いんとろだくしょん&アレグロ
白石多江
1/3
Introduction :
冬の風がもうひたひたと吹きつけています。そんな季節になったのかと、なんだか意外な思いのように感じながら、書き始めています。いま、コンタクト・レンズではなくて眼鏡をかけました。もう、わたしには物をはっきり見ることはできないのだって、なぜだか切なく悟りきってしまったような気分です。わたしは詩人でした……たしかに詩人でした。
彼女と会ったのは、いつごろでしょうか。梅田の喫茶店で見かけたのが始めだったと思います。彼女は、窓際にすわってあっ、という顔をしていました。おかしなことを人の目に見せる人だなあとその時感じたんです。だって、梅田というのはああいう街でしょう、人の行き来も多いし、みんな知らない人ばかりというのが当然です。それなのにあんなに親しそうな顔をして往来する人びとを見つめるというのがわたしにはとても信じられない光景のように映ったのです。
なぜ? なぜというのもおかしいようです。だってわたしたちは親しい人に会ってもめったに本当の顔をあらわさないんですから。
彼女は、ノートになにか書きつけているみたいでした。あとで聞いた話ですが(ああ、こんなのは不自然な言い方だった)それは曲でした。彼女の音楽なんです。彼女は群衆を音楽にしている、そう言いました。そのとおりの言葉で語ったんです、「あたし、群衆を音楽にしているのよ……街ゆく人びとをね」
ふっとしたことでわたしは彼女に話しかけました。小さな喫茶店だったんです。わたしと彼女とは向かいあわせでした。他にすわる席がなかったんです。わたしは店のボーイから、彼女の席にすわってくれるように頼まれました。わたしはどきりとしたんです。でも仕方がないな、という顔をしました。彼女はわざと怒ったようにわたしを見ないで急いでノートのうえに記号を走らせたようでした。わたしも彼女の心を見ないふりをしました。
それが、わたしがきっかり二度目にその店を訪れた時でした。彼女は、わたしがはじめてこの店に来たときも、二度目のその時も、偶然そこに居合わせたことになります。そして、わたしは一度しか見ていない彼女のことを、しっかり覚えていたことになります。
わたしはクロック・マダムとカフェオレを注文しました。
「そんなのは体に良くないよ」と、彼女がつぶやきました。
ボーイが白い小さな紙に書きつけて去っていきました。
わたしは、
「お邪魔して悪かったわ。でも、これが朝食なの」
「午後4時に?」
「仕事柄で。朝から食べる暇がなくて」
「今日はじめての食事? これじゃあ体に悪いわよ」
わたしは軽蔑的に笑ってしまったと思います。ちょっと彼女に悲しい思いをさせたかもしれません。
「だって、間食かと思ったんだから……」彼女は恥ずかしそうに言い訳しました。
わたしはフォクシー・モデルの眼鏡をちょっとはずして彼女を見つめました。そのときにボーイがカフェオレをもってきました。
「それはなに?」
「紅茶」
「ちがうわ」
「他にはなにも注文してないよ」
「ちがうわ。あなたがいま手にかけているものよ」
「なに? ペン……」
「ちがうわ」
「ノート」
「ちがうわ」
「外をながめているわたしの目」
「ちがうわ」
わたしは微笑をこらえて、意地悪く彼女を見かえしました。
「ちょっとなにかしらの意味を持たされた記号の集団……」
「ちがうわ。あ、いいえ。ちがわないかもしれない」
「これ? 音楽よ。つまらない音楽。高尚な音楽」
「どっちなの」
「わたしの曲よ」
そのときにわたしのクロック・マダムがやってきました。
「どうぞ。邪魔しないわ。いいから食べて」
「なんだか逆みたいね」
「人間の立場なんてあいまいなもんよ。どうでもいいようなものだわ。ほら……あれ。あの外を歩いている人たち。あの人たちは、あなたにとってなにかの意味がある?」
「いいえ。ないわ」
「ないの?」
「もちろん。ぜんぜん」わたしは当り前のように冷めた表情で、彼女のあとから窓の外にある通りを眺めました。
「わたしにはあるの。わたしには無意味じゃないの」
わたしは、わたしのクロック・マダムをかじりました。それから彼女の名前を聞いてみました。
「わたし? 果林」
「わたしは茜」
「それで、何を作っているの」
