第8話 弱肉強肉


 予想通りだ。


 透き通った水は、そこそこの距離まではっきりと見通せる。湖底のあちこちの砂が盛り上がり、姿を顕した巨大ザリガニが何匹もいる様も。それらは砂を振り払うのもそこそこに、たったか足早で湖底を走り、巨大ザリガニの死体に向かっている。


 たちまち始まる弱肉強食の宴。


 集まっていた通常サイズの魚やザリガニ達は、背後から襲ってきた巨大ザリガニに成す術もなく捕食され、頭から丸かじりにされていく。小さいのを一通り食い散らかした巨大ザリガニは、今度は死体にかじりつく。頑丈な甲殻がかみ砕かれるゴリゴリボリボリというすさまじい音が水中を伝播して私の所まで伝わってくる。……聞いた話だと、イセエビなんかはカニが大好物で、カニの潜む岩陰に潜り込んで甲羅ごとバリバリ食べてしまうのだという。挟む力だけでなく噛む力もとんでもない訳だ。


 いくらスピノサウルスとて齧られれば大変な事になるのは身をもって体験している。肩の傷口がズキズキしくしく疼く、高い授業料だった。


「ガルル……」


 瞬く間にザリガニの巨体が食い尽くされていく。私が引きはがした胸殻を残してもはや原型もない。


 眼下で繰り広げられる饗宴を見て、私はようやくこの湖の生態系構造を理解した。


 おそらく、流れはこうだ。


 巨大ザリガニが卵を産む。生まれた小さなザリガニ達が、砂底の有機物や苔をツマツマして水質を浄化しながら、時に魚の餌になったりして成長していく。


 成長したザリガニたちは今度は魚をエサにしたりして大きくなっていき、それを巨大ザリガニ達が捕食する。


 そして巨大ザリガニ達も共食いしたり、脱皮に失敗したりで下層の生物のエサになる。あるいは迂闊に岸部に近づいてピラニアシーラカンスに食われたりするのだろう。岸近くは水深も浅く、障害物も多い。思うように動けない巨大ザリガニは数の暴力で体の端から食い散らかされてしまうはずだ。


 いってみれば自給自足じみた閉鎖型食物連鎖がここでは成立しているのだ。勿論、有機物の再利用率は100%じゃないだろうけど、不足分は沿岸のピラニアシーラカンス達の食べ残しが供給する。


 水質が綺麗なのは全体的に栄養状態が貧に傾いてるからだろう。


 実に理想的な環境が、見事に食物連鎖によって保たれている。自然の芸術だ。


 そして、私も危うく、その芸術の一部になる所だった。


 無知とは恐ろしい。これまで毎晩、呑気に水面に浮かんで寝てたが、そこを巨大ザリガニに襲撃されたら一発だった。遊泳性ではないとはいえ、何かの拍子に水面に浮かんでくる事が無いとは誰も断言できない。たまたま初日、おりていった水底に巨大ザリガニがいなかったというだけで、常に命の危険は隣にあったのだ。


 背びれが震える思いだ。浅慮死すべし、がほかならぬ自分にもきっちり適用されている事を改めて自覚して肝に銘じる。


 やはり、一刻も早く身の安全を保障できる場所を見つけなければならない。


 眼下で続く宴を尻目に、私は出来るだけ静かかつ迅速にこの場を離れた。



 巨大ザリガニとの交戦後、湖も決して安全ではないと思い知った私は安全地帯の探索に尽力した。ザリガニの肉を堪能しつつ、太陽の位置を目安に湖を行く。


 この世界の太陽が果たして東から昇り南を通って西に沈むのか、それはわからないが、少なくとも天体運動は行われている。時間帯によって刻々と変わる位置を計算にいれながら、まだ立ち入ってない湖の区域を泳いで進む。


 傷の出血はすでに止まっていたが、しかし血の匂いが別のザリガニを呼び寄せないとも限らない。それゆえ、探しているのは、私が上陸できるぐらいの岩場か何かだ。イメージ的にはこう、亀が昇って甲羅を干すような、そんな感じの地形である。せめて水から完全に体を引き上げられるだけの場所があれば、少なくとも水上で寝る限りは安全が確保できるはずだ。


 あといい加減おちついてザリガニ肉を食べたい。


 最新の学説をフィードバックしているのかこの体には唇はあるのだが、流石に頬までは備わってないので、泳ぎながら食べると口に水が入ってきてせっかくのザリガニ肉の味が薄まるのである。


