妹は私の婚約者が好きなのです


 ケイティ・シェリー公爵令嬢に予知能力はない――けれど彼女は五分後の未来を予測することができた。


 今彼女がいるのは、自邸で開かれている華やかなパーティ会場。


 対面にいる美しい婚約者アンドリュー・ウォリス侯爵令息から、もうすぐこう言われるだろう。


「ケイティ、君との婚約を破棄する。私は君の妹であるルーシーを心から愛している!」


 彼との仲はずっと冷え切っていたが、それでもいざ別れを告げられると思えば、心がバラバラに砕けてしまいそうだった。


 感情の整理はまったくできていない……だってケイティはアンドリューが好きだから。ずっと好きだった。


 けれどケイティがどんなにアンドリューを好きだとしても、彼のほうも同じように愛を返してくれるとは限らない。




   * * *




 婚約が調ったばかりの頃は、嬉しい出来事もあった。


 当家を訪ねて来たアンドリューがケイティの好みに合ったお菓子をプレゼントしてくれて、ものすごく感激した記憶がある。


「――これをあなたに」


 彼からチョコレートの箱を手渡され、


「オランジェット……」


 ケイティは思わず呟きを漏らしていた。


 彼がくれたのはオレンジピールをチョコレートでコーティングしたもので、異国から入って来たばかりのお菓子であるため、国内ではほとんど流通していない高級品だった。


 オレンジの皮の苦みと果肉の甘味と酸味、チョコレートの芳醇な香り――それらが合わさってうっとりするほど美味しく、ケイティはこれが大好きだった。


 わざわざこちらの好みを調べてくださったのかしら……? けれどケイティは「オランジェットが好き」ということを誰かに言ったことがない。


 では偶然? だけどどちらにせよ嬉しい……!


 ケイティは胸がいっぱいになり、


「ありがとうございます」


 そう伝えるのがやっとだった。心からお礼を伝えたつもりだったが、


「………………」


 それに対する彼のリアクションは微妙で……まるで水たまりに足を突っ込んでしまった人の反応、という感じだった。


 ネガティブな反応だったのは確かだ。


 あげるんじゃなかった――……そんな後悔が、彼の端正な顔に浮かんだ気がした。


 なんともいえない気まずい空気の中、彼と別れ。


 当家から去るアンドリューをもう一度見たくなって、屋敷の二階から窓の外を眺めると、彼は馬車乗り場で妹のルーシーと話し込んでいた。


 先ほどまでルーシーは屋敷の中にいたはずなのに、なぜ外に……? ケイティの胸が騒ぐ。


 暗い室内にいるケイティとは対照的に、妹の弾けるような笑顔がまぶしい。まるで花の妖精のようだった。向かい合う彼も笑みを浮かべている。


 ――そして次にアンドリューが当家を訪れた際、彼がくれたのはマシュマロだった。


 ああ、よりによってマシュマロ……これは妹の好物である。姉妹であっても食べものの好みは違い、ケイティはマシュマロが苦手だった。


「――ご家族でどうぞ」


 そう彼が言うのを聞き、なるほど……とため息が漏れる。


 先日は「あなたに」と言ってくれたのに、今度は「ご家族で」――つまりこれは妹のルーシー宛なのだ。目の前にいる婚約者宛ではなく。


 以降、彼のプレゼントは毎回マシュマロになった。


 ケイティはこれをいつもルーシーにそのまま渡してしまうので、口にしたことはない。ルーシーはほくほく顔で受け取ったあと、「お姉様はマシュマロが嫌いですものね」と気の毒げにこちらを見るのが恒例行事になった。