「教えない」
「聞かないわ」
三度目に果林に会ったのは梅田の駅でした。阪急電車から降りたわたしは、中央階段を二階へ下りてゆこうとしていたんです。
「泥棒!」と、どこかから声がかかりました。そして、突然わたしのそばを誰かがすりぬけてゆくのをわたしは見ました。
「そいつを捕まえて」と、太ってひどく醜い婦人がわたしのまえから走って近づいてきました。
わたしは急いで後ろをふり向くと、わたしをかすめて去っていったのは果林でした。そして、婦人から追われているのも彼女なのでした。
わたしは「あっ」と思って足を出しました。婦人がもんどりをうって倒れるのをわたしは感じました。
「あいつよ。それから、この女もぐるだわ!」婦人が醜い大声でさけびました。
わたしは周りの人間すべてから睨まれているのを知りました。一瞬あっけにとられた後、澄ました声で「大丈夫ですか、わたしの足がひっかかってしまったみたいですが」と答えていました。
「何を言っているの? あなたは今わざとしたんだ」
「あの女性を追いかけていたんですか。何か盗られたんですか」
「なんですって。あなたはあいつを助けたんでしょう、ぐるなんじゃないの」
「落ち着いてくださいね。駅の人を呼びましょうか」
「親切面しないで、泥棒」婦人は叫びながらのろのろと立ちあがりました。
わたしはただいい気味だと思って果林がどうなったのか、捕まっていないだろうかを心配していました。遠くを見ると、ざわざわと人が波を打っているのが、何事もなかったみたいに日常のようであるのを、なんとなくおかしくて笑いをこらえたい気分になりながら観じていました。
そして、ひどく退屈な沢山のことを、わたしは駅のなかのどこか小さな事務所で聞かれるのだろうと思いました。とたんに、わたしは何もかもが嫌になったんです。
わたしは、次の瞬間に駆け出していました……
果林はそのときにホームに居あわせた電車に乗って、神戸か、千里中央のほうへ行ってしまったにちがいないわ。それを案じながら、わたしは一息に改札へと階段を駆け降りていったんです。
「やられたわ! あいつら、ひどい連中のすることよ」
後ろから、追いかけるように婦人の声が聞こえていました。わたしの腕をとらえようとした人もいます。でも、わたしは捕まるわけにはいかないんです。捕まれば、果林のことを知っていることをどうしても隠せそうにありません。わたしは、なぜだか赤面しながら彼女の名前をつぶやいてしまいそうに思えました。
そして無事に……、無事にというか、そもそもわたしにはなんの関係もないのですが、数分後には、わたしは何心なくブティックの並ぶ茶屋町の通りを歩いていました。
「果林、あなただったんでしょう?」
四度目に果林に会ったとき、それはもちろん例の喫茶店でしたが、まっさきにわたしは彼女にあのときのことをたずねていました。
「ああ。やっぱりね、茜さんだったんだ」
「ええ、そうよ。あなた何をやったの?」
「なんにもしてないわ。……何をしたんだと思う?」
わたしはちょっと言葉をつまらせてから、椅子をひいてそこへ坐りこみました。
「あのね、わたしはあの婆あとはちっとも知り合いじゃないよ」
「当たり前だわ」
「なぜ?」
「だって……」
でも、わたしにはそれがぜんぜん説明できないことに気がつきました。
「あなたって甘いね。群衆のことをちっとも知っていないね」
わたしは、少しいらいらしてきました。
「ええ、そおね」
「あの人たちはね、ぜんぜん知りもしない人びとがね」果林は、おさえた考え顏をしながらこれを説明しはじめました。
「わたしたちのやり方しだいで敵にも味方にも、変われるものなのね。だからわたしは、あのとき、あの婆さんに触れていったの」
「なにか盗ったの?」
「あわてないで」果林は怒ったように笑いました。「なんにも盗ったりなんかしてないよ」
「そうでしょうね。そう、でしょうね」
「わたしね、あの婆さんを曲にしたの、即興でね。そして追いかけていって、彼女の持ち物のなかに……」
「え?」わたしは、果林のやり方というのを驚きそのものをもって受けとめました。
「……あの婦人から、盗ったんじゃなくて、あなたはあの人にその曲を、あげてしまったのね!」
「まあ、勘がいいんだなあ、茜さんは」
