六 主

 夕星は茫とした足取りで寝所へ向かった。薦に座り込むと同時に、虚空から切羽詰まった声がした。


「夕星様」


 疲れた面持ちのまま、夕星は苦笑した。気遣わしげな声音は、これまで聞いたことがないものだった。


「そなたから話しかけてくるとは、稀有なことだな」

「お戯れを言っている場合ではありません。多岐都様の仰ったように、ここから逃れなくて良いのですか」


 目を伏せた夕星に向かって、彼は続けた。


「大王の言う理屈は、向こうなりの筋が通っているのかもしれません。しかし、その定めに級長戸辺の娘が絡めとられることの是非は別の話です」


 静かだが切実な口調だった。こんな時なのに、葉隠が生身の感情を向けてくれたことが嬉しい。これほど自分を慮った言葉を。


「かの国はいずれ火の山に呑まれる。そこへ逃げても命を縮めるだけだ」

「しかし――影となることを、受けいれて良いのですか」


 夕星は少しだけ目を細め、頷いた。


「私がすることは、ここへ来たときから変わっていない。筑紫洲を平らげる日向大王に仕え、願うらくは秋津洲に還る」


 逃避行に打って出ることで、葉隠を危険に晒したくなかった。もし逃げると言えば、彼は護りの務めを果たそうとしてくれるだろう。でもそれより、彼を確実に守れる道を取りたい。国も許婚も喪った自分にまだ、守りたいものが残されているのだから。


 夕星は、月読の短剣を衣ごしに握りしめた。


「罔象姫を見送った時と同じことを、其方に確かめたい」


 先の言葉を待たずに答えがあった。


「私の主は夕星さまです」

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