 毎回妹宛のお菓子を渡されても、アンドリューに対してどう反応したらよいのだろう? 困り果てたケイティはいつも心のこもらないお礼を告げて、曖昧にすませていた。


 そしてアンドリューはケイティにあまり触れようとしない。気持ちが通わぬ名ばかりの婚約者だから、触れる気にもならないのだろう。


 ただ……口頭ではケイティのことを褒めてくれるものだから、そのたびに心が揺れ動いた。「ケイティ、あなたは優しい方だ」とか「あなたと結婚できるなんて光栄」とか。


 素直なケイティはうっかりそれを信じかけ、『妹とのことは誤解で、彼は私のことを大切にしてくださるだろう』と考えていた時期もあった。


 けれど悲しいことが色々重なって、それはただの幻想だったと気づく。


 ケイティは彼との別れを意識し始めた――『もうだめだ』とはっきり悟ったのは、半月前。


 応接間の扉が開いていたため、廊下を通りかかったケイティは室内の会話を聞いてしまったのだ。


 父がアンドリューに語りかけている。


「アンドリューくんはずいぶん無理をしているのだろう。使用人のチャールズに『ケイティと婚約していても、つらいばかりだ』と愚痴っているのを聞いたよ」


 ああ、そうだったのか……これを聞いたケイティは深く傷ついた。


 傷ついて、その夜はひとりベッドで大泣きして、悟った――私はいずれ婚約破棄される。


 ならばそれを想定して行動しよう……振り回されるのはもうたくさん。


 この半月でやれることはすべてやった。


 私は前進している――そう確信できるから、まだ救いがある。




   * * *




 そして今日――運命の日。


 ふたりの最後がこのように華やかなパーティ会場ならば、それはそれでいいのかもしれない。パッと散ってしまえば、かえって未練も残らないわ……ケイティはそんなことを思った。


 ふたり、対峙して見つめ合う。


 覚悟は決めていたから、綺麗に幕を引きたかったのだけれど……どうやらここで邪魔が入りそうな気配。


 彼の背後――十メートルくらい離れた場所に、妹のルーシーがひょっこり姿を現したのだ。相変わらず綿菓子みたいにフワフワポワポワしていて、可愛らしい姿だけれど、視線はしっかりこちらに据えられている。


 あの子、この場に乱入する気だわ。勘弁して……ケイティは頭痛がしてきた。


 シェリー公爵家はふたり姉妹で、姉のケイティが二十歳、可憐な妹ルーシーが十八歳。


 そして目の前のアンドリューは二十二歳なので、ケイティのふたつ上である。彼はケイティと結婚して婿入りし、将来はシェリー公爵の地位を継ぐ立場だ。


 出会ったその日から、妹のルーシーはアンドリューに憧れていた。そしておそらく、アンドリューもまた……。


 この歪んだ関係を父母はどう考えているのか?


 両親からすれば、優秀なアンドリューにどうしても婿入りしてほしいので、彼の相手が姉から妹に代わったとしても問題はない。


 つまり全員の幸せを邪魔しているのがケイティであり、『私がいなくなれば、皆ハッピーなのよね』……自分でもそう思う。


 ケイティは彼に婚約破棄されたら、家出をするつもりだ。


 ――というのもアンドリューとの婚約がだめになったら、恋人が二十三人いるイカレた子爵のところに嫁がされる予定だからだ。


 家出の準備は万端で、下町に住居も見つけてある。


 物件探しは初め、ただの現実逃避の手段だった。もしも家出をして、別人として新しい生活を始めるとしたら……そんな妄想を巡らせながら空き家を見学していると、一時のなぐさめになったから。


 けれどつらいことが色々重なり、とうとう物件を契約した。そしてそのことにより、今の生活をすべて捨てる覚悟が決まった。


 家出したあと、今夜はひとりでやけ酒ね……それで彼を忘れるの。


 さようなら、アンドリュー……楽しい夢を見せてくれて、ありがとう。


 妹が思い詰めた顔つきで、こちらに向かって来る。


 お願いやめて……ケイティの瞳が揺れる。


 大好きなアンドリュー……せめて「さよなら」を口にする時だけは、その場に妹を同席させないで。ルーシーと仲良く寄り添いながら婚約破棄を告げるつもりなら、いくらなんでもひどすぎるわ。