果林は、爽快な、という感じでほほえんでいました。
「驚いたわ」
「驚いたでしょう」
わたしは、果林がそんな奇妙なことをしたのには驚いていませんでした。はじめに言ったように、彼女の作曲の仕方に驚いていたんだと思います。
彼女は群衆を曲にしていました。いつでも、出合ったとき、出合った人のことを、その場で思ったとおりに音楽にしてゆくんです。それは、彼女の心が人に触れてゆける、動きそのものでした。波のような、でも見ず知らずの人からうける印象。いつだって、そしていつまでも、ひとつでしかない、ひとつしかできないその場かぎりの音楽。今、つくりださなければ、消えていってしまう一瞬の感激。そんなものを、はたして曲にできるのでしょうか。モーツァルトのような天才ならともかく。……いいえ、彼女はきっと天才だったにちがいありません、誰も聞いたことがないだけで。そして、一瞬のあいだに彼女は即興の曲を書き上げていったのです。そのときも、彼女が嫌いだとかんじる中年女のあとを追いかけながら。
「あのね」
「それで、曲名は?」
「え。センチメンタル・プロムナード。どお?」
「なんだか意味ありげね」
「そんなことないよ」
「どんな
「ええとね、ラ、ラ、ラーラ、ラ」
「ふうん。素敵ね。でもどうして」
わたしは案じるような笑顔で果林を見すえました。
果林は、わたしが冷笑しないのが意外みたいでした。でも、ちょっと答えたくないようにその時うつむいたのでした。
「ねえ、わたしたち……。いいえ、あの婆あ何と思ったのかな」
「それは、泥棒だと思ったでしょうね」
「その後は」
「あなたの楽譜を見つけたんでしょう? 驚いたかな。あなたのことを……気狂いだと考えたかもね」
「わあ、素敵だ」
「だって、なぜあげてしまうの」
「ねえ、あのね……。いや、茜さん音楽は好きなの」
「嫌いじゃない。それよりもどんなふうにおしこんだのよ。バッグに?」
「そう、バッグに……ねえ、出ましょうか」
果林はしだいに苛立ってくるようでした。わたしは面白いように心のなかで、くすりと笑っていました。彼女が、ほんとうはどんなことに悩んでいるのか、わたしは知りもしなかったからです。ただ、この街のなかで彼女と出合っていることに、今まで感じたことのない興味をおぼえて見ていただけだったんです。
申し訳ないけれど、わたしは果林を理解していませんでした。いいえ。できなかった。
「でも、どうして自分の曲を捨てたりなんかしたのよ」
「捨てた? そうかもね。だからって、無くなったわけじゃない」
「おばさんは捨ててしまうかも」
「ええ、でも無くならない」
もう出ようよ、と言って果林はさきに席を立ちました。わたしはその後を追って喫茶店のドアの鈴を鳴らしました。
梅田から扇町への通りを、わたしたちは並んで歩いてゆきました。
果林は、閉店してしまったお店とか、ぽつんと開いた心のすきまのような空地とかを、目ざとく見つけては何とかコメントをささやきます。わたしは呆けたような表情のまま、それを聞いていたのか、聞いてなんかいなかったのか。
とにかく、わたしは背の低い果林をその傍にかんじながら、とおく空のほうばかりを、季節物のくだものでも噛じるみたいに味わっているのが良かったんです。
「わたし、東京へ行こうかしら」
「東京へ行ってどうするの?」
「曲を発表するのよ」
「あなた、何歳なの」
「19」
「それじゃあ、芸大を受けなさいよ。音楽学校でもいいし」
「受けてどうするのさ」
「曲を発表できるじゃない。それ以外には発表の場もないわけじゃない」
「今さらって気がするな。あなたいっしょに来てくれる?」
「どうしてわたしが?」
わたしたちはちょっと立ちどまって、お互いに見つめあいました。
果林が、その時にもやはり少しだけ早くその場から歩きだしたんです。……
わたしは、偶然足がもつれたかのように立ちつくしていました。それでも、一瞬のことでしかありませんでした。
わたしは、何も迷うことなんかないように果林に
「あなたってこれからどうして生きてゆくの?」
「知り合ったばかりで、そんなこと聞いてどうするの」
「だって、果林が今東京へ行かないかって誘ったから」
「あなたは断ったじゃん」
「それは、そうね」
それっきり、わたしは蒸し返すことはしませんでした。果林が言わないのなら、わたしからも言う必要がなかったでしょうから。
