6/7 小さな者たちの声
6.小さな者たちの声
音楽は一度始められたら、当然続けられなくてはいけない。途中で終わってしまう音楽というものはない。それは、作曲で芽が出なかった葉子には痛いほどよく分かっていることだった。しかし、この「前奏曲とフーガ」は初めから「終わり」として始まっているように思える。
「前奏曲とフーガ」は、バッハの長い創作人生の中では中期~後期に当たる時期にかけて作られた曲だ。つまり、壮年にさしかかった彼が作り出した曲だと言える。バッハがこの曲を作曲した時の年齢は、もちろん今の葉子の年齢よりも上だ。
(この曲の中には、まだわたしが経験したことのない思いが込められているのだろうか?)
と、葉子は思った。
(前奏曲って、何に対する前奏曲なのだろう……)
答えはもちろん、「フーガ」に対する前奏曲なのだが、それとは違った意味が込められているようにも感じられた。まるで、バッハは「自分の人生はこれからだ」と考えて、この曲を作ったようにも思われる。フーガの部分も、「トッカータとフーガ」に比べるとずっと穏やかだ。
壮年にして人生はこれからだと思える、だからバッハはすごいのではないだろうか。「前奏曲とフーガ」はBマイナー、つまりロ短調の曲だ。モーツァルトのように若くして亡くなった人間には作り出せないものが、そこにはある。葉子は、生まれて初めてバッハに対する畏敬の念を抱いた。
部屋のなかの「ざわつき」はまだ収まっていなかった。葉子には、人形たちが喋っているかのように感じられる。(今は自分の)家の中には母が残していった人形やぬいぐるみがいくつもある。たいていはもらいもので、母自身はそうした物を嫌っていたが、幼かった葉子にとってはそれらの存在はまぶしいものだった。
(そう言えばこの子たちも、数十年の時間を生きている……)
人形に生命があるならば、の話だが。
「あなたの出す『ソ』の音、とても良い感じがするな」
突然、人形たちの一つが口を開いていった。葉子は驚いた。最初は幻聴か幻覚だと思った。でも、そうではないらしい。
「僕もそう思う。葉子の出す『ソ』の音が良い」
今度は別の人形が話し始める。「やはり、わたしは狂っているのではないらしい」と、葉子。この家が幽霊屋敷であってもおかしくはなかったが、肝心の幽霊たるべき父や母の面影はどこにもない。話しているのは人形たちだった。家具や本までが、これに呼応して何かを喋っているような感じがする。
「何を驚いているの?」
と、最初に口を開いた人形が言った。それは洋服箪笥の上を離れて、今ではいつの間にか葉子の弾いているオルガンの上に移動している。
「あなたも曲を作ってみたら良いのに!」
人形は再び口を開いて言った。今度は驚くのではなく、冷静に、「わたしに作曲なんて出来るはずないよ」と葉子は考えていた。
(この屋敷が幽霊屋敷でもべつにかまわない)
そう、葉子は考える。一人だけで気づまりに生きているよりもむしろ……と。
弟には何と言うべきだろう。
「この家、怖いのよ。人形たちが喋るの」
「わたし、この家に帰ってきて良かった。この家はまるで生きているような感じがする」
答え、というか言葉はいくつか用意出来た。そして、いつの間にか自分が即興の曲を演奏し始めているのに気づく。「『前奏曲』に続くものが、もしもフーガでなかったら?」と考え、葉子の紡ぎだすメロディーはどんどん変化していく。葉子はいつの間にかト長調の即興曲を演奏していた。
「そうそう、そういうのが聴きたかったの」
人形の誰かが言った。あるいはぬいぐるみかもしれなかった。その言葉には不思議な温もりがある。そして、葉子が今演奏している曲にも。――普段の仕事で感じている気づまりな思いが、自由に曲を奏でることで払拭されていくような気がした。この感情は、大学での音楽教師をしていた時にも感じられなかったものだ。
(今、わたしの周囲ではたしかに何かが話をしている……)
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