それは確かな優生思想
@yamaneko0510
それは確かな優生思想 第一章~第七章
大衆のフォーカスに沈黙の聖夜は崩れ落ちる。赤く染まりゆく生命線、メリークリスマス。拝啓異端な君へ、今宵僕はなにを話したらいい。
第一章
神よ、どうして君はこの世界に劣性遺伝子を生み墜とした。与えられし刑罰は懲役余命。さざめく放課後の廊下に僕は俯く。
「英徒、一緒に帰ろうぜ」
背後から迫る声に、僕は振り向いた。緩んだネクタイに、縫い目がほつれた袖口のワイシャツ。彼は、幼少期からの親友、赤坂テル。
「いいよ」
だらしのないその恰好は、どこか母性本能をくすぐる。
「ちゃんとしろよな。見苦しい」
そうとは言いながらも、僕は手を焼いてネクタイを締め上げた。
「どうも。そういや期末どうだった? 俺ガチで留年しそう」
期末テスト、返却された答案用紙は、空欄で不正解に染まるバツ印。叱ってくれる大人がいない僕は、どうしたらいい。
「僕もだよ。赤点ざんまい」
「なんだ、同士がいれば安泰安泰」
そう言って、テルは満面の笑みを浮かべた。しかし、テルは特別支援学校の入学基準には満たない、軽度知的障害者。つまり、僕の努力不足から生まれる赤点とは訳が違う。
「同士だなんて失礼な」
僕は、テルの肩を軽く叩いた。僕と君との間柄、互いの傷を舐め合うような仲ではない。そうに決まっている。努力不足と発達障害、僕と君との価値が同等でいいはずがない。
「そりゃどうも失礼しました」
「いや謝んないでよ」
夕焼けチャイムに、視界を横切るバスケ部。響き渡るスキール音は、届かぬ青春のようでズキンと胸が痛い。
「あぁいうの羨ましいな」
僕は、心なしか青春に反射板を翳していた。「でも俺ら帰宅部のエースじゃん。勝手に落ち込むなよ」
「それもそっか」
現状は納得せざるを得ない。ひとまず僕は、靴を履き替え、放課後の校舎に背を向けた。里山、無観客の陰で夏を奏でるひぐらし。銀河を照らす太陽が、僕の角膜を刺激した。
「昨日英徒の兄ちゃん見かけた」
「どこで?」
二年前、兄さんは何の前触れもなく忽然と姿を消した。いわゆる消息不明。今はどこで何をしているのか、さっぱり見当もつかない。「聖蹟桜ヶ丘駅。それに女もいた。もしかして彼女かな?」
「そうかもね」
兄さんは、僕とは正反対の優等生。我が弟ながら、兄さんを恋人にしたその女性は、幸運の持ち主だと思う。
「モデルみたいな美女だったよ」
「あぁそう」
「いやリアクション薄っ」
その指摘に、僕は思わずため息を吐いた。
「だってしょうがないじゃん」
僕は生まれながらにして、愛を選択する権利を持っていない。二世信者、教義で恋愛は固く禁じられている。愛を知らない僕は、果たしてこのまま大人になれるのだろうか。
「神なんてなければな」
ふと、僕はその言葉に罪悪感を覚える。
「ごめん」
父さんを教祖とするカルト宗教、“エデンの光”は、テルの家族を破滅へと追い込んだ。テルの母親は、今もなお教会で名を馳せる熱狂的な信者、いわゆるエデンの上層部。家のローンや養育費、ありとあらゆる財産を費やしては、都合よく食い物にされている。そんな母親を成した、教祖の血縁者である僕は、一体どんな顔をしたらいい。
「は? 英徒のせいじゃねーよ」
渋滞の激しい交差点、クラクションに足を急かされる。
「ありがとう」
「いいってことよ。ってかそれより教会は大丈夫なのか?」
単刀直入に言ってしまえば、大丈夫ではない。兄さんが失踪したあの八月から、僕は一度も教会に足を運んでいない。
「バレたらそれが僕の最後かも」
礼拝を放棄することは、信者としてあるまじき行為。たとえ教祖が僕の肉親であろうと、最後の審判は容赦なく地獄の判決を言い渡す。「そんときゃ俺が守ってやるから大丈夫だ」
なんて無責任な。何とでも言える口約束は、期待の裏返し。そう、裏切られる結末はバッドエンド。しかしその話乗った! どうせ逃れられないのなら賭けてみようじゃないか。
「マジで信じるよ?」
建ち並ぶ老舗に、僕は足を止める。
「おう!」
何も疑うことはないさ、大船に乗ったつもりで。枯渇して腐敗した心が一命を取り留める。ようやく目を覚ました、心の奥底に眠る、しがないダーリン。よろしく頼む。
「僕こっちだからまたね」
大通りの別れ際、僕は通学路に背を向ける。罪悪感を覚えつつも、エデンに心を許すことはできない。いっそのこと、然るべき教義に拘束されてしまえば楽になれるのに。敬うべきあなたにとって、マインドコントロールをさせない僕は、親不孝者ですか。
「じゃあな!」
僕のマイホームは、いわくつきの公園。しかし、そんなことは口が裂けても言えない。せめて取り繕う嘘だけは幸福でありたいから。僕は、家には帰れない。
「英徒くん、おかえり」
路上生活を営むホームレス、浩一さん。浩一さんは、居場所のない僕を快く受け入れてくれた恩人だ。
「ただいま」
緑揺らめく木の葉に隠れる公衆電話。この公園は、精神病院の跡地として知られている。女性看護師が、精神障害者に怪我を負わせただとか、死に至らせただとか。時折その怨念が、ここを彷徨っているらしい。しかし、僕にとってはありがたい話。そんな噂が周りに回っては、悪霊を敬遠するよう、住民は立ち入れない。つまりはストレスフリー、野宿に最適な環境だ。
「もしよかったらこれ」
浩一さんは、またいつものように、食パンのロゴがデザインされた、薄手のビニール袋を差し出した。
「いいんですか?」
袋の中身はパンの切れ端。悪く言ってしまえば、パン屋の廃棄物。しかし、路上生活を営む上で食料は欠かせない。生活必需品なのだ。
「うん。俺は昨日の残りがあるから大丈夫」
「すみません。ありがとうございます」
僕が袋に手を伸ばすと、浩一さんはアルカイックスマイルのような微笑を浮かべた。
「困ったことがあればいつでも言ってね」
優しさや思いやり、そして無条件に人を愛すること、それは僕が知る世界には存在しない、まるで異世界のようなものだ。
「どうして……そんな……意味ないですよ」
あいにく金なければ名誉もない。そんな僕に、善意を与えたところで何になる。恩を仇で返してしまえば、元も子もない。そう、過度な期待はかえって自分の首を絞める。それはもはや、突き放してしまいたいくらいに。
「いいんだよ。エスオーエスは英徒くんの特権なんだから」
仮にそうであるのなら、僕はまだこの世界に希望を持つことができる。
「ありがとうございます」
「もし時間あれば話そう」
友引、仏滅、赤口……六曜問わず脳内にあるスケジュール帳は空白のまま。
「はい。どうせ予定なんてないですから」
公園の一角にある秘密基地。僕は、浩一さんのマイホーム、段ボールハウスへと足を運んだ。そして、ちっぽけな異世界の入口に身をかがめる。四方八方から風が吹き込む。屋根を覆うブルーシートは、すぐにでも夕凪に連れ去られてしまいそうだ。
「お邪魔します」
窓一つない汚部屋に光を灯す、キャンプライト。息を潜める隠れ家は、僕が幼い頃に見た夢、秘密基地そのものだった。
「汚いところで申し訳ないね」
「いえとんでもない」
「さぁどうぞ座って」
僕は、渡された座布団に腰を下す。
「失礼します」
だが、どうもしっくりこない。感覚が麻痺しているのか、それとも恐怖におののいているのか、正座をしなくては、教義に反して存続が危ぶまれる……。僕は末期だ。
「いつからこの生活してるんですか?」
思わず口走った。
「すみません。失礼でしたよね」
地雷を踏めば厄介なことになる。僕は、波乱の予感に深々と頭を下げた。
「そんなことないよ」
「すみません」
言い慣れている言葉は吐き出しやすい。
「俺には息子がいるんだ」
「そうなんですね。初耳です」
てっきり独り身なのかと。
「通帳残高五十万。息子はまだ高校生で金もないだろうから……仕送りしてる」
浩一さんは、酔ったような勢いで話し始めた。野宿をしてまで仕送りとは、何と気の毒な。
「じゃあ昼間は働いてるんですか?」
昼間は居眠り授業中。そんな僕は、働く浩一さんの姿を知らない。
「そうだよ。高卒で資格もないから低賃金の肉体労働」
現場仕事という低賃金最高峰の職業か。いつもお疲れ様です。
「給料はほとんど仕送りですか?」
「そうだね。息子の為なら何でもしてあげたいのさ」
それは無条件の愛。目を背けたくなるような、耳を塞ぎたくなるような、『君を愛する者はいない』と、僕はぽつりと敗北言い渡されたようだった。
「浩一さんが親だったらよかったのに」
僕は、心の奥底に眠る本音を呟いた。もしも、子が親を選択する権利があるのなら、僕は以後二度と過ちを犯さない。
「そう? いいことないと思うけど」
その言葉に、僕は左右に首を振った。
「やっぱ違いますから。親に愛された人間とそうじゃない人間」
ちなみに僕は、後者の人間。
「まぁそれは否めないね」
「ははっ……」
目から涙も溢れない。愛されない人生なんてあんまりだ。天井を見上げると、雲一つない空に飛び交う航空灯が、夜を知らせていた。「くだらない話聞いてくれてありがとう」
「いえこちらこそ」
ひと段落した僕は、裸足のままスニーカーを履いて、屋根を潜り抜ける。靴擦れが痛い。「じゃあ気をつけて」
「はい。お邪魔しました」
僕は頭を下げ、その場を後にした。公園の時計塔、時刻は八時十五分。退屈な夜を持て余す。散歩でセロトニンでも分泌するか。いざ、僕は閑散とした夜道に一歩を踏み出す。
「来週の土曜日、パパお休みだから出掛けようか。麗奈ちゃんはどこ行きたい?」
レジ袋を抱えた親子が横切る。週末の予定計画か。家族円満ジェラシーだな。
「えーっとね……遊園地! パパとママと観覧車乗りたい」
「それはいいわね」
次第に声が遠のいていく。僕の地雷の宝庫、住宅地。天涯孤独をどうしてくれようか。心なしか、僕は一歩後ろに引き下がる。彷徨う視界に、一軒佇むコンビニ。そうだ、寄り道でもして帰ろう。
「いらっしゃいませ」
手書きのポップが目に留まる。“ネットで話題奮闘中、新作のエナジードリンク”か。お父さ……いや教祖に教わった。『カフェインや糖質は体に毒である』と。
「次のお客様どうぞ」
レジに並んだ僕は、すぐさま店員にそのエナジードリンクを突き出した。
「袋はご利用ですか?」
「いえ大丈夫です」
切れ長の目に色白の肌。同性までも魅了する、その韓国アイドルのような顔立ちは、まるで砕けないダイヤモンドのようだった。
「それではお会計二百五十円になります」
スラックスのポケットにある小銭を、ガサゴソと指先で探る。しかし何という事だ。所持金はたったの二百円。「こればかりはどうしようもない」と、僕は、教義に反することを諦めた。
「すみません。お金足りないのでキャンセルします」
すると店員は、気の毒そうな顔をして、コイントレイを下げた。
「分かりました。ではそちらお預かりしましょうか?」
「いえ大丈夫です」
僕は、元の陳列棚に商品を戻した。リーチインショーケースに反射する惨めな少年。金もなければ、夢も希望もない。恥ずかしいというか、情けないというか、もはや存在自体が見苦しい。僕は、不確かな幻想に破滅願望を抱いた。いっそのこと死んでしまおうか。僕は、いつだってエデンの過去に囚われている。
「ありがとうございました」
先程の店員は、レジを空け、商品の陳列作業へと戻った。絶好のチャンスだ。僕は、防犯カメラの目を盗んで、商品をポケットに入れた。商品が目的なのではなく、二世信者ではない“何者”かになる為に。これで僕は、ようやく犯罪者になれる、そう思った。
「ちょっと待ってください」
店を出ると、僕は背後から迫りくる恐怖に腕を掴まれた。
「なんですか?」
振り返ると、その存在の正体はあの店員だった。ハイライトのないモノクロのような目。どうやら今宵は、月の光も届かないらしい。
「お金払ってませんよね?」
「いや……」
弁解に戸惑う僕は、勢いよく店員の手を振り払った。あぁ、確かな勇気さえあれば。臆病な僕は、どうやら犯罪者としての素質がないらしい。
「どういうつもりだ!」
大事になるとまずい。問い詰められた僕は、その場しのぎに頭を下げた。なぜだろう、逮捕は本望であるはずなのに、許しを請うてしまうのは。馬鹿の悪足掻き、店員が蹴り上げたスパイクが、勢いよくみぞおちに直撃した。「クッソ……」
尻餅ついた駐車場、何をしても上手くいかない。僕は、咳き込みながら腹を抱える。しかし、店員は通報する素振りを全く見せなかった。
「万引きなんてもったいねぇよ」
その言葉に、僕はふと我に返る。
「……ごめんなさい」
破滅願望を抱いていたとはいえ、僕は危うく我を失うところだった。躊躇なく未来を切り捨てる勇気があればいいのだが、実際はそうもいかないらしい。なぜなら、僕が持つ希望と絶望は、矛盾しているから。
「金に困ってんのか?」
その言葉に、僕は力強く頷いた。
「まぁ今回のことは黙っといてやるよ。お前って見るからに金なさそうだしな」
余計な一言だな。とはいえ通報は免れた。悔しい反面、僕はその優しさに救われる。
「ありがとうございます」
「お前が盗んだ分は俺の奢りな」
「……申し訳ないです」
「いいってことよ。魔が差したんだよな、お前は悪い奴じゃない……きっと」
曇り空が眩しい、今宵は満月か。迷うことなく、僕は差し伸べられた手を掴んだ。
「ありがとうございます」
「貧乏人同士頑張ろうな!」
さぁ、心を入れ替えようではないか。
「はい」
「ところで腹は大丈夫か?」
心配ご無用。こう見えても僕は、痛覚の耐久性に優れているのさ。
「どうってことないです」
本音を言えば、まだ肝臓のあたりが痛むけれど……受け身になるばかりではいられない。受けるよりも与えなくては。僕には、情けの利息を払う義務がある。
「気をつけて帰れよ」
僕は、その手に背中を押される。
「はい! ありがとうございました」
閑散とした夜道、住宅は眠りに落ちる。思考のサーバーがシャットダウン。誰も彼も、この静けさを取り巻くように、孤独をカーテン裏に隠している。僕が僕でいられるよう、僕は僕を許してあげたい。
「聞こえますか? 聞こえますか?」
マイホームに土足で踏み込む救急隊員。それから、バックドアに搬送されるホームレス。「浩一さん……?」
僕は、呆然と立ち尽くす。つまらないね。いつだって、幸福は不幸の前兆に訪れるんだ。東から絶望が昇り、西に希望が沈む。どうせ幸福なんてハッタリだ。信じる者が馬鹿を見る。
第二章
もしも……もしも……生まれ変わることができるのなら、僕は神様にでもなってこの世を消し去りたい。
「おまたせ!」
能天気な挨拶に、僕は顔を上げる。
「なんだまた遅刻か。待ちくたびれたよ」
「それがうっかり寝坊しちゃってさ」
時刻は、既に午後一時を回っていた。
「昼夜逆転だな」
「そうそう。不安で不安で」
そう言って、テルはかったるい寝癖にあくびをした。
「不安か……」
なんだよそれ……知らない知らない。わざと僕は知らないふりをした。それでも不安は幾度となく押し寄せる。思考脳内フェスの開幕だ。
「そういや英語の小テストあるってさ」
僕は、単語帳を片手に話を逸らした。クロスは十字架、ソウルは魂、プレイは祈り……。「うっわ。そういうことは先に言えよ」
「いや言ってもやらねぇだろ」
「そのとおりだ!」
あっはは、くだらないね。僕は曇天に笑う。きっとそう、こうして笑っていられるのも今のうちだから。
「席についてください」
授業開始の五分前。担任教師の綾瀬先生が、生徒に着席を呼び掛けた。
「えぇ……まだチャイム鳴ってないのに」
指示に従い、僕は潔く単語帳を閉じる。
「そんじゃまた後で」
砕けたホワイトチョーク。ガラス越しに見えるバルコニーは、たばこの吸い殻で重々しく息苦しい。僕は、灰に遺伝子をなぞる。
「緊急で学年集会を行います。視聴覚室に移動してください」
