透明な音
@Firsted
透明な音
「あ...!」
調和の取れない響きが部屋を満たす。
アタックは気持ちがいいがコアに気持ち悪さが生まれる音だ。
その音は僕への「失敗」を意味する残酷なものだった。
俺はこの音が「この曲は諦めろ」と言っているようで嫌いだった。
今日はミスが多い。音というのは演奏者の心と体と繋がっているものだ。
だから、学校と部活で心身ともに疲労が溜まっている状態ではいい音は出ない。
今日は諦めて、明日に備えることにした。
いつの間にか、窓の外は紺色に染まっていた。
カーテンの隙間からは、調和の取れた満月が俺を覗いていた。
自室に戻ろうと椅子から立つと、俺の腹が「ぐー」となった。
さっきまで静かだったのに。空気を読んでくれていたのだろうか。
俺は腹を褒めるように撫でながら、夜のコンビニへと向かった。
コンビニでおにぎりとモンスターエナジーを買い、僕は帰路についていた。
俺はこう見えても真面目な性格なので、深夜徘徊は非日常な体験で興奮していた。
せっかくなら長く外にいたいと思い、少し遠回りすることにした。
その道は、廃墟の前を通る山の道で、昼も夜も人通りが少ない(どちらかと言えば夜の方が多いかもしれない)。
今日も冬の残骸の枯葉だけが山道を埋めつくしていた。
歩く度に紙を潰すような音がして楽しい。音のなる鍵盤の階段が好きな事と似ているかもしれない。
そう思うと、子供の頃から音が出るおもちゃが好きだった記憶があった。
懐かしいこの感覚は、俺の脳みその風通しを良くした。
帰ったらもう一回だけチャレンジしてみようかと、俺は片隅に思った。
その時、風に乗って微かにピアノの旋律が聞こえた。
美しいアルペジオ。手先の器用な繊細な音が聞こえる。
俺はその音に操られるかのように歩みを進めた。
しばらく真っ直ぐに行くと、音は強くなった。
だが、俺は音のする場所に驚きを隠せずにいた。
「...ここって」
ピアノの音は荘厳な廃墟から聞こえてきていたのだ。
2階建ての大きな学校。確か、30年以上前に閉鎖したきり解体もされずに残っていると風の便りに聞いたことがある。
それなら音楽室だろうか?俺はそう考えながら廃墟に足を運ぶ。
1階ではない。おそらく2階だ。
ピンポン!という音はならないが、ピアノの音がより強まったのがわかった。
右じゃない、左の部屋だ。俺は崩れた壁の破片を踏まないよう慎重に進んだ。
その時、ピアノの演奏はクライマックスを飾るような盛り上がりを見せていた。
俺が部屋にたどり着いたのは、曲の余韻が部屋に満ちていた時だ。
「!」
彼女は俺を見ると驚いたように目を大きく開けた。
短めの黒髪をもつ妖艶な彼女は口を開こうとせず、俺をじっと見つめるばかりだった。
「...何してるの?」
俺がそう尋ねると、彼女は見たら分からない?というように目で訴えた。
「ピアノを弾いてるのは分かるんだけど...こんな時間に何してるのかなって」
彼女は椅子から立ち、俺の方に近寄ってきた。さっきまでは見えなかったが、彼女は床まで着くほど大きい白いワンピースを着ていた。
「きいて」
「え?」
弱々しい声に、思わず聞き返す。彼女は俺のパードゥンを無視し、ピアノの横にパイプ椅子を用意した。
俺がパイプ椅子に腰掛けると、彼女は満足そうに微笑み、ピアノと向き合った。
彼女から生まれる演奏は情景すら思い浮かぶ幽玄な音色を持っていた。
錦織な音色を使い分け、聞いている観客を虹色の世界へと誘い、豊かな気分にさせてくれる。
それだけでなく、重々しい低音も使用し、音楽という抽象的なものを具体的な色で鮮やかに色付けている。
彼女の天衣無縫な演奏は、いつの間にか終わりを告げ、彼女は、最後の音の余韻を感じていた。
僕は彼女の演奏に思わず、拍手をした。
「はぁ...」
彼女は息を荒くしている。余程集中していたのだろうか。
僕は正直な感想を彼女に伝えた。
「ピアノ、すごい上手いね。音のひとつひとつが活きている感じがするよ」
「...そう」
俯きながら言うので大して嬉しくないのか、照れ隠しなのか分からない。
でも、サービスでもう一曲引いてくれたから、おそらく照れ隠しなのだろう。
「ねぇ」
今度は彼女が話しかけてきた。
「ピアノひいてるんでしょ?」
彼女は僕の指を見て言う。確かにピアノを長年弾いていると指は変形するものだ。
流石はピアニストだなぁという着眼点に俺は感動した。
「あぁ、そうだよ。もう6年くらいになるかな」
「そう」
彼女は猫のように体を伸ばしてからピアノの椅子を譲った。
「弾いてみてよ」
彼女は少し声を張った。
俺もそろそろ言われると思い事前に心の準備をしませておいた。
「分かった。やってみる」
僕はピアノの椅子に腰掛けた。
音はいつもよりもなめらかな響きを持っていた。周りの空気も俺の演奏に震えている。
窓から吹く風も俺を応援するように強さを増していった。
それに応じるように、曲は盛り上がり、ピアノを演奏する指の動きはさらに緻密になっていく。
(この難所を超えたら、あとは楽譜に書いたことを意識すれば...)
