夫から『犬』扱いされている妻ですが、なぜか幸せ
「結婚後、私は君を『犬』扱いするつもりだ」
それは衝撃的な宣言だった。
夫になる人からこんなことを言われたら、普通はどんなふうに反応するのだろう?
怒る? それとも恐怖で顔を引きつらせる?
ただ、どういう訳か、レイチェルは――……。
* * *
幼い弟にまともな教育を受けさせたい――レイチェルの願いはただそれだけである。
子爵令嬢のレイチェルは二十歳。弟のエリックは八歳。
無能な貴族は生き残れない世の中になってきているから、家督を継ぐ弟には、正しい学びが必要だった。
弟の将来を考えれば、ここで出し惜しみしてはいられない。子供の頃から優秀な家庭教師をつけて、エリックの能力を最大限に伸ばしてやらなければ。
ところが困ったことに、今現在、レイチェルの実家は経済的に困窮している。
というのも一年前、父が珍しい病気にかかったためだ。薬代が非常に高価で、蓄えはどんどんなくなっていった。治療費はなんとか捻出できたものの、家計は火の車。
優秀な家庭教師は報酬も高くなる。けれどあいにくうちにはそれを払う余裕がない。
どうしたものかと頭を抱えていた時に、ある縁談が舞い込んだ。
お相手はジュード・ライアン伯爵――二十五歳の青年貴族で、彼は良い意味でも悪い意味でも目立つ人だった。
外見は非常に美しい。けれど大変気難しい性格をしているらしく、『女性嫌い』『サディスト』『冷血人間』『人格破綻者』などいくつも悪い噂がある。
けれどライアン伯爵家はとても裕福だ。
だからレイチェルはこの縁談を受けることにした。
返答の日――レイチェルは両親を伴わず、ひとりで彼の屋敷を訪ねた。
気を引き締めて対面したものの、現実は想定以上だった。応接間に通された彼女はライアン伯爵からとんでもないことを言われてしまう。
「君を愛するつもりはない」
そしてさらには、
「結婚後、私は君を『犬』扱いするつもりだ」
……え、犬……?
あまりのことに、レイチェルは呆気に取られた。
ふたり、黙したまま静かに見つめ合う。まるで剣の達人同士が、互いの力量を見極め合っているかのような、不思議な空気が流れた。
レイチェルは彼の薄青の瞳をじっと見つめ返した。視線をそらさず、真っ直ぐに。
彼はとても美しい面差しをしている。神から特別に寵愛されているかのような、綺麗なプラチナブロンドの髪。細部まで、すべてが人間離れしているような美貌だ。
けれど表情はとても冷たい。
まるで千年とけぬ氷のよう。
しばらくしてからレイチェルは口を開いた。
「一点確認してもよろしいですか?」
そう前置きしてから、レイチェルは落ち着いた声で『あること』を確認した。
そしてそれに満足いく答えが得られたので、
「――このお話、お受けいたします」
と答え、深々と頭を下げた。
* * *
実はレイチェル、ライアン伯爵とはこれが初対面ではない。以前何度か話をしたことがあった。
それは先の「私は君を『犬』扱いするつもりだ」宣言をされる、ずっと前のことである。
レイチェルはお金を稼ぐため、王宮の図書館で司書の仕事をしているのだが、そこへ利用客としてライアン伯爵が時々来ていた。彼は王子殿下の側近であり、業務に必要な資料を図書館で調達する必要があったからだ。
とはいえ彼は若い女性に付き纏われることを嫌うので、いつもは男性司書に話しかけて用を済ませていた。そのためレイチェルが関わりを持つことはなかったのだが……。
その日は近場に男性司書がいなかったのだろうか。
「作業中申し訳ない――このリストの本を借りたいのだが」
背後から声をかけられたレイチェルは、本を整理していた手を止め、振り返って彼の瞳を見上げた。
え……私?