すると、綾瀬先生は慌ただしい様子で教室を飛び出してしまった。
「説教だろうね」
「そりゃそうだ」
悪魔を飼い慣らす無法地帯。生徒同士の間で、様々な憶測が飛び交う。
「ついにアイツ死んだ?」
「ただの不登校でしょ」
最前列の空席、そういえば見なくなったな。ヴァイオレンス、レイプ、シカトのフルセット。いじめのない学校なんてありゃしない。こんなことは、知らぬが仏だ。
「せっかくだし賭けようぜ。五百円」
ギャンブル思考の馬場くんは、親友の糸井くんに賭けを提案した。
「金欠なんだけどなぁ」
「いいからいいから。俺の予想は万引き」
その一言に、僕は隠し玉の目を通す。ふいに現れた悪魔の少年。昨夜、掴んだ手のひらに棘のような感触はなかった。僕は、手に汗を握る。信じているよ、何もかも。後悔は募るばかりだが、あの店員が密告するとは考え難い。馬場くんの負けだ。
「いや闇バイトっしょ。流行の最先端や」
五百円を賭けた勝負。どうか糸井くんが勝ちますように。
「さっさと移動してくださ~い」
学級委員の指示に従い、僕は、よっこらせと腰を上げた。
「疲れてんのか?」
テルは、そんな僕を心配そうに見つめた。
「いやそんなことないけど」
睡眠不足が主な原因であろう。深夜のベッドに時は停滞している。
「俺は憂鬱だ……寝たら朝が来る」
「まさしくそうだね」
知らぬ間に見透かされていた。
「無理すんなよっ」
「お前もな」
第二学年は、三十五人学級で七クラス。予期せぬ事態に廊下は渋滞していた。さんざめく雑踏。テルは、視界の隅で口角を上げる。
「授業潰れてラッキー」
その一方で、僕は呼吸に意識を向けた。
「それな。赤点回避」
吸って吐いて吸って……また吸って。時々僕は、呼吸の仕方を忘れてしまう。
「やっぱ疲れてんだな」
「……そんなこと」
「ったくしょーがねぇ」
限界状態を見かねたテルは、他クラスの生徒を押し退けるようにして、道を開けた。僕は、その後に続いて人混みをかき分ける。
「すみません」
到達した最前列。薄れていた酸素濃度が高まる。僕は、ようやく呼吸の仕方を思い出した。
「ありがとう。やっぱり疲れてたみたい」
ほらね、とテルはドヤ顔で頷く。
「何でもお見通しか」
一段落着いたその瞬間、またしても、僕は背後から迫りくる恐怖に腕を掴まれた。
「おいそこの馬鹿! 謝罪しろや」
僕はその声に身を構える。そういや先週以前、コイツは停学処分を受けていたような……。不当な権限を取り巻く、隣のクラスの成田くん。
「謝罪……?」
申し訳ないが、僕には全く身に覚えがない。 「わざとぶつかってんじゃねーよ!」
とんでもない言いがかりだ。渋滞を押し退けたとはいえ、わざと強く当たるようなことはなかった。それも体格がいい男。しかし、正論を振りかざしたところで、火に油を注ぐことになるかもしれない。何はともあれ、穏便に済ませなくては。
「ごめんなさ……」
「俺のことか。そうだろ?」
納得がいかないテルは、原田くんに口出しをした。
「なら謝れよ赤坂。香川に謝れ」
香川さんは、原田くんの恋人。それゆえに、愛情深く過干渉だと言える。
「いや妊娠とか自己責任じゃん」
テルは、躊躇なく地雷を踏んだ。
「もういっぺん言ってみろ!」
「ごめんごめん。悪かった」
悪びれる様子もなく、テルは、半笑いで手を合わせた。
「おちょくってんのか?」
「まぁ……そうだよ~ん」
準備万端、レディ・セット。僕たちは、全力疾走で廊下を駆け抜けた。
「やっぱ逃げるが勝ちだな!」
「そう。無駄な争いだ」
僕は、テルを横目で見る。くっきりとした並行二重に、破裂寸前の涙袋。君は、涙を流したなどないだろうか。視聴覚室の入口、目的地はすぐそこに。
「廊下は走らないでください」
綾瀬先生は、生徒を待ち構えていたかのように、険しい表情で注意を促した。
「気をつけます」
僕はその場しのぎに、反省を意を示した。
「空いてる席に座ってください」
「はい」
精神を貫徹するスピーカー、それから教育の旗を掲げるスクリーン。僕は、最後尾座席を確保する。一番乗りだ。
「アイツ半端ねぇな。ニコチン中毒のキチガイ野郎」
「噂には聞いてたけどイカれてるね」
噂によれば、脅迫やら暴行やら……火のない所に煙は立たない。
「全員揃ったので学年集会を始めます。今回は重要なお話です。一語一句聞き逃さないようお願いします」
定年退職間近の学年主任、神田先生は静寂放つように、壇上でマイクを握った。
「今回は警察沙汰になる問題です。先日八月二十一日、体育館前の自動販売機でパラコートが混入したジュースが発見されました」
「パラコート?」
今一つピンとこない。
「詳しい話は警察の方にお願いします」
神田先生は、横で待機している男性警察官に、マイクを渡した。
「府中警察署の桜木と申します。パラコートとは何か、皆さんご存知でしょうか?」
首を縦に振る者は極僅か。僕は、首を左右に振った。
「パラコートは農薬毒物です」
どうしてそんなものが……一体誰が何のために。
「千九百八十五年に発生したパラコート毒殺事件。これはフィクションなんかじゃない。死者を出した実例だ。毒物を口にした者は死ぬ。しかし幸いにも、先日は生徒が教師に報告したことで、大事には至らなかった」
中学時代、日中のドキュメンタリーで見たことがある。あらかじめパラコートを混入させたジュースを自販機の取り出し口に置いて、ラッキーとばかりに口にした者を陥れる。無差別毒殺事件。その模倣犯が今やここにーー。「缶の底には薄ミリ程度の穴が開いていた。命が第一優先。よって自動販売機の使用は一時休止とさせていただく」
その真剣な眼差しに、事の重大さを知る。しかし、それとは裏腹に、テルは不敵な笑みを浮かべていた。
「こういうの嫌いじゃないね」
「大問題だよ」
「ドキわくじゃん? 犯人探し」
「いいや」
と言いつつも、僕は内心ほっとしていた。集会の終盤、神田先生は再びマイクを握る。「桜木さんありがとうございました。本日は強制下校とします。心当たりがある生徒のみ残ってください。また情報でも構いません」
学校側は、万が一に備えて対策を講じる。
「それでは速やかに帰宅してください」
案の定、校舎に残る者は誰一人としていなかった。犯人探しといえども、毒殺未遂事件は迷宮入り。犯人がノコノコと現れるはずもなく……。
「超絶ラッキー」
テルは、鼻歌交じりに宇宙を見上げた。銀河百四十億光年、超新星が引き裂ける。
「放課後空いてる?」
「暇だよ」
三百六十五日、二十四時間、僕は年中無休で人生に退屈している。
「バッティングセンター行かね?」
「え? スポーツ嫌いって言ってたじゃん」
遠い昔のことではない。観点別評価オールC、五段階評価一のテルは、体育教師にこっぴどく嫌われていた。
「そうだけど……練習したくてさ」
目移りした入道雲、やがて太陽が顔を出す。「なんでまた急に?」
「なんでもいいだろ」
「いいけど金欠だから見学するよ」
所持金たったの二百円では、一ゲームすらプレイできないであろう。
「それくらい奢るよ」
「ありがと。でも気持ちだけもらっとく」
独断と偏見に満ちた教育を受けてきたせいか、僕はスポーツの意義が分からない。スポーツは体に悪いだの、オリンピックは政府の金儲けだの……考え出したらキリがない。
「たまには新しい経験もいいじゃん」
「規則破るんだね。人でなし」
僕は、思ってもないことを口にしてしまった。
「そんなに言わなくても……」
「ごめん。そんなつもりじゃなかった」
幼少期に植え付けられた潜在意識。僕は、知らぬ間に囚われていた。切っても切り離せない、ホルマリン漬けにされた思考法。とはいえ笑えるよな、操り人形じゃあるまいし。
「アレ見つけたの私だよ」
校門前のガードレール、そこには、友人とくっちゃべる香川美琴の姿が見えた。
「英雄じゃん」
「でしょ? あんなことするなんてマジサイテー」
太ももをちらつかせる、際どいスカート。テルいわく、彼女はフォロワー数十万人越えのインフルエンサーらしい。
「目障りだな」
恐れをなす、見たこともない表情。テルは、カーブミラー越しに一言呟いた。
「なんかあった?」
僕は、声をワントーン上げて尋ねる。
「アイツが死ぬほど嫌い。それだけ」
「それだけって……それだけ?」
僕が知る限り、大した接点なんてーー。
「あぁそれだけ」
通学路の電柱、青信号が点滅した。アクセル全開、ハンドル握る中型バイク。僕は、そのガス漏れに毒を吐いた。
「らしくないな」
あぁ見えても、テルは鋭い感性をしている。「所詮キャラなんてイメージだろ」
言われてみれば、それもそうだ。フィルター加工をなくしてしまえば、きっと世界を見る目が変わる。
「そうかもね」
風にそよぐ秋の気配。
「罪悪感は本能?」
放たれた一言に瞳孔が開く。
「何でそんなこと聞くの?」
止まない反芻思考。『目に見えるものが全てではない』だなんて、頭では分かっているはずなのに考えてしまう。先日の放課後、君はどこで何をしていた。
「もしかして……」
言いかけた言葉は右顧左眄。
「なわけないじゃん」
テルは、苦虫を噛み潰したような顔をして、容疑を否認した。
「なんかお前変だよ」
十字路の交差点、赤信号が点滅する。
第三章
SNSは承認欲求のゴミ箱。インフルエンサーになんて、なりたくなかった。四季を着飾る、正規輸入のブランド品。画面越しに映る充実感は、借り物にすぎない。だけど、『憧れ』だとか『綺麗』だとか、そんなありきたりな台詞に今日も生かされている。
「お待たせ」
「遅いよ春樹」
週末は、ディナーデート。トレンチワンピに厚底サンダル。“彼ウケ”などは知らん振り。ファッションもメイクも好き放題。唯一無二、私は私を好きでありたい。
「ごめんごめん。電車乗り遅れちゃって」
すれ違いの待ち合わせ。彼は、申し訳なさそうに手を合わせた。
「大丈夫。私もよくあるから」
二十時過ぎの繁華街。春待つポルノやキャバクラ接待。落胆した暮夜が、孤独を見送る。ヘッドライトに死角はない。
「ありがとう。今日はどこ行きたい?」
毎度行き先は私の提案。『どこでもいい』とか『何でもいい』とか、彼は何を考えているのかさっぱり分からない。
「もうお腹すいちゃった」
十六時間断食。胎動を感じる脂肪分解。食べたいけれど太りたくない。これでは、行く先が思いやられる。
「そうだね。何食べたい?」
「ピザかパスタ。減塩の」
私は見た目重視、内面より外面派。つまり、デブは書類選考落ちということになる。
「イタリアンか」
「うん」
「じゃあここはどう?」
彼は、口コミで評判のレストランをスマホでスクロールして見せた。ペスカトーレやジェノベーゼ、美食評論家が認めただけのことあって、そこには高級感漂うメニューが取り揃えられていた。
「いいね美味しそう」
「じゃあ決まりだね」
徒歩十分、風の吹くまま気の向くまま。私は、道路につま先を向けた。
「提案ありがとう」
たまらなく愛おしい、理想的な彼氏。それなのに私ときたらーー。
「たまにはね」
彼は、さりげなく車道側を歩いた。街角に現れたイタリア国旗。西洋風の外観は、私たちをナポリの街へと連れ込んだ。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
カップルが二組と老夫婦が一組。店内は、思いの外にこじんまりとしていた。
「二名です」
「かしこまりました。ご案内いたします」
食欲をそそるオレガノの香り。「まさに絶品ね」と、言葉を交わす老夫婦。一流シェフが手掛けた料理は、まるで愛のこもったプレゼントのようだ。
「こちらのお席でよろしいでしょうか?」
「はい。大丈夫です」
彼は、朗らかな受け答えをする。それとは反対に、私は無言のまま席に着く。窓際のウィリアムモリスカーテンが、月明かりを消した。
「ご注文が決まりましたらお呼びくださいませ」
ヨーロッパ独特の雰囲気を放つ、ガラスのウォールランプ。はてさて情報共有をしなくては。私は、まんじりともせずに、カメラのシャッターを切った。まるで陽だまりのような温もり。彼は、にこやかに微笑んだ。
「綺麗だね」
しかし、私はそんなことお構いなしに写真のフォルダをチェックする。保存枚数二万枚。過去は、“いいね”の数だけ生き残る。
「大変そうだね」
次第に、彼から笑顔が消えていく。お願いだから、そんな目で見つめないで。私は、やっとのことでスマホを手放した。
「ごめん」
聖母マリア、マドンナのようにはなれない。ましてや、無償の愛を与える母親になどはなれない。生もなければ死もない。とんぼ玉のような柄模様。私は、手元にあるグラスを見つめた。
「ベネチアングラスか」
聞き馴染みのない言葉。
「ベネチアン?」
「そのグラスのことだよ」
彼は、得意げにそう言った。
「へぇ初耳」
私は、まともに読書や勉強をしたことがないので、会話の引き出しが少ない。成績下位層のノータリン生徒。そのくせ、どこか周りを見下している。他愛もない奴に限って大物気取りなのだ。成功談も失敗談もあったもんじゃない。生きるのが下手な腰抜け野郎。弱さを背負い込んでは、躓いて転んで、ありもしない逆転劇を暗中模索している。それでもまだ、私は生き足りないとでも言うのだろうか。
「唯一無二の一点物。イタリアの伝統工芸品なんだよ」
うっとり見惚れるベネチアングラス。彼は、グラスの脚を持つなり、それをウォールランプの白色光に翳した。
「物知りだね」
「大したことないよ」
「ううん。そんなことない」
確信的な自信があるからこそ、彼は謙虚になれるのだ。
「それより何食べたい?」
彼は、すかさずメニュー表を開いた。
「……何にしよう」
どういうわけか私は頭を悩ませる。空腹だし、低血糖だし、それなりに食欲はある。あるにはあるのだが、私は、人前で食事をすることが怖くて怖くてたまらない。いわば、会食恐怖症のようなものだ。いざとなると、箸を持つ手が震えてしまう。もし食べきれなかったらどうしよう!? もしゲロをぶちまけてしまったらどうしよう!? 何時とはなしに腹八分目。
「このナポリタン二人でシェアして食べない?」
「えっ……」
「ごめん。嫌いだった?」
そういうことではない。ただ、私はこう見えても繊細で、緊張しているだけだ。
「ううん」
今日は、告白しなければいけないことがあるというのに、どうも意識が続かない。
「それとも他に食べたいものでもあった?」
「そうじゃなくて……」
本音を吐き出すのと同時に、つわりが酷くなる。
「どうしたの?」
「…………」
だけど、これだけは口が裂けても言えない。妊娠相手はーー。会議に掛ける脳内CPU、「さぁどうしたらいい?」と、私は自身に尋ねる。すると、命令フェッチが「思い立ったが吉日、時を移さず嫌われる覚悟を持て」と命令した。渋々、私は指示通りに文字を起こす。
「言いにくいんだけどさ……。いやなんでもない。ちょっと体調崩しちゃっただけ」
残念なことに、命令内容は、失敗に終わってしまった。
「どうりで元気がないわけだ。きっと疲れてるんだよ」
「そんなに疲れてるように見える?」
ファンデーションを厚塗りしたところで、色素沈着したクマは隠せない。彼は、「目元が黒いよ」と言わんばかりに、深く頷いた。
「見えるよ見える。無理しないでね」
「ありがとう」
眠らなくてはならない。そう思えば思うほど、マイナス思考が渦を巻いて目が冴える。ひとり寂しい夜、羊を数えているうちに、眠り落ちるということはない。深夜零時は夢中遊行。寝ても覚めても夢は夢のままで……。
「そういや聞きたいことがあるんだけど」
彼は、そう言ってスマホのアプリを起動させた。
「これなんだけど……余計なお世話だったらごめんね」
バキバキに割れた保護フィルム。その画面上には、まだ記憶に新しい一件の投稿が映し出されていた。
「それがどうかした?」
