二 護り
ただの大人しい娘だと思っていた。
明るく喋るのは、朱鷺彦が現れたときだけのようだった。その彼を喪った後はますます内気になったように見えた。
姿を見せてと言われたときには、戸惑った。彼の方もそれどころではなかったから。葉隠もあの日、すべての血族を失った。
朱鷺彦は、彼の双子の兄だった。
月読の里長に双子が生まれたら、十の歳までは二人を同じように育てる。しかし十歳を迎えた後は、どちらが月読の神に選ばれるかによって全く別の道を辿った。
勾玉の主に選ばれたのは朱鷺彦だった。彼が月読の嗣になり、弟は兄の臣下になると決まった。同時に葉隠は、体を失った。月明かりのもとでしか姿を現わすことができず、それ以外は獣の体を借りるしかない。
月読の神が呪ったのは風読だけではなかったのだと、その後父から聞いた。
考えなしに神宝を渡そうとした若者にも、罰は与えられた。彼が級長戸辺の娘の気を引こうとしたのは、双子の兄弟と張り合う心があったかららしい。以来、月読方に双子が生まれたら、片方は体を捨ててもう一人に仕えることになった。
名も知らない祖のために、葉隠は里で一番の武人になるはずだった身体を失った。
月夜に父親から武術の習練をつけられる以外、ひたすら兄について回った。自分と生き写しの兄が嗣として育てられるのを見た。このことは風読方には知らされなかったので、葉隠が身体を捨てたことを夕星が知る機会はなかった。
朱鷺彦はあの夜、葉隠に夕星を託した――あるいは逆かもしれない。朱鷺彦とともに死ぬはずだった自分は、夕星に委ねられて長らえた。身体を捨てて以来の失意の暮らしが終わるのは、そう名残惜しいことではなかったのに。
最初は、四つ年下の姫君を護ることが上手くいくか分からず必死だった。何とか出雲から逃げおおせ、夕星が美しく成長すると、護りに余裕はできたけれど戸惑いは深まった。熊襲の影がつきまとったことが、一層葛藤を呼んだ。
夢のなかは、本来護りの務めと関係ないはずだった。なのに葉隠は、どうにかして彼女を護りたい自分に気づいた。伊都で夕星が夢を見なくなったときには、心底安堵した。
それまでの慌ただしい歳月に起こったことを整理するためにも、伊都の暮らしは夕星にとって良かったのだと思う。同時に彼女は、姿を見せてと呟くこともなくなった。かつては葉隠をよすがに支えていた心を、今やひとりで支えられるようになっていた。
夕星が自分のなかに朱鷺彦を見ることを、葉隠は恐れていた。ずっと朱鷺彦の影であった自分が、永遠に自分自身であることを阻まれるような気がした。
兄以外の誰かを護り、ましてその誰かが葉隠をこれほど重んじてくれると考えたことはなかった。だからそれがこれほどまでに、満ち足りて切ないものだとも知らなかった。
慕っていることを気取られないためどうしたらよいか、考えることが増えた。同時に、その想いを夕星と分かち合うことができたら、と望まずにおれなかった。
危ういところで踏みとどまっている均衡は、夕星が彼のなかに朱鷺彦を見つけた時、全て崩れてしまいそうだった。加えて葉隠は、今更ながら死の間際の兄の考えを悟っていた。
朱鷺彦は自らの死を悟った時、葉隠の主を変えさせた。それが許嫁と、主に結びついた命を持つ弟の両方を救える、唯一の道だったから。
兄が夕星のみならず自分も生かそうとしたと気づいたとき、葉隠は朱鷺彦の中に、今までのどんなことより超えがたいものを見つけてしまった。
葉隠は兄に対し、嫉妬と羨望以外を覚えたことはない。優秀だともてはやされていた時も、無邪気な驕りがあるだけだった。だが兄は自分に、何ら陰のある気持ちを抱いてはいなかったのだ。だからあれほど迷いなく、葉隠を生かすための選択をしてみせた。
剣や拳で負かされるよりも辛いことだった。それこそが、夕星が朱鷺彦を一心に慕った理由でもあったから。自分がどれほど夕星を大切にしても、彼に勝つことはきっとできない。
夕星が朱鷺彦をすべて忘れるまで、姿を現すことなどしたくなかった。だが、夕星が兄を忘れていくことと、強くなって葉隠から離れていくことは同義だった。
その孤独はきっと、決して癒せないものになるだろう。だからこそ、日向大王の呟きが頭を離れなかった。
――何人とも胸の裡を分かちあわないということが、どうやら身体も蝕むようなのだ。
葉隠は今にして、身体を捨てた意味がわかった気がした。主のみに存在を知られ、その人だけを護って生きることは、大王に勝るとも劣らぬ孤独だった。その孤独に蝕まれることのないよう、月読の護りはあらかじめ身体を捨てるのだろう。
主が大王と同じ闇に引きずり込まれようとしていることが、彼には恐ろしかった。伊都での脆く穏やかな暮らしに代わる、新たな安寧を探さねばならなかった。
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