしいように思えた。つまり、君と僕とが共有出来る未来が。……今、君の病室にはいくつかのレモンがテーブルの上に置かれているはずだった。
「それでね。いつか君が良くなったら、その時には僕がレモネードを、君が紅茶を、飲みながら話したいと思うんだ。いっしょにね」
「それは楽しそうですね」画家とは思えない口調で、君が言う。
「そしてね、君にはお気に入りのティーカップを用意してあげるから」と、僕。
「ティーカップですか?」
「そう、ティーカップ」
「なぜ?」とは、君は聞かなかった。そこには何らかの意味がある、ということを本能的に感じ取ったのだろう。今日という偶然が、僕と君にとっての必然の始まりだった。あるいは、それは僕と君とが出会った時から始まっていたのかもしれないが。
(芸術家が不幸にならなくてはいけない理由なんて、どこにもない)――そう僕は思った。
空は青く青く晴れ渡っていて、君は僕の手渡したレモンを手のひらの上に乗せて、いつまでも飽かずじっと見つめていた……。
#引用
エミリー・ディキンスンの詩(思潮社現代詩文庫『エミリー・ディキンスン詩集』より)
青空とレモネード 白石多江 @tae_392465
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