先週末、表参道にて撮影をした路上写真。顔映りはいまいちだが、フォロワー数に執着している、まるで私のような友人に、それを投稿するよう言われたので、私は「フォロワー稼ぎに人を利用するな」と言うわけもいかず、紹介がてらその『@hikitateyakunoonnna』のアカウントをメンションした。いとも簡単にやってのける、何の変哲もない日常。しかし、悍ましい空気漂う、彼は何やら深刻そうな顔をしていた。
「コメントとか読んでる?」
何を言うかと思えばそんなこと。
「読んでないよ。読まないよ」
私は、敢えて鈍感なフリをした。鈍感とはといえども口元は繊細だが。運試し感覚で幕開き人生すごろく、うざったい日の丸の目は、相も変わらず振り出しに戻るようで、腹立たしい。どうせなら終脳ごと狂っちまえばいいのに。本当に本当に、そう本当にね。天の使いとされている天使が、道なき道を通せんぼするように、「頑張れ頑張れ」と、耳元で囁いている。黙りやがれ。一流の血筋さえ引いていれば……火葬場行きの特急列車何ぞ楽々グランクラスだったろうに……。
「ならいいんだけど」
「あぁうん」
これ見よがしに笑う、強さの意味を履き違えたままの私。けれど、いい加減愛想が尽きそうだ。どうか、どうか夢から目を覚ましてみてはどうか? 正直者だなんて、そんな滅相もない。匿名の評論家は、昼夜を舎ず「自分は正しい」という、確証バイアスに陥っている。真実の証明をしたところで、正論は通用しない。批判要素があろうとなかろうと、傍観者にとやかく言われる筋合いなどないのだ。しかし、そうと頭では分かっていながらも、私は話の続きを聞きたくなった。
「ねぇ、もしかして炎上してんの?」
フォロワー数が概ね順調に推移しているとはいえ、いつどこで誰に目を付けられるかは分からない。
「炎上って言うか何て言うか……」
「ハッキリ言ってよ」
一呼吸置いて、とにかく冷静にならなくては。
「やっぱり知らなくていいよ」
「勿体ぶらないで言って」
匿名の他人によって下された評価、それはきっと、理不尽で不条理で不合理だ。しかし、仮にそうだとしても、私は私の運命を受け入れたい。
「美琴は繊細だから心配だな」
言われてみれはそれはそうだ。これまで私は、自分を強く見せるために、涙を堪えて必死に歯を食いしばってきた。だが、私は彼に繊細な一部を見透かされている。自分を偽ることは、ありのままの自分をさらけ出すことよりも難しいみたいだ。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから気にしないで」
どうせ傷つくことは分かっている。私は、それを覚悟した上で言った。ネットの延長線上にある現実は、誰も口には出さないだけで、心の中では、アレコレと優劣を付けて見下し合っている。
「じゃあ望み通り教えるよ」
こちらに向けられた画面には、惨憺たる言葉が書き込まれていた。それも一件ではなく、数百件。趣味専用のアカウントから愚痴専用のアカウントまで、男女問わず、若い世代を中心に、批判が勃発していた。『香川美琴、なんか見てないうちに太ったな。妊娠か?』『同じ高校の男とヤッたらしいよ。この尻軽女、妊娠五ヶ月らしい』『へー男いたんだ。あれだけ彼氏いないアピールしてたくせに』……どれだけスクロールをしても、燃え盛る批判の嵐が止むことはなかった。脈打つ鼓動が早くなる。息が苦しくなった私は、震える手でコップを掴み、水を一気に飲み干した。
「大丈夫? 俺のせいでごめん」
半年前、私は妊娠をしてしまった。実を言うと、妊娠相手は彼ではなく、エデンの教祖。信者の母に言われるがまま、私は教祖に犯された。妊娠が発覚しても、母は中絶という手段を選ばせてはくれなかった。むしろ、幸福に包まれている様子だった。妊娠など、母の自己満足でしかない。この世に生まれること自体、幸せかどうかも分からないが、この子を幸せにすることでしか責任はとれない。今日もまた、「あなたとの子供ではない」と、言い出せるわけもなく、私は密かに罪悪感を覚えていた。
「春樹くんのせいじゃないよ」
私は、腹に手を当てて我が子の温もりを感じた。
「そんなことない。子供を幸せにすることは親の義務だ。大したことはできないけど、心の痛みくらいは、全て俺に預けてほしい」
なんて慈悲深い人なのだ。罪悪感は、募りに募って富士山頂に到達するまでである。
「ありがとう」
私は、「ごめんね」と言う代わりに、感謝の意を述べた。
「いえいえ」
彼は、軽く微笑みながら席を立った。
「体調の悪いみたいだしもう帰ろうか。テイクアウトに変更しよう」
私も同様に、鞄を片手に席を立った。
「そうだね」
家で食べるのであれば、人目を気にせずに大好きなパスタを頬張ることができる。会計カウンターに並ぶと、私は彼の大きな背中にそっと安心感を覚えた。
「すみません。テイクアウトに変更ってできますか?」
慣れた様子で店員は答えた。
「はい、もちろんです」
「ありがとうございます。じゃあ、ナポリタンを二つお願いします」
「かしこまりました。それではお会計、二千三百円になります」
彼が財布を取り出したので、私も同時に財布を取り出した。
「いや、俺が払うよ」
彼は、私の財布を押し戻そうとした。しかし、それくらいはさせてもらわなければ気が済まない。
「ありがとう。でも大丈夫、それくらい自分で払うよ」
優しさを素直に受け取ることだけが愛とはいえない。お金は愛の一部であり、必要不可欠なもの。大切なものであるからこそ、経済は二人で賄わなければならない。
「本当にいいの?」
なぜ彼はそんなことを尋ねるのだろうか。第一、男性が支払いを負担するという風潮は狂っている。男女平等に働ける時代になったというのに、まだそんなことを気にしているのか。
「なにも気にすることはないよ」
私は、千円札と小銭を彼に手渡した。
「調理に十分ほどお時間をいただきます。申し訳ございませんが少々お待ちください」
彼が会計を済ませると、店員はキッチンの方へ姿を消した。
「座って待ってよう」
「うん」
「ってか明日六道神社でお祭りがあるみたいなんだけど、よかったら一緒に行かない?」
私は、迷うことなく返事をした。
「いいよ」
近々訪れようと思っていたので、都合が良かった。
「でも無理しないでね。行くかどうかは、その日の体調次第で美琴が決めて」
「分かった」
「もし行けたら、安産祈願しよう」
「うん、初めからそのつもり。もう妊娠五カ月目だし、帯祝いしなくちゃ」
エデンに反するため、私は帯祝いという仏教に基づいた儀式を行う。腹帯を巻いて、安産祈願をするという、日本古代からの風習。ただ、都合のいい時だけ神に縋る人間の姿を見て、神はどう思うのだろうか。
「そうだね。明日は何時がいい?」
「いつでもいいけど、帯祝いしたいから昼間がいいな。自分勝手でごめんね」
「そんなこと思わないから大丈夫だよ。じゃあ待ち合わせは十一時、六道神社でいい?」
「いいよ。楽しみだね」
帰宅後、くたびれていた私は、『ただいま』の一言もなしにリビングへ向かった。
「おかえり。今日はどこ行ってたの?」
どうせ何を言おうが、母は文句しか口に出さない。
「春輝と食事」
「さっさと縁切りなさいよ。汚らわしい男なんだから、教祖様にも悪いわよ」
今あるこの低い自尊心を形成したのは、間違いなくこの人だ。母が私の人生を肯定してくれたことは、過去一度たりともない。
「あなたに関係ある?」
私は、反抗的な態度を見せた。早く家を出てしまいたい。物心がついた頃から、私はそう思っていた。
「私は美琴のためを思って言ってるのよ」
今更そんな言葉を、どう信じろと言うのか。「私のため?」
「そうよ」
親は、いつだって子の人生の造り手だと勘違いしている。
「じゃあなんで妊娠なんてさせたの?」
その一言に、母はナイフをまな板に振り下ろした。一方で、私はそれを無視して、テイクアウトしたナポリタンを冷蔵庫にしまう。今日はもう、何も口にしなくてもいいくらい満腹状態だった。
「とんだ歪んだ愛ね」
私はそう呟き、無言な母を遠ざけた。母と同じ血流の自分が許せない。その日の夜は、批判の毒が永遠と抜けずに、朝まで悲しみに暮れていた。東から絶望が昇り、西に希望が沈む。
『ネットヤメロ オマエヲコロス』
午前十時半、郵便ポストを開けると、凄まじい勢いで三匹のスズメバチが空へと飛び去った。中には、切手も宛先も書かれていない手紙が一枚。そこには、脅迫のメッセージが添えられていた。
「なにしてんの?」
玄関のドアが開くのと同時に、私は手紙をポケットに突っ込んだ。
「別に」
母に関与されたくないので、私は何事もなかったかのように接した。
「あっそ。これから誰とどこに行くの?」
外出時には、必ず行き先と相手を尋ねてくる。昔からそれが悍ましくて気持ち悪かった。「一人で六道神社に」
なるべく春輝の名前は出さないよう心掛けた。春輝の存在は、母にとっての地雷だ。学生時代、充実していなかった母にとって青春は毒のようなものだ。いわゆる、青春コンプレックスってやつ。
「あーお祭りね」
「うん。じゃあね」
私は素早く話を切り上げ、母の元を離れた。あの手紙は一体誰が書いたのだろう。私は、ひこうき雲に向かって舌打ちをした。
「りんご飴いかがですか~?」
神社には、子連れの母親が多く見られた。また、中には浴衣姿の子供や甚平姿の子供もいた。
「美琴~」
人混みの中、ふと私の名前を呼ぶ声がした。後ろを振り返ると、そこには彼がいた。
「よかった。来てくれて」
通行止めにならないよう、私たちは一旦人混みから道を外れた。
「あのさ……」
私は、あの手紙のことを彼に話そうとした。心配をかけたくはないが、一人ではどうにもならないことだと思った。
「ん?」
救急車のサイレン音が鳴り響く。救いを求める声は、彼には届かなかった。
「なんでもない」
私は、ぶっきらぼうに言った。どうにもならない現状に、八つ当たりをしてしまった。
「そっか。ならよかった」
「まずは参拝しよう」
私は賽銭箱に五百円玉を投げ入れた。お参りの基本作用は、大して何も分からない。しかし、分からないなりに二回拍手を打って、心の底から神に祈りを捧げた。無事に出産できますように。これ以上の願いは何もなかった。
「春輝くんは何をお願いしたの?」
参拝が終わった後、私たちは絵馬掛所に向かった。
「お願いっていうよりも、誓いを立てたって感じかな」
何も言わずに、私は無言で頷いた。木々の隙間から夏風が通り過ぎる。
「そこに絵馬があるんだけど、みんながどんなこと書いてるのか見てみたい」
「確かに。俺も気になる」
赤い紐で吊るされた木の板は、多くの願い事で敷き詰められていた。『西桜高校に合格できますように』『健康でいられますように』……それはどれも平凡な願いだった。人間が望むものは大体限られている。健康、愛、成功。一つ一つの絵馬を目で追っているうちに、私は不可解なことに気がついた。
「一番上の一列だけ真っ赤に染まってる。なんか気味悪いね」
赤文字は、損失や死を連想させる。かつて日本では、墓石に名前を掘る際に赤文字を使用していた。
「そう? 子供なら赤いペンとか使うんじゃない? 最近は派手な絵馬もあるし」
私は、彼の意見に納得がいかなかった。子供がわざわざ手の届かない一番上を選択するとは思えない。それに、一列の筆圧が揃っていることから、同一人物の絵馬あることが伺える。コンタクトをつけていない今日の私は、目を細めてもなかなか文字が認識できなかった。
「ごめん。ちょっと待って」
「時間なら全然あるし平気だよ。美琴が見終わるまで俺も見る」
目を凝らして視点を合わせていくうちに、不明瞭だった文字が徐々に見え始めた。
「なにこれ……」
何度読み返しても、意味は変わらなかった。「どうした?」
彼は、私の顔を覗いた。きっと今の私は、とんでもない顔をしている。
「それ読んで」
私は、震える指先を絵馬に向けた。そんな馬鹿な。その心は、まだ微かに見間違いであることを信じていた。
「死ね! 恩知らずの餓鬼は報いを受けるべきだ! 香川美……」
見間違いではなかったことが、証明されてしまった。微かな希望が汗と共に吹き飛んでいく。
「なんで? どういうこと?」
それを尋ねたいはこちらの方だった。
「私だって分かんないよ」
声を荒げながら、膝から崩れ落ちた。まるで地獄の底に落ちるかのように。その絵馬は、たった一枚ではなく、少なくとも数十枚はあった。きっと誰かが私を呪っている。
「許せない。いや許さない」
彼の声は、いつもにも増して低くなっていた。涙で視界が溶けていく。現実を置き去りにして陥る、リプライ、手紙、絵馬。リプライ、手紙、絵馬……まるで地獄は永遠と続いているかのようだった。
「美琴、落ち着いて」
彼は、救済の手を差し伸べた。しかし、私はその手を握る勇気がなかった。もう、誰も彼も信じられない。
「待って!」
彼の声が遠のいていく。いつの間に、私は神社を抜け出していた。彼のせいではない。彼が悪いわけではない。そう分かってるはずなのに、私は彼を信じられない。
「危ない!」
耳元で踏切の警笛が鳴り響く。
「早くそこをどいてください!」
警察が大急ぎでこちらへと向かってくる。何をそんなに焦っているのだろうか。
「おい!」
私は、遮断機をくぐり抜けその場を後にした。後を振り返っても警察の姿はない。列車が踏切を通過する。
「なんなんだ」
自殺をするつもりなんてなかった。
『踏切の遮断機が閉じようとし、若しくは閉じている間又は踏切の警報機が警報している間は、当該踏切に入ってはならない。 道路交通法第三十三条第二項』
ストレスで麻痺していた脳は、常識の認識を忘れていた。
「おかえり。早かったね」
母は、ベランダで洗濯物を干していた。
「うん」
私は、その一言で会話を終わらせた。とにかく今は一人になりたい。部屋に入ると、私はすぐさまカーテンを閉めて、ベットで横になった。
「何もかも忘れたい」
スマホには、春輝からのメッセージと着信が届いていた。ブルーライトの強い光に思わず目を閉じる。心身ともに疲れていた体は夢を見せなかった。八時間後、私は月の光に目を覚ました。
「どこ行くの?」
玄関には寝巻き姿の母がいた。なぜか母は、私の行動を先読みしている。
「散歩」
夜は静寂で心地良い。汚れた脳を洗い流す時間だ。
「そんなの明日でいいでしょ」
ただでさえ今はストレスが溜まっている。このままでは、冷静に明日を迎えられない。
「いつも余計なことしか言わないね。いい加減気づきなよ」
いくら説明をしても、馬鹿には伝わらない。「親に向かってなんてこと言うのよ。この恩知らずが!」
母の甲高い声は、余所にまで響いていた。
「恩? 一体なんの恩?」
「私はあなたを産んであげた!」
実に最低で最悪の答えだった。そんなものは恩でもなんでもない。母にとって、私は孤独を紛らわすための道具にすぎない。
「あなたが決めたことでしょ? 私を産んだことも、父さんの保険金を奪ったことも」
家族といえど、いい加減愛想が尽きた。家族なんて所詮は血のつながりでしかない。自分を殺してまで守るものではない。
「なに勝手なこと言ってるのよ。酷い言いがかりね。こっちに来なさい!」
満月の逃亡者、夜風が背中を押す。行き先もない私は、ただひたすら月の光を追った。
「あっ」
逃げることに無我夢中だった。
「すみません」
衝突した勢いで、男性は転倒してしまった。「大丈夫です」
みすぼらしい格好をした、ホームレスのような男性。私は、男性が落としたビニール袋を拾い上げた。しかし、転倒した勢いでその袋の中身は、路側帯に飛び出してしまった。
「すみません」
私は、ビニール袋を男性に手渡した。
「いえ、ありがとうございます」