僕の指は滑らかに鍵盤の上を滑る。まるでピアノと一体化しているような感触を覚えた。
(さっき間違えたとこ...できたぞ!)
あんな調和のない音聞きたくない。俺はその思いで鍵盤を押していく。
そして、最後の音の余韻が外に吸い込まれると、彼女は音がならないくらいの拍手をしてくれた。
「はぁ...ど...どうだった?」
「...」
彼女は考えるように目を細めた。あの可愛らしい頭でどのような語彙が飛び出すのか、僕は期待していた。
「ブラボー」
「...!ありがとう!」
彼女は柔らかく微笑み、俺に告げた。
講師にも最近は注意されてばかりだったので、人から称さんされるのは心が揺さぶられるほど嬉しかった。
「7月のコンクール...出る気なの?」
彼女の予想通りだ。
この曲は次のコンクールの課題曲に選ばれている。
その中でも優勝を狙うならこの曲、と講師がおすすめしてくれたのだ。
「あぁそうだ。優勝を狙ってるからな」
「そう...」彼女はまた俯いてから、俺にもう一度目を合わせた。
「それならさ、私が教えようか?」
俺は彼女の音を聞いていたんだ。俺は果断な決断を下す。
「うん。教えて欲しい」
彼女はふふっと含み笑いをした。
「毎週土曜日。23時にここに来て」
彼女のワンピースは満月に照らされ、薄明るく僕を照らしていた。
*
彼女の教え方は上手だった。
難しい鍵盤の押さえ方や、繊細な表現の仕方、この曲のイメージに合う情景を絵に描いたりもしてくれた。
口数も、俺が廃墟に通うようになってからは心做しか増えた気がする。
けど、俺は彼女に関することを何も知らなかった。
俺が知っているのは、廃墟で夜にピアノを弾く彼女だけだ。
6月になり、廃墟に向かう時に傘を持っていくことが多くなった。
廃墟のほとんどの窓が割れているため、大雨の日は室内でも足物が濡れた。
それは音楽室でも変わらない。むしろ音楽室の方が窓が大きく、雨が入ってきやすかった。
彼女はそんな雨の日でも、ピアノを弾いて俺を待っていた。
「濡れるよ?」
俺は折り畳み傘を、彼女の頭上に広げた。
彼女は少し微笑むと、「ありがと」と照れながら小さく呟いた。
課題曲の完成度は、4月に比べると明らかに熟練していた。
連符は安定した響きを持ち、主旋律は活き活きと、動きを感じるようになった。
「いいね...けど...」彼女は言いづらそうに床へ目線を向ける。
「難所安定しないね」
「あぁ...」
彼女と初めて会った日。あの日の感覚は現在に至るまで1回しか感じたことがなかった。
音だけじゃなく、自分自身もピアノに解けていくような感覚。
部屋全体が、俺の独壇場になっているように思えた。
「君と出会った日。俺は今までで1番いい演奏ができたんだ」
「そう...」
「あの日の感覚。俺はああいう演奏をしてみたいんだ!」
「ごめんなさい」
彼女は俺に頭を下げた。俺は狼狽して?が頭全体を埋めつくしていた。
「なんで謝るんだ。君は何も悪くないじゃないか」
「ううん、私が悪いの。私が...君に勇気を持ってほしいって思ったから...」
彼女の瞳からは宝石のような涙が零れ落ちていた。
彼女を慰めようと背中をさすると、
「!?」
彼女に実体の感覚はなかった。まさに雲を掴むような感覚だった。
「ごめんね、私、」
───幽霊なの
*
私は、この高校に通う人よりも音楽が好きな高校生だった。
クラスでは本ばかり読んで冴えない私だったけど、ピアノのへの熱の入り方は、私が1番だった。
今日は、ピアノのコンクールの日だった。
私の演奏を聴くために、高校からは2人の先生とプライベートの5人の男女が訪れていた。
司会が私の名前を呼ぶ。私はゆっくりと上品に礼をして椅子に腰掛けた。
「───っ」
大ホール全体に響くピアノの音色。迫り来る低音と軽やかなメロディーで観衆の耳を掴む。
私は一度もミスすることなく、演奏を終えた。後悔のない、全てをぶつけた演奏だった。
観衆の割れるような拍手を浴び、自然と笑みが生まれた。
私の次は、咲野詩織。私と1番仲が良かった親友だった。
(頑張って...)
