返却のお知らせ

理性

返却のお知らせ

 四方から聞こえる蝉の鳴き声が頭の中で響き渡る。コンクリートから発せられる熱気が身体を包みじんわりと汗が出てくる。ペダルを踏むたび錆びたチェーンが不規則な奇声を発する。

 大通りを右に曲がった先にある坂を上ると第三図書館はある。

 坂の上まで続く白線は陽炎でゆがめられている。この坂を上らないとならないと思うだけで額からどっと汗が出てきそうだ。

 読みたかった本が最寄りの第一図書館にはないため、蔵書してあるらしい第三図書館へ行くことになったことを少し後悔する。

 横を通り過ぎる軽自動車を見て、クーラーの効いた車内を想像する。こんなきつい思いをするんだったら、母に送ってもらうんだった。

 第三図書館に着いた頃には僕の背中に大きな楕円形のシミが出来上がっていた。

 蒸し暑くなった駐輪所から逃げるように図書館に入る。自動ドアが開くとダムの水が放流されたみたいにひんやりとした風が一気に身体を駆け抜ける。おもわず吐息を吐いてしまう。


 一通り一般図書を見て回ったけど、目当ての本は見当たらない。

 受付で聞いてみること、一応、データベースではここに蔵書してあるらしく、女性の職員が案内してくれる。

 先程も見た本棚へ着くと、立ち止まって確認するが、なかなか見つからないらしい。ちょっと待ってくださいね。と断りをいれて、受付の奥へ行ってしまった。

 本が届いたのはそれから十分ほど経ってからだった。

 想像以上に待たされていることに不安になってきた頃に職員の女性は戻ってきた。

 僕の顔をみるや、閉架図書の棚でもなかなか見つからなくて苦労したため時間がかかってしまったということを話した。

 閉架図書がどのように保管されているかわからない。それでもなかなか見つけられないというのはどんな場所にこの本はあったんだ。

 多少の違和感をもちつつ、利用者カードを渡す。

 手続きを終え、貸出期限の印字された紙と本を渡しながら、その職員は本に不思議そうな目を向けている。

 彼女がなぜそんなふうに本をみるのか、なぜなかなか見つからなかったのかという疑問は僕の中でそんなに気になることではない。とにかくこれから蒸し地獄のような世界に出て、果てしない道を帰らないと行けないことを考えていた。帰りは下り坂だから幾分か楽だろう。そう思うと少しは気が軽い。



   ***



 坂を上り終えると身体が火照って、コートの中に熱気が充満しているのがわかる。

 マフラーをとると首元から熱気が抜け、冷たく乾いた空気がコートの下を駆け回る。

 駐輪所にはそんなに多くの自転車はなく、ここ第三図書館がいかに辺鄙な場所にあるかがわかる。

 自動ドアをくぐると、中には暖かい空気が充満していた。受付で本の居場所を聞くと、案内してくれた。

 一般図書の棚に並んでるようだけど、なかなかみつからない。ちょっと待ってくださいねと言われて、閉架図書へ向かって行った。

 この閑散とした場所でこの人たちはどうやって時間を潰してるんだろうと考えながら、受付でパソコンを触ってる職員の女性をながめていた。

 観察も飽きておすすめ本の紹介棚を物色していると、先ほど案内してくれた職員が戻ってきた。

 待たせてしまったことを謝罪し、なかなか見つからなくて時間がかかってしまったと説明された。


 貸出手続きをしている職員の手が止まる。 え?と声を発すると、何度か画面を確認し、近くにいた別の職員に声をかける。

 「これ、貸出中になってるんですけど」

 尋ねられた職員はとくに驚くこともなく、パソコンに近づくと表情を変えた。

 「2024年?、これおかしいね」

 彼女たちは顔を見合わせると困ったように笑っていた。

 「どうしたんですか?」

 目の前で起こってるトラブルに自分も無関係な気がしなくて聞いてみた。

 「これ、2024年8月にかりられてることになってるんです」

 パソコンを操作していた女性が画面を動かして見せてくれる。画面を覗くと、本の題名の横に【貸出中】と表示してあり、その下に【2024/08/16】と貸出日がついていた。

 彼女たちが動揺するのも分かる。今は2011年12月16日だ。でも、このパソコンが未来と繋がっていて、未来人がこの本をかりてるとかそんなSFチックな事実があるわけがない。ただパソコンが誤作動を起こしてしまっただけだろう。