袋の中身を拾うために、私は腰をかがめて手を伸ばした。街灯がないので、ペンの色を認識をすることはできない。路側帯には、一本のペンと複数枚の絵馬が落ちていた。
「どういうつもりですか?」
その時私は確信した。すべての犯行はこの男性であることを。
「なにがですか?」
白々しいその態度に腹が立った。
「しらばっくれても無駄だよ」
男性は、恐らくこの辺りで生活を営んでいる貧乏人。生活に余裕がないのにも関わらず、絵馬で神頼みだなんて馬鹿にもほどがある。
「だからどういう意味ですか?」
手紙には切手が貼付されていなかった。犯人は住所を知っているにも関わらず、自宅のポストに脅迫状を投函した。差出人の住所は記入しなくとも配達される。それなのに、犯人はわざわざ自分の手を汚した。それはきっと切手を購入する金がなかったから。
「今まで嫌がらせしてくれてありがとう」
私は、この男性をネットに晒し上げた。ネット配信、視聴者数はおよそ四千人。
「私はこの人に脅迫されました。許せません。いや許さないです」
配信は瞬く間に拡散された。
『可哀想(笑)』
『自業自得でしょ』
『おっさん乙』
コメントが次から次へと流れていく。匿名を味方につけて、悪者を成敗する。野次馬から注目が集まるのも無理はない。
「人違いですよ」
男性は、腕で顔を覆った。しかし、私は男性を逃がさない。一度捕らえた獲物は、地獄の果てまで追い詰める。
「言い逃れは通用しない」
私は、スマホを草むらに投げ捨て、男性の首を掴んだ。自分を傷つけられたことが許せなかった。結局誰だって自分のことが一番大切だ。
「話を聞いてください。ただ私はううおおいああえお……」
途中からは聞き取ることができなかった。怒りに囚われた私は、我を忘れていた。
「今のことは誰にも言うな」
怖くなった私は、男性を突き放した。心臓が弱いのだろうか。男性は、過呼吸になりながらも必死に胸を押さえていた。
「許してくあさい」
私はその場から逃走した。この先も、永遠と苦痛なことから逃げ続けるのだろうか。罪悪感に追いつかれないよう、私は現実から目を背けるばかり。
「おかえり」
玄関のドアを開けると、人感センサーが反応し、目の前がパッと明るくなった。それと同時に、暗闇に包まれていた母の姿が現れた。「親に逆らったらどうなるか分かってるよね?」
母は、私の髪を毟るようにして掴んだ。いくら抵抗をしても、離してはくれない。母が手をあげることは、ごく普通の日常だ。
「なんで怒るの?」
「許せないから」
「許せないってなにが?」
「痛かった。腕を折られた時も、口を火で炙られた時も」
母は、酒に酔うと、忘れられない過去を思い出す。学生時代に負った深い傷や、劣悪な家庭環境。痛みを忘れるには、拭えない過去を嘆き、流血の涙を流すと感情が収まるらしい。
「それと」
まだ、話には続きがあるようだった。
「それと?」
「あんたが一番許せない」
それはこちらの台詞だ。私を妊娠させておきながら、平気なフリをしている貴方が許せない。エデンの教義など、信じられなければ信じたくもない。
「分かってる。分かってるよ」
泣いても喚いても、元には戻らない。時間を巻き戻すことはできない。
「いや何も分かってない」
母は、何を根拠にしているのだろうか。
「言うことを聞けばいいんでしょ? 思い通りに」
玄関先にマツムシの音が響く。夏の夜は騒がしくとも懐かしい。
「そうね、まだ間に合うわ。子供を作り直しなさい」
我が子は、既に教義に反して汚れているから、また一から作り直すということか。
「一体どうするつもり?」
「合法的に流産しなさい」
時が止まるのと同時に、人感センサーが自動的に点滅した。
「なにを言ってるの?」
私は恐る恐る問いかけた。合法的に流産。法律に触れなくとも、そんな行為は絶対的に許されない。
「胎児はまだ人じゃないのよ。罪悪感なんて捨てなさい」
そういう問題ではなかった。人であろうがなかろうが、悪いことであることに変わりはなかった。
「産むのは私なんだから関係ないでしょ?」
「でも私は納得がいかない」
まるで母は、親の権力を使って子供を支配しようとする暴君のようだ。
「わざわざ神社にまでお願いしたのよ? 絵馬も高いのに。まるで母親の鑑ね」
一言で表すと、私の母は狂人だ。倫理観なんてものは、初めから存在していない。道徳心が欠如した、神の失敗作だ。
「まずはコレ」
どうにも逃げられる状況ではなかった。逃げたところで行き先はなかった。
「私まだ十七だよ」
母が私に見せたものは、度数五十パーセントの酒だった。
「だからこそいいのよ。未成年は体が発達してないから流産の確立が大幅にアップ!」
「いやいらないって」
私が一歩引き下がると、母は、気色の悪い笑顔で左右に首を振った。
「必要なことよ」
酒の蓋が空いた。瓶の淵からは甘ったるいアルコールの匂いが漂う。
「やめて」
瞬きをする暇もなく、私は口に酒を放り込まれた。舌を刺すような苦みに、愛の記憶を忘れていく。
第三章
ホームランなんて夢のまた夢。
「今の惜しいな」
「もう空振り十振だよ」
才能がなくとも、バットにボールを当てるくらいなら誰にでもできる。しかし、テルはいくらバットを振ってもボールに当たらないのだ。ある意味驚異的な才能である。
「投げ方が下手なせいだ」
バッティングマシーンのせいではない。反り腰な上に棒立ち。そんなフォームで打てる方がおかしいのだ。
「テルが下手なだけだろ」
素人でも分かるほどだ。
「あー疲れた。休憩休憩」
体力の消耗が激しい。テルは、運動不足のせいか息が上がっていた。
「お疲れ」
僕は、テルの頬に冷えたペットボトルを当てた。
「俺にくれんの?」
「飲みかけだけどね」
屋根のないこのベンチには、紫外線がよく当たる。眼痛を我慢しながら眺めるバッティングは、実に退屈だ。
「サンキュー」
テルは、乾いた喉にお茶を流し込んだ。
「ほんと遠慮しないよな」
余程喉が渇いていたのだろう。半分以上あったお茶は、もう底を尽きていた。
「ごめん。俺ってそういうとこ考えなしだよな。きっと俺が馬鹿だから母さんは神に祈ってんだ」
傷つけるつもりは、微塵もなかった。
「いや、遠慮しないところがいいって意味で言ったんだよ」
遠慮をされるばかりでは、自分自身を拒絶されているように感じる。誰にもよそよそしい態度を見せないテルは強い。そういう人間は、どこへ行っても愛される。親に愛されなかったという例外を除いて。
「ならよかった!」
青空の下で、テルは練習を再開した。かれこれ一時間が経過するが、成果は一向に見られない。それでもまだ続けるのだろうか。
「なにが目的なの?」
僕は、ネット越しに打席を覗いた。隣の打席には、体格のいい少年が見える。連続ホームラン。脊椎反射でボールを仕留める。テルと少年の間には、見えない境界線が引かれていた。
「計画だよ計画」
その声は、青春の汗で滲んでいた。隣の打席からは金属音が鳴り響く。しかし、僕たちの青春は、いつまでも無音のままだった。
「計画ってなに?」
「明日には分かるよ」
「それはいい計画?それとも」
「いい計画だよ。わざわざ悪い計画なんて立てない」
バッティングが絡む計画とは、一体何なのだろうか。
「球団結成?」
僕にはそれくらいしか考えられなかった。自己評価の高いテルならやりかねない。たとえ自分が下手であろうと、そんなことはお構いなしだ。楽しければ何でもいい。それがテルのモットーであり、ユーモアなのだ。
「ありえねぇだろ! クソ下手なのに」
下手という自覚があったことに驚いた。僕は、知らず知らずのうちにテルの思考を決めつけていた。
「自覚あったんだ」
「そりゃそうだよ。自信あったら疾っくの疾うに自慢してる」
奇跡はようやく舞い降りた。
「おい今の見た⁉」
きちんと僕はその瞬間を目で捉えていた。僅かな金属音を聞き逃すことなく、僕は肌で青春を感じていた。
「見たよ! 奇跡だ」
僕たちの熱気は、周囲から逸脱していた。まるでホームランを打ったかのような達成感。「これなら大丈夫だな」
テルは、バットを投げ捨て、ガッツポーズをした。ファウルチップでトランス状態急上昇。傍から見れば異常者である。しかし、他人の目がどうでもよくなるほど、僕らは現実に夢中になっていた。
「よく諦めなかったね。お疲れ」
やがて太陽は、夕日に姿を変えた。明日は、筋肉痛で騒がしくなるだろう。
「マジで疲れた。俺何球打ったと思う?」
ヘルメットとバットを片付けると、テルは僕の元にやって来た。
「うーん、結構時間かかったからね。ざっと四十くらい?」
「もっと!」
「四十八?」
「すげーピンポイントだな」
テルは嬉しそうに口角を上げた。バッティングがストレスの解消になったのか、数時間前に見た表情よりも優しくなっていた。
「で、結局何球なの?」
「五十だよ五十。これにはプロ野球選手も顔負けだな」
そんなに甘い世界ではないだろう。人生の大半はステータスで決まる。努力をしたところで才能がある者には敵わない。
「そうだね」
僕は適当に相槌を打った。
「いやツッコめよ」
僕がテルに指摘されるのは珍しいことだった。いつもはテルがボケで僕がツッコミ。いつもと違う今日は、新鮮で特別に思えた。
「そろそろ帰るとするか~わざわざ付き合わせてごめんな」
沈みゆく太陽が、僕らの別れの合図だった。「別に暇だしいつでもいいよ」
「そうか? じゃあまた誘うわ」
バッティングセンサーを出ると、僕らは反対方向に歩き出した。何度だって僕は孤独な夜を明かす。いつか幸せになるために。
「おはよう」
テルは、僕よりも一足先にいた。毎日遅刻ばかりのテルが登校時間内にいると不自然に思える。今日の一限目は化学。好きな教科を受けるためだけに来たのだろうか。
「おはよ。来るの早いね」
今日の空は、厚い雲で覆われている。僕は曇り空が好きだ。曖昧な空は、不安な僕を肯定してくれる。
「筋肉痛がヤバい。もう寝れないからしょーがなく来た」
そうなることは昨日から予想していた。
「大丈夫?」
「まぁそのうち治るだろ」
テルは、痛みに耐えながらも肩を回していた。意外にも肩回しの効果は絶大だ。骨盤の歪みの改善や肩こりの解消。普段何気なく行っていることでも、少なからず意味がある。そのことを兄はよく教えてくれた。
「それなに?」
僕は、テルの足元を指差した。棒状のブラックケース。安手のポリエステルは中国産のようだった。
「あぁこれ?」
テルは椅子から立ち上がり、安手のケースを開いて見せた。
「え、入部すんの?」
テルが取り出したものは、古びた金属バットだった。この学校には男子野球部がある。部員は二十五名で、その中でもレギュラーが九名、そしてベンチ入りが残りの十六名。強豪校とまでは言えないが、評判はいいと聞く。
「いいや」
テルは、あたかも当然ように否定した。
「個人でやんの?」
「ううん」
普通、部員でもない人間がバットを持ち込むだろうか。
「おはようございます~」
時刻は八時三十五分。朝の予冷に、僕たちの会話は途切れた。
「号令お願いします」
パラコート未遂事件のせいか、綾瀬先生はどこか深刻そうな顔をしていた。事件が明るみ出てから、悪い意味で教室の雰囲気は変わった。友達であろうと、恋人であろうと、そんなものは関係ない。他人を疑うことで、僕たちは自分の正当性を確かめている。
「きりーつ」
あらかじめ設定されたフローチャートを辿る。代わり映えしない日々は、まるで誰かのテンプレートのようだ。
「ギリセーフ!」
その声に、クラス全員が後ろを振り返った。乱れた髪に、厚化粧。遅刻をしてきたのは香川さんだった。
「遅延ですか?}
綾瀬先生は出席表を開いた。
「いえ寝坊です」
今日はやけに静かだ。普段なら、つまらない身内ネタで、教室は馬鹿みたいに盛り上がる。香川さんの仲間は、美形で自己肯定感の高い人の集まりだ。陰気臭い人間は仲間に入れてもらえない。
「最悪」
仲間の一人、宮野さんが一言呟いた。
「来なくていいのに」
便乗するようにして、周囲の人たちは香川さんに冷たい視線を向けた。その理由は定かではないが、校舎の下駄箱では、昨夜の配信が気持ち悪いとの噂が立っていた。
「お前俺に言うことあるよな?」
テルは、金属バットを片手に、香川さんの制服のリボンを掴んだ。
「は? 急になんなの」
仕返しに、香川さんはテルの腕を掴んだ。
「やめなさい!」
綾瀬先生は、これ以上問題が発展することを恐れていた。教師は常に責任を問われる職業だ。生徒同士の問題であろうが、家庭環境の問題であろうが、学校で起きた問題は全て教師の責任となる。理不尽であっても、神が下した運命には抗えない。
「お前は生きる資格がない」
テルは香川さんの手を払い、金属バットを構えた。計画とはこのことだったのだろうか。立ち尽くす僕は、その残像を目で追った。
「嘘だろ」
腹部にクリティカルヒット。昨日の成果は、そこに現れた。
「私の声聞こえる?」
気を失ったかのように、香川さんは床に倒れ込んだ。机の角にぶつかった衝撃で、頭部は軽く出血していた。
「誰か早く大人を呼んで!」
綾瀬先生は泣きそうな顔をしていた。運が悪ければ、香川さんは流産をしてしまう可能性がある。パラコート事件に続き、今度は暴力事件。積み上げてきた教師の株価は、一気に大暴落した。
「テル」
僕は名前を呼んだ。
「英徒、俺はもう終わりだ」
死んだ魚のような目に、ひきつった笑顔。理由を聞き出せないまま、テルは教室を飛び出してしまった。
「待てよ。こんなとこで終わりかよ。お前にしてはつまんねぇな!」
僕は、全速力で廊下を走った。追いつくまでは、永遠とこの足を止めない。
「馬鹿野郎」
エレベーターのある曲がり角でようやく追いついた。理由を問いただすために、僕は背後から飛び蹴りをした。
「痛ぇな……」
力加減をしていなかったせいか、テルは勢いよく顔面を強打してしまった。
「ごめん」
僕が謝るのと同時に、テルは顔を上げた。
「はぁ」
手元には、使い古された金属バットが転がっていた。僕がそれに手を伸ばすと、テルは容赦なく僕の手を踏みつけた。
「もうやめろよ」
理由も知らないまま、僕は身勝手に叫んだ。「終わったことはしょうがない。英徒はそう思えるか?」
質問の意図が分からない。テルが言う“終わったこと”とは、一体何を指しているのだろうか。
「終わったことって何?」
「そのままの意味だよ」
正解は分からないが、僕は香川さんに危害を加えたことと認識した。
「しょうがなくないだろ。終わったことでもその前に考える時間はあったんだから」
僕は、思うままに意見を述べた。説教をするつもりはさらさらない。他者に難癖をつけるほど、僕は完璧な人生を歩んでいない。
「やっぱりな。そう思うだろ?」
テルは、意外な反応を見せた。興奮の熱は冷め、ようやく人間のあるべき姿を取り戻した。僕は、反発されることを想定して、密かに体勢を整えていたが、その必要はなかった。「うん」
「ならよかった。俺は正しかったんだ」
どう捉えようとしても、言葉に理解が追いつかない。
「間違ってたのはあっちなんだ」
頼むから、僕の安い脳を置いていかないでくれ。僕は、自動的にテルの思考を読み取ることはできない。
「正しいことをしたのに俺の負けだ」
僕が何も知らないだけで、テルはこんなにも人間臭い奴だったのか。
「ケーオー! 人生にも自分にもノックアウトされた! 俺ってなんで生まれたんだろ」
テルはきっと何一つ変わっていない。人格は長い年月をかけて形成される。人は二日や三日で変わることはできない。
「香川さんが流産したらどうなるんだろ」
僕は、テルの将来を心配していた。未成年とはいえ、刑法に触れてしまえば処罰を受ける。仮に流産をしなくとも、傷害罪に問われる可能性は高い。
「それでいいんだよ。流産させるための計画だったんだから」
なぜ殺意を胎児に向けたのだろうか。
「誰を恨んでる?」
「香川だよ」