私は観客席に座り彼女の演奏を聴いた。
彼女のピアノが響いた時、私は思わず息を飲んだ。
五臓六腑に染み渡るような音の感触。脳みそが溶かされるような甘い音色。
美魔女のような色っぽい音だった。思わず釘付けになる、音。
もはや音ではない。巨大な未確認生物が大ホールを操っているようだった。
怒涛の展開、足がガクガクと震えるほど興奮している。
最後の音の余韻が終わると、観衆は先程よりも遥かに大きい拍手を送った。
やはり、彼女は金賞だった。私は...金賞ではあったが全国コンクールには進めなかった。
私は彼女に訊いてみた。どうしてあんな演奏ができたの?と。
彼女は言った。
「私にも分からないの。音だけじゃなくて自分自身がピアノに溶け込んでいく、そんな不思議な感覚だったの」
私がそんな言葉を聞くのは、初めてではなかった。今まで、友達が金賞を取る度に言われてきた。
私は複雑な感情に悩まされていた。
もちろん、私にも金賞を取って全国コンクールに進みたい気持ちもあった。
でも、友達を応援しないことは、嫌われるかもしれないって思って怖かった。
応援はして、ピアノの演奏は上手くなりたい。そうなると解決策は、必死に練習するしかなかった。
私は23時、親が寝た時間に家から出て学校へ向かった。そこで誰もいない学校でめいいっぱい弾いた。
汗が鍵盤にぽたぽたと落ちても気にしなかった。水を飲む時間すら惜しかった。
すると、急に私の視線が地面に落ちたんだ。倒れたんだって直感では分かったけど身体は動かなかった。
過呼吸になりながら1時間ほど助けを待ったが、助けが来ることはなかった。
*
「ごめん...君とっても暗い顔してたから...演奏に自信もってほしくて...」
「分かった。ありがとう。でもあの感覚が持てないのは少し残念だな」
「うん...」
「よし、決めた」
俺は椅子から立ち上がり、彼女のいい放った。
「俺、君が取れなかった金賞を取って、全国コンクールに行ってみせる」
「...期待してるんだから」
彼女は涙をさらに大粒流しだした。
「絶対金賞取ってよ」
「絶対取ってみせるよ。絶対に」
俺はエアーで彼女と握手をした。
実体は無いが、俺は確かに、彼女の手を掴んだ。
*
今日は重く黒い雲が空を覆う、いつ空が泣くか分からない曇り日だった。
俺は忙しく自転車を走らせていた。火曜日の今日はピアノレッスンの日なのだ。
ピアノ教室の駐輪場に自転車を止め、講師のいる部屋へ階段を昇っていると、偶然、講師と鉢あった。
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
講師の表情はいつもよりも険しかった。
俺はその表情に、嫌な気配を感じた。
講師は、古びた城の扉のように重く閉じられた口を開いた。
「課題曲はどうかな」
「いやーえっと...」
俺は答えずらそうにお茶を濁した。
講師はその様子に、さらに眉間に皺を寄せた。
「難所、安定しないだろう?」
「は...はい...」
気圧されて、俺は思わず肯定してしまう。だが間違いではないのだ。
コンクールが3週間前に迫っているにも関わらず、課題曲の難所は未だに安定していなかった。
難所ができないと、優勝は厳しい。廃墟の女の子もそう言っていた。
「優勝を狙うならあの曲にしろ、と言ったけど、一番の見せ場であの出来じゃあ到底優勝できるとは思えないんだよ」
正論が次々と僕の心に刺さり、痛みが加わる。
「まだ...頑張れます!だから...」
「遅いんだよ」
講師は正義の矛を突きつけるように俺に指を指した。
「期限は3週間前。もしあの難所が安定しなかったらどうするつもりなの?早すぎて損することは無い。別の曲に変えるべきだ」
