空想酒場
習作
第1話 黒騎士in酒場
ギィ、と。
小気味良い軋みを上げて、古びた木製の扉が開く。
押し開けた扉とすれ違いざま、古び色あせたその表面をちらりと目にして、ずいぶん使い込まれたもんだと、継野明日弥はぼんやり思う。
長い年月、風雨に晒され。何度も何度も出たり入ったりを繰り返されて。
最初はぴかぴかの作り立てだったその扉も、今や身体のあちこちに傷跡を宿した古強者だ。
ギィ、という軋みも、いささか滑りの悪くなった開き具合も、どこか古株の貫禄めいている――新米の頃のようにせかせかしていない。
(おまえとの付き合いも長くなったな)
そう呼びかけたのが、自分の方か、扉の方か、明日弥自身にもよくわからない。
どちらであっても通じるような、親しみを込めた無造作な仕草で、明日弥は後ろ手に扉を閉める。
そして、自らが足を踏み入れた屋内に意識を向けた。
こぢんまりとした酒場である。
長方形の一室に、四人がけのテーブルが四つ設えられている。客席はすでに半分がた埋まっていて、遠慮のない肉と酒と煙草の匂い、それから闊達な談笑の声が、明日弥の方まで漂ってきた。
誰がいるんだろうな、とは考えない。そういうことを考える日もあるが、今日の目的はそこにはない。
談笑と談笑、テーブルとテーブルの間を、明日弥は通り抜けていく。
ひょっとしたら、席に就いている誰かは明日弥の知り合いで、顔なじみの到来に気づき、お、と声を上げていたかもしれないが、明日弥は気づかないことにした。
酒場の奥には、長いカウンターがあった。やはり木製で、よく磨き込まれている。そうした丁寧さが一見を常連に変えるのだと微笑まんばかりに。
カウンターの奥の棚には、種々雑多なボトルが並んでいる。背の高いもの、低いもの。丸っこいもの、四角いもの。よくよくきっちり目を向ければ、それぞれの種類を見分けることもできるだろうが、明日弥にそのつもりはなかった。とにかくいろんな酒がある。そういう場所だということさえ、わかっていればいい。
瓶は多いが、人はいない。店主はおろか、従業員も。カウンターと棚の間には、ぽかんとした、いかにも何かの入る余地がありそうな、もの言いたげな空白だけがたゆたっている。
明日弥はカウンターに着くと、特にどこを見るでもなく、「カルーアミルク」と声を上げる。
すぐに、注文のカクテルが置かれる気配があった。明日弥はちらりとそちらに目を向け、姿を見せない店主の無骨な手が引っ込められるさまだけ確認すると、グラスに手をかける。
こんな場所を選んでおいてなんだが、実は、あまり酒に強い方ではない。明日弥は、ちょっと舌先をつけるような感じでカクテルを味わいながら、相手が来るのを待った。
ほどなくして、背後から、驚いたような扉の軋みが聞こえた。
軋みの大きさに反して、扉の閉められる音は、ぱたりと、どこか密やかだった。
ふうん、と明日弥は胸中でつぶやく。そういうところ、ちょっと几帳面なのかな。
がしゃり、という音が続いた。金属が擦れ合う、重々しく物々しい響きだ。
がしゃり、がしゃり。どこか不穏なものを感じさせる硬い音色が、喧騒のなかに異物として響く。
その音はすぐ、明日弥の隣に到達した。
そこでようやく、明日弥は新たな客人に――自らの待ち人に視線を向ける。
漆黒の甲冑を身にまとう、騎士である。
黒騎士。と、明日弥は彼の名を心のなかで反芻した。本名は不明、ただ、そのように呼ばれている。この出で立ちなら、それもむべなるかなである。
甲冑は、板金を重ねたような重厚な一品で、縁には精緻な金の模様が描かれている。どこか貴族的であり、あるいは、魔術的とも取れる意匠だ。
真っ黒な鎧というだけでも、見るものになにか特別な意味性を想起させてやまないのに、さらにただならぬ紋様があからさまに施されているのだから、その存在感は計り知れないものがある。
まるでそこだけ、小さなブラックホールが生じたように、空間が重く、ねじれている気がした。
