音楽と精霊たち

白石多江

1/7 自分だけの部屋

    憂鬱のかげのしげる

    この暗い家屋の内部に

    ひそかにしのび入り

    ひそかに壁をさぐり行き

    手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。

        ――萩原朔太郎「内部への月影」





1.自分だけの部屋



 父と母のいない家の中は閑散としていた。葉子は一人でオルガンの前に座っている。部屋のなかは整然と整理されていて、楽譜を入れておく本棚の他には、電子オルガンが一つあるきりだった。


 この家に帰ってきた時、葉子は言いようのない淋しさを感じた。「この家がわたしに残されたすべて?」――そう思った。父や母に財産がないことを思ったわけではない。ただ、残されたこの家が彼女の墓場のように感じられていた。


 東京の音楽大学の講師の仕事を辞めると言った時、もちろん同僚の誰もが反対し、葉子を引き留めようとした。


「今は一人でも仕事がほしいと思っている時なのに……」


「大学の仕事を辞めるなんて勿体ないよ。それに実家に帰るとかって……」


「実家にはもう誰もいないんでしょう?」――という言葉を、その同僚は飲み込んで口にしなかった。もちろん、デリケートな話題だと分かっていたから。それでも、葉子の気持ちに変わりはなかった。


「帰ればまた、一から仕事を探すことになる」――ということを葉子は分かっていた。今までのように収入や待遇の良い仕事は見つけられないだろう。あるいは、自分も路頭に迷うかもしれない。リスクは承知していた。


 ただ、実家に残された部屋にはどうしても帰らなくてはいけないような気がしていた。両親が生きていた間、葉子は親孝行らしいことは何もしてあげられなかった。「今ではもう遅い」――そう思う。


 父の死の報せをしてきたのも、母の死の報せをしてきたのも、葉子の弟だった。弟は弟で実家に近い場所で自立して生活を送っていた。当然家庭も持っていたし、息子と娘が一人ずついた。実家との間は時折行き来していたらしい。葉子は、実家のことも弟のことも何も知らなかった。


 それを、彼女の気まま、と決めつけてしまうのは早計だろう。葉子は自分なりの努力をしながら生きてきたし、その人生は葛藤と苦労の連続だった。大学の講師という仕事もすんなりと得たものではない。人一倍の努力をしてやっと勝ち取った仕事だった。


 それだからこそ、同僚たちは葉子を引き留める。


「他にこんな良い職場ってないよ?」


「今までのキャリアを無駄にする気か?」


「そもそも田舎に仕事ってあるの?」


 同僚の誰もがそんなことを言った。たしかに、地方都市にある仕事は少ないだろう。良くて小学校や中学校の音楽教師、悪ければピアノ教室の先生くらいだ。そんなことは誰に言われなくても分かっている。ただ、両親が自分に残した家だけは、どうしても自分で守らなくてはいけないような気がしていた。


「土地と家は姉さんにのこすって」


 そう弟から言われた時、葉子は正直言って驚いた。母の葬儀にも、父の葬儀にも、葉子はほんの顔出し程度に参列しただけだった。二人の死は弟からの報せで知った。死の床を見舞ったこともなければ、死の瞬間を看取ったわけでもない。それほど葉子と実家の両親とは疎遠だった。


「父さんたちは姉さんの仕事に反対していたから」


 と、弟は言う。大学の講師という仕事はもちろん恥ずべき仕事ではない。ただ、父も母も芸術は人を狂わせると考えていた。だから、弟は工業分野の仕事に就いた。大学への進路を決める時にも、葉子は両親とさんざんな議論をした。結局、学費も生活費も自分で払う、ということでそのことは決着した。


 葉子は奨学金の支払いを受け、アルバイトをしながら大学に通った。それだけの努力をしても、父や母は葉子に対して良い顔はしなかった。「自分は疎まれている」と感じたことも二度や三度ではない。


 それが今、葉子は自分の実家に帰ってきている。誰もいない、彼女一人きりが住む家に。父と母は何を思って、土地や家を彼女に遺すことにしたのだろう。あるいは、葉子に対する振る舞いを何か後悔しているところでもあったのだろうか。財産など他にはほとんどなく、弟はいくらのお金も受け取らなかった。

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