本人ではない、大切な人を傷をつけることで、間接的に苦痛を与える。そんな卑劣な手口に、とうとう僕は呆れてしまった。
「子供にはなんの罪もないだろ」
「そうだな」
「ならなんで?」
「この世に生まれても幸福にはなれない」
その一言がすべてだと思った。
「僕も同感だよ」
二世信者の僕たちに明日はない。誰かと競い合うこと、誰かと認め合うこと。その大切さを教祖は教えてくれなかった。大学、就職、結婚、出産。人生における選択肢はエデンの光に託されている。
「香川は犯罪者だ。人を殺した」
テルは、冷たい廊下に寝転んだ。雨が降り注ぐ、一限目の終わり。その瞳には、憎しみだけが映り込んでいた。
「信じていい?」
「英徒は俺を信じられるか?」
その返答に迷いはなかった。
「うん」
「いっそのこと嫌われたほうが楽なのにな」
次第に風雨が強まる。
「親が犯罪者なんて最悪だ。何十年も地獄にいるくらいなら生まれないほうがいい」
テルの言う通り、犯罪者の子供として生きるくらいなら、いっそのこと生まれないほうが幸せかもしれない。生命の宿らない、存在しない幸福。
「反出生主義だな」
かつて先人が唱えた思想。出生を否定することで、未来の不幸を撲滅するというアンチナタリズム。勝者は、これを悲観的な思想と捉える。本物の不幸を知らない人間は、僕たちを鼻で笑う。いじめや障害を避けてきた人間に、不幸は理解されない。
「よく分かったね」
反出生主義は、大きく二種類に分類される。誕生主義と出産主義。僕はどちらかと言えば後者である。誕生主義は、いわば自分の存在自体を否定する思想。出産主義は、いわば人間の存在自体を否定する思想。
「子供を産む人の気持ちが理解できない」
僕は、この遺伝子を食い止めたいと思う。頭脳や才能、どの観点から見ても僕は失敗作だ。こんな遺伝子を受け継いだところで、先に待ち構えているものは不幸のみだ。
「そうだよなぁ。まぁ生きてりゃ楽しいこともあるけど不幸の割合がバグってる」
幸福と不幸の比率は人によって違う。しかし、これまでの人生で不幸の割合が零という人間は存在しない。人間は生きている限り、不幸を避けることはできないのだ。
「不幸はいくらでも思い出せる。でも幸福は思い出せない」
被害者意識が強いせいか、僕は幸福という名の存在を忘れかけている。人生のすべては不幸で構成されている。僕は、今の今までそう思わされてきた。
「じゃ、一つずつ思い出そうぜ」
「大丈夫かな」
幸福だった頃を思い出せば、僕は今の自分を殺してしまいそうだ。幸福という認識を忘れてしまえば、劣等感の痛みも感じなくなる。今の僕は無脊椎動物だ。不幸に吸い付くようなタコが、ある日突然痛みを認識したらどうなってしまうのだろうか。
「どうせ失うものなんてない」
「それもそうだね」
僕たちは、脳内に記憶の列車を走らせた。次の停車駅はサルビア、サルビアです。愛をお忘れの方はお降りください。
第四章
『神が恵んだ天地の創設
囁くサタンに敗れる義
掟忘る あばらの骨
我が太陽は悪を照らさず
イブども追放 バテレン追放
エデンの原罪 今や復活』
思い返せば、俺の悲劇はここから始まった。
「テル、もっと真面目にやりなさい」
俺の人生はカルトによって奪われた。
「ねぇ、まだ終わんないの?」
母さんは、無神経な俺を嫌って、口元にガムテープを巻いた。
「贖罪」
教祖の言葉を合図に、信者は土下座をする。
「私は不倫しました。これで八回目です!」
俺の手前にいた女性は、大声で恥じらいを叫んだ。満月より後にくる日曜日、信者はこの教会で罪を告発しなければならない。
「轢き逃げしました」
「万引きしました」
エデンの光にまともな人間はいない。
「えっと……」
一人の女性によってその流れは止まった。
「贖罪することは何もありません」
そう言って微笑む姿は、女神そのものだった。イギリスハーフのような上品な顔立ち。また、幸福の権利を与えられた美貌。悍ましく疑わしいこの場所には、不釣り合いな人だった。
「噓をつくな」
結露が発生するほどの寒冷。教祖の怒りは、空気を一変させた。
「嘘ではありません」
聖書を主祭壇に叩きつけ、教祖は女神に制圧の矢を向けた。自身を神と名乗り、自身を崇めるのであれば、感情のコントロールくらいはしていただきたい。
「一度だけ……一度だけ礼拝を忘れました」
俺は聞いて驚いた。女神は声を震わせ、深刻そうな顔をしているが、実際のところは四方山話だ。大袈裟なあまり、俺は吹き出してしまいそうになった。
「食わせ者は追放せよ」
神の器はミジンコ程度か。怒りの沸点は有明海。態度のデカさはビッグバン。考えれば考えるほど面白い。ガムテープがなければ、俺は教祖に絞殺されていたかもしれない。ありがとう母さん、俺を守ってくれて。なーんちゃって、皮肉だよ。
「ごめんなさい。その日は娘の誕生日だったんです」
救済を求めるようにして、女神は光に手を伸ばした。
「誕生日なんてここで祝えばいいだろ」
漫才をやるなら、俺はこいつを相方にしたいと思った。
「いえ、娘は無関係ですから」
女神は、カルトに洗脳されていない強者だった。思考を搾取された親は、我が子に思想を押し付ける。神だとか楽園だとか、簡単な言葉を武器に心を操る。それはパペット人形を操るように、自由に乱暴に身勝手に。
「無関係?君と娘は本当に無関係か?」
「ええ。カルトと娘は無関係です」
幸福の名の下に、親は第二の信者を創造する。しかし、この女神は単純ではない。自我を持った普通の人間だ。
「最後の審判」
そう言って、教祖は祭壇を離れた。妙な胸騒ぎ、俺は嫌な予感を覚えた。
「哀れね」
母さんは、勝ち誇ったような顔でそう呟いた。
「変な人」
信者は一斉に顔を上げ、女神を指差して笑った。
「あれじゃ地獄行きね」
「とんでもない悪魔」
いや、悪魔なのはお前たちの方だ。神の仮面を被った悪徳者を持ち上げ、勝ち組のように他者を見下す。そんなお前らにお似合いの名前はサタンだ。心の中で、俺は女神を否定する言葉を捻り潰した。
「有罪」
教祖が手にしていたものは、先端に針の付いた十字架だった。針は鋭く、十字架の高さは約二メートルにまで及ぶ。
「申し訳ありませんでした」
女神が土下座をするのと同時に、教祖は十字架を背骨の辺りに振り下ろした。
「うxtu」
腰椎が砕かれる。その生々しい音に、俺は耳を塞いだ。
「見よ、これが地獄の支配者だ」
信者は立ち上がり、教祖に向けて盛大な拍手を送った。ダチュラが枯れる午後三時、正義は悪に敵わないと証明された。
「素晴らしい」
「よかったですね」
「これで救われた」
三百六十度、どこを見ても俺はサタンに囲まれていた。勝利の女神などは存在しない。
「テル、きちんと拍手しなさい」
サタンに呑まれるのも時間の問題だった。一度心を許してしまえば、思考を奪われる。
「どうして逃げるのよ!」
パニックになった俺は教会を飛び出した。猛ダッシュ、二番飛ばしで階段をおりる。
「うxtu」
階段を踏み外した俺は、アスファルトに転げ落ちて、頭を強打した。小石が刺さろうと、痛みは微塵も感じられなかった。
「おい大丈夫か⁉」
顔を上げると、そこには父さんが立っていた。
「その顔どうしたんだよ!?」
父さんは、俺の口元を見て仰天した。
「痛いだろうけど我慢して」
徐々に口元が解放されていく。しつこく粘り強く痛々しい。ガムテープの粘着力は、まるで母さんの信仰心そのものだった。
「ありがとう」
俺の吐く息は、酷く震えていた。
「追いかけてくるかもしれない。早く逃げないと」
エデンが消滅するまで、俺の地獄は永遠と続く。死んでしまえばそこで終わりだが、自ら死の判決を下すことはできない。
「先行ってて」
父さんは心臓が弱い。だから、全速力で走ることはできない。
「分かった。六道神社で待ってる!」
死から逃れるようにして、俺は教会から姿を消した。交差点、信号を待っている暇などない。死に追われていた俺は、タイミングを見計らって導流帯を飛び越えた。
「あのクソガキ」
罵声のクラクションは、俺に向けられた怨言だった。目の前で恋人繋ぎをするカップルが、俺の行く手を塞ぐ。
「ごめんなさい」
俺は縁を引き裂くようにして、カップルの間を通った。朱色の鳥居が見えてくる。俺は死に物狂いで全力を振り絞った。
「助かった」
ゴールテープを切るかのようにして、三大天神の鳥居を駆け抜けた。玉砂利の音が焦燥感を搔き消していく。
「テル」
しばらくすると、参道に父さんの姿が見えた。通院の帰宅途中なのか、片手には処方箋の紙袋を持っていた。
「ゆっくり息吸って」
父さんは、息苦しそうに胸を押さえていた。激しい運動は、心臓に強い負荷をかける。そのことを分かっていながらも、俺は父さんのことを急かしていた。なんせエデンに捕まれば、この世の終わりだからだ。
「俺のせいで……ごめん」
父さんをベンチに座らせると、次第に過呼吸は落ち着いた。
「いいんだよ。気にしなくて」
安心と同時に、俺は不甲斐なさも感じていた。俺は、病気の父さんを支えなければいけないのに、いつだって支えられているのは俺の方だった。
「今日は酷い罰だった」
俺は、教会での出来事を父さんに打ち明けた。
「その人は亡くなったの?」
女神のその後は分からない。しかし出血量からして、長くは持たないだろう。
「分かんない。でもいい人だったよ。娘をエデンに巻き込みたくないって」
なぜ神は運命を狂わせるのだろう。神は想像するよりも、ずっと低劣で無能だ。人々は、想像上の神に理想を嵌める。結局、神は己が創り出した偶像だ。
「ごめんな。父さんがちゃんとしてれば、テルだって巻き込まれなかったのに」
父さんのせいではない。かと言って母さんのせいでもない。母さんだって、昔は笑顔の優しい親切な人だったのだ。
「父さんのせいじゃないよ」
父さんは、ぼんやりと狛犬を見つめていた。「反省してるよ。でも反省したとこで償いにはならない」
俺が否定をしても、その声は耳に届いていないようだった。
「俺は母さんを止められない」
これまで母さんは、エデンに八千万円ほどの献金をしている。父さんの給料はもちろん、そこには母さんが稼いだ金も含まれている。
「しょーがないね。諦めることも大事だよ」
母さんは弁護士で、父さんは土木作業員。低賃金の現場仕事に比べ、弁護士は華やかなエリートコースだ。この格差に父さんは頭が上がらない。
「ありがとう。テルは優しいな」
父さんの子なのだから当然だ。
「そう、俺は超絶優しい。でも良くないところばっかりだよ」
賽銭の投げる音。回転する硬貨は底に落下した。神に拝む老夫婦は、前世から結ばれた縁のように、その運命を大切にしていた。
「誰にでも駄目なとこはあるよ。不完全の方が人間らしくて美しい」
そう言ってくれるのは父さんだけだった。母さん、そして主治医は、俺の脳を『腐っている』と言った。不治の病だから、人様に見せてはいけない。俺という存在は、不名誉であると。
「そうかな?」
「そうだよ」
ベンチから立ち上がると、俺は父さんの背中を追った。病弱なせいか、肩幅は狭く男らしくない。しかし、今の時代、そんなことを口にしたら殺されてしまいそうだ。LGBTの法案は素晴らしいが、その一方で過激な人間も存在する。カルト宗教のように、押しつけがましい思想を説く、正義中毒者は恐ろしい。
「絵馬でも書いてくか?」
父さんはポケットから財布を出した。
「うん!」
俺は絵馬を書いたことがなかった。六道神社の絵馬は有名で、円の形をしている。
「父さんは書いたことある?」
「うん。昔はよく家族で書いたよ。懐かしいなぁ。あの頃に戻りたい」
父さんの思い出話が、ほんの少しだけ羨ましかった。母さんはキリスト教信者なので、俺が仏教に触れる機会は、これまでに一度もなかった。
「いいなぁ。俺もそういうことしてみたい」
それは、切ないないものねだりだった。
「大人になったらいくらでもできるよ。だってテルには明るい未来があるんだから」
俺が欲しいのは、未来ではなく今なのだ。普通の家族、普通の青春、普通の人生、大人になってからでは遅い。優しさ有効期限は短いのだ。
「俺は大人になれるのかな?」
その質問に父さんは立ち止まった。
「誰にでもなれるよ。でも本当の大人になれる人は少ない」
某有名漫画の逆バージョン、見かけは大人、頭脳は子供。そんな大人を、俺はこれまで何度も目にしてきた。
「確かに。大人のフリした子供ってそこら中にいるよね」
何かとクレームを付けたがる客、被害者意識の高いモンスターペアレント、年老いた子供は、意外にも身近な場所に潜んでいる。
「そうそう。特にエデンはね」
巫女さんのいる社務所を前に、俺は立ち尽くした。
「買ってくるからそこで待ってな」
父さんを待ちながら、俺は賽銭箱の横にある神木を眺めていた。自然には神が宿る。自然崇拝は古神道の思想だが、無信教の俺でも賛同できる。神がもたらす摂理は胡散臭い。
「はい」
父さんは俺に絵馬を渡した。木製の板には温もりがあり、自然と心が癒された。
「ありがとう。綺麗だね」
この美しい絵馬に、自分の拙い字を書き入れるのは、何だか申し訳ないと思った。
「そこの台で書こう」
社務所の横には、大きなテーブルが二台設置されていた。
「綺麗やねぇ」
「曲がってもうたな」
そこには、先ほど見かけた老夫婦が楽しげに絵馬を書いていた。
「父さん、書くこと決まってる?」
「決まってるよ」
「じゃあ書き終わるまで内緒ね」
貸し出し用の油性ペンで、俺は叶わぬ願い事を刻んだ。
『父さんの心ぞう病が早くなおりますように赤坂テル』
漢字は苦手だ。覚えても明日には忘れてしまう。俺の脳は欠陥品だ。
「できた!」
俺は、完成した絵馬を父さんに見せた。叶えたい夢は山ほどある。それでも俺は、この願いを一番に叶えたかった。
「ありがとう。こんな息子がいて俺は幸せだよ」
父さんは気恥ずかしそうに笑った。感情は感電し、俺までも幸福で頬が熱くなった。
「で、父さんはなんて書いた?」
俺は、父さんの絵馬を覗き込んだ。大人らしい達筆な字。俺の不細工な絵馬を横に並べると、それはさらに美しく見えた。
『いつまでも永遠に愛が途切れませんように 赤坂浩一』
“愛”とは一体何を指しているのだろうか。家族愛か、友人愛か、それともまた純愛か。俺は、家族愛であることを信じたかった。誰だって、嘘でも自分が愛されていると信じていたいものだ。
「なんか難しいね」
芸術家のように、流暢な感想は言えない。しかしその代わり、嘘をつくようなことはない。正直に、素直に、そして思いのままに、それが俺のいいところだ。
「単純だよ」
父さんは“愛”に人差し指を向けた。
「全然分かんないよ。愛なんて一つじゃないし」
そう、世界には愛が溢れている。もしも、愛が可視化されてしまえば諦めがつくというのに。愛は、目に見えないから難しい。
「信じたいものを信じればいいよ」
そう言って、父さんは、紅緋の紐を二重に結んだ。二十叶結びには、願いが叶うという意味が込められている。
「よし、飾ろう」
父さんは、絵馬の仕上がりに納得していた。「ねぇこれ英語で書いてあるよ」
「ほんとだ全然読めないね」
そこには幼い少女が二人いた。絵馬掛所には、願わなくとも他人の願いを覗く民衆がいる。
「俺は真ん中にする。その方が神様も見つけやすいでしょ」
神が一番に叶えてくれるよう、俺は極力目立つ場所に願いを掛けた。
「いいね。俺もそうする」
父さんは、俺の隣に願いを掛けた。意味は異なるが、両隣に並んだ願いは二つで一つのような気がした。
「じゃあ帰ろうか」
「あぁ嫌だな。また怒られんだ」
父さんとの帰り道では、不思議と孤独感がなかった。しかし翌日、俺は欺瞞の病に侵されるのであった。
「赤坂テルさん。三番診察室にお入り下さい」