 彼女たちもそう判断したのか、貸出中を返却済に変更して、手続きをしてくれた。

 

 外に出ると、冷たい風がスカートから丸出しになった足を冷やす。

 マフラーを巻きなおすと自転車のカギを開け、またがる。坂を下るときは乾いた風が目をつぶしてくるだろう、そう思い、鼻をマフラーにうずめる。



   ***



 自宅につくと、駐車場には車がなかった。母が買い物にでもいったのだろう。

 玄関を開けると涼しさの残った空気が身体を包んだ。エアコンを消して出かけているからそんなに涼しくないのだが、外に比べればかなりましだ。

 リビングの机の上に置いてあるエアコンのリモコンを操作する。ピピッと音を立てて、横に広い口を開く。

 手洗いうがいを済ませ、急いで着替えるとアイスコーヒーを準備する。

 冷凍庫にあった棒アイスと透明なグラスに注いだアイスコーヒーをもって、ソファーに腰掛ける。

 アイスコーヒーを一口飲んでみる。舌中に広がる苦味が顔をしかめさせる。やっぱりブラックは苦手だ。でも読書と言えばブラックコーヒーだろ。そんな気がするからいつもブラックコーヒーを買ってきてもらう。

 アイスの袋をあけ、一口。冷たく甘いバニラが舌を支配する。苦い物を飲んだせいか、甘ったるくておいしい。

 バッグから本を取り出す。アイスが落ちないように見張りながら、本を広げる。

 白を基調とした表面は汚れが付かないようにコーティングされている。

 表紙には『紡がれる物語』と機械的な文字で大きく書かれている。

 表紙を開くと、目次があり、そこに収録されている短編の題名が並ぶ。この短編集には僕が好きな作家たちの短編小説がいくつか収録されている。そんなオールスター登場本を求めてはるばる第三図書館へ行ったんだ。


 アイスを食べ終え、一つ目の短編小説を開く。

 題名を眺めながら、ソファーに横になると、何かが落ちてきた。

 床に落ちた約十センチ四方の白い紙には【返却のお知らせ】と記載されていた。

 これは図書館で本をかりると小さな印刷機から出てくる紙で、利用者番号、貸出日時、貸出資料、貸出場所などが記載されている。

 本を渡す際に表紙裏に挟んだのだろう。

 紙を拾い上げ、良く見えてくると印字が異様に薄いことに気づいた。インクが切れかかっていたのかと思いなんとなく眺めていると、貸出日時がおかしい。

 薄くなってしまっていた貸出日時には【2011/12/16】と記載されている。てっきり僕がかりたときに印刷されたものだと思っていたが、これは以前かりた人の分らしい。挟んだのを忘れたまま返却したのだろう。

 僕の分の紙は本の真ん中あたりに挟まれていた。僕はよくこの紙をしおり代わりに使う。

 出てきた古い紙を捨てようと考えた。でもなんとなく捨てる気になれず、僕の分と誰かの分を一緒にしおりとして使うことにした。

 捨てる気になれなかったのは、この紙の持ち主が僕と同じようにこの本を求め、第三図書館へと行ったというのを考えると勝手な親近感が湧いてきたからだと思う。



  ***



 暖房のついてない部屋は寒かった。

 毛布をかかり、椅子の上でたいそう座りをする。

 私の手では持ちずらい分厚くずっしりとした本。日頃、文庫本ばかり読むのは普通の大きさだと目が疲れる前に手が疲れてしまうからだ。

 表紙を開くと白い紙が挟まっていた。

 手にとってみると白い部分は印字されている面の裏であることが分かった。

 紙は二枚あり、同じ形をしている。それぞれ【返却のお知らせ】と印字してある。

 二枚あることは前もあった。私みたいに【返却のお知らせ】をしおり代わりに使っている人が読み終えて、紙を処分し忘れたんだろう。

 一枚は私のだった。貸出日時に【2011/12/16】という表記があったからすぐ分かった。

 興味本位でもう一枚の紙を見てみる。

 私は思わず、え?と声を出してしまった。それには【2024/08/16】という印字があった。

 さっきのトラブルを思い出す。たしかさっきのパソコンの誤作動の時も2024年8月に貸し出されたことになっていたはず。私の紙と同様に利用者番号まで印字してある。

 あれはただの誤作動ではなくて、たしかにこの本をかりた人物がということだ。いや、ということになるのか。


 しばらく紙を眺めて、おかしくて笑ってしまった。そんなわけがあるわけがない。きっとこれは私より前にかりた人で、印字がおかしくなっただけなんだ。パソコンが誤作動を起こしているため印字もそのようになっただけなんだ。