 しかしながら、目的の地形はちょっと見つかりそうにない。段々と私の心は諦めに満たされつつあった。

 水中も水上も、とても見通しが良い。そのせいで、私が望むような立地が無い事がはっきり見えてしまうのだ。


 それに流石にずっと泳いでいると、流石に疲れてくる。スピノサウルスは水中でも活動できるとされているだけで、海竜のようにずっと水中で生きていく事が出来るような体の造りはしていない。


 とはいえ、水底に巨大ザリガニどもが潜んでいる事をしってしまった今、水上で休憩する気になんてとてもなれない。このままどこかの岸から上陸して陸上で休むべきだろうか。


 いっそ、この湖を捨てて草原でも目指すべきかもしれない。


 そんな考えすら頭に浮かび始めた、その時だった。


 晴れ渡っていた空が、急に鉛色に曇り始める。クリアな視界に靄がさしはじめ、気が付くと周囲は、数メートル先も見渡せない霧に包まれていた。


 なんだなんだ、さっきまで嫌になるぐらい晴れていたじゃないか。


 空を見上げてみるが、あれほど輝いていた二連太陽の光も見当たらない。あまりにも急激な気候の変化に困惑する。まるで魔法でもかけられたみたいだ


 水上の視界が悪いなら水中に、と水に潜る。が、そうしたらそうしたらで、光の無い真っ暗な闇が広がっていた。いや、確かに水上が霧に閉ざされたら水中も暗くなるのは道理かもしれないが、この広さの湖だ。霧のかかっていない所からの明かりがあってもよいのでは? まさかこの短時間で、この広大な湖全てが霧に閉ざされてしまったとでもいうのだろうか。


 こう暗くてはまだ水上の方がマシだ。私はやむを得ず浮上し、そこでさらなる苦難に気が付いてしまった。


 どっちから来たのか、どこへ行こうとしていたのか分からなくなった。


 一度潜って、周囲を見渡してきょろきょろしたのがいけなかった。もともと、進行方向は太陽を導にしていたのだ。それが見えなくなった今、完全に現在位置を見失った。


 まずいぞ。しかし、それが分かった所で出来る事は何もない。


 しかたなく、とにかく進む事にする。とにかくまっすぐ行けば、岸か霧の外に出られるだろう。


 見通しが悪いので速度を落として犬掻き泳ぎでゆっくり移動する。いやこの場合サウルス泳ぎか? どうでもいいか。


 そうやってしばらく無心で泳ぎ続けると、不意に前方の霧の向こうに黒い何かのシルエットが見えた。


 岸が近づいてきたのだろうか。


 水深に注意しつつ、速度をさらに落としてゆっくりと距離を近づけた私は、それが岸部の木でも岩でもない事に気が付いた。


 石造りの水上神殿。


 そう表現すべき灰色の巨大構造物が、霧の中、水上に姿を見せていたのである。


 突如目の前に現れた巨大神殿。


 かなり大きい。このスピノサウルスの肉体が見上げるような高さと広さだ。柱を立てて水上に立っているのではなく、まるで水没したピラミッドのように、湖の底から積み上げられた巨大な建造物の一部が水上に露出しているようだ。そうなると、全体の大きさは想像もつかない。水中は真っ暗でどれぐらい深いのかもわからないが、全長14mのスピノサウルスの体が十分に潜れるほどの深さがあるのだ。


 その威容に驚愕しつつ、回り込んで全容を観察する。いったいいつ頃からこうしているのか、水中に没した部分と地上の露出部分では、浸食と風化の違いで色合いが完全に変わってしまっている。何やら表面には無数の彫刻らしきものの痕跡があるが、今や残滓程度で何を意味するのかさっぱり見て取れない。


 ぐるぐる回っていると、階段らしきものが掘り込まれた側面があるのに気が付いた。どうやら私が最初に目にしたのは建造物の側面だったらしい。


 正面と思しき側から見ると、どことなくエジプトの古代神殿、その復元想像図を思い出させる造りだ。スピノサウルスの体でも通れるほど幅広く大きな階段が、水中からまっすぐ神殿の入口まで伸びている。面白いのが、大きな階段の中央部分が、歩幅の低いさらに小さな階段になっているところだ。まるで大人用と子供用の階段がそれぞれ用意されてるようだが……この小さい階段の方は、あのまるっこい霊長達にちょうどよいサイズに見える。


