7/9 夜明け
*夜明け
ニュース屋が言ったように、一面識もない人間の生死のことなど、他人が分かるものなのだろうか。そう考えながら、Lは夜の間も歩き続けていた。S市の繁華街はそれほど広くはない、いつの間にかY山の麓付近を歩いている。Y山はS市のほぼ中央にある小高い山で、昔はこの上に山城が築かれていた。今では大学のキャンバスになっている。
(何も考えまいと努めていたはずなのに……)
色々と多くのことを考えてしまっている、そうLは思った。それに、死ぬといっても本当に今日死ななくてはいけないのだろうか。あるいは、これも病気の一つの症状なのではないだろうか。うつ病の患者はしきりに自殺したいと考える、それくらいの知識はLも持っていた。
しかし、今のLの気持ちはそれとは違っているようだった。
(死は必然だ)
という考えが、何度も頭のなかで木霊する。
30歳という年齢は寿命と言うにはあまりにも若い。母の後追い自殺をしたいわけでもない、父との間がそれほど不仲だというわけでもない。どれも、今死ぬのにふさわしい理由ではなかった。
(なんとなく死んでも良いんじゃないか)
と、Lはふと思う。パウロ・コエーリョの小説でも、主人公が死のうとしたのは「なんとなく」という理由だった。それなら、わたしがなんとなく死んでも良い、という十分な理由になる。たとえ病気ではなくても、人は死んでしまうことがある。Lは、なぜかしらそんなことを証明したい気持ちになっていた。
例えば、バケツの水が一杯になってあふれてしまったような場合だ。バケツを水道の下に置いて、一滴ずつの水を滴らせていた場合でも、いつかはそのバケツは水で満杯になってしまう。そこから後は、水道から水が滴り落ちればバケツからこぼれて落ちるだけだ。死がそんな理由によって来ても良い……。
(それとも、わたしが昔から水面下で自殺を考えてきたのだとしたら?)
答えはいつまで経ってもはっきりしない。いつの間にか夜明けが迫っていた。
厚いコートを着ていたので、夜じゅう歩いていても寒くはなかった。むしろ温かいくらいだった。あるいは、その日の夜がこの季節ではとりわけ暖かかったのかもしれない。
(なんとなく死ぬ)
という理由にLはすっかり取りつかれていた。そして、MP3プレイヤーの電源はとっくに切れていた。しかし、イヤホンはそのままつけっぱなしにしていた。耳をふさぎたい。耳をふさいでいれば、やがて何もかもがはっきりしてくるように感じられる。だから、今は何の音も聞きたくない。Lは高揚感さえ覚えながら、そう思った。
ニュース屋の言葉をもう一度思い出したのは、そんな時だった。
「それがいつのことかも知っている」
そうだ。わたしは自分がいつ死ぬのかを知っている、それだけのことではないのだろうか。それが今日だった、それだけのことではないのだろうか。Lは心の内で反芻する。
(わたしは、自分の運命を知っていた?)
まるで猫が自分の死に時を知っているように。
Lは友人のMにLINEを送ってみた。
「何、こんな時間に?」
「えっと、お別れを言いたくって」
「はあ? こんな朝早くから迷惑なんだけれど」
「これが最後だと思ってさ……」
「いい加減にしてくんない!」
「ごめん、悪かったわ」
予想通りの答えが返ってきたので、Lは満足した。今では、
(わたしが死を待っていたんじゃない。死のほうがわたしを待っていたんだ)
と思うようになっていた。
Lは再びH橋の上まで来ていた。H橋は自殺の名所などではない。そこから飛び降りても、自殺など出来そうにはなかった。Lはハンドバッグの中から二冊の本、聖書と「死の家の記録」を取り出して、川の中へと投げ込む。まるで、子猫か子犬を放り込むように。それは、生に対する決別のようなものだった。
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