母さんは、朝一に俺を精神科に連れ出した。待合室には、両耳を抑える患者や、落ち着きのない患者が見られる。救いようのない廃人を、俺は酷く軽蔑した。
「失礼します」
母さんは、ノックもせずに診察室へ入った。正常な俺を医者に見せたところで、意味はないだろうに。
「どうぞおかけください」
黒縁眼鏡のおっさんは、とても良心的に見えた。優しい笑顔に、痛みを包み込むような声。下手をしたら思考を呑まれてしまいそうな、そんな危うさを持っていた。
「確認のため、お名前をお願いします」
「赤坂テルです」
精神科なんて俺には必要ない。俺に治療はいらない。そうは言っても、母さんは聞く耳を持たなかった。
「改めて症状を確認させていただきます。妄想、幻聴、衝動的行動、知的機能の欠如。こちらでお間違いないでしょうか?」
衝動的行動か、俺は医者の顔面を殴りたくなった。
「えぇそうです。昨日だって急に飛び出したり変なこと言ったり……困ったもんですよ」
嘘ではないけれど、真実とも言い切れない。それは御幣のある言い方だった。母さんは、俺を精神障害者にすることで、エデンの正当性を担保するつもりのようだった。
「いや違う!俺は身の危険を感じたから逃げただけで……おかしいのはエデンの方なんだ! いつも変なこと言って騙して!」
ついに俺の感情は爆破した。この怒りはどうにもコントロールが効かない。俺は、診察室の椅子を蹴飛ばし、パソコンの画面を叩き割ろうとした。都合のいい嘘ばかり、身勝手な愛ばかり。俺は、そんな現実を破壊してしまいたかった。
「落ち着いてください。私はあなたの味方ですから」
それだって都合のいい嘘だ。いつだって詐欺師は善人を装っている。
「そうやって騙されてきた! 何度も何度もうんざりだ」
感情を押し殺せば俺の負けだ。暴力は最大の自己防衛。俺は、悪夢を振り払うようにして、医者を突き飛ばした。
「病気ですね。病気」
そうではない、そういうことではない。俺は、医者の診断に納得がいかなかった。
「そうなんです。脳が腐ってるみたいで」
母さんは、半笑いで脳に人差し指を向けた。「入院しましょう。このまま世に放つことはできません」
決めつけるような、その言い方が気に入らない。
「やぶ医者だ! こいつも教祖と変わらない悪徳者!」
大人って最低だ。分かっているフリをして何も分かっていない。すべて自分が正しいと思っている。元は餓鬼の分際して生意気な。
「こっちお願い」
医者は、インカムで看護師に指示を出した。このままでは医者の思惑通りになってしまう。エデンや病気、俺に降り注ぐ不幸は意図して創られたもの。もうこれ以上、好きにはさせない。俺は、慌てて診察室を飛び出そうとした。
「開かない」
怒りのエネルギーを注いでも、ドアは微動だにしない。仕組まれていた罠。俺が気づいた頃には、すでにそれは始まっていた。
「やめな。これから治してもらうんだから大丈夫。母さんはテルの味方だからね」
そう言って、母さんは俺を強く抱きしめた。嬉しくない。偽りの愛なんて嬉しくない。俺は、容赦なく母さんの腹に肘を食わせた。
「馬鹿にしてんのか? そうだろ? 都合のいい時だけそう言って。いい加減うぜーから死ねよ。俺ら生きてる価値なんてない」
そんなこと本当は言いたくなかった。だけど現実にそう言わされた。存在価値がないのは、俺だけでよかったのに。
「佐川先生、三〇八号室なら空いてます」
ドアの向こうから、ノックをするのと同時に看護師の声がした。
「分かった。そこでいい」
医者は、母さんに契約書を渡した。
「書くな。絶対に書くな」
入院したところで、治療はしてくれない。そもそも俺は病気ではない。しかし、母さんは、俺の言葉を無視して、契約書に押印してしまった。
「ありがとうございます。後はこちらに任せてください」
ようやくドアが開き、明るい待合室が見えた。癒しのオルゴールに、狐や狸が描かれた可愛らしい椅子。この病院、思春期精神科は平然を装って患者を騙している。
「いい子にしててね」
無責任な言葉を捨て、母さんは病院を後にした。その後ろ姿は、いつもより歩幅が大きく、早く俺の元を離れたいようだった。
「こちらへどうぞ」
抵抗をするのも虚しく思え、俺は看護師の指示に従った。薄暗い廊下で、地獄行きのエレベーターを待つ。エレベーターのボタンだけが、ただ眩しく光っていた。
「上へ参ります」
音声案内を合図に、俺たちはエレベーターに乗った。ボタンは八階まであり、看護師は七階のボタンを押すと、“閉”のボタンを連打した。
「入院したら何するんですか?」
俺は壁際に寄りかかり、真顔で質問をぶつけた。しかし、小声だったせいか、看護師はその質問に答えなかった。
「聞こえてます? 俺どうなんの?」
そう言っても応答はなかった。聞こえていないのではなく、わざと無視をしているようだった。
「患者が神様とまでは言わないけどさ、無視ってのは酷くない?」
「七階です」
沈黙をかき消すようにして、エレベーターのドアが開いた。そこに光はなく、薄暗い廊下が、ただ永遠と続いていた。
「こちらになります」
まるで機械のように、看護師は決まったことしか口にしない。奇妙かつ気持ち悪い。俺は、今にもこの状況から解放されたかった。
「ねぇ、プログラムされたことしか言えないの? やっぱこの病院変だよ」
母さんの言う通り、やっぱり俺は空気が読めない。言いたいことを言わないと、喉の奥に何かが詰まっているようで気持ち悪い。
「普通です」
看護師は目を見開き、拳でスイッチを押した。蛍光灯が、イルミネーションのように点灯する。
「じゃあ俺が変だって言いたいの?」
「そういうことです」
怒りを感じたものの、今は腹の底に留めておくことにした。
「どうぞ」
第二のドアが開かれ、俺は病室へと案内された。
「害児は大人しくしとけ!」
多目的ホールには地獄絵図が広がっていた。患者に暴力を振るう看護師、皿を投げつける患者。
「黙れ! 早くここから出せ!」
足元には、皿の破片と血痕。どちらがサタンなのか、それは一概に言えなかった。
「俺ここまでは酷くないですよ」
俺は、地獄絵図を横目に呟いた。異常者も健常者も、自分だけは例外だと思っている。
「赤坂さんは三〇八号室です」
病室は質素で閑散としていた。ベットが一台に、天井には監視カメラ。窓から見える景色は、そう悪いものではなかった。
「あー監視カメラって落ち着かないな」
それだけがどうも気がかりだった。いやらしいことをするつもりはない。ただ、常に監視されているという状況が怖かった。
「入院に関して一通り説明させていただきます。まず食事や投薬の際には放送が入ります。許可なく外出はできません。また入浴は週に三回、他の患者様も同時に入ります」
初対面の異常者と入浴。できることなら避けたいが、温泉だと思えば何とか乗り切れる。「はい」
俺は病室の椅子に腰を下ろし、窓の外を見つめた。サイレンを鳴らす救急車や、大型トラック。遠くには、踏切を降ろす電車まで見えた。
「あれは京王線だな」
俺はガラスに手を押し当て、過ぎ行く車両を目で追った。
「いや南武線ですよ。ここ京王線なんて通ってませんから」
ようやくまともな返事をしてくれた。恥と引き換えに、俺は安心感を手に入れた。
「そうなんだ。知らなかった」
「礼拝室はこの部屋の隣にあります。午後三時から開始ですので、遅れないよう気をつけください」
イスラム教徒の患者に向けたサービスか。空港に礼拝室があるのと、さほど変わらない。それにしても、入院中に礼拝とは馬鹿な話だ。神に救われなかった結果、ここにいるというのに。
「いや、俺ムスリムじゃないんで」
「ムスリム?」
看護師は困ったように首を傾げた。
「うーん。礼拝とかするような民族じゃないから大丈夫ってことです」
瞬間的に言語化することはできない。クリスチャンだのイスラムだの、宗教的用語は複雑で難しい。下手をすれば、誤解を招く可能性もある。
「赤坂さんはエデンの信者ですよね? 礼拝は必須ですよ」
信者とはいえどカルト宗教。キリストやイスラムのように、公共施設に認定されるような宗教ではない。
「それくらい好きにさせてよ。あんなの馬鹿げたカルトだし」
「信者としての秩序は守ってください」
「関係ないだろ? 部外者が首突っ込んでどうすんだよ」
「この病院に部外者は存在しません」
まさか。立ち上がる勢いで、俺は椅子を後方に倒した。
「大丈夫ですか?」
椅子を見つめる看護師に、俺は恐る恐る視線を送った。
「この病院の名前って……?」
「病院名ですか?」
「はい」
「エデン国際医療センターです」
目が合った瞬間、呼吸が止まった。エデンは病院まで経営していたのか。どうりで普通の人間と違うわけだ。普通、病院側が本人の同意なしに入院させることはない。精神科には例外もあるが、医療保護入院はよほどな異常者でない限り適応されない。
「俺はここから出られるんですか?」
「どうでしょう」
「いつ? 何月何日? 何曜日?」
「分かりません」
母さんは俺を捨てたのだろうか。時の流れによって退院の許可が下りるとは思えない。命が尽きるまで、俺は洗脳され続ける。毎日聖書を読み、礼拝を行い、やがては廃人となって散る。
「説明は以上です。それでは失礼します」
漆黒のカラスが空を飛ぶ。電柱に絡まっている俺は、空を見上げる。これからどうしろと言うのか。天に唾を吐いても答えは出ない。「あの、面会とかあるんですか?」
病室を出た俺は、偶然前を通りかかった看護師に声を掛けた。
「あ? ねぇよそんなん」
あからさまに喧嘩腰の態度。腹立たしいが、逆上すれば乖離うちにされるかもしれない。ホールで見た小学生のように、酷い目に遭いたくなければ我慢するしかない。
「あぁそうですか」
病室にいても退屈なので、俺はホールに出た。ホールには共同テレビと机と椅子。そこには男女の患者が数人集まっていた。
「新しい子?」
俺の存在に気づいた女子高生が、すかさず笑顔で話しかけてくれた。
「あぁはい、そうなんです。よろしくお願いします」
隣にいた少年は、人見知りや警戒をせずに会釈してくれた。学校とはまた違った雰囲気で、二人は友達というよりも仲間のような関係に見えた。
「辛かったでしょ。急にこんなとこ連れられて」
そうか。ここは二世信者の集まり。だから俺の拭えない過去も理解してくれる。
「びっくりしました。やっぱ二世に自由はないんですね」
「うん。残念だけどそうみたい」
俺は一つ空いた席に座り、二世信者の輪に加わった。
「自己紹介しよっか。私は高二の白川麗奈。呼び方はなんでもいいよ。よろしくね」
ハーフのような顔立ち、大きな瞳が誰かに似ている気がする。しかし、記憶と顔が一致しない。俺はどこでこの顔を見たのだろう。「小五の清宮光です。将来の夢はサッカー選手! スポーツはダメって言われてるけど、僕の憧れなんだ。まぁ叶わないけどね」
まだ幼いのに、つまらない現実を見ているのは可哀想だ。無謀な夢はいつしか覚める。だが、子供の頃に描いた夢は色褪せることがない。
「叶うかどうかは分かんないよ」
俺は、今の自分に必要な言葉を呟いた。
「え? 本当?」
上目遣いに無邪気な笑顔。俺は数年前の自分を思い返し、胸が苦しくなった。
「うん。エデンは永遠じゃないからいつか終わる。変に促されても、こんな生活に慣れちゃダメだよ」
誰よりもその言葉を信じたいのは自分自身であった。
「だよね! よかった……よかった……」
涙を拭う光くんの手は、痣で変色していた。虐待の形跡が見える火傷の跡。涙を流さなくとも、痛みは心に感じられた。
「麗奈さんは夢とかあるの?」
初対面で下の名前を呼ぶことは馴れ馴れしいだろうか。中学生の時、クラスメイトの女子に『私のことを下の名前呼ばないで。赤坂って勘違い野郎でほんっとキモイ』と、言われたことがある。俺は、女性との距離感がいまいち分からない。女性は、気分次第で距離感を変えるので、そこがなおさら難しい。
「私? 私はカウンセラーかな」
名前の呼び方には触れなかったので、俺は内心ホッとしていた。
「そうなんだ。なんか理由とかあるの?」
麗奈さんは茶髪のロングヘアで、一目見た限り俺よりも座高が高い。都会の街を歩いていたら、すぐにでもスカウトされそうだ。
「お母さんがカウンセラーだったから、私もそうなりたいなって」
俺と光くんは顔を見合わせ、黙ったまま頷いてた。
「いいね。でも自分を捨てた親のことって尊敬できる?」
マズい。また俺は余計なことを言ってしまった。光くんはこちらに視線を向け、今にでも黙ってほしそうな顔をしている。
「ごめん。俺ってそういうとこ駄目だよな。今のは忘れて」
この癖は本当に治療が必要だ。
「気使わなくでいいよ。そっちの方が楽だし私たち仲間でしょ」
麗奈さんの笑顔は眩しかった。唯一、女性の中で俺を認めてくれる人だった。
「聞いてくれる? 私のお母さんはエデンに殺されたんだ」
面影のある顔。教会での記憶は、今ここで一致した。あの時の女神は、麗奈さんの母親だ。
「あの時の!」
「え、知ってるの?」
俺は真実をどこまで伝えるべきか迷った。
残酷な真実は、麗奈さんにとっての救いにはならない。だから俺は、記憶の一部だけを切り取った。
「その時俺も教会にいたから」
「どうだった?」
「どうって……」
あの光景は忘れもしない。生血の水溜まりに、飛び散った憎しみ。もう二度と、永遠に引き出したくない記憶。
「途中で逃げ出したから分かんない。処刑は見てたけど、もう思い出すのも辛い」
本当に辛いのは、俺ではなく麗奈さんの方だ。訃報の知らせを受けた時、涙はどんな味がしたのだろう。女神の死体は、原型をとどめていなかった。あの一撃の後、女神はさらに酷い仕打ちを受けた。
「そっか。ごめんね」
悪いのは麗奈さんではない。俺たち二世信者は、何も悪くない。ただこの世に生まれただけで、不幸になったのだ。
「女神……いやお母さん。最後までいい人だったよ」
子を庇う親を見て俺は感動した。
「ならよかった」
「娘をエデンに巻き込みたくないって言ってた。俺の母さんとは大違いだな」
俺は、母さんのことを心底軽蔑しているわけではない。だが、母さんは俺を捨てた。その事実を受け入れられないから、俺は本当の気持ちを忘れようとしている。愛なんて捨てて、知らないフリをしているのが一番楽だ。
「そんなこと言ってたんだ。ありがとう」
麗奈さんは、ゆっくりと頭を下げた。行動から育ちのよさが滲み出ている。
「いや全然。あっ、そいういえば俺自己紹介してないや」
何を言おうか、俺は少し頭の中で考えた。
「高一の赤坂テルです。馬鹿で有名な神座高校出身です。頭よくないけど、できれば大学行きたいなんて思ってます。国立大なんてスゲー憧れちゃう」
光くんと麗奈さんは、俺に向けて拍手をしてくれた。
「具体的にどこの大学とか決めてる?」
「うーん。まぁ有名なのがいいな」
学歴がすべてとは言わない。今の時代、才能や個性があれば生きていける。しかし無能な俺にとって、学歴は必要不可欠だ。
「午後三時をお知らせします。礼拝室にお集まり下さい」
突然の放送に俺は困惑した。
「もう行かなきゃ」
麗奈さんは席を外し、遠くを指差した。指先の向こうは、見たことのない不吉な部屋。
「これ行かなかったらどうなる?」
俺は、大声で二人の足を止めた。入口には、もうすでに多くの患者が集まっている。不健康な体に虚ろな目、まだきっと彼らは完成品ではない。この奴隷のような集団は、エデンの試作品。恐怖や痛みからではなく、根底から洗脳させければ本物は生まれない。
「死ぬよ」
光くんは、真顔でこちらを振り返った。指示に従わなければ、殺される。女神の一例を元に、俺はそれを瞬時に理解した。
「入れ」
祭服を着た男が患者に命令をした。男のジャケットには、エデンの称号が印刷されている。恐らく男は、教祖に仕える上層部の信者。第二の支配人だ。
「馬鹿な真似はするなよ」