びっくりした。『女性嫌い』と噂のライアン伯爵から、話しかけられるなんて。
しかも彼の言動は驚くほど親切である。
だって彼はまず「作業中申し訳ない」と、ひとこと添えてくれたから。「すみません」と前置きするだけでも十分スマートなのに、彼の「作業中申し訳ない」という声かけはさらに丁寧だ。
レイチェルはライアン伯爵の気遣いを好ましく思い、瞳を和らげた。
「すぐにご用意いたします」
レイチェルはライアン伯爵から本のタイトルが列記されたメモを受け取り、素早く目を通した。回収の順序を頭の中で組み立ててから、彼に「少々お待ちください」と告げ、すぐに仕事にかかる。
書棚から手早くリストの本を集め終わると、ライアン伯爵の元に戻り、彼に手渡した。
「貸し出しの書類はこちらで作っておきますので、本はそのままお持ちいただいて大丈夫ですよ」
王子殿下の側近である彼はとても忙しいはず――そう思い手続きの簡略化を申し出ると、ライアン伯爵は驚いたように一瞬黙ってから、
「……ありがとう」
と素直に礼を言ってきた。
あら、素敵。こういう時にちゃんとお礼の言葉が出てくる人って、なんだか好きだわ。
目下の人間になぜかすごく厳しい人も結構いるから、こういう血の通った反応をされると嬉しい。
レイチェルがにこりと微笑んでみせると、彼の眉根が分かりやすく寄ったので、「あ」と反省。
ちょっと失敗したかも……馴れ馴れしくしすぎたかしら?
けれどまた別の日、男性司書がほかにいる時もわざわざレイチェルに本を頼むことがあったので、あの時は別に怒っていたわけではないらしいと分かった。
それからほどなくして、彼との縁談が持ち上がり。
レイチェルは不安になった。
だって――『冷血人間』『人格破綻者』なんて噂を聞くけれど、ライアン伯爵が優しい人に思えて仕方なかったからだ。
そうなると、よ?
彼は『お金持ち』『伯爵』『美形』『善良』という非の打ち所がない紳士ということになる。それって貧乏貴族の娘である自分と釣り合わないと思う。素敵な彼なら、きっとどんな女性とだって結婚できるのに……。
悩んだレイチェルは、司書仲間のシェリーに相談してみることに。シェリーは浮世離れしたところがあるが、人を見る目は確かだ。
経緯をざっと説明すると、
「難しい問題ね……」
シェリーは書棚のあいだで本を整理しながら眉根を寄せてしまった。
レイチェルはドキドキしながら彼女の答えを待つ。
たっぷり時間がたってから、シェリーが難しい顔で口を開いた。
「私は出回っている噂のうち、ライアン伯爵が『女性嫌い』という部分は正しい気がしているの」
「そ、そう……」
「でも別にいいじゃない? レイチェルってさ、実はドMでしょ?」
「え?」
「ドM――つまりあなたって、いじめられたい願望を持っている、ちょっと変わった女性だものね」
んんん? 私、そんな性癖、ないわ!
レイチェルは呆気に取られて目を丸くした。茫然とシェリーを見つめる。
シェリーは勝手な発言をしたあと、しばらくのあいだ黙って本を並べる作業を続けていたのだが、唐突にふふ……と笑い出した。
「なーんてね、冗談よ、冗談」
「ちょっと、びっくりしたわ! 真顔で冗談を言わないでよ」
「あなたってからかうと可愛いんだもの」
「もう」
「まぁでもさぁ――ライアン伯爵はきっと大丈夫よ」
「そう?」
「うん、大丈夫な気がする」
そう言ってもらえて、レイチェルはホッとすることができた。
シェリーの言葉を丸々信じたというよりも、自分の見解に近い意見を聞けたからだ。
* * *
八歳のエリックは大好きな姉が嫁に行くとなり、寂しくて仕方なかった。
姉のレイチェルはいつも朗らかで、おっとりしていて、善良な女性だ。そしてエリックのことを深く深く愛してくれている。
……姉が家を出ていくのはものすごく悲しいけれど、幸せになることを祝福しないと。
夜、エリックは枕を涙で濡らし、姉から言われた言葉を頭の中で繰り返した。
「エリック――私のお願いを聞いてくれる? あなたはこれから一生懸命勉強して、大人になったら、賢い貴族になってほしい。あなたがたくさん学んでくれることが、私の一番の望みなの。どうかお願い――優しくて、賢い人になって――私の大好きなエリック」
エリックは拳で涙を拭い、『必ず』と心に誓った。
大好きな姉さんの望みだ。僕はたくさんたくさん勉強して、優しくて、賢い貴族になるんだ!
