◈◈◈◈肆 燃え尽きる(結)

 ひと月近く経ったころ、ようやく天候制御装置アメノムラクモの復旧が始まった。

 スフィリは安堵とともに妙な落胆を覚えた。翡翠ほど従順な助手もいないだろう、彼女を手放したあと他の人間で満足できると思えない。

 貸出を継続する口実はないか、などと考えている自分に気づき、珍しく口端に苦笑が浮かぶ。


「……どうしたらいい」


 呟くと、わずかに手の力が強まったのか、翡翠が小さく悲鳴を上げた。

 咄嗟に離そうとした指を、ひと回り細いそれがとどめる。彼女の肌色は明らかに出逢った日よりも薄くなっていた。


 自分も上からその手を撫でて、スフィリは続ける。


「……。前から何度か、考えていたんだが」

「はい」

「〈緑の火スマラグド〉はこの世で唯一のエメラルドの〈鉱族リートス〉、したがって完全に適した薬糧サプリメントはない。……だから生存している可能性は極めて低い。

 でも、諦めきれなかった。あれを作ったのは僕のごうだ。責任をとらねば、と……」

「……見つけたら、壊すつもりなんでしょう?」


 頷きたくなかった。けれど否定もできなかった。

 だから聞かないほうがいいと釘を刺したのに。すべてお見通しで、翡翠は微笑んでいる。


 緑色をした娘が、甘えるように胸へ滑り込んでくる。温度も形もとうに馴染んでいるのに、今さら、抱き締め返すのが怖くなった。

 ……このごろ彼女は身体中からあの音を発しているから。


 もし〈緑の火〉が生きているなら。

 力や食性は誤魔化せないから、正体を隠すなら別種の鉱族を装うことになる。成りすませるのは似た色の石――たとえば、翡翠のような。


 ケイ素やアルミニウムは両者に共通する成分だから、翡翠用の薬糧でも永らえることはできる。

 だがエメラルドの硬度と透明度を担保するのはベリリウムだ。欠乏すれば色艶が落ち、ただでさえ繊細なあの石が、いっそう脆くなってしまう。

 それに力を使えば使うほど、劣化が進む。


 ――もっと早く、気づいていれば。


「……嫌だよ」

「どうして? そのために何年も探したんでしょう。あなたにたくさん痛い思いをさせた〈緑の火〉は、悪い子ですよ」

「それでも嫌だ。どうしてを造ったのか思い出したんだよ。逢いたかったからだ」


 むせぶように叫んだスフィリに、翡翠は眼を見開いて、そして、わらった。


 ただの石じゃない。この世でもっとも深く美しい緑色の奥底に、無数の傷を抱いてなお輝く、地上の星。

 今となっては懐かしい故郷の色。

 鎖や台座に繋がれて貴婦人の肌を彩るより、この腕に抱き締められる形が欲しかった。


「……私も逢いたかった。怪我させてごめんなさいって、謝りたかった」


 翡翠は――否、緑の火スマラグドは、ひび割れていく。もう限界なのだろう。むしろよく今まで壊れずに待っていてくれたものだ。

 きっとそれが彼女の力。

 痛みを鎮めえたのも、己が身を削っても造物主を救わんという、一途な想いが為したわざ


 エメラルドとは、愛を司る石だから。


 亀裂が走る。スフィリの胸に。

 雨が降る。スフィリの頬に。


「あいして、」


 ようやく解った、もっと早くに伝えるべきだった言葉を、冷たい唇にそっと塞がれる。

 こんなにも優しい触れあいすら、もう耐えられないのに。


 ――もっと強く抱き締めて。砕けるなら、あなたの手の中で。


 囁きだけを遺して崩れ落ちる。咄嗟に抱き寄せた着物の中に、もう人の形は残ってはいなかった。

 ただ床の上に、エメラルド色の砂溜りが輝いている。

 カツン、と乾いた音を立て、最後に大きな破片が転げ落ちた。男は屈んでそれを拾うと、嗚咽とともに胸に抱く。



 外はまだ、雨が降り続いていた。



【結】

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