ばら色の人生

foxhanger

第1話 新生活

 二〇一八年の春のこと。


 大井町駅はJR京浜東北線と東急大井町線が交わる、品川区の要衝のひとつだ。

 その駅前から、池上通りを渡って南大井の方角に歩く。東芝病院の裏手、東京の山の手と下町を分かつ崖に沿った道を歩いて行くと、その店はあった。

 店の名前は「ファットキャット」という。名前の通り、太った猫がいつも入り口脇のカーペットに横たわっている。


「あなた、毛受(めんじょう)さん?」

 声をかけられた。はっとして声のした方を見ると、カウンターの向こうには、宮口芳花(よしか)がいた。

 一瞬驚いたが、にっこり笑って返事をした。

「ご無沙汰です、じつは近所で仕事することになったんです。それより、どうしてこんなところで?」

「マスターが、旦那の知り合いだったのよ。人手が足らないって訊いたんで、やらせてもらった」


 彼女は元マンガ家だった。大学在学中にデビューして、それからずっと青年マンガ誌などで作品を発表していた。得意なジャンルは、すこしエッチな描写も入ったラブコメディで、代表作は深夜アニメにもなったが、連載が終了したのを機に、一区切りをつけようと思ったらしい

「うん。今ではこの店で、パートをやっているの。マンガ家はひとやすみ」

「やっぱり、お疲れですか」

「うん……やっぱり、年齢かな」


それ以来、仕事が引けたとき、週に一回程度この店を訪れるのが、毛受俊之の習慣になった。

 毛受は「行きつけの店」を作らない主義だった。「知っているひと」がいる場所ではくつろげないし、店員が「常連客」とベタベタしたり、なにかと特別扱いしているのを見るのも愉快ではなかった。

 しかしこの店は例外だ。

「あのアニメの視聴者も、作者が大井町で喫茶店のウェイトレスやってるなんて、ねえ」

「そうね」

「ところで毛受さん、ライターはもうやめたんですか?」

「……ええ。しかし、人生というのは、案外リセットできたりするものですね」

 そのとき、思ったことだ。


 毛受が宮口のことを知ったのは、ある雑誌がきっかけだ。

 中学生だった頃、ちょっと遠出した繁華街の本屋で、その雑誌を手に取った。

その雑誌の名前は「オンサイド」という。

「オンサイド」は、八十年代から数年前まで刊行されていたアニメを中心とした雑誌である。

一応「アニメ雑誌」とは呼ばれているが、アニメやマンガの情報より誌面の主になっていたのは、読者の投稿である。

イラストから文章ネタ、フィギュアなどの立体作品のコーナーもあり、誌面の大半が投書欄で構成されていた。

イラスト欄はレベルも高かったが、イラストやマンガは画力勝負だけでなく、受ければ何でも載せるという懐の広さがあった。この雑誌の常連投稿者から、プロのマンガ家、イラストレーターになっていったひとも多い。

 テクニックのあるひと、ネタで勝負のひと、文章オンリーのひと、

 ある投稿者出身クリエーターの言葉を借りれば、「『表現する側』に招き寄せようとする仕掛けが随所に施されていた」雑誌だった。

 今売れっ子のマンガ家でも、当時投稿していたというひとが、何人もいる。


毛受が生まれたのは、一九七二年。高度成長期ではあったが、まだ日本の隅々にまで「豊かさ」が行き渡っていない時期だった。

毛受が育った環境もお世辞にも「文化的」な環境ではなかった。

 当時住んでいた街には、本屋がなかった。小学、中学は公立の学校に通っていたので、学校の行き帰りに立ち読みをするという習慣とも無縁だった。

 商店街の文房具屋や酒屋には——まだコンビニがそこらにある時代ではなかった――—マンガ週刊誌くらいは売っていたが、マニアックな雑誌は繁華街に行かないと、手に入らなかったのだ。

 アニメブームで興味を持ち始めて、専門誌を読み始めた

 アニメの情報誌だということは知っていたが、手に取ってみて、惹かれた。

 表紙から最後のページまでぎっしり絵や文章が詰まっていて、内輪受け、というか、継続して読んでいないと分からないようなネタもたくさん載っていて、独特な雰囲気を醸し出している。

 しかし「面白さ」を感じて毎号買うようになった。分からないままでも「マニアックな世界」に惹かれていったのだ。

 そして、宮口はその雑誌の常連投稿者で、イラストやマンガを掲載されたことをきっかけにプロのマンガ家になったのだ。

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