* * *
エリックが十二歳になった時、姉夫妻とお喋りする機会があった。
親戚の法事で姉が帰って来た際に、夫であるライアン伯爵もついて来たのだ。
ちなみに姉にはふたり子供がいるのだが、冬の長旅はきついということで、今回は自邸に置いてきて、乳母に面倒を見てもらっているとのことである。
夫妻は結婚してから四年になる。もう四年――早いものだ。
姉は結婚後も何度かうちに来てくれたのだけれど、その際は大人たちが周囲を囲み、あれこれと姉夫妻に話しかけるので、エリックがじっくりと話をする機会はなかった。
それが今回、たまたまじっくり話をする機会に恵まれ。
エリックは間近でライアン伯爵を見て、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
うわ、ものすごい美形……!
小さかった時はよく分からなかったけれど、この人、こうして見てみると、顔が整いすぎている。
ただそのせいか、少し冷たい雰囲気があるように感じられた。
うーん……姉は本当に大切にしてもらっているのだろうか……?
エリックは妙な焦りを覚え、少し前のめりになってライアン伯爵に尋ねた。
「姉とは普段、どんなふうに過ごしているのですか?」
「そうだな……天気の良い日は、彼女を散歩に連れて行く」
ん?
答えを聞いたエリックは、何かが引っかかった。けれど具体的に何が気になったのか、自分でもよく分からない。
「ええと、姉とは一緒に食事をするのでしょうか?」
もう少し突っ込んでみよう。
貴族の夫婦は家庭内別居をしているケースも多いと聞く。ふたりが同じ食卓を囲んでいるのか確認しておきたい。
それに対し、ライアン伯爵が答えた。
「そうだな、彼女にはエサを――」
は、エサ? こいつ、何を言って――
エリックがぎょっとして目を剥くと、ライアン伯爵の隣に腰かけていた姉が、「んん!」と鋭く咳払いをした。
するとライアン伯爵がハッとした様子で、口元を押さえて俯いてしまう。
「え、姉さん? 今この人、『エサ』って……」
「いえ、エリック。彼は『今朝』って言ったのよ」
「でも、絶対『エサ』って」
「言っていないわ、エリック」
姉がにっこり笑い、話を強引に打ち切る。
これにエリックはショックを受けた。
* * *
数日後、両親がボソボソと内緒話をしているのを、エリックは聞いてしまう。
その時エリックは書斎で本を探していたのだが、両親が小声で喋りながら部屋に入って来て、そのまま話を始めてしまったのだ。
「私の病気のせいで、レイチェルには大変な苦労をかけてしまった」
バツが悪そうな父の声。数年前に珍しい病気にかかった父であるが、運良く薬も効き、今ではすっかり元気になっている。
母が答えた。
「縁談が持ち上がった時、ライアン伯爵には悪い噂がたくさんありましたものね。『冷血漢』とか『女性嫌い』とか。でもレイチェルが『大丈夫だから』と押し切って」
「エリックに良い教育を受けさせたい――あの子はずっとそう言っていたものな。結婚を条件に、ライアン伯爵から多額の援助をしていただいた」
「でもなんだかんだいって、ふたりは幸せそうですし、レイチェルは人を見る目があったのよ。信じて任せてみて、よかったじゃないですか」
「そうだな、確かに」
両親はしばらくお喋りしたあと、書斎の奥にいるエリックに気づかず(棚の陰になっていたせいだ)、部屋から出て行った。
エリックは足から力が抜け、床にガクッと膝をついた。
……なんてことだ! 姉さんは僕のために、鬼畜な男のところに嫁に行ったんだ!
あの『エサ』という言葉は聞き間違いじゃなかった! そういえばあの男――姉を『散歩に連れて行く』と言っていた! 普通、夫妻が円満ならば『一緒に散歩に行く』と表現するだろう。
まるで犬扱い――大好きな姉さんを、犬扱い!
エリックは涙を零し、怒りからブルブル震え始めた。
ああ、どうしたらいいんだ!