 未来人との繋がりが生まれて、未来人と出会うストーリーを妄想していたのがばかばかしくなった。


 一つ目の短編を読み終えて、しおり代わりに紙を挟む。

 物語を読むと今ここに存在していることを忘れられる。

 なんにもないこの生活で自分はなぜ生きているのか、なにをすればいいのかという命題をひたすら足と腕を組んで考えて過ごさなく済む。


 この紙は取っておこう。

 ただの誤印字だっとしてもちょっと私をわくわくさせてくれたこの紙を捨てるのはもったいないと思い、私の紙と一緒に挟むことにした。







 結局、コーヒーを飲んだにもかかわらず、そのままソファーで寝てしまっていた。

 目覚めた頃にはリビングに明かりがついて、母が夕飯の準備をしていた。

 読まなかった本を自室の勉強机において、夕飯を済ませた。

 風呂からあがるとあらかじめエアコンを付けておいた自室で本を広げる。


 一つ目の短編を読み終えるのにそんなに時間はかからなかった。

 本を読むと将来の不安や孤独から逃げられる。

 いつも物語を読むと時間を忘れて没頭する。というより、読み続けたらいつかこの世界に行けるのではないかと思っているからかもしれない。


 時計は二十四時を指していた。今日はここまでにしよう。

 しおり代わりに【返却のお知らせ】の紙を挟もうと表紙の裏まで戻る。しかし、どちらの紙も見当たらない。どこか違うとこに挟んでしまったのかと親指でパラパラとページをめくってみる。

 すると、規則的にめくれていたページが一箇所だけゆっくりと開いた。

 そこには二枚の紙が挟まっている。一枚は黒のインクではっきりと印字されてる。もう一枚はもともと黒のインクで印字されていたものがかすれてしまって茶色になっている。もちろん僕にはここに挟んだ記憶はない。

 まるで、2011年の人物が読み進めて、そこに挟んでいるようだ。

 たしかに、誰かが落としたこの紙を拾い上げて、ここに挟んだでくれた可能性はある。だけど、落としていた紙を拾い上げ、ご丁寧にも挟み込んでくれるおせっかいな人はうちの家族では知らない。

 まさか紙がひとりでに動いて、僕が寝ている間によっこらしょっと表紙の裏から逃げ出し、このページへ侵入したとでもいうのか。小説だと現代ファンタジー的で少し面白い。でも現実では有り得ない。

 一応母に聞いてみたが、知らないらしかった。では、誰が動かしたのか。

 名探偵ばりに推理するが、加賀恭一郎でも湯川学でもない僕は考えれば考えるほど分からなくなった。


 この現象がファンタジー的な様相を呈していようがいまいが、紙を挟んだ場所を覚えておこう。



   ***



 二つ目の短編は私の好みではなかった。

 何度も頭を上下させながらようやく読み終えた。

 普段ならもう寝てしまっている時間だ。深夜二時に寝たら、何時に起きるだろう。明日は学校だし、早く寝ないと。

 しおりどこにおいたかな。たしか、本屋さんでもらったやつが机の上に散らかってあったはず、、、

 手探りで散らかった机の上を手探りで探すと、しおりっぽいものが手に触れる。



   ***



 スマホのアラームが鳴る。二度寝する前に起き上がらないと。今日は学校だ。

 カーテンを開けると、鬱陶しい光が目をくらませる。今日も死ぬほど暑いんだろうな。

 机の上に静かに佇む本を見て昨日の実験を思い出す。先にいろいろ済ませてから実験結果を確認しよう。

 部屋に戻ってくると、クローゼットの持ち手部分にかけてある夏服のカッターシャツとズボンを着る。家を出るにはまだ早い。

 椅子に腰掛け、本を開ける。昨日紙をはさんだ所はなにも変化がなかった。

 やはり、そんなおとぎ話的なことが起こるわけないと本を閉じようとした時、別のページが開く。

 なんだこれは。そこには見たことのないものが挟まっていた。

 それは、しおりのようだが、僕が持ってるしおりではないのは明らかだった。

 手に取ってみるとしおりの正体が分かってくる。

 それは、ピンク色の画用紙をしおりサイズに切り取り、キャラクターのシールが貼られていたり、子どもが書いたような絵がある。

 しおりの裏には『3年2組 かしわ原 めぐみ』と書かれている。

 僕の予感は確信に変わる。僕は誰かとこの本を共有している。

 そして、その人は柏原恵という名前らしい。どのような原理で他人のしおりが僕の本に挟まったのか分からない。本にしおりを挟むことによってテレポーテーションされるのか。他に条件を満たせば、挟まなくてもしおりは神隠しにあうのか。

