五 孤高

 張りつめた静寂を破ったのは、日向大王だった。


「高良彦」

「何だ」


 怪訝な顔で姉を振り返った彼に、大王は言った。


「退がれ」

「はあ?」


 高良彦は露骨に声を高くした。彼の苛立ちをよそに、大王は涼しげに言い放つ。


「朝霧と二人で話すので、退がれと言っている」

「まだ話は終わっていない」


 高良彦の抗弁にも、大王は動じた様子がなかった。


「おおかた終わっただろう」

「しかし」


 言い募る高良彦に、大王の目がにわかに鋭くなった。


「大王の命だ。何人たりとも、抗うことはならぬ」


 言葉に窮した高良彦は、苦虫を嚙み潰したような顔で渋々引き下がった。


 彼が重い足取りで立ち去るまで、大王は一言も発さなかった。やがて弟の姿が見えなくなると、夕星に向き直り苦笑した。


「高良彦は私がいると動揺を隠さない。戦場ではとりすましているらしいが、ここでも同じようにふるまってほしいものだな」

「姉君に甘えているのでしょう」


 我ながらふてぶてしい言い草だったが、大王はさらに笑んだ。知らない間に多岐都に似た言い回しは、どうやら撤回の必要はなさそうだった。


「ここへ来た頃と比べると見違えるようだな。胆力も、風読の力も」

「そうでしょうか」

「だからこそ、そなたに影を頼みたいのだ。依代に取るつもりはない」


 凪ぎ切った表情の裏を見透かそうと、夕星は大王を見据えた。素直に信じる気には、どうしてもなれない。落ちのびてきた自分を掬いあげたのと同じ手で、多岐都の大切な人の命を奪ったと知ったいまは。


「初めて話したときのことを覚えているか。朝霧という名を渡したときのことだ」

「覚えております」


 忘れるわけがなかった。


「其方の名を聞くより前のことだった。真の名を知らぬ以上、依代に取るなど叶わぬのだ。これからそれを訊き出す気もない」


 多岐都たちが本当の名を明かさずに生きている理由が、これではっきりしたわけだ。ただ、自分も同じように名前を知られていないからといって、安心できるわけではない。


「それでも――影を務めた後に、ふたたび生きてここを出られるとは思えません」


 とりわけ高良彦がそれを許すとは思えない。心からの懸念を口にした夕星に、大王は目を眇めるようにして言った。


「無理もない。だが其方には、台与が大王となった後も傍にいてやってほしい。死後のことは先見ができず、私はあれの力になれない。ただ、其方らと台与の定めがどこかで絡み合うことだけはわかっている」


 弟が一言も触れなかったことを、大王は言った。


「高良彦はあの通り、先見のことはよく分からぬ。風読のそなたのほうが、台与と分かち合えることは多い。何者にもない力で、人を導いたことのある其方なら」


 大王は考えこむような面持ちになって、一瞬目を伏せた。


「高良彦は依代を取ったことはない。だが私の身体は、どれも高良彦ほど長くもたない――生まれついた身体も、それ以外も。何度やっても同じだろう。心中の澱が身体を蝕むのだ」


 話が見えず、夕星は首を傾げた。


「どういうことです」

「恋をせず嫁すこともない私が、誰も持たない力を操っている。何人とも胸の裡を分かち合わないということが、どうやら身体も蝕むようなのだ」


 大王は自嘲するような笑みを浮かべた。


「高良彦や、他の日の神の裔たちと、私は何が違うのか知りたかった。だが、朧にそれしかわからなかった」


 黙した夕星の前で、大王は静かに言った。


「そなたにとって当たり前に覚悟できていることの多くが、我らにはできておらぬな」


 子を産めば命が絶えることも、郷里を喪ったことも、夕星にとっては厳然たる事実だった。だが依代にされると思ったとき、死にたくないという思いが鮮烈に湧き上がった。いつの間にか宿っていた強い気持ちが、今は確かに胸を叩いている。人を殺めてまでも死から遠ざかろうとしたあのときの衝動と、違う何かが。


 風読を産む務めを離れ、本来会うはずのない者に会った夕星は、かつて望まなかったものを望むようになっていた。決められた相手の妻になって死ぬことを望んでいた自分は、いつしか生きることから離れられなくなっている。


 少しでも長く生きていたい。願うらくは、彼が姿を見せてくれるその日まで。

 漂うしじまのなかに、大王がぽつりと呟いた。


「きっと智舗の女王とは、それほど長く務めるべきことではないのだ」


 夕星は唇を引き結んだまま大王を見据えた。身像の姫の命を奪い、その体に棲み続けるこの人を信じて良いものか――他に選択肢があるかないかは別にして。


「其方を害するつもりはない。台与の定めを想う故でもあり、朝霧姫に会えたことを幸いと思うゆえでもある」


 その目に深い哀しみが宿っていたことに、夕星は随分後になってから気づいた。


「勾玉を、肌身離さず持っていなさい。きっとそなたを護るだろう――風招かぜおぎの娘」


 奇しくも死にぎわの朱鷺彦と同じ言葉を、大王は口にした。ただあの夜もいまも、夕星にはその呼び名の意味を考える暇はなかった。


 どうすればいい――大王の見えない力から、高良彦の張り巡らす監視の目から、夕星が逃れられる術があるとは思えなかった。影であるあいだは生きることが許されるものの、その先の定めは不確かだ。これまで信じてきた大王は、夕星と台与の定めがどこかで絡みあうはずだというが、その確かさを占う手立てはない。


 逡巡に逡巡をかさねる心のなかに何も見いだせないでいたとき、ひとつの望みが浮かびあがった。大王に仕えるという目的を見失ったいま、それでもまだ確かなものがあった。見通しが立たないのなら、ただひとつ確かな、自分の望むものに縋るしかないと思えた――それが正しいかどうかは、わからないにしても。

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