男は睨みを利かせ、俺の背中を強く押した。面倒なことに、完全に目を付けられている。俺は入口の段差に躓き、うつ伏せになるようにして倒れた。
「立て」
男は革靴の裏で俺を踏みつけた。上方からの圧力が骨に食い込む。それでも、周囲の患者は誰も振り返らない。聖書を見つめ、黙ったまま正座をしている。こんなことは日常茶飯事なのか、手慣れた様子で知らん顔をする。人助けの代償は大きいものだ。
「足どけてくれなきゃ立てないですよ。みんな毎日こんなことしてんの?」
俺は、口ごもった声で失望を嘆いた。
「喋るな。愚か者が」
ようやく解放されたかと思うと、地獄の始まりはここからだった。
「始め」
男の声を合図に、患者は一斉に土下座をした。斉唱をするわけでもなく、救済を唱えるわけでもない。よく分からぬまま、俺は周囲に便乗して土下座をした。
「動くな」
僅かでも動くと、罰則の鞭が下される。その痛々しい音に、俺は思わず耳を塞ぎたくなった。およそ一時間が経過しても、終了の合図はない。終わりが見えないこの地獄は、どこまで続いているのだろうか。
「これいつまで続くの? 時間くらい教えてほしい。これじゃモチベ上がんないよ」
体制が苦しくなった俺は、ゆっくりと顔を上げた。頭に上っていた血液が全身に巡る。また、正座に限界を感じていた俺は、男の許可なく立ち上がった。痺れから解放され、収縮されていた筋肉が広がっていく。
「喋んなって言っただろうが。勝手に立ち上がってんじゃねーよ」
頬に向けられた鞭は、歯茎の奥の口内炎に命中した。想像を絶するような痛みに、俺は片手で頬を抑える。
「痛ってぇな。ふざけんなよ」
歯向かうことで、俺はなるべく時間を稼いだ。支配人はこの男だけなので、俺に気を取られている間、他の患者は体制を崩すことができる。痺れのあまり、足元を震わす光くんを見て、俺は救済の手を差し伸べたいと思った。
「知りたいなら教えてやるよ」
男は、高価な腕時計を見てほくそ笑んだ。
「少なくともあと五時間だな」
一時間ですら限界を感じている俺が、後五時間など耐えられるはずがない。
「無理だってそんなの」
「神の救いを受けたければ我慢しろ」
神に救いを求めた覚えなどない。神は期待には応えられないって、もう俺はその真実に辿り着いている。
「神なんていらない。そんなのいらない。俺たちはそれでも生きていけるから」
人生の最大の味方は自分だ。何があろうと、俺は無様な自分を肯定できる。それこそ俺にとっての神ではないか。誰しも神は自分の中にいる。打ちひしがれたものだけが見る空虚な妄想は、根拠のない嘘の鍍金で固められている。
「無駄口を叩くな。さっさとやれ」
これ以上の抵抗は効かない。やむ得えず俺は再び土下座をした。窓がないので、外の天候や時間帯を把握することは不可能に近い。喉は疾うに乾いており、随分と腹も減ってきた。
「お手洗い……お腹痛いです」
体制を崩すことなく、麗奈さんは恐る恐る声を上げた。尿意であればまだしも、便意を我慢することは至難の業である。しかし、あの男が寛容に許可をするとは思えない。
「どうぞご自由に」
意外な一言に俺は安心した。あの男、女は平気で贔屓する差別主義者だったのか。何がともあれ、問題が発生しなければそれでいい。誰も傷つかずに終われば、それが一番いい。
「ただしあと二時間後な」
頼むから嘘だと言ってくれ。腹痛の体感時間は平常時の約千分の一。ただでさえ苦痛なこの時間をどう過ごせと言うのか。
「ほんとに無理なんです。お願いします」
長時間の礼拝で退屈しているのか、男は不機嫌そうな態度で鞭を振り下ろした。
「聖書全文唱えたら許してやるよ」
よほどな暇人か狂人でない限り、聖書を暗記することはない。聖書は一人一冊、入信の際に二千万で買わせられる。しかし、俺は一文ですらまともに読んだことがない。つまらない洗脳の小道具に騙されるわけにはいかないのだ。
「すみません。覚えてないです」
「言えるとこまで言ってみろ」
男は麗奈さんに追い打ちをかけた。
「母には強制されていなかったので、そういうのは全然分かりません。すみません」
「そうだ、だってお前の母親って酷い奴だったもんな。死んでよかっただろ」
死んでもなおエデンは悪夢を見させる。嫌悪感の漂う空気に、やがて正義は動き出した。「勝手に私を可哀想な奴にしないで」
女性とは思えない、強圧的な声だった。
「悪かったね。もうあいつのことは忘れよう」「忘れないよ。私を守ってくれた人」
麗奈さんは、畳に跪いて敵対心を見せた。自分よりも大切な何かを守る時、人は虚栄心を捨て去ることができる。
「揃も揃ってしつこいんだよ。大人しくしてれば報われるんだから黙っとけ」
男は鞭で麗奈さんの首を締めた。血管が浮き出ていることから、本気で力を加えていることが分かる。俺は失うものがない。だから躊躇せずにその場へ飛び込んだ。
「やめろ! 死ぬだろうが」
男の首がどうなろうと構わない。俺は凄まじい勢いで覆い被さり、男を下敷きにした。
「退け。汚いから触んな」
俺は男から鞭を取り上げ、腕時計を覗いた。現在時刻は午後七時四十五分。礼拝が終わるまで、あと残り十五分。俺はここまで耐えた自分を褒めてあげたい。そして、これ以上の地獄はこの世にはないと教えてあげたい。
「汚いなんて失礼だな。確かに服は全然洗わないけどさ」
父さんから貰った安物のデニムシャツ。生地が弱いせいか、色落ちが激しいのであまり洗わない。それは、父さんがくれた最後のプレゼントだった。だから俺は、どんなブランド服にも惹かれないし興味がない。
「神に失礼極まりない」
「自然体の方がいいでしょ。どうせ神は人の中身を見るんだし」
容姿や服装、そんなもので人間の値打ちは決まらない。そう言って、父さんは俺の個性を認めてくれた。
「三、二、一、よし!」
午後八時、ようやく礼拝が終了した。
「解散」
俺は天井を見上げ、安堵のため息をついた。緊張と共に全身の力が抜けていく。
「ありがとう。ごめんね私のせいで」
麗奈さんは今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「全然。それよりお腹は大丈夫なの?」
弱さを知られたくなかった俺は、冷静に話を進めた。あの男に怯えていたことなど、今では忘れてしまいたいくらいだ。
「大丈夫。怖すぎて痛みなんて忘れてた」
麗奈さんは、腫れた首元を隠すようにして笑った。何も恥じらうことはない。目先の恐怖に囚われて、目的を忘れてしまうことは、俺にとって普通の日常だ。
「ならよかった!」
そう言って立ち上がると、麗奈さんは俺の手を掴んで体を引き寄せた。
「どうした?」
「よかったらこれ使って」
渡されたのは、フクロウが描かれたテレホンカードだった。
「ここって電話使えるの?」
「うん。ホールに公衆電話あるからそこで使えるよ」
「でも悪いよ。テレホンカードってすぐ時間なくなっちゃうし」
「もう電話かける相手もいないからいいよ。あげる」
「ありがとう。ちょうど話したい人がいたんだ」
俺は、有難くカードを受け取った。
「そうなんだ。沢山話せるといいね」
「うん!」
部屋からホールに出ると、俺は急いで公衆電話を探した。しかし、それらしき物は一向に見当たらない。
「光くん! 公衆電話ってどこにあるか分かる?」
「すぐそこにあるよ」
案内してくれたのは、ガラス張りの窮屈な部屋だった。椅子が一つに、公衆電話が一台。「ありがと!」
ドアを開けると、人感センサーが反応して明かりが点いた。長らく換気されていないせいか、部屋の湿度は高く暑苦しかった。
「礼を言いたいのはこっちの方だよ。テルくん、さっきはありがとう」
「何が?」
「みんなのために頑張ってくれたこと」
感謝されたことなど、これまで一度たりともなかった。欠点を指摘されるばかりで、俺は自分に嫌気が差していた。優しさを鵜吞みにすることは難しい。けれども、光くんは俺のくだらない優しさを真に受け止めてくれた。それだけのことが、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
「そんなふうに言われたの初めて。みんな俺の悪いとこばっか見るから」
俺は、心の奥底に眠っていた言葉を吐き出した。“変な奴”だから、いじめられても馬鹿にされても当然で、誰もその異常性に気づいてはくれない。報われなかった幼少期は、次第に負の感情に吞まれていく。馬鹿なキャラを演じているせいか、俺は繊細な自分に正直になれなかった。
「みんな見る目ないだけだよ。そんな酷い奴のことなんて忘れちゃお」
俺の知っている世界に、そんな優しい人はいなかった。無意識に囚われていたトラウマが、脳の記憶を改竄していく。トラウマは、墓場までつきまとう消えない後遺症だ。しかし、過去の捉え方次第では、未来を変える手助けにもなる。
「ほんとにありがとう。そのままでいいって思えたよ」
光くんは、無言で頷いたまま親指を立てた。その凛々しい表情は、年下とは思えないほど頼もしく勇ましいものだった。
「じゃ、また後で」
扉を開き、椅子を引くと、俺は受話器を片手に取ってカードを投入した。
「ゼロ七ゼロ……八九九二……五四二六」
俺は迷いなく父さんの携帯番号をダイヤルした。呼び出し音と、心臓の鼓動が同時に鳴り響く。数十秒しても応答がないので、俺は諦めて受話器を元に戻そうとした。
「もしもし?」
電話の向こうからは、聞き馴染みのある声がした。
「もしもし父さん、テルだよ」
「今どこ……にいるんだ?」
電波が悪いせいか、声が一部途切れる。
「病院だよ病院」
「病院? ケガでもしたのか?」
「脳の病気なんだってさ。そんで無理矢理入院させられた」
「どういうことだ?」
父さんの困り顔が目に浮かぶ。しかし、時間がないので、説明は手短に終わらせたい。
「エデンのせいだよ。ここにいる患者、全員二世信者。変な儀式で洗脳しようとしてる」
「病院名は?」
「エデン国際医療センター」
「さっきニュースで見たよ。数日前に男の子が亡くなったって」
厳しい世界だ。死人がでるのも無理はない。「嫌だよ。こんなとこで死ぬなんて」
「明日には帰れるよ。警察も動いてるし」
「助かった」
俺は、安心して椅子に背を預けた。
「ごめん。助けてやれなくて」
「別に大丈夫」
「嘘なんだろ。大丈夫って」
顔も姿も見えないのに、どうして父さんは本心が分かるのだろう。
「なんで分かるの?」
「親だから」
そうではない母さんは、本当の親ではないのだろうか。
「テル、聞いてほしいことがある」
父さんの真摯な態度に嫌な予感がした。
「なに?」
「離婚することになった」
何かの聞き間違いだろうか。俺は、その言葉の意味を理解できなかった。
「え? なんて?」
「ごめん」
謝罪されても困る。許すとか許さないとか、そういう問題ではないの。
「なんで?」
「母さんがそうしてくれって」
「親権は?」
「母さんの方にある」
「父さん……酷すぎるよ」
俺は、純愛に裏切られたような気がした。
「俺だってそんなの望んでないよ。でも持病や財産のこと考えたら、こっちのが圧倒的に弱い」
法律上のことはどうでもいい。俺はただ、父さんと一緒にいたいだけだった。
「父さんも母さんも、そうやって俺を見捨てるんだね」
「違う。そんなことない」
「最低だよ! 俺も父さんも母さんも!」
やり場のない怒りに、この上ない劣等感。自暴自棄になった俺は、受話器を思い切り投げつけた。ガラス製の壁に亀裂が入る。
「俺と母さんは最低でもいい。でもテルはそうじゃない」
「最低な遺伝子を掛け合わせたら、もっと最低だよ」
十分が経過したその時、テレホンカードの残同度数が尽きた。謝ることもなく、俺は取り返しのつかない嘘を付いてしまった。俺の言う通り、やはり俺は最低な人間だ。病室に戻り、カーテンを開けると、俺は今日見える星の数だけ涙を流した。
翌日、俺は無事に警察に保護された。しかし、家に帰っても父さんの姿はなかった。
「父さんはどこにいるの?」
軽く肩を叩くと、母さんは、読んでいた聖書を閉じた。
「もう忘れなさい」
どうしようもなく、俺はその言葉に舌打ちをした。日に日に母さんの言動は変調している。洗脳済みの頭に知性は残らないようだ。
「二階ならいるかも」
階段を駆け上がると、俺はノックもせずに部屋のドアを開けた。
「父さん……」
吹き込む風に、カーテンが揺れる。あったはずのテレビやベッドは、もうどこにも見当たらない。残されていたものは、父さんが愛用していた青春の金属バッドのみであった。
会えなくなったその日から、俺は父さんの行方を捜した。やがて夏から秋、秋から冬へと移り変わり、人肌恋しい季節となった。あの日のことを謝りたい。ただその一心だった。夕焼け迫る放課後、俺は六道神社に立ち寄った。人気のない参道に乾燥した空気。あの絵馬は、今でも見つかるだろうか。俺はポケットから両手を出し、白い息を吐きながら、無心で絵馬を探った。
「やべっ」
絵馬に触れた勢いで、最前列の紐が解けてしまった。不器用な俺が復元するとなると、少々時間がかかる。俺は、寒さに怯えながらも、背負っていた重いリュックを玉砂利の上に置いた。
「縁起悪いな」
落ちた絵馬を拾い上げると、そこには父さんの名前があった。
『息子が幸せでありますように 赤坂浩一』
その願いには、俺の幸福が保証されていた。これが最前列にあるということは、父さんは近頃ここを訪れていたのだろうか。どうして再会できない運命なのだ。俺は貸し出し用の油性ペンで、絵馬の後ろにメッセージを添えた。
『父さんがいなきゃ意味ないよ 赤坂テル』
さらに後ろの絵馬めくり上げると、また新しく父さんの願いが見つかった。
『エデンの闇が晴れますように 赤坂浩一』
これだけではない。またその後ろの願いも父さんのものだった。
それからというもの、俺は毎日神社を訪れるようになった。二日に一回、父さんは新たな願いを残していく。直接会えるわけではないが、絵馬を明治の伝言板のように活用することで、密かに連絡を取り合っていた。
『病気は治った? 赤坂テル』
『近頃悪化してる 赤坂浩一』
『大丈夫なの? 赤坂テル』
『大丈夫 赤坂浩一』
こうした日常のやり取りは、半年間続いた。『会いたいよ 謝りたい 赤坂テル』
『満月の夜ここで会おう 赤坂浩一』
約束の夜、月明かりの眩しい参道で、俺は独り暗闇の中にいた。夏の暑さに汗を拭いながら、コオロギの鳴く声に思いを馳せていた。 しかし、父さんはいつになったら来るのだろう。暇つぶしにスマホを開くと、クラスメイトの香川美琴が、ライブ配信をしていた。興味本位から、俺はその配信をクリックした。コメント欄が荒れている。
「私はこの人に脅迫されました。許せません。いや許さないです」
酷い言いがかりだ。噓に決まってるだろう。何を勘違いしているのか、香川は父さんの首を絞めた。
「何してんだ! 馬鹿野郎!」
俺は、スマホに向かって叫んだ。負け犬は吠えることしかできない。その後、父さんは持病の発作を起こして亡くなったという。香川が殺したようなものだ。歪んだ正義を盾にして、自分を過ちを正当化した。最低だ。俺は謝ることも、助けることもできずに終わってしまった。
次の停車駅はサザンカ、サザンカです。正義をお忘れの方はお降りください。
第五章
『神が恵んだ大地の創設
六日に照る一等星
唆された善悪の知恵
我が太陽は悪を照らさず
アダムども追放 バテレン追放
エデンの原罪 今や復活』
僕は、愛されるために優等生を演じていた。それとは逆に、兄さんは僕のために劣等生を演じていた。
「もう帰らない? せっかくの誕生日なんだし勿体ないよ」
昼下がりの教会で、兄さんは退屈な僕に向かってそう言った。
「でも怒られちゃうよ」