 そこで僕はさらなる実験をしてみることにする。

 もう不要になったプリントをしおりサイズに切り取る。そこにメッセージを残し、柏原恵さんのしおりと同じ場所に挟んでおく。

 実験結果は早くて今日の夕方に判明するだろう。



   ***



 部屋を開けるとひんやりとした風が足を通り過ぎる。

 今朝は急いで出ていったため相手にされなかった本がさみし気に佇んでいる。

 通学バッグを放り投げ、椅子に座る。

 本は昨日しおりを挟んだところでページが開く。

 どうやら私は寝ぼけて小学生のころに作ったお手製のしおりを挟んでいたらしい。

 しおりを手に取ると、しおりの裏に同じサイズの紙がくっついている。寝ぼけてよくわからない紙まで挟んでいたのか。

 しかし、それは私が挟んだものではなかった。

 しおりと同じサイズのそれには文字が書かれている。

 『こんにちは 柏原恵さん』

 シャープペンシルで書かれた文字は私が知っている筆跡ではない。


 ひんやりとした空気の中、私の心はたかなり、身体の内側から温かくなっていた。

 やはり、未来人は本をかりていた。しかも、その人と私は同時にこの本を読んでいる。


 急いで紙とシャープペンシルを取り出す。

 このメッセージがしおりサイズに切り取られている理由はなんとなく分かる。

 きっとしおりの形じゃないと私に届かないと考えたからだろう。そしてこの人が私の名前を間違っているのはしおりの裏の名前を見たからだ。

 紙を切り取るとシャープペンシルを走らせる。

 『こんにちは 私の名前は柏原恵美です。あなたの名前は?』


 メッセージを挟むとしばらく椅子にもたれかかって動けなかった。

 天井を見上げ、深く息を吐くと半透明な雲が姿を現す。それはすぐに消えてなくなる。私は訳もなく笑ってしまう。



   ***



 僕の実験は大成功だった。

 学校から帰ると返信がきていた。この不思議な現象に確信をもっていたものの、いまだ多少疑っていた僕は歓喜した。


 それから、僕らは互いの存在を知ってから多くのことを教えあった。


 彼女の名前は柏原恵美。2011年12月16日を生きる高校2年生らしい。

 この不思議な本の仕組みも分かってきた。

 まず、互いのメッセージは本を閉じてしまわないと届かない。

 年月の違いはあっても時間には差異がないらしい。つまり、僕はちょうど彼女の12年と8ヶ月先の未来を生きていることになる。

 流れる時間は同じなため、メッセージが正常に届いていたとしてもすぐに返事がないこともある。

 また、しおりサイズでなくてもメッセージのやり取りはできた。ただ、紙のような薄くて、本に挟めるものだけだ。一度、僕の方からスマホを送ろうとしたが、送れなかった。

 そして、本から離れた紙は向こう側の世界でも姿を消す。つまり、僕らは本に挟められるものであれば、物質をテレポーテーションさせることができる。


 僕らは何度も本を閉じて、会話した。

 好きな作家、未来の話、家族構成。

 彼女と話すのが唯一の楽しみになった。

 学校と家を行き来する毎日。そこに将来の希望とかいう輝かしいものは無かった。

 彼女との会話はそんなメビウスの輪の中に現れた分岐点のようだった。



   ***



 彼の名前は桧山学。驚くべきことに私と同じ高校に通っている2年生らしい。同級生というより後輩になる。

 私たちは本を読み進めるよりも文通をすることに夢中になった。

 短編の批評をしたり、学校の愚痴を書いたりした。

 

 彼のことを知ることもできた。

 彼が時々漏らす後ろ向きな言葉は彼の本音なのだと思う。

 この世界は酷く残酷で希望なんかない。

 自分は一人でこの世界を生きていかないといけないという絶望が彼の言葉にはある。

 その気持ちは私にも痛いほどわかった。だからこそ、彼を無理に励ましたり、𠮟咤激励するつもりはない。彼が私と同じで本に没頭するのは私と同じ理由だから、ここでの私たちも物語の一部でさえいればいいと思った。


