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  男の子たちはみんなばか

  あたしを置いて、どこかへ行っちゃう



 果林が奇妙な歌を歌いはじめたのは、それに連なる日からです。

 わたしはディオールの服とかを見つけて、一人とてもよろこんでいました。果林は、わたしをからかうみたいにこの歌を口ずさむので、言われているわたしは、なんだかとても恥ずかしい思いをしなければならなかった。

 その日、わたしがはじめて果林から心の想いをうちあけられたその日、わたしたちはやっぱりミナミのミスティフルで待ち合わせて会っていた。わたしは果林とのあいだに友情を見出そうとつとめていましたが、果林はたぶん……男の子を恋したことはなかったのじゃないかと思う。

 ミスティフルは、彼女が見つけ出してきた場所で、二人のためにいつでもおいしいクレープを料理してくれた。果林はダヤンが好きで、「ダヤン・ソースっていうヘンな果物ソースがかかっているから……」と、店の料理の腕前いぜんに、その雰囲気とか、お洒落さがすっかり気に入っていたみたいです。(よけいなことですが、……音楽家としてそれはどうか、とも思う)



 その日の果林は心から楽しそうでした……

 机のうえをピアノがわりにして、彼女が自分の曲を弾くんです。そのときほど果林が恍惚として、魅力的に見えたことはなかった。

 果林は、水色のカーディガンにきれいなネックレスを着けていました。それが、はるかなもののようで、わたしには触れることさえできないような気がして。わたしはふとめまいさえ覚えたのです。

 輝くものにたいして、わたしはその人の胸のなかを見たがるのかもしれません……



 その日わたしたちが話題にしたのは「悪いことについて」。

「その一、悪いことを」果林はこんなふうに切り出したのです。

「いかにしてするのか?」

「え? 何。わたし今日、ひさしぶりの早番だったんだ。もっと軽い話題はないの?」

「いいんだよ、重くても」

「それは、あなたはね。それで、どんなことを言えばいいの」

「たとえば、ね……」

「たとえば」思いついたわたしがさえぎって言いました、「高速道路を原チャで逆走するとか?」

「生々しすぎるよ、それは」

「たとえばね、オレンジの皮をむいて、1枚1枚道に並べていくっていうのは」

「茜さんの発想ってとてもファンシーね。それってどこが悪なの?」

 果林は笑みとあざけりを同時に浮かべて、わたしを見ました。

「ええ。その上を通った人をのこらず突きころがすって」

「わあ。悪」

 さすがに果林は呆れていましたし、わたしも自分の言葉に驚いた。

「茜さん、こんなことって考えたことある? 誰かにとって悪いことでも、必ずわたしにとっても悪いことじゃないんだって」

「そんなの、誰だってあるよ、きっと」

「やっぱり大人ね。それで、きっと正しいことだって思う?」

「なにが」

「わたしの言ったこと……。わたしのすることが、決して悪いことばかりじゃないってこと」

「なんだか、果林は悪いことばかりしているような、言い方だね」

「そうよ。そうなんだ。わたしは悪いことばっかり」

 果林がその後に付け足したこと、「あなたは良いことばっかり」それも低声で。

 わたしたちはしばらく黙っていました。お互いに考えることがあって、気分がいいときには、二人は話さなくてもやってゆける。だから二人でそこにいて、そこにある空気を吸っているだけで幸福に時を過ごすことができる。今も、こわれそうな予感のただなかではあったけれど、わたしたちは今までどおりに暖めあい、労りあう友だちでいられるんだって……

 そんなふうに感じていると、彼女は一人でぽつりと窓の外を見つめていました。

 だんだんに暗くなっくる表通り。裏通りはもっともっと暗い。ただでさえ人は苦しいのに、果林のような生き方をしたら人はどんなに哀しいだろうか? 未来を予知するような、この考えが浮かんだのは、たしか彼女がふり向いてくれる2、3秒ほど前でした。

 果林はいつものように快活でした。わたしは何か話さなければいけないような気になって、

「果林。こんど一緒に旅行をしたいの」

「急にどうしたの、茜さん?」

「ああ。あなたがいつか東京に行きたいって言ったの、思い出したの」

「あれは住みたいって言ったんだよ」

「そうだった?」

「うん。東京になんか旅行したってしょうがないじゃない」

「そうね。横浜なんかは、感じ良いのよ」

「いいなあ。横浜に行こうか、いっしょに」

「行ってくれば?」

「やっぱり、止めとく。わたし、大阪を離れる気ないんだ。ここがいいの。ここで、いいの」

 わたしは果林の考えが子供っぽい気がしました。わたしだって何年も前には東京を離れるつもりなんてなかった。それなのに今はこうして果林と……。めぐりあわせというのは不思議な気がします。

「わたし、時どき果林に共感できない。あなたって悲観しすぎない?」

「悲劇的すぎる?」

「悲劇的すぎる」

 果林は、うっとりする表情をしていて。わたしはそれを見て、震えました。

「わたし、あなたのそれ、すごく嫌だな」

「これってどれ」

「今の顔。辛いのを楽しんでいるみたいだもの」

「えへへ。ほんとはね、わたしだってここを離れたいよ。……なぜか分かる?」

「じれったいな」

「まるで、出会ったころに戻るみたい」

 果林もわたしも、思い返すような目をしていました。

「初めて会ったころに?」

「ええ。あのころのあなたって、とっても秘密っぽかった」

「今だってでしょう」

「今だってそうね」

「やっぱりね、茜さんは何も分かっていないんだ。わたしのこと」

「ええ、そう。あなたのことが何も分からない。どうしたらいいの!」

「どうもしなくていいよ。どなることないのに……」

「ごめんなさい」

「茜さん?」

「でもね、友だちに秘密をつくるなんて、それこそ悪よ」

「また話が戻るのね。かたい話は嫌だって言ったくせに」

「ああ、もういいわ。わたしたち、本当へんなこと話してるわ」

 わたしは今、果林をつき放したい(それこそ、わたしが望んでいたことでした)、果林の心を知りたいけれど、それに近づくのが恐いから、とつぜん会話を投げ出したんです。わたしはじぶんの心を知ることも恐かった。