「あなたが男性だったらなって、思うわ」
「どうして」
「東京へ連れてってもらうの」
「それは良いわね。わたしも、あなたが男の子だったらって気がする」
「なぜ?」
「だって、男の子のほうが似合いそうなんだ」
「ばかね」
「ああ、空がきれいよね」
わたしは果林の言葉に吊られるように夕雲を見あげました。そう……。扇町のミューゼアムまで来ると、わたしたちは淋しさをつのらせてしまっていました。
「この美しい季節を、曲にして」
「いいわ。あなたが、……おごってくれるなら」
「なにか、食べにゆこうか」
「わたしはホット・チョコレートでいい」
「ブランデーだけあればいいわね。わたしは」
「そう。それなら、あなたのいつも行くところへ」
「寒くなってきたね」
「ええ、秋だもん」
「ちがうの、冬がもうすぐだから」
「そう言えるかもね」
Allegro :
北浜のあたりを、歩くことが果林は好きみたいでした。でも、北浜というその場所が好きだったわけではないみたい。
冬のあいだにも、何度かわたしたちはプロムナードを連れそって歩きました。そして、春になると、わたしたちはお互いのアパートのあいだを行き来するようになり、親しさは二人のあいだでしだいに深まってゆくようでした。少なくとも、わたしにとってはそうでした。
桜と、梅の花とが、ちょうど咲く花を交換するころに、わたしたちはまた天満橋まで歩いてゆき、そこから引き返してきたんです。
音楽の話をするには良い日でした。果林はわたしの知らないことや、芸術の神秘にせまるような考えを夢中で聞かせてくれていました。わたしは、そんなときの果林の声を聞くことが好きだった。彼女の表情とか、その話題なんかよりも、とくにその声が。
それなのに……
阪神高速の下なんかをふらつきながら、果林はわざとわたしにあたるような言葉を重ねて口にしはじめました。なぜなのか、わたしは尋ねもしなかったけれど。今もそのことを思い返してみようとはしません。果林が不機嫌なのは彼女の体具合のせいと決まっていたし、そんなことは決して多くなんかなかったからです。
果林……。彼女がいらだっているのは、彼女の思い通りの音楽にじぶんをゆだねることができないからでした。
「ああ! あなた、子供の気もちなんてぜんぜん分かっていないんだ、茜さん」
果林が、とつぜん金切り声のような叫びをあげたとき、わたしは驚きました。
「子供って誰のことよ?」彼女の表情が、いつもの果林のとすっかり違っていたからです。
「わたし。わたしのこと、茜さんはそう思ってるんでしょう」
「あなたが……」
果林は、じぶんの悩みを人に話すことや、それを外に見せることさえめったにしない人でした。わたしは彼女の頭のなかで、どんな考えや希望がうずまいていたのか、過去にも今も思ったことがない。だって、彼女の理想にわたしをまかせることは、わたしという存在にとって危険だったにちがいないのです。
彼女はひとつの賭け、じぶんじしんをどれほど台無しにできるかに、まるで取り憑かれているみたいだった。
「あなたは子供なんかじゃないって!」
「子供よ、子供よ。まだ、子供なんだよ」
「だからどうしたっていうの?」
わたしは、果林というひとりの女をにらみつけていました。でも果林は、はんたいに子供という枠のない存在に帰って、わたしを見ていたんです。彼女が子供でなければ、どうなったのか。その時には彼女のことを憎まずにいられたかどうか、わたしには分かりません……
「子供は……」
「どうしたの、わたしに言ってほしいことをはっきりと言えば」
「わたしが言っても、茜さん、答えてくれやしないよ……」
「もう! じれったいな」
「子供はね、大人にはぜったいその気もちを分かってもらえないって、特典付きなの」
わたしが大人だってことを非難したいんだ。そしてわたしには、あなたに近づくことはできないって思っているのね。そう心のなかに呟いていました。芸術には、子供の心が大切なんだってことはわたしにも分かっていた。でもわたしは彼女よりも5歳年上で、もう世の中にはいりはじめた人間でした。彼女の純粋な気もちにくらべて、わたしの感情は屈折して、劣っている。だからこそ、わたしは果林にだけ夢を追ってほしいって、思いこもうとしていたのかもしれません。