白いパーカーに紺色のジーンズという、明日弥のラフな格好とは大違いだ。
騎士は、頭から爪先まで甲冑に覆われていて、もはや人間というより甲冑に独りでに歩いていると言われても納得できてしまいそうだったが、つるりとした丸い兜の口の部分だけは、いかなる防備も施されておらず、甲冑とは対象的な白い肌が覗いている。余計な肉をヤスリで削り取ったようにシュッとした頬と、真一文字に閉じられた口元が、この騎士の意志の強さを、あるいは類まれなる頑固さを、見るからに主張している。
「どうも」と、とりあえず明日弥は声をかけた。
生半可な言葉など、鎧に弾かれてしまいそうだなと思ったが、
「俺を呼んだのは、おまえか」
ずしりと腹に響くような、落ち着いた声が返ってきた。
若い、と感じる。二十代というところか。だが、その声音が孕む重みは、深い歴史を感じさせる。彼という人間の半生を織りなす歴史。普通の人間の、数倍か、あるいは数十倍は濃いのだろうと思わせるほどの、深みというか、奥行きがある。
「あんたの話を聞きたくてね」
明日弥は答え、グラスを振った。
「頼みなよ。俺の奢りだ」
「誰かに借りを作る気はない」
黒騎士はにべもなく断り、「ジンを」とだけ、奥に声を放った。
酒は飲むわけね、と、少し明日弥は意外に思う。しかしジンか。ジン。短く、ばっさり切り断つような響き。ワインとか、ブランデーとか言われるよりも似合っているな、と思う。
しかし、彼の世界にジンという酒はあるのだろうか? ジンの由来について、ちょっとちゃんと調べないとな、と明日弥は心の中のメモ帳に書きつける。
そうしているうちに、ジンのグラスが運ばれてきた。明日弥の視界には、相変わらず、グラスを差し出す店主の手だけが入り込んでいる。店主がどんな服装をしているのかは、まるで見えない。
「乾杯」
グラスを向ける。黒騎士は反応せず、軽くジンを呷った。
「それで」
兜の奥から、斬りつけるような視線が飛んでくるのを感じる。
「何が聞きたい」
「そうだな。さて、何から聞いたもんか」
軽く酒で唇を湿し、続ける。
「まずは基本情報の確認だ。
あんたは黒騎士。通称、黒騎士。
騎士でありながら魔法を修め、騎士王国ナイティアと対立する魔法王国ウィザーディアに与し、多大な戦果を挙げている。
供は連れず、常に孤軍。にもかかわらず、あんたが参加した戦いで、あんたが負けたことはない。超人的な剣の技量と、圧倒的な魔法の威力で、あらゆる軍勢を打ち砕いてきた……」
黒騎士は否定も肯定もせず、わずかにジンを呷るのみ。
まあ、そうだろう、と明日弥は思う。この程度の事柄は、〝誰でも〟知っていることなのだ。
「ここからが質問だ。あんたは、剣より魔法の方が優れていると考え、ナイティアを裏切ったとされている。だが、本当にそうなのか? あんたの真意は、他にあるんじゃないのか?」
「そうであるか、そうでないか」
黒騎士は、地に響くような声で答える。
「貴様に答える理由はない」
そういう言い方をするわけね、と明日弥は考える。肯定でも否定でもなく、質問自体の拒絶。格の違う人間はそもそも質問をすること自体が無礼だと、そういう姿勢を取っている。
いい答えが得られたが、ここで話が終わっては仕事にならない。
「答えてくれたら、俺も、あんたの知りたいことを答えてやれる」
明日弥は、わざとらしくグラスを振って、中の氷をカランと響かせる。
黒騎士は返事さえしなかったが、明日弥はそれを、言ってみろ、という無言の催促だと解釈し、とっておきの一言を放った。
「古代魔法騎士王マジュラの遺産が、どこにあるかを」
黒騎士は、やはり、答えなかった。
ただ、その沈黙の質が変わったのを――硬く、鋭い刃のような気配を帯びたのを、明日弥は如実に感じ取っていた。
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