「茜さんはそうやっていっつも逃げてゆくから、いっつも逃げてゆくから……」

「あなたはいつも謎ばかり。本当のことをほのめかしてばかり」

「謎なんて言ってない。本当のことは、茜さんこそ避けてる」

「音楽の話にしてもそう。わたしには分からないことばかり」

「あなたは詩人だもん。きっと分かってくれると思う。メロディーのなかでわたしの言いたいこと」

「知らないよ。知りたくないの」

 わたしはいつものように彼女をにらんでいました。果林はぽろぽろ泣いていた。

 お互いが、お互いの気もちを分からないまま、なんでこんな喧嘩が続くんだろうっていつも考えてしまう。こんなの本当につまらない喧嘩だわ、お互いがじぶんの気もちに素直になれないから、たぶん本当にじぶんの気もちに気づいていないから、こんなふうにお互い傷つけあってしまう。

 今だって。わたしは果林のことを、本当はどうしたかったのかしら。いいえ、分かっていたくせに……。

「ねえ。恋人どうしって、こんなふうにいつも喧嘩ばかりしているの?」

「そうね。お互いを確かめながら、たぶん結ばれてゆくのね」

「ふうん、いいな」

「良くないのよ。わたしにはもう」

「茜さんは、思い出したくないことがある。そうなの?」

「そう」

「それじゃあ、言わない。わたし、茜さんに同じものを求めているもん」

 それでもまだ気づかなかった、わたしは馬鹿だったのかしら。



 その日はメーデーだったのでしょう。捨てられたメッセージやのぼりが、いたる所に転がっていました。自分たちの主張を捨ててしまうなんてことは、この人たちもあまり熱心ではなかったんだなと感じながら。

「ああ。働きたいな、とっても」果林は、天をあおぎながらつぶやきました。

「仕事しなさいよ」

「……」

「簡単じゃない」

「……」

「音楽馬鹿」

「何かいい仕事がないかな。ね、茜さん?」

「楽な仕事をさがしてたら社会人にはなれないわ」

「そんなんじゃないよ」

 果林は、落ちているのぼりをかっと蹴りました。

 青色街灯が彼女を照らし出して、そのまわりに同心円状のパターンをつくりあげていました。

 わたしはとても切なくなって、彼女の顔をじっと見すえていた……。こころの暗い広がりのなかで、果林は決然として、わたしから離れてゆくような気がしたんです。

「哀れみは、いやだ」

「哀れんでなんかいない」

「なに?」

「あなたが思春期の怒りをぶつけたいだけなら、他の人にしてよ」

「なに言ってるの? ……茜さん」

 そう。わたしは何を言っていたんだろう。何を願っていたから、あんな言い方をしたんだろう。

 今、わたしは思う。きっと、きっとそれも分かっていたんだって。

「あなたがわたしに何を求めているのか、はっきり言ってよ」

「ずるい……。茜さん、わたしには茜さんしか、友達がいないんだよ」

 果林は非難したい調子でわたしに叫びました。

「はっきり決められない人は、嫌いなの。男の子でも、女でも」

「決めたがり。茜さん」

「誰か……が、あなたには必要なのね。茜さん」

 果林はささやき声でそう言いました。

 それから、わたしたちは何をしたのか、あまり覚えがありません。



 白い光と軽いざわめきが、朝の窓の外からさしこんでいました。わたしは煙草に火をつけなくても、その明るさで目が覚めたのでした。

 果林がそばにいるのかどうか不安で、まず、最初に彼女のことを探したんです。

 彼女はわたしに勧められたベッドの上ではなく、ソファのなかで毛布にくるまって眠っていました。

「……どうしたのかしら」

 彼女の寝顔は安らかで、何もかも忘れ捨てた子供のそれみたいだった。

「何も、感じていなかったのかな?」

 わたしはゆうべの想いを思い出そうとして、心のなかをそっとさぐってみました。でも、その中には何もありませんでした。

「悪いこと、悪いことって、しきりに言っていたような気がする」

「……」

「あれから、二人でお酒を飲んだのね、たぶん」

「……」

 アパートのしたで、車が思いきり迷惑なクラクションを鳴らしました。

「……」

 果林が、かるい寝息を立てた。

 わたしは、彼女の髪のかかった額を撫でようとして、ちょっと迷いました。

「いやだ……。わたし?」

 ゆうべのわたしたちは唐突で、なにもかも突飛でした。警官のいない交番に石を投げこんでみたり、笑ったり、地下鉄にただで乗ってみたり、それで降りるときにかえって困ったり。

 お酒をたくさん買って。

 それから、「ビリティスのむすめ」。

 果林のそばに坐りこんだまま、動かずにわたしはつぶやきました。

 もう、出勤しなければいけない時間のはずでした。それなのに、どうしても、今この部屋からは去ることができなかったのです。

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