結局、わたしはいちばん大事な点で勘違いしていました。わたしには、果林がわたしに求めているという想いそのものが、まったく見えていなかったんです。
「子供のままでいる人間を、世間はどう考えているの?」果林がぽつりと言いました。
いつのまにか、心斎橋までやって来ていました。
オフィス・ビルのあいだを、とり残された民家とか、さびしくて人気のなくなったお店とかを見つけながら。ときどきコンビニなんかがあるとわたしはほっとして、果林は道をいそぎ足になりながら、なにかを発見したいように二人で歩いてきました。
「ねえ、さっきのことだけれど」
裏通りにレストランがあるのをのぞきこんで「昼間は人が少ないね」と、果林が言いました。
わたしは彼女の後から寄ってみて、その胸に手をあてているウェイトレスを目にしました。「なんだか、お祈りしてるようだね」
「そうね。
「わたしたちみたい」
「わたしたちは不良だよ」果林が笑いました。
「ねえ、さっきのことだけれど、わたしにできるなら果林の気もちを理解してあげたいって思うの」
「あなたにできるなら、わたしもそうしてほしいな」すこし待ってから、果林は答えました。
「音楽はやっぱりむずかしいよね。芸術には、純粋な子供の心が大切なんだ」わたしは果林の目をまっすぐに見て、話しかけた。
「わたし、果林の考えが知りたい。1年かけてでも、あなたが心に何をしまっているのかを分かってあげたい。今すぐにでもそれを言葉にできればって思うんだけれど。……だから、わたしが大人ぶって果林のことを馬鹿にしているだなんて、考えないでほしいよ。わたし、あなたも、あたなの曲のことも心配なの」
「いいえ。やっぱり、茜さんには何もしてほしくない。わたしのこと分かるだなんて言ってほしくない」
「なに。それが果林の答えなの?」わたしは果林につめよりました。
「ううん、茜さんは今のままでいいの。だからこそ、わたしたちは友達でいられるんだよ」
彼女はなぜかわたしの目を見ませんでした。そう。果林はおびえていたようなのです。
なんだか腹が立ってきたわたしは、(心ないことに)彼女の目をにらみつけました。わたしに心を開いてくれないのなら、なんで友達なもんか。そんなふうに思っていました。
わたしは今、じぶんの身勝手をせめることもできます。でも、それ以上にわたしたちは若かった、という気がしています。
そんなとき、
「わたし、茜さんの詩を読んだよ」果林がまたぽつりとつぶやきました。
「え?」
「あれはわたしのことを書いたものなんでしょう」
そう、それはわたしの詩でした。冬のあいだにわたしが書いて、果林に手渡した詩でした。
「わたし、あれを読んだよ。茜さんがわたしをどんなふうに思ってくれてるのか、すぐに分かった」
「そう」
じぶんの書いた詩の内容を、わたしはくわしく覚えていませんでした。が、そのなかにはたしかに彼女のことを描いていました。音楽に魅せられた美しい少女。まるでガラスの向こうにあるまぼろしのような彼女を見て、わたしは幸福を感じ、勇気づけられる、そんなことだったと思います。
「どうだった? だめだよね。あまり、あなたのことをうまく描けていなかったから」
わたしは気恥ずかしさだけで赤面していました。
「あなたは素晴らしい詩人よ。茜さんは、きっとすてきな詩を書くようになる。でも、わたしは音楽なんかもうどうでもいいんだ……」
果林は、たえられない様子でむこうを向いてしまった。
1996年の春のことです。
わたしは、1年前に東京からこちらへやってきたばかりでした。だから、それ以前にここでおこった出来事には、わたしにはほとんど親近感がない。果林がなにに傷つき、なにを悲しんでいたのかも、わたしは奇妙に見落としていました。それさえ分かっていれば、そんな世代のちがいにわたしが追いついてゆけたなら……、わたしたちは別れなくてもよかったはずなのです。
「わたし、たくさんの人が苦しむのを見てしまった。いったい何のために生きているの? 誰のために生きているの?」
それきり、わたしたちは何も言うことができませんでした。
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