 ルーシーがまだこちらに来ていない段階で、彼が口を開いた。


「ケイティ――これから私の秘密を話そうと思う。けれどどうか嫌わないでほしい」


 ん……? これを聞き、ケイティは思わず眉根を寄せた。


 どうか嫌わないで? これから捨てる相手に嫌われたくないの? それってちょっと、勝手すぎないかしら……。


 混乱しながらも、やはり別のことが気になる。ケイティはつい話の腰を折っていた。


「あの、待ってアンドリュー様、妹のルーシーがそこに――」


 もうすぐそこまで来ている。ルーシーは後ろからアンドリューの腕を掴もうとしているようだ。


 だからケイティは、「話の続きはルーシー抜きでお願いしたいわ、場所を移しましょう」と伝えようとした。


 けれどアンドリューはケイティの制止を無視し、強引に話を進めようとする。


「ケイティ、聞いてほしい」


「いえあの」


「ケイティ――愛している!」


「待ってルーシーが……え?」


 ケイティは初め意味が分からなかった。まじまじと対面のアンドリューを見つめる。


 アンドリューの背後まで迫っていたルーシーが、ピキリと固まったのが視界の端に映った。


 けれどアンドリュー本人は背後のことなどまるで気にしていな様子――真っ直ぐこちらを見つめ、魂の叫びをぶつけてくる。


「ああ、ケイティ――どうにかなりそうなほど君を愛している! 一刻も早く結婚したい! 愛しすぎてつらい! 君のことが好きすぎるのに、一緒にいる時間が足りなすぎてつらい! 気を紛らわせるために、せめて君の肖像画をくれないか――部屋に飾るから! 寝室、リビング、執務室、玄関ホール――最低でも四枚は欲しい!」


「は……え、何これ幻聴?」


 彼がさっと距離を詰めて来て、こちらの手を取る。ケイティの指を温めるように包みこみ、熱のこもった美しい瞳でじっと見つめてきた。


「君がくれた手紙はすべて取ってある……ちょっとした走り書きのメモもすべて」


「え?」


 カラカラカラ……そこへカートを押して登場したのはチャールズだ。


 彼は四十すぎの当家使用人である。今夜のパーティは当家で開かれているので、当然チャールズもパーティ会場にいたのだ。


 彼が何か物言いたげにこちらをチラリと流し見てから、カートの上に手を伸ばした。


 カートの上には特大のクロッシュが載っていた。料理を覆うための銀製の蓋(ふた)だが、ものすごく大きい。子犬一匹が隠れられそうなサイズ。


 チャールズがクロッシュをサッと取り払うと、下から手紙の山が現れた。とんでもない量だ――封筒に入ったちゃんとしたものが半分、あとの半分はメモ用紙。


 メモの一枚が目に入り、ギョッとする。


『十五時教会、十七時従妹来訪予定』


 え……あれは私が予定を走り書きしたもの? うろ覚えだけれど、確か二週間くらい前のものかしら? なぜそれがここにあるの? 自邸の馬車の中に置きっぱなしにした記憶があるのだけれど……。