矛は俺の胸に突き刺さり、傷口からは血が滲みだした。
頭が回らなくなり、気が動転する。
「分かったら、すぐに曲を───」
「すみません」
俺は思わず呟いていた。
「俺...今日は帰ります」
*
いつの間にか空は泣いて、豪雨を齎していた。
髪や服が濡れて、顔すらも濡れていく。もはや涙と雨の区別すらつかなくなっていた。
息を荒げながら、必死に自転車を漕いでいるうちに、いつの間にか、俺は廃墟の前についていた。
空の暗さと相まって、廃墟はさらに暗さが増していた。
いつものように廃墟に入り、階段を昇る。聞こえないはずのピアノの音が聞こえて欲しいと願っていた。
ゆっくりと一歩一歩、音楽室へと歩みを進める。
「やぁ」
俺は挨拶をする。ただ、無駄に部屋に響いただけだったが。
「居るんだろ?...挨拶くらいしてくれよ」
俺はピアノの椅子に座る。
窓から入る雨水が背中を濡らしていく。
俺の涙腺は決壊し、ボロボロと涙が溢れ出した。
「くそっ...くそっ...!」
鍵盤を強く叩く。不協和音が追い込みをかけるように俺を襲う。
さらに雨は増し、地面に雨が当たる音で耳がいっぱいになった。
「ねぇ」
透き通った声が雨音を掻き分けて聞こえてきた。
「...え?」
俺が顔を上げると、そこには───白いワンピースの彼女がいた。
「やぁ。生憎の雨だね」
俺は彼女を抱きしめようとするが、やはりするっとすり抜けた。
「残念だけど、私には触れれないよ───ごめんね」
彼女は俯いて謝罪した。そんなことないよ、なんて気遣いできなかった。
「外いこっか。傘なら玄関にあると思うから」
彼女に言われるがままに、俺は傘をさして、廃墟の外に出た。
彼女が濡れないように俺が相合傘をすると、彼女は恥ずかしそうに呟いた。
「私、幽霊だから濡れないよ?」
「知ってる。けど、今はこうしてたいんだ」
彼女は聞こえてないふりをしていたが、耳が真っ赤になっていた。
暫くは廃墟の近くを歩いた。木々に雨粒が落ちる音が心地よく響き、俺たちの心を和らげていた。
廃墟の道の近くにある公園のベンチに、俺たちは腰掛けた。
「何かあったんでしょ?」という彼女に僕は素直に腹の内を明かした。
「俺さ、課題曲の件で講師から言われちゃってさ...どうしようって」
「課題曲は変えたくないんでしょ?」
「うん...俺やっぱ無理なのかな」
俺が弱音を吐くと、彼女は強く否定した。
「無理じゃない。私は君を信用してる」
思いがけない言葉に俺が驚いていると、彼女は打ち明けるように語り始めた。
「実はね、私、今まで音楽室から出られなかったの。それに、私の事が見えない人しかいなかった」
「俺が初めてだったの?」
「そう。私の姿のみならず、ピアノの音すら聞こえてなかったみたい」
彼女は優しく微笑み、俺と目を合わせた。
「だから、君が私の事見つけてくれた時、すごく嬉しかったの。今まで閉ざされていた牢獄に、光が差したみたいだった」
雨は次第に止み始め、無音と彼女の声がコントラストになっていた。
「なんで音楽室から──廃墟から出られているかは分からないけど、多分、君のことが好きだからだと思う」
「え...」俺の体温が明瞭に上がっていくのを感じた。
「何回ミスしても、私が今日はもうやめようって言っても、まだだめだ、ってやり続ける度、かっこいいなぁって思った。幽霊の私を頼ってくれて、認めてくれて──ごめん、うまくまとまらないや。」
彼女は涙を流しながら微笑んだ。
「私と出会ってくれて、ありがとう。好きだよ。これからもずっと」
俺も微笑んだ。涙のあとを隠すように手でおおって...