 未来人の彼と話すようになってずっと気になっていることがある。

 それは、未来の私はどうしてるのかということだ。私が生きる時間の彼はまだ5歳ほどで彼はその頃の自分についてあまり興味がないようだった。でも、私は12年後の私、つまり、28歳の私にすごく興味がある。



   ***



 学校から帰ってくると恵美さんからの返信がきていた。

 僕らは本の表紙裏をチャットルームとして使っている。やり取りは夕方から深夜にかけて夕食や風呂の時間で途切れながらも行われる。

 

 彼女が送ってきた付箋に住所が書かれている。

 『未来の私が気になる。良かったらこの住所に行ってみて。』

 住所は現在恵美さんが住んでいる住所だそうだ。

 もし未だにこの住所に恵美さんが住んでいるとしたら、彼女はどんな顔をしていて、何を語るのか気になる。過去の彼女は僕のことを知っている。つまり、現在の彼女も僕のことを覚えているに違いない。僕にとっては現在のことだが、彼女と思い出話をしてみたい。

 

 僕らが本をかりて今日で十一日が経つ。あと三日で返却しなければならない。もちろん、返却しなければこれからも話を続けられるかもしれないが、返却期限が過ぎるとこの本は不思議な力を失ってしまう気がしてならない。

 とにかく、僕は彼女の自宅に行ってみることにした。







 学くんが明日、私の自宅に訪れると返信してからまだ返信がない。

 時刻は深夜二時をまわっている。

 今日、学くんは私の自宅に訪れたはず。学校が終わって行くといっていた。


 結局、深夜三時を過ぎても返信は来なかった。

 そのまま本の上に突っ伏して寝ていた私は足が寒くて目が覚める。

 表紙を開いてみてもまだ返信なく、一昨夜に私が送った『ありがとう!お願いします。』と書かれたメモ用紙が相変わらずそこにあるだけだ。

 彼がなぜ連絡をしてこなくなったのか分からない。彼の身に何かあったのか。それとも私の身に何かあっていたのか。

 とりあえず、心配を伝えるメッセージを残しておく。



   ***



 昨夜は眠れなかった。

 僕が知り得た彼女のことをどのように彼女に伝えようかと悩んでいるうちに夜が明けてしまっていた。


 彼女の自宅は思いのほか近かった。僕の自宅から自転車で十五分ほどの住宅街の中にあった。

 すでに違う人が住んでいるのではないかと思っていたが、表札に柏原と書いてあったので安心した。

 インターホンを押すと女性の声で返事があった。

 ついに彼女と対面することになると思うと、Tシャツが背中にひっつているのなんかどうでもよかった。

 ガチッと鍵を開けると女性が出てきた。彼女は僕を見ると「あの、どうかしましたか?」と門扉前に立つ、高校生ぐらいの男の子を見て不思議そうな顔をする。

 

 「あ、あの、柏原恵美さんに用があって。」


 しかし、彼女の顔はむしろ怪訝な顔になっていく。

 「娘なら亡くなりましたけど。」


 考えもしなかった返答に立ち尽くしてしまう。蝉の音や熱気、むかいの家から聞こえるテレビの音、すべての音が消える。

 彼女がすでにこの世にいないことなど考えもしなかった。可能性としてはないこともないが、彼女は28歳になるはずだ。若くして亡くなっているなんて。


 お母さんはまだ僕に怪訝な目を向ける。

 「あの、娘とはどのようなご関係ですか?」

 この場合の言い訳は考えてきていた。

 