 婚約者のアンドリューに視線を転じ、戸惑いながら尋ねる。


「あの、アンドリュー様……メモ類の大半は、あなたにあげたものではないような気がしますが……」


 私物というか、ゴミというか……。


「君の家の馬車に乗せてもらった時、使用済のメモがホルダーにまとめてあったから、持ち帰った」


「………………」


「君のことが好きすぎて、もう字も好きだ」


「………………」


 ケイティの感情の針が激しく振れる。


 そこまで強い気持ちを向けてくれていたなんて――嬉しい――でもちょっと引く――困惑――キュン――切ない――……。


 様々な感情がグチャグチャに混ざって、あとに残ったのは。


 ケイティは笑みを浮かべた。


 結局、私……あなたのことが。


 アンドリューがすがるように尋ねる。


「執着がひどすぎて、嫌いになった?」


「いいえ」


「じゃあ結婚してくれる?」


「……はい、喜んで」


 肯定をもらい、彼の顔に歓喜の色が浮かぶ。


 ふと気づいた時には、ケイティは情熱的に抱きしめられていた。そして耳もとで囁かれた問いは――。


「……キスをしても?」


 ふたりは婚約者同士であるけれど、これまでキスをしたことが一度もなかった。


 ケイティは頷いてみせた。


「……ええ」


 だけどふたりきりになってから……そう続けようとしたのに。


 気づいたら頬に手をあてがわれ、キスされていた。


 パーティ会場で、大勢が見ているのに……でもまあ今さらよね。彼から熱烈な愛の告白をされたので、しっかり注目を浴びている。


 ケイティは彼の首に腕を回してキスを受け入れた。




   * * *




 使用人のチャールズはその夜自室で、書き溜めていた日記をパラパラと読み返した。




   * * *




 五月二日の日記。


 ケイティお嬢様の婚約者に決まったアンドリュー様と初めてお会いした。


 彼が当家を訪れた際に上着をお預かりした関係で、会話も少しさせていただいたのだが……。


 端正で魅力的な青年――そんな彼の雰囲気を好ましく思うと同時に、なんだか圧倒された。


 シェリー公爵家に仕える私はこれまでに多くの貴族を見てきたし、非凡な方と話をさせていただいた経験もある。それでもアンドリュー様には驚きを覚えた――ほかにはないハッとさせられる華やかさがあり、輝いて見える。


 そして華やかであるのに、物腰は落ち着いているという不思議な方でもあった。使用人に対する態度が柔らかいので、おそらくとても善良な方なのだろう。


 ――ケイティお嬢様、おめでとうございます。


 ケイティお嬢様に対しては娘のような感情を抱いていたので、素晴らしいお相手に恵まれて本当によかったと思う。


 今日は茶会という形式で、テーブルにお菓子が並んでいた。


 ケイティお嬢様は『オランジェット』なるチョコレート菓子が大好物なのだが、今回なんとそれがあり。


 ケイティお嬢様はソワソワしていて、礼儀正しくしていらっしゃるが、視線がどうしても『オランジェット』に向きがちだった。


 けれどケイティお嬢様は積極的にそれを召しあがらない。彼女は性格が控えめで、『珍しいお菓子だから、なるべくほかの皆様が召し上がれるように』と遠慮しているのだろう。


 私は案ずるようにケイティお嬢様を眺めた……そのような善意はいつも踏みにじられて終わるのだから、やめたらいいのにと考えながら。


 こういう場面でいつも意地悪をするのが、妹のルーシーお嬢様だ。彼女は少し我儘でひねくれたところがある。


 ルーシーお嬢様は今回もちゃっかり同席して、姉にマシュマロを押しつけるという奇妙な嫌がらせをしていていた。ケイティお嬢様はマシュマロが苦手なのに、なぜそんなことを……。


 どうして姉妹でこうも性格が違うのだろうか。




   * * *




 五月二十日の日記。


 アンドリュー様がふたたび来訪。


 彼が『オランジェット』を持参したので、私はものすごく驚いた。


 アンドリュー様は前回の茶会で、ケイティお嬢様が『オランジェット』を眺めていたことにちゃんと気づいていたのだ。そうか……よほど注意深く観察していないと気づけないと思うのだが、アンドリュー様はもしかして……。


 この行動から彼の愛情を感じる。


 よかったですね、ケイティお嬢様。


 ああ、けれどケイティお嬢様……プレゼントを受け取って、その顔はいけません。


 彼女は欠点がほとんどないのに、大きな喜びを感じた際、眉間にかすかに皴が寄るという変な癖があった。『感動をこらえている』とそうなるらしいのだが、『虫歯が痛い』という顔にしか見えないから、その癖は直したほうがいいと思います。


 ほら……アンドリュー様が『まずった、読み間違えた』という顔をしていますよ。


 お帰りの際に玄関先でアンドリュー様を見送っていると、屋敷からルーシーお嬢様が飛び出して来た。


 思わず顔をしかめる……姉の婚約者に駆け寄るなんて……はしたない。


 どうしても気になって、さりげなくふたりのほうに近寄り、会話に聞き耳を立てた。


 ルーシーお嬢様がアンドリュー様に話しかけている。


「お姉様は『オランジェット』がお嫌いなんです! 次から何かお持ちいただくなら、マシュマロのほうがよろしいと思いますわ――大好物ですから。それからお姉様は以前ストーカーに付き纏われたことがあり、男性にグイグイ迫られると引いてしまいますの。ですからお土産を渡す時は、『ご家族でどうぞ』とひとこと添えると、お姉様がプレッシャーを感じなくてすみます。男性全般が苦手なので、もちろん身体的接触は厳禁ですわよ――どうか慎重になさって!」


 アンドリュー様は淡い笑みを浮かべ、


「アドバイスありがとう」


 と礼を返していた。


 大丈夫だろうか……しかし一介の使用人が口を挟んでよい問題ではないし……。




   * * *




 九月十三日の日記。


 ルーシーお嬢様による度重なる妨害により、ケイティお嬢様とアンドリュー様の仲がおかしなことになっている。


 このところケイティお嬢様はこっそり外出して、下町でひとり暮らし用の住居を探しているようである。空き家巡りをしているようだ。


 まさか……家出をするつもりなのか? それとも社会勉強でただ見学をしているだけ?


