レトリックサークル
沈黙静寂
第1話:比喩世界
私は修辞技法が嫌いだ。三歳児でも思い浮かびそうな比喩を得意気に披露する小説家に嫌気が差すのに加えて、何よりその放埓な言葉遣いが自然言語の曖昧性や恣意性を導いているようで許せない。この手の正論を言うとやれクワインだやれディビッドソンだと批判の的に晒されるが、論理実証主義の何処が間違いだと言うのか、論理的に実証してみて欲しい。勿論音声言語の呪縛がある時点で論理は限定されるし、定型的な音の応酬から文学の醜悪な華は開かない訳だけど、気取った文体や慣用句は極力使用したくない。私が華を持つのは死んだ構築主義への餞として生ける程度だ、というレトリックは決して口にはしない。
「君は薔薇のように美しい」細胞の壁を簡単に飛び越えてしまう口説き文句は類型論上好ましくなく、この種の批評家が生態学を騙るから謬説が繁茂すると言うのは棘のある言い方だろうか。「腐った魚のような眼」「太陽のように明るい笑顔」「雷に打たれた気分」どれも陳腐陳腐、文字表現に自信が無いなら陽光に焼かれた干物として非言語的な余生を過ごして欲しい。何処かの僕ちゃんくらい考えないと作家としての言い訳は効かない。
『双山大学修辞同好会』そんな私がこの得体の知れない看板の表示に従うのは、新入生歓迎会で異様な雰囲気を放っていた一角への同情と、反修辞学への忠誠を実験する絶好の機会に思えたからだ。つまり文芸活動や言葉遊びが主体と思われる当サークルを侵攻し、その稚拙な解釈論が如何に荒唐無稽か、文字を振り掛けた飲食が如何に特権的かを気付かせることが出来ると思った。とは言え私も常識人、初日は挨拶だけを済ませて部内の調子を改めて確認しようと扉を開いた。
「それはアユが小振りな人間だから。大魚は小池に棲まないので」どうやら談笑中の四人の視線が鉄扉の後を追い、誰一人仲間外れにしない精神には踏み止まるべきだったかと小匙程度に後悔する。
「あらいらっしゃい。新入生の方?」問い掛けに頭を振ると「わたしは人文学部四年の
「自己紹介の流れかい。オレは
「あら、わたくしの番ですね。芸術学部三年の
「…………あたしは
「修辞同好会は普段どのような活動を?文芸部との違いはあるのでしょうか」入部も決めていないのに連絡先を交換したことはさて置き、学生団体名簿で一つ枠を超えた同族が気になり、視界に映る四人の集合としての性質を尋ねる。
「基本的にはただの雑談部屋、文字通り耳障り良く言えば部員のコワーキングスペース。毎週木曜・金曜十九時からわたしやアユが日本沈没のように課題の波に追われる様が鑑賞出来る。お題目としては文芸作品や日常会話の気の利いた表現と新しい修辞の案を収集し、PDFや部誌に纏めたら何処かに寄稿する予定。手持ちの比喩はどのくらい?」
「適当で良いなら無限にあります。海岸線のパラドックスみたいに」応答しようとして「なんて冗談冗談、逃げちゃうか」再帰的な思考を遂げるのは微笑ましく思えた。「兎に角面白そうなレトリックをメディアに引っ張り蛸の知識人のように浅く広い視野で発見しようという集会。文章全体を批評し合うお隣さんとはその点で異なる」月梨の拘りが露出される一方、「最近描いたばかりのキャンバスだから、いつまで鮮度が持つか分からないけど」相方に刺された釘は皆が共有していた物だった。
「実は繭以外は元々文芸部員として読み書きに従事していたのだけど、頁を捲る単調さとクリームパスタに卵黄を追加したような馴れ合いに嫌気が差して独立したワケ」由縁を聞いて、仮に私が執筆にニューロンを発火させる癖があろうと同じ結論に至りそうだと納得したが、「わたくしは歩夢さんの感想の発声方法が好きでしたけれど」名残惜しそうに振り返る華美は古巣の方に理想の文脈を書いているのだろう。
「あなたは何故『修会』に来てくれたの?」まさか人が来るとはまるで白昼夢、自虐を添えた問いには「修辞学を殺す為です」二つの矛盾を抱えた開戦のベルは鳴らさず、「純文学に関心がありまして」適当に拵えた来歴は「ふぅん、じゃあこのパスティーシュは誰が誰を模倣したものか分かる?」突然始まった実力試験は知識の引き出しを奥まで覗いて対処した。その後も各々の作品やメタファー研究学会を中心としたお薦めの文献紹介、幼稚園以来の腐敗した縁にある部長と副部長の話を経て、小一時間で得た知見は華美と都成が何故か目を合わせないということ。偶然かと思い「人文でも芸専の講義は受けられるんですかね」ノードとノードを線形結合しようと狙うが重みづけは零の圧力に阻まれる。馬が合わないとしたら別の厩舎に行ったらどう、とは言え他人の不幸は蜜の味なので紅茶もセットで頂きたいと思った。
雑談の華が枯れてきた頃には夜九時を回り、「夕飯奢るのに矢の如き帰心ね」「期待の新星だな」喰い違う第一印象を残して凹凸の激しい田舎道を帰る。アパートに着いて身体に浴び過ぎたレトリックをシャワーで洗い流す。半分以上は自給自足かと反省しながら離れ難い概念メタファーに母の愛と狂気を感じる。全く酷いものね。
ふざけた態度で何とか誤魔化したが内心ではかなり煮え滾った怒りがある。修辞同好会の軽薄な物言いは日本語の信用低下に貢献するし、特に最も厄介な比喩の一群は物と言葉の関係を歪めるのに寄与している。言語のパノプティコンでは無自覚な暗喩が喉元を詰まらせるから、一層のこと比喩が比喩でなくなる具象的な自然界にシフトすべきだと思った。そんな妄想をベッドに寝かせていたら、暗幕の夢の中で胡蝶がヒラヒラと飛んできた。何の象徴だろうと考えるのも束の間、不意に凄烈な頭痛と吐き気に襲われ立ち上がる。
「グゥ、グゥァァグググあああああぐぐ、あ、あ、あ……」立ち上がったはずの身体がパーツ毎に分解され多種多様な玩具の色味に変換される。周りの景色も同期して一秒間隔で冷蔵庫が伸縮し電子レンジはカラーパレットのサイクルを繰り返す。これは愈々死の合図か、血塗れになった自分が鏡の前に浮かんでは消えると誰も悪くないのに精神科に向かうあの日の今がこの瞬間。
「うぁあアエエ」目が醒めると紛れも無い朝陽が昇っていた。いつもと変わらない日常に少しの不快感が埋め込まれていた。何だよ、ただの悪夢か。だけどただの悪夢とは違う、妙な酩酊感に囚われつつ時間も無いので講義の支度を済ませる。植込みの蝶を横目に、嘘のような晴天下に向かって歩き出した。
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