 「実は僕、第二高校の生徒でして。恵美さんの私物がまだ学校に残っていましたので、届けに来ました。」


 彼女は表情を変え、僕を歓迎してくれた。

 玄関は熱いだろうからと中でジュースを飲んでいくように勧められたので、甘えることにした。

 玄関先の上がり框に腰掛け、オレンジジュースをいただく。

 持ってきた菓子折りと恵美さんのお手製しおりを手渡す。

 彼女はわざわざ菓子折りを持ってきていたことに感激し、しおりを懐かしそうに眺める。

 「これ、小学三年生の時に作ったものでね。当時から本が大好きで、何をするにしても必ず本を持ち歩いていたのよ。」


 「あの、恵美さんに手を合わせてもいいですか?」

 彼女は快諾してくれた。

 上がり框を上がると明るく元気な声がリビングに続く戸を開く。三歳くらいの女の子が勢いよく走ってきて彼女に抱きつく。

 「恵美の娘です。ほら、お兄ちゃんに名前教えて。」

 女の子は一生懸命、三を手で作って、美来という名前を教えてくれた。


 仏壇には満面の笑みの彼女の写真があった。顔や目の形が母親ゆずりなのが分かる。

 恵美さんのお母さんはジュースのおかわりを用意して、仏間で恵美さんの話をしてくれた。

 恵美さんは美来ちゃんを産んだ時に亡くなってしまったらしい。

 もともと身体の強くない恵美さんは出産の負担に耐えられなかったそうだ。両親や夫は命を危険にさらしてまで出産をする必要がないと説得したが、どうしても恵美さんが赤ちゃんを産みたいといったため、本人の意志を尊重した。もちろん必ず出産すると死ぬというわけではなかった。誰もが助かることを望んだ。それでも神は無慈悲に恵美さんの命を奪っていったのだ。


 門扉を出ると、外は真っ赤に染まっていた。昼間に比べて暑さはこの時間になると多少ましになっている。恵美さんの私物をいろいろあさっている間にこんな時間になってしまっていた。

 外まで見送りにきていたお母さんと美来ちゃんにお礼を言って後にする。

 

 なんかどっと疲れたな。

 僕は真っ赤な景色の中を自転車をおして帰った。



   ***



 帰ってくると何よりも先に本を開いた。

 表紙裏には今朝にはなかった紙が挟まっている。学くんの返信だ。

 紙には『いってきました。』と書かれていた。

 私は彼の返答をせかすようにすぐに返信を挟んだ。

 彼の返信を待っている間、何度も本を開いたり閉じたりした。そんな作業を続けて二十分ほど経ったころ、新しい紙が挟まれていた。

 

 私に紙を手に取る余裕などなかった。

 呆然となる私の手に本がいままでになくずっしりとのしかかってくる。

 彼がこのことで返信が滞っていたのかと思うと申し訳ない。

 これから私はどうしたらいいのだろうか。

 本を閉じ、机に置く。本を見つめてこれまでの人生を振り返る。

 これまでの人生といってもたった17年しか生きてないんだ。しみじみとなることなんかない。でも、思い出されることはある。小学生のときにいじめられたこと、中学のバドミントンの大会、先日お母さんに大嫌いっていってしまったこと。

 そんな後悔を並べていると不思議と自分が哀れになってくる。涙まで出てきた。

 私の人生の終わりを知ってしまった。未来が輝きを失い、死へのカウントダウンを刻む爆弾のようだ。私は黒い渦に飲まれ、静かに闇が息の根を止めるのを待つしかない。

 もともとこの人生になんの期待も抱いていないはずなのに、こんなにももったいなく感じるなんて。

 死が私にとって最大の脅威ではない。

 紡がれ、光が差し掛かったていたのがダメだったんだ。

 それならいっそのこと本をかりなければよかった。


 呆然と本を眺めていると、表紙裏が何かに少し押し上げられているのに気がつく。

 表紙を開けるとその正体が分かった。それは洋封筒とメモ用紙だった。

 メモ用紙は学くんの字体でメッセージが書かれている。

 

 『娘さんとお母様からです。』


 娘?

 私には娘がいるのか。

 娘からの手紙?

 いろんな疑問が頭の中でこだまする。自問自答するより手紙を読んだ方が早い。

 手紙への期待と同時に読むことに恐怖を感じる。

 手先を震わせながら封筒を開くと、二枚の紙がでてきた。どちらも和紙で作られたたいそうなものだ。いかにもお母さんが好みそうなものだ。

 手紙はそれぞれお母さんと娘からのものだった。お母さんの丁寧な字で書きそろえられた方を読む。


『恵美へ

 はじめ、桧山くんが自宅に来た時は驚きました。桧山くんと話しているうちにあなたが亡くなる前にもし高校生くらいの男の子が訪ねてきたらこの手紙を渡してって言っていたのを思い出したわ。あなたの手紙はあなたの遺品箱になおしていたからすぐに彼に渡すことができました。

 お母さんはSFとか苦手だからよくわからないけど、たしかにあなたと桧山くんは繋がっていたみたいね。そういうわけで、あなたの手紙を読んだ桧山くんのお願いで私たちは手紙を書いています。