 心配でケイティお嬢様のあとをつけ、物陰からこっそりと見守っていたら、通りの端でアンドリュー様とバッタリお会いして驚いた。


 もしかするとアンドリュー様もケイティお嬢様の家出計画に気づき、真偽を確認するため町までやって来たのだろうか……?


 今日はケイティお嬢様が教会にお祈りに行く日だから、その外出ついでに何か行動を起こすかもと危惧(きぐ)して。


 なんと会話したものか分からず、私とアンドリュー様は無言のまま別れた。




   * * *




 九月十四日の日記。


 当家を訪ねて来たアンドリュー様と気まずい再会をする。先日は、彼も私もケイティお嬢様の行動をこっそり探っていて、それを互いに見られた――気まずいことこの上ない。


 上着を受け取りながら、小声で話しかける。


「先日は……あの……」


 声をかけられたアンドリュー様も混乱していたようで、場所が婚約者宅の玄関ホールであるのに、うっかり口を滑らせた。


「もうどうしたらいいのか……ケイティと婚約していても、つらいばかりだ」


 そこへタイミング悪く旦那様がやって来たので、私は『今のアンドリュー様の言葉を聞かれただろうか』とヒヤッとした。




   * * *




 


 九月二十三日の日記。


 アンドリュー様の機嫌が悪い。


 訪ねて来た彼はケイティお嬢様ではなく、当家の旦那様と奥様に面会を求めた。


 メイドがお茶を運ぼうとしていたので、その役目を代わりに引き受け、応接間に入る。


 旦那様がためらいがちに口を開いた。


「アンドリューくん、もしも……これは仮定の話だが、ケイティとの結婚を少しでも苦痛に思うなら、長女とは婚約破棄をして妹のルーシーと……という選択肢もある」


 アンドリュー様の実家は大変裕福で、当家より家格は劣るものの、今もっとも勢いのある名家のひとつである。


 だから旦那様はどうしてもこの縁組を纏めたいのだ。長女が見捨てられそうなら、まだ次女がいる……旦那様の心の弱さが表れた台詞だった。


 ところがこれにアンドリュー様が激怒した。


「ありえません。私はケイティと結婚します」


「しかし……アンドリューくんはずいぶん無理をしているのだろう。使用人のチャールズに『ケイティと婚約していても、つらいばかりだ』と愚痴っているのを聞いたよ」


 耳を傾けていた私は血の気が引いた……やはりあの時、旦那様に聞かれていたのだ。


 アンドリュー様の顔つきがさらに厳しくなる。


「いいですか――これは仮定の話です」


 アンドリュー様がそう前置きしてから続ける。


「ケイティが私との婚約を破棄するなら、彼女の次のお相手として、恋人が二十三人いるイカレた子爵をご紹介しますよ」


 聞いていた私は肝が冷えた。


 アンドリュー様は善良な方とお見受けするが、それでもこのような脅し文句を口にしてしまうくらいに、ケイティお嬢様に執着している。


 恋人が二十三人いるイカレた子爵に長女を嫁がせたくないだろう――ならば私との結婚が無事まとまるよう、親として最大限努力しろ――アンドリュー様の在り方は苛烈だった。


 前後の脈絡からアンドリュー様の真意を読み取れる人間なら、彼がケイティお嬢様にそんな仕打ちをするはずがないと理解できる。万が一婚約破棄となった場合でも、深く愛した女性に鬼畜な所業をするはずがないと。