 とりあえずガタついてないかだけ確認して、階段を昇る。体を水上に引き上げると大量の水が滴り落ちて、白く乾いた石造りの階段を黒く染めた。


 傾斜も緩くもなく急でもなく、ちょうどいいぐらいだ。神殿の中身は気になるが、ここでひと休憩する事にする。


 階段に腰を下ろし、ザリガニ肉の残りを口にする。水で薄まっていないザリガニ肉はトロみのある柔らかい肉に、ぎゅっと旨味が詰まっている。割と歯につまりそうなのだけはちょっと注意だ。ボリュームのある鋏の中身を食べつくしたら、腕の部分の肉を爪で掻き出して食べる。頬がないので、ちゅるんと吸う訳にはいかない。意外と頬がないと食べ方の手段も限られてくるな……と今更ながら思った。この世界にソバとかうどんがあっても、なかなか食べるのは大変そうである。


「ギエップ」


 腕だけとはいえ、それなりに食べ応えがあった。満足して、食べかすの殻を湖にリリースする。ゆらゆらと揺れながら沈んでいく殻を見送りながら、ふと、この体の燃費について思いを馳せた。


 変温動物は基本的に食事回数が少なくて済み、恒温動物は頻繁に食事が必要だ。その効率は、体が大きければ大きいほど良いが、どちらにしても身体が大きければ一度に必要とする食事量も増えていくのは共通している。


 この肉体は哺乳類型爬虫類としての性質を持ち、つまり基本的には恒温動物と考えるべきだろうが、その割にはなかなか腹持ちが良い。全長14mの肉体から考えられる恒温動物の食事量を考えると普通だったら住処を探すどころか一日を食事の確保に充てなければ生きていけないが、今の所それほどの飢餓を感じる事なく、むしろ一日の大半を探索に充てる事が出来ている。


 ライオンなんかは何日も絶食できるとはいえ、それはあれらが完全な肉食動物だからだ。肉というのはそれだけエネルギー効率が良い。だが私は、最初こそ魚を食べていたがここ数日はずっと果実食だ。果実がそこまでエネルギー効率がよいとは覚えがない。


 これはやはり、あくまでも哺乳類ではなく恐竜だからなのか? それともこの世界の動植物の秘めているエネルギーが前世のそれとは比較にならないからなのか? あるいは、そもそもの物理法則に大きな違いがあるからなのか?


 考えてわかる事ではないが、やはり気になる。


 実は転生ログインボーナスによるもので、一定期間を過ぎたら急にお腹が減りまくるようになって餓死する未来だって可能性としてはあるのだ。あのモザイク神の問答無用なやり方では説明不足で初っ端から詰む奴だってあるだろうし、それを回避するために転生後しばらくは何らかの補正がかかってるというのも十分にあり得る、なんて事も考えてしまう。


「……グフゥー」


 やめだやめだ。ため息をついて、私は身を起こした。


 考えた所で答えはない。今はやれる事をやろう、とにかくこの水上神殿が寝床に使えるかどうかを確認しなければ。


 私はのったりと階段を上り、スピノサウルスの体でもくぐれるほどの大きな入口をくぐって神殿内部に入り込んだ。


「グゴゴゴゴー」


 お邪魔しまーす、と中を見渡す。


 外観から想像していたが、内部はなかなかに広い。そして、割と造りが単純だ。ぱっと見、だだっぴろい大部屋のように見える。前世で近い形を例に挙げると、そう、教会が近いだろうか。礼拝客用のベンチを全部取り除いた教会の礼拝堂、そんな感じだ。


 壁にはステンドグラスの代わりに精緻な彫刻が施されており、外と違って風化があまり進んでおらず原型をかなりとどめている。かつては松明か何かで照らされていたであろうそれは、今は崩落した天井から差す光で照らされていた。入口の反対側、部屋の最奥には何やら大きな石像があるが、風化か意図的に破壊されたのか、砕けた大きな石の塊と化している。床には無数の石材が転がっており、机らしきものが押しつぶされて転がっていた。その隣には、霊長サイズの扉。気になるが、今の体ではとても潜れない。これは後回しにしよう。


「グルルー」


 足元を踏みしめてみるが、私の体重ですぐさま崩れてしまうような感じはしない。むしろ、私が飛んだり跳ねたりしても受け止めてくれるであろうしっかりとした手ごたえを感じる。見た所、湖底から石材を積み上げて建造されたようだから、私が体当たりした所でびくともしないのではないだろうか。


 天井を見上げると、高い天井の所々が崩落、空が見えこそするものの、雨風を凌ぐには十分すぎる感じだ。スピノサウルスの背びれがこすらない高さがあるのはとてもありがたい。


 総じて、仮の住まいにするには十分すぎるといえよう。見た所この大部屋しかないので、実は別の階に化け物が潜んでいましたー、とかもなさそうだ。


 幸運というべきかなんというべきか。夜間安全に過ごせる足場程度でよかったのに、屋根付きの一戸建てをゲットしてしまった。


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