 貴方の娘はもう三歳になったわよ。といってもいまのあなたは高校生だろうからこんなこと伝えてもなにがなんだか分からないよね。

 あなたは天使をお父さんとお母さんに残してくれたわ。

 いまのあなたに伝えれることはあまりないけど、たしかに言えることはあるわ。

 私たちはあなたをこの世界の誰よりも愛しているわ。それを忘れないで、あなたはあなたの人生を精一杯生きなさい。

 お母さんより』


 もう一枚の紙には大きな字で『お母さん大好き』と書かれていた。きっと手伝てもらったのだろう。


 

   ***



 恵美さんは僕宛に手紙を残していた。

 恵美さんのお母さんが手紙の存在を思い出して、遺品箱を持ってきてくれた。

 手紙は桧山学くんへと書き出されていた。


 『桧山学くんへ

 お久しぶり!といってもさっきまで高校生の私と話しているのか。

 私はもう25歳になるわ。なんで手紙を書こうかと思ったのかというと、学くんに謝りたくて。

 君が私の自宅にくるという未来はどうしても変えられない。まだ17歳の高校生に大人でも耐えられないかもしれない辛い思いをさせてしまったことを深く反省しています。ごめんなさい。

 高校生の私を代わりに𠮟っといて!

 あとはね、君に感謝したいの。高校生の私はほんとなにも考えてなかったわ。なんとなく大人になって、なんとなく子供を産んで、なんとなくおばあちゃんになっていくと思ってた。崇高な目標なんてなかった。というより、世の中は残酷なものだと諦めていたのかも。でも、君とやり取りした二週間は私の人生の中で最も楽しい時間だった。ありがとう。おかげで世の中には楽しいこともいっぱいあるなって思った。だから、大学進学という目標を立てて、大学に進学して、今では素敵な旦那様に出会うことができた。しかもね、もうすぐ赤ちゃんも生まれるの!男の子だったら学って名づけようと思ったけど、女の子だったみたい。女の子の名前は美来にしようと思ってる。意味は、美しい未来が訪れますように。私の未来は学くんと出会ってから美しく色づいたと思う。だから、美来も精一杯生きて、美しい未来を夢見て欲しい。

 いろいろ長くなったけど、まあ伝えたいことはこんな感じかな!

 暇な時にうちにきて美来と遊んでやってよ。待ってるからね!

 木崎恵美』


 彼女の手紙はいつの間にか僕の手からすり落ちていた。

 僕の内側から溢れ出したものが畳の上に落ちる。

 僕らが出会ってまだ二週間と経っていないのに、僕は彼女のことを想っていた。恋心とかそういうのではなく、死者を弔うとかでもない。

 僕らの関係は他でもなく、紡がれたものだったのだと思う。


 僕を心配そうに見つめる二人に顔を向ける。

 「あの、お願いがあります。」


 僕はありのままを伝えた。思いのほか理解してくれるのが早かった。

 お母さんは美来ちゃんと一緒に手紙を書いてくれた。

 それを待っている間、恵美さんの遺影を眺めていた。

 僕と話している彼女もこんな素敵な笑顔をするのだろうか。僕は彼女を笑顔を奪う行為をしてしまっているのではないか。

 多分僕の行為は多くの非難を受けるものだと思う。それでも僕は彼女にお母さんと美来ちゃんのメッセージを届けたい。







4

 昨日書いた手紙が本からはみ出している。

 危ない危ない届かない。

 しっかり挟みなおすと、部屋を出る。階段を降りていると慌ただしい朝の音がしてくる。いつも通りお母さんは台所で忙しくしている。

 お母さんにおはようと言う。お母さんは返事をするとすぐに違う方向を向いてしまった。


 「ねえ、お母さん」

 忙しくしていた手を止め、こちらを振り返る。

 「この前はごめんね」

 お母さんは何かよくわかってないようだけどそれでもいい。心にあったモヤモヤが晴れたからいいんだ。



   ***




 学校から帰ると本になにか挟まっていた。

 恵美さんからの手紙はこれまでの感謝が書かれていた。

 

 坂を上り終えると滴った汗がコンクリートを黒くする。

 振り返るとそこには上ってきた坂が永遠と伸びている。

 今日は坂が苦に感じなかった。

 僕は一人で坂を上ったんじゃない。

 そう思うといつでもまた上れそうだ。


 かける抜ける風がいつにもまして肌寒い気がした。

 






 

 


 

 


 




 



 












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