 けれどなんでもストレートに受け取る人間――たとえばケイティお嬢様のご両親などは、脅しを文字通りそのままに受け取ったようで、顔色を失っている。


 たとえば今の話を聞かされたのがケイティお嬢様本人なら、当事者ということで客観性を保つのはとても難しいため、『恋人が二十三人いるイカレた子爵に嫁がされてしまう』と誤解したとしても無理はない。だがせめてご両親くらいは冷静であってほしいところだ。


 重い空気に胃を痛めた私は視線を彷徨わせた。それでふと、開いたドアの向こうにケイティお嬢様のドレスの端を見た気がして……けれど気のせいだろうか? ふたたび目をこらした時には、もうあとかたもなく。


 アンドリュー様が立ち上がる。


「ケイティは私と結婚するしかない。何があっても――彼女の気持ちがどうでも」


 彼も焦っている……私はそう感じた。




   * * *




 九月二十六日の日記。


 なんとかしてアンドリュー様と話さねば……お節介なのは分かっているが、私は覚悟を決めた。


 アンドリュー様が当家を訪れたので、帰り際に捕まえて話しかける。


 無礼なのは百も承知――これでクビになるならそれでもいい。


「アンドリュー様、ケイティお嬢様のことでお話がございます」


 馬車乗り場で足を止め、彼がこちらに向き直る。


 私は思い切って彼に告げた。


「ケイティお嬢様は『オランジェット』がお好きなのです!」


「……え?」


「おふたりがすれ違っているのを見るのがつらくて仕方ありません。ケイティお嬢様はアンドリュー様のことがとてもお好きなのに――ケイティお嬢様を幸せにしてくださるのは、あなただけだ」


「だが」彼の顔に苦いものが浮かぶ。「彼女は私のことを嫌っているのでは……下町に家を借りようとしていた」


「それはアンドリュー様が素直に心のうちをお話しにならないからです」


「彼女はストーカーに執着されたことがあり、グイグイ来られるのが嫌だと聞いたが」


「それは確かに事実です。ですがあなたはケイティお嬢様のパートナーになられるのでしょう? ケイティお嬢様に対して、嫌われるのをおそれて嘘をつくのはいけません」


「嘘……」


「ケイティお嬢様のことが好きすぎて、こっそり手書きのメモを持ち帰っていること、知っていますよ。それだけ愛情があることを、ケイティお嬢様に真っ直ぐ伝えてください!」


 馬鹿みたいだが、泣けてきた――ケイティお嬢様が不憫で。


 幸せにしてあげてくださいよ……ケイティお嬢様はあなたが好きなのに!


「このままケイティお嬢様を失ってもよろしいのですか」


「いやだ」


「だったら気持ちはストレートに伝えるべきです。それで嫌われてしまったら、その時に退けばいい――違いますか」


「確かにそうだ……ありがとう」


 アンドリュー様は迷いが晴れたようにそうおっしゃった。


 私はあなた方よりも二倍も長く生きています。


 あなた方よりも頭は良くないけれど、分かることもある。


 相手への愛情、感謝は言葉に出すべきだ。


 そして知ってほしかったのだ――あなた方の幸せを強く願っている人間が、ここにひとりいるということを。




   * * *




 使用人のチャールズは今日の日記を書こうとして、羽ペンを手に取った。


 そして少し考えて……笑みを浮かべ、ペンを置く。日記帳をそっと閉じた。


 ――ケイティお嬢様とアンドリュー様が、「明日、一緒にお茶を」と誘ってくださった。だから今夜は早く寝よう。楽しいお茶会に眠気が残ったまま参加したくない。


 誘ってくださったのは諸々のお礼とのことだが、「とんでもない」と最初は遠慮して……けれど気が変わり、ありがたくお受けすることに。


 図々しくなったのは、年を取ったせいかな。


 まあなんにせよおめでたい。


 ――ケイティお嬢様に幸あれ。


 次女のルーシーお嬢様は……数日後から、とても厳しいことで有名な名家に、行儀見習いに出されると伺っている。


 はたして大丈夫だろうか。


 その話はアンドリュー様がまとめたらしく……それを聞いて思ったのは、彼は絶対に怒らせてはいけない相手なのかもしれないということ。


 とはいえケイティお嬢様に対して誠実ならば、それもまたいいだろう……チャールズはそう考えることにした。



   * * *


 妹は私の婚約者が好きなのです(終)

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