自室に戻ったエリックはその晩、一睡もせずに考え続けた。
僕が今、感情のままに動いたとして、それを姉が喜ぶだろうか? いや――姉は言ったじゃないか、「あなたがたくさん学んでくれることが、私の一番の望みなの」と。僕に良い家庭教師をつけるため、姉はライアン伯爵と結婚した――それを忘れるべきじゃない。
今は耐えるべき時だ。まずは姉の願いを優先する。
僕はこれから死に物狂いで勉強して、賢くなって、お金を稼いで、稼いで、稼いで、そして姉を迎えに行くぞ!
離縁の慰謝料でもなんでも、全額あの鬼畜に叩きつけて、大切な姉を取り戻す!
待っていろ、ライアン伯爵め!
エリックは復讐の鬼と化した。
* * *
――そこからまた時が流れ、五年後。
エリック十七歳。姉のレイチェル二十九歳、ライアン伯爵三十四歳。
頭脳ひとつで大金を手に入れたエリックは、小切手を懐に入れ、ライアン伯爵邸を訪ねた。
出迎えてくれた執事に尋ねると、夫妻は今食堂にいるとのことである。
「客間でお待ちください」
そう言われても、エリックは無視して食堂に向かった。以前訪ねて来たことがあるので、場所は分かっている。
執事が慌ててついて来ながら、
「あの、エリック様、お待ちください」
と止めるのだが、知ったことか。エリックは聞き入れなかった。
これだけ必死で止めるということは、ライアン伯爵は食堂で鬼畜な行いをしているに違いない。あいつの化けの皮を剥いでやる!
――バン!
勢い良く食堂の扉を開ける。
すると。
家長席にライアン伯爵が腰かけていて、姉のレイチェルを大切に抱っこしているのが見えた。
ライアン伯爵が、
「ほら、あーん」
フォークを姉の口元に近づけ、デザートを食べさせようとしている。
「もう、自分で食べられます」
「だめだ――君は僕の可愛い『犬』なんだから、フォークを持ってはいけない。『犬』はフォークを持たないだろう?」
ふたりはイチャイチャしていて互いのことしか見ていなかったので、扉が乱暴に開かれたことに気づいていないようだ。
少したってから『あれ?』と違和感を覚えたらしく……。
ふたりがゆっくりと出入口に顔を向けた。
「あ」
小さな呟きが夫妻の口から漏れる。
姉の頬が真っ赤に染まった。
ライアン伯爵はというと――……手に持っていたフォークをそっと皿の上に置き、耳まで赤くしながら、顔を手のひらで覆ってしまった。
* * *
――九年前。
ライアン伯爵は伯母から強烈な圧をかけられ、半年以内に結婚しなければならない状況に追い込まれていた。
しかしこれっぽっちも気が進まない。
なぜか自分を取り巻く女性たちは、『積極的すぎる』か、『怯えきって近寄って来ない』か、このどちらかしか存在しないからだ。つまり中間がいない。
積極的すぎる女性は、手段を選ばない。空気を読まず、グイグイ押しの一手。しなを作り、甘え、周囲を威嚇し、しつこいくらいアピールしてくる。正直、ライアン伯爵は、この手の女性がものすごく苦手だった。
そして常識的な女性は、逆に不自然なほどに距離を取り、一切近寄って来ない。――『恐れ多い』とか、『冷たそうだから傷つけられるかも』とか、そんなふうに考えているらしい。そのことは友人から聞いた。
ああもう……面倒くさい。
ライアン伯爵は色々と嫌になり、その友人に、
「『冷たい』『人格破綻者』『女嫌い』『鬼畜』みたいな悪い噂を、もっと広めておいてくれないか?」
と頼んだ。怯えて近づいて来ない女性を引き寄せるのはもう無理そうだから、一律で全女子と距離を置こうと考えたのだ。
おかげで私生活はだいぶ楽になったものの、いざ結婚する必要が出て、困ってしまった。見渡してみても相手が誰もいない。
どうしたものかと困っていた時、図書館で運命の人と出会う。
たぶん初対面ですでに、レイチェルのことを好きになっていたと思う。
テキパキと仕事をするのに、親切で、瞳がとても優しくて。彼女の穏やかな喋り方に心がときめいた。
自然とレイチェルのことを目で追うようになった。図書館に行くたび、彼女を探してしまう。レイチェルは老若男女、誰に対しても接し方が平等だった。そんなところにもさらに惹かれた。
あんな女性と結婚できたら……だけど魅力的な彼女はモテるはずだし、想いを伝えても、断られてしまうだろうか。
不安はあったけれど、恋心が勝った。思い切って先方に縁談を持ちかけて、ドキドキしながら返事を待っていたある日のこと。
図書館に行き、レイチェルと話をしてみようと思った。縁談について気持ちを訊いてみたい。
彼女がいつもいるエリアに向かうと、タイミング悪く、司書仲間の女性とお喋りをしていた。
書棚を挟んでいたので、向こうはこちらに気づいていない。
司書仲間の女性が言う。
「でも別にいいじゃない? レイチェルってさ、実はドMでしょ? ドM――つまりあなたって、いじめられたい願望を持っている、ちょっと変わった女性だものね」
ガーン――……頭部を殴られたような衝撃。
そうなの? どうしよう? レイチェルがドMであったとしても、愛し抜く自信はある。
けれど自分はどうしても彼女をいじめることができない――だってあんなに可愛い人に意地悪をするなんて無理だ!