いや、違うだろ、俺。こんなもんじゃないだろ。
お前の気持ちはそんなものなのかよ?
「そろそろ帰ろっか」
「待って!」
俺は帰ろうと立ち上がる彼女を引き留めた。
「俺も好きだ...君のことが。どうしようもなく好きだ」
俺の口から、言葉が溢れた。
「指が流れて違う鍵盤を押す度、俺は自分の存在価値を確かめるくらい弱い人間だったんだ。だけど君は...どれくらい失敗しても俺の事を否定しなかった。ピアノだって...もう辞めようと思ってたくらいだった。君のおかげで...僕はここまでしがみつけてたんだよ」
「...私もだよ」
俺は彼女にキスをした。実態は無いが、潤いを含む唇が確かに触れた感触があった。
「───そろそろ帰ろっか」
俺たちは来た道を帰り始めた。もう傘はさす必要はなかった。
おそらく、もうこれ以上雨は降ることは無いだろう。俺は確信していた。
「あと三週間、絶対頑張ろうね」
俺は、「また」と手を振って、別れを告げた。
翌日、俺は講師に謝りに行った。
それと、課題曲が完璧じゃなかったら優勝は諦めると威勢だけはいい発言もしておいた。
講師は呆れたようにため息をついたが、「完成しなかったら、許さないからな」と期待をしてくれた。
そして時は流れ──夏のコンクール当日を迎えた。
*
「最善を尽くせ。優勝以外は見ないようにしろよ」
「分かりました。絶対勝ってきます」
緊張でガチガチだが、平静を装って返事をした。
その後はトントン拍子でことは進み、俺の番が回ってきた。
光に照らされたステージは俺の心臓をも明らかにするようだった。
ドッ...ドッ...という拍動が観客全員に聴こえているようだった。
俺はゆっくりと観客全員を見渡した。その時、目が合ったのだ。
「...ぁ!」
思わず声が出そうになる。
──白のワンピースだ
俺はフリーズをしていたが、すぐに我に返り、急ぎ足でピアノの椅子に座った。
俺は深呼吸をして、心を落ち着かせた。
鍵盤を滑らかに押す。何度も聞いた音色も、この場所だと全く違うものに感じられる。
序盤は安定した音で演奏した。そして忙しくなる中盤に差し掛かった。
低音を目立せ、音の重厚感を目立たせる。メロディーの動きは滑らかに。メリハリをつけるところはキッパリと鍵盤を撫でる。
観客の耳に音を届ける。そして、あいつにも...
終盤、ラストの決めを飾る場面だ。
難所が迫り来る。焦って曲のテンポが少し速まった。
(いける...!俺なら絶対行けるぞ!)
密度の高い音符を正確に、こなしていく。その中で表現を怠る訳には行かない。
難所に俺は必死に食らいついた。
あと4小節...2小節...!
俺はミスをせず、難所をくぐり抜けた。
(...やった!)
だが、気を抜かずに、最後まで集中して鍵盤を押した。
頭が真っ白になりながらも、何とか俺は曲を弾き上げた。
観客からは歓声と割れるような拍手が起こった。俺は感激よりも安堵の方が勝っていた。
結果は俺の優勝だった。そして念願の、全国大会への出場が決まったのだ。
*
あれから、ふと思い出して廃墟に行くことがある。
階段を昇って音楽室に行く、そこには無駄に風通しのいい部屋とピアノが広がっているばかりだった。
ついに、彼女とは会うことはもう無かった。
「ありがとう。君のおかげで俺、頑張れてるよ」
俺はピアノの椅子に花を添えた。
明るく、ピアノを太陽が照らしていた。
俺は今後絶対ピアノを辞めないと思う。
だって、見えなくなった彼女がいつ聴いているか分からないから。
「ありがとね」
ふと、ピアノの方から声がした。
だけどピアノには、ひとつの桜の花びらが落ちているだけだった。
透明な音 @Firsted
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