ショックでフラつきながら帰路についた。
ああ、くそ、覚悟を決めろ……ライアン伯爵は自分に言い聞かせる必要があった。
レイチェルを手に入れるためには、自分はドSキャラを演じなければならない。
だってどうしてもレイチェルと結婚したいから!
もう涙ぐましい努力で、自分なりに顔合わせの日は頑張ったんだ。
「君を愛するつもりはない」
ねぇ、結婚相手にこんなことを言っちゃう男、最低だろう? クズすぎて泣けてくる。
そして駄目押しの一手だ! 私は君のため、完璧な鬼畜になってみせる!
「結婚後、私は君を『犬』扱いするつもりだ」
どうだ!
そうしたら、なんと――……。
* * *
レイチェルは結婚を決めた時のことを思い出していた。
ライアン伯爵とは図書館で何度か会話をしたことがあったのだが、そのほかにも、王宮で遠目に彼を見かけたことがあった。
レイチェルが回廊を歩いていた時のこと。ふと顔を中庭のほうに向けると、遠くの木陰でライアン伯爵が犬を撫でているのに気づいた。誰の飼い犬なのか、詳細は知らない。ただレイチェルは通りがかりに、犬と戯れるライアン伯爵の姿を目撃しただけ。
冷血漢という悪い噂がある彼だが、犬を撫でる手つきは優しく、顔つきも柔和だった。
レイチェルはそれを眺め、つい笑みを浮かべていた。
ああ……やっぱり彼、悪い人には見えないわ。
もしかするとこの時すでに、ライアン伯爵に恋をしていたのかも。
だから顔合わせの日、彼から、
「結婚後、私は君を『犬』扱いするつもりだ」
と言われた時、レイチェルは念のため確認した。
「――あなたは犬に優しいですよね?」
すると彼が、
「そうだな。私は犬が大好きだ」
と答えたので、レイチェルはこの縁談を受けることにしたのである。
……まぁ、ちょっと変わった人だな、とは思ったのだけれど。
でも思い切って飛び込んでみて、よかったわ。
だって彼は本当に、『犬』に親切だったんだもの。
* * *
でもたまに愛が重すぎるの。
私の髪をブラッシングしたがるし、イチゴなどのデザートは「ほらおやつだよ」と自らの手で与えたがるし、抱っこしたがるし、撫でたがるし、暇さえあれば「可愛い」と言いたがる。「歯も磨いてあげたい」と言われたので、さすがにそれは強めに断った。
そして彼は私と一緒に散歩に行くのが好きみたい。
ほかの女性に対してはものすごくクールな彼が、私を見つめる時だけは瞳をキラキラさせて、
「散歩に行こう!」
って言うんだもの。
キュンとしちゃうわ。
レイチェルは散歩をねだられるたび、『なんだか彼のほうがワンコみたい』といつも思うのである。
* * *
――そんな訳で、夫から『犬』扱いされている妻ですが、なぜか幸せです。
* * *
(終)
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