目を閉じれば、親の顔が思い浮かぶ。エデンの洗脳に縛られている、親の顔が。僕は、親に失望されることを恐れていた。父は教祖で、母は信者。エデンの光は、かつて父が創設した生き金なのだ。親の見世物である僕に、失敗は許されない。
「怒られたら俺のせいにしな」
兄さんは、胸を張って言った。しかし、僕はそんな兄さんのことが心配だった。
「怖くないの?」
「なにが?」
こんな話、教祖の耳に入れば一貫の終わりだ。だから僕は、声を最小限にして言った。
「お父さんだよ」
「どうでもいいね。俺たちを不幸にする奴は家族じゃないから」
兄さんの思考回路は、僕とは正反対だった。「そうなんだ」
「じゃあ逆にどう思ってんの?」
兄さんは、鋭い目つきで首を傾げた。細身の腕に、鼻筋の通った高い鼻。高身長といったステータスがあるのにも関わらず、兄さんは顔面の自己評価が低い。それはかつて、父に『男らしくない』と言われたのが原因だ。『どうでもいい』とは言っても、兄さんは知らぬ前に教祖の評価に囚われている。
「親だから嫌いにはなれないよ」
僕は、まだ愛の見返りを期待していた。
「よくそんなこと言えるね」
僕にとって、親は絶対的な存在。生んでくれたから、育ててくれたから、親は無条件に愛するもの。そんな強迫観念があった。
「だって怖いじゃん」
「英徒が思ってるほどアイツは強くないよ」
祭壇のダチュラが枯れる。もう甘い芳香はない。幻覚を見せるダチュラは、エデンの象徴。花言葉は、偽りの魅力だ。
「今日は誕生日だっていうのに、お父さんもお母さんも忘れてるみたい」
僕は、今日という日を待ちわびていた。年に一度の誕生日。今日だけは、無条件に愛され、教会の主役になれる“無敵の日”だと思い込んでいた。しかし、変わることなく教会の主役はエデン。期待していた自分が恥ずかしく思えてくる。
「その程度の奴らだよ。俺が祝う」
「わざわざごめん」
「勘違いすんな。俺が祝いたいから祝うだけだ。別に義務でもなんでもない」
荒ぶった口調で、兄さんは悲観的な僕を肯定した。
「ねぇ、もう帰りたいよ」
僕は、親に抗う本音を漏らした。誕生日くらいは僕の好きにさせてくれ。ここで終わるくらいなら、規則を破った方が楽しいに決まっている。兄さんと話しているうちに、僕の下手に出る態度は激変した。
「よし! 行くか!」
灼熱の太陽を浴びる午後三時。僕たちは、ようやく動き出した。
「うん!」
いつものように、横並びの家族や車道を追い越す家族を羨んだりはしない。今の僕に失うものはない。そう、囚われない自由だ。
「ケーキを用意しよう」
兄さんは、小銭で膨れ上がった財布の中を見た。
「お金あるの?」
「二千円だけ!」
「ラッキーじゃん」
僕たちは、心行くままに軽やかなステップで、路面標示を飛び越えた。十字路の先にある商店街。ケーキ屋が立ち並ぶショーケースの中で、僕の誕生日は待ち構えていた。
「ここにしよう」
木々が生い茂る夏の背景に、蔦に覆われた看板。優雅なクラシックに、扉の向こうから香る甘いバニラエッセンス。ドアベルの音が、僕を誘うようにして引き寄せた。
「いいね」
南の熱風に背中を押され、汗が滴り落ちる。「いらっしゃいませ~」
扉を開けると、そこには光輝く祝福のケーキが用意されていた。王道のショートケーキに、裏主役のシフォンケーキ。見ているだけで心が躍る。
「何がいい?」
「決めらんないよ」
庭のカフェテラスの住人は、紅茶を片手に優雅な午後を過ごしている。毎日こうだったらいいのにな。僕は身を乗り出して甘いショーケースを眺めた。
「せっかくだしホールはどう?」
兄さんは、四号サイズの林檎ケーキを指差した。林檎は僕の大好物。しかし、エデンには林檎の食事制約がある。それは善悪の知恵の木、アダムとイブが食した“禁断の果実”から由来してる。
「林檎なんて食べていいのかな」
「給食で食ってんだからいいだろ」
とはいえ父はそのことを認めていない。
「いやまぁそうだけどさ」
僕は、規則を厳守していたものの、以前クラスメイトに『お前それっぽっちも食えないのか? ダッセーな!』と囃し立てられたことがある。いじめの標的になることが怖かった僕は、その時初めて林檎を口にした。罪悪感の苦みと冒険心の刺激が無機質な僕を魅了した。
「で、どうしたい?」
事実を隠せば問題ないだろう。いざとなったら、ケーキもローソクも、記憶の中にしまい込めばいい。僕は自分の好奇心に従った。「それにしよ」
「オーケー」
予算寸前だ。価格札には千九百四十円と表示されている。金欠な兄さんは、そんな無理をして大丈夫なのだろうか。
「四号の林檎ケーキを一つ」
「かしこまりました」
兄さんは、生クリームがホイップされた光沢の林檎ケーキを選んだ。
「プレートをお付けいたしましょうか?」
「お願いします」
店員さんは、ホワイトチョコとチョコペンをケーキボックスの中に入れた。
「お会計千九百四十円になります」
兄さんは、僕のために全財産を使った。ターコイズブルーの財布は、長年使用してるせいか、ファスナーの滑りが悪い。半年後の兄さんの誕生日には、日頃の感謝と共に財布をプレゼントしたい。
「六十円のお返しです。レシートはご入用ですか?」
「大丈夫です」
「ありがとうございました」
兄さんは、大きな紙袋を片手に扉を開けた。形が崩れないよう、慎重に坂道を登る。
「ありがとう!楽しみ」
「うん。アイツらが帰ってくる前に楽しもう」パーティーなんて生まれて初めてだ。夢に
描いてきた理想が、今日現実となる。
「にしても暑いな」
真夏の保冷材は、直射日光で一瞬にして溶かされてしまった。
「蝉の鳴き声って聞いただけで暑く感じるよね。あれなんなんだろ」
僕は、乾いた唇を頬から吹き出す汗で湿らせた。木陰のミンミンゼミが立秋を告げる。
「あ~うざいくらい暑苦しいよね。英徒もたまには蝉になりなよ」
“蝉になる”ということは、生命に熱くなるということなのだろうか。人生の行き先は長いので、僕はいまいち本気になれない。
「なにそれどういうこと?」
「本気で適当にやれってことだよ」
矛盾しているようでしていない。適当でも生きていけるのがこの世界だ。むしろ真剣になり過ぎると、不安や緊張から、かえって失敗してしまうことがある。本気を打ちのめされた時のメンタルは、修復が遅い。
「適当って難しいね」
完璧主義な僕は、失敗を回避することに精一杯で、挑戦することができない。自分の限界を知るということは、その先の可能性を失うようなものだ。僕は、それが恐ろしくて堪らない。
「そうだな~ほんと難しいことばっかでやんなっちゃう」
軒下の猫を見つめると、兄さんは疲れ目に瞬きをした。なにが頭の中を占領しているのだろうか。親のことか、自分のことか、もしくは僕のことか。
「そんなに悩んでたんだ」
僕は向日葵の草丈のように、丸まった背中を伸ばした。シャツの隙間から涼しい風が吹き込む。まだ終わらない夏だった。
「悩んでるわけじゃねぇ! どうでもいいことは忘れて家まで競争だ!」
兄さんは、持ち前の俊足で話をはぐらかした。弱みを誰にも見せないつもりか。それでは、僕と同じ卑怯者だ。
「待って! 早いよ」
僕は、全速力で浮き上がる肩甲骨を追った。運動不足なせいか、情けないほどに息が上がる。走れば走るほど遠ざかる背中は、いつしか消えてしまいそうだった。兄さんは、ダッシュで坂道を駆け上がると、間抜けな僕を振り返って笑った。
「遅ぇよ」
遠い流れ雲に、夏の日差しは去っていく。「疲れたぁ。休みたい」
僕は、降り注ぐ紫外線を遮るようにして叫んだ。しかし、兄さんは形振り構わず再スタートを切る。それは僕だけが知っている才能だ。そう、日の目を浴びることのない才能。体育祭に出場できない僕たちは、見せ場もなければ恥さらしもない。
「競争だって言ったじゃん! 負けた方は教会で盆踊り」
とんでもない罰ゲームだ。死刑よりも残酷で痛々しい。
「史上最悪のデスゲームじゃん。漫画だったら一話で連載終了だね。父親にぶっ殺されるバッドエンド」
僕は、罰ゲームから逃れようと、恐怖心を動力に変えた。引きずっていた足が、見る見る未来へと走り出す。強化された筋肉は、今にでも兄さんを追い越しそうだった。
「なんだ走れんじゃん」
電柱が佇む坂の上。僕はようやく兄さんと肩を並べた。身長差はあれど、大して肩幅は変わらない。似た者同士の醜い争いだった。「ってかさ、ケーキぐちゃぐちゃになってない? さっきはあんな慎重だったのに」
「そうだよ。ぐちゃぐちゃだよ。なんかそれ俺らみたいでいいじゃん」
僕たちの人生は、崩れたケーキのように“ぐちゃぐちゃ”なのだろうか。冗談でも笑えない嘘だ。僕は、まだ諦めていないのに。
「いや意味わからん」
「よくよく考えたら俺も意味わかんねー」
「な~んだ」
僕は、あくびをしながら、道中に捨てられた空き缶を蹴った。土手を転がりゆく空き缶は、ネコジャラシを踏みつけ、増水した川の流れに乗った。
「まぁ味は変わんないでしょ」
兄さんは、楽しげに紙袋を振り回した。中の林檎や生クリームは、もう原型を留めていない。理想に砕けた、解放の象徴だった。
「どうなってるか楽しみ」
「めちゃくちゃだろうな」
「意外とそうでもなかったりして」
「綺麗ってことはないだろうけど」
ようやく我が家の黒い屋根が見えた。ダチュラが生い茂る玄関に、覆われたインターフォン。不気味なこの家は、僕が生まれ育った故郷である。
「待って。鍵かかってるかも」
兄さんは渋い顔をした。僕たちは、家の鍵を持っていない。というか、頑なに持たせてくれない。なぜなら、すべての主導権は父が握っているからだ。
「うわ。最っっ悪だ」
「とりあえず試してみよ」
兄さんは玄関のドアを引いた。しかし、ドアを妨げるものは何もない。
「え? 空いてんじゃん」
僕は、兄さんとハイタッチをした。
「ラッキー! アホで助かった」
「馬鹿にもほどがあるよ」
僕は、失った体力を取り戻すかのように、玄関に倒れ込んだ。徐々に床の熱が僕の頬に吸収されていく。とてもではないが、ここで眠りにつくことはできない。
「あ! そいういえば勝敗どうなった?」
鍵を閉める兄さんに、僕は疲れた体を起こした。
「俺の負けでいいよ」
兄さんは、またそうやって嘘をつく。押し殺した優しさなど、安易には受け取れない。
「引き分けでしょ」
「英徒は優しいな」
結局、勝敗は僕が決めてしまった。
「クーラーつけるね」
兄さんは靴を脱ぎ捨てると、ケーキをリビングへと運んだ。
「ありがと」
リビングは、エデンに満ちた異様な空間だ。聖書に教祖の写真、そして汚らわしい壺。毛嫌いしていたこの場所が、僕のパーティー会場なのだろうか。だとすればガッカリだ。
「そんじゃ始めよう」
兄さんは、紙袋からケーキボックスを取り出した。
「僕が開けてもいい?」
「いいよ」
中からトレーを引き出すと、そこには、林檎が入り混じった生クリームが飛び出していた。スポンジが崩壊した、爆破後のバースデーケーキ。
「やっぱりね」
「いつこうなったんだろう? 紙袋回したときかな?」
「だろうね」
僕は、微笑みながら頷いた。
「俺プレート書くからロウソク立てて」
「分かった」
僕は、ケーキボックスのテープを剥がすと、透明な小袋から七本のロウソクを取り出した。今日はその二倍の年を迎える。
「可視光線みたい」
「なにそれ全然分かんない」
「紫、青、緑、黄、橙、赤だからそうなのかなって」
読書家な兄さんは、いつも僕が知らない世界を教えてくれる。
「色のこと?」
「そう」
「よく覚えてるね。僕なんて光の三原色ですら覚えてない」
「伸びしろ伸びしろ」
当たり障りのない会話を続けながら、僕たちは着々と準備を進めた。
「なんか曲がってるね」
崩れた表面に、可視光線のロウソクは傾いた。
「クリスマスカラーだ」
指摘されるまで気がつかなかった。そして、僕は無意識のうちに、赤と緑のロウソクを中心に立てていた。
「嫌だよ。ガチ信者じゃん」
エデンは、新約聖書を改竄している。そのため、大部分は取って付けたような聖典なのだ。キリストの思想を捻じ曲げたものが、教祖の教え。
「吞まれるなよ」
赤は、キリストが流した贖罪の血。緑は、永遠の命を意味する常緑樹。また、鋭い棘のある柊の葉は、キリストが着用したイバラの冠を連想させる。
「しかも黄色を遠ざけてるのが、盲目信者って感じ」
僕は、偶然にも黄色いロウソクを遠く離れたケーキの側面に立てていた。
「ユダってこと?」
レオナルドが描いた“最後の晩餐”では、キリストを裏切った弟子、ユダは黄色い衣服を着用している。また、ジョットが描いた“ユダの接吻”でも、ユダは同じく黄色い衣服を着用している。そのことから、黄色は裏切りの象徴として蔑まれた。
「なんでもエデンに関連するのキモイな」
作業を終えた兄さんは、呆れた様子で指の関節を鳴らした。気泡が弾ける音に、禁断の果実は腐り果てる。
「考えすぎたかな」
僕は、兄さんの手元を見つめた。ホワイトチョコのプレートは、未だに空白で素朴なまま。ひょっとしたら、兄さんは僕の名前を忘れてしまったのかもしれない。
「自分で書こうか?」
僕は、痛みに直面する前に自ら行動した。
「待ってて」
視線を移し替えると、チョコペンの先端は小刻みに震えていた。僕は、わざと視線を逸らし、兄さんを緊張から解放する。すると、僕は教祖の写真と目が合った。角度を変えても視線が合う。それは、まるで名画のモナリザのように。
「できた」
聞こえているはずなのに、写真から目を離すことができない。精気の魂があの世に失われていく。まるで生きた夢のようだ。思考を停止させた脳は心地いい。やがて天使の翼が生える。やはり僕は間違っていたのか。これは、エデンが見せる幸福に満ちた天国か。そんな自己暗示に僕は惑わされた。
「目覚ませ!」
ガラスの破片が飛び散った。呪いを解くように、教祖の写真が破滅された。僕は、一体なにを考えていたのだろうか。
「あぁごめんね」
どうしてか生粋の涙が溢れる。兄さん、どうかこんな僕を許してくれ。正義と悪の境地に生きる僕を。
「なんで謝るの?」
「僕が悪いから」
「そんなこと言うなよ」
兄さんは、こんな僕を優しく許してくれた。そう、ユダの模倣犯である僕を。
「ありがとう」
僕は、目を合わせないよう、写真を粉々に引き裂いた。そして、それを思い切り宙に放った。まるで色のない春夜の桜吹雪のようだ。「お! いいね綺麗だ」
兄さんは、僕の悪事に賛同してくれた。祝福のパーティーは、もう既に始まっている。
「嫌なこと全部さよなら」
生命の意識を感じる最高の瞬間。自由に憑依された僕は、偽りの聖書を破った。教祖がこれを見たらどんな顔をするのだろう。死刑でも構わないから、僕は僕らしく生きていたいと思った。
「だったら俺も自由だ」
僕たちの衝動は、誰にも止められやしない。未来が“進め”と命じるんだ。兄さんは、この家で最も高価な壺を両手に抱え、それを窓ガラスに投げつけた。ガッシャーン。それでも壺は割れずに、窓ガラスを破壊した。
「あーあ」
割れた窓から、生暖かい排気ガスが漂う。その一方で、兄さんは、庭に転がる壺を見つめて笑っていた。
「こんなのが四千万って馬鹿じゃないの?」
便乗した僕は、使い物にならない聖書の表紙を庭に捨てた。
「半額セールでも買わないね」
「半額でも二千万か。とんでもねぇ」
そう言って兄さんは、台所にあるチャッカマンを持ち出した。
「ロウソクつけるの?」
「でもちょっとその前に」
無念を晴らすようにして、兄さんは四千万の壺に火を灯した。白壺の側面に、新たな模様が刻まれる。以外にも、直火にかけても割れない代物だった。
「あーあ焦げてるよ。これじゃ売れないね」
「誰も買わねぇだろ」
現状に満足した僕たちは、ようやくバースデーケーキを囲うようにして、直に腰を下ろした。
「そんじゃつけるよ」
兄さんは、先ほどのチャッカマンでロウソクに火を灯した。風に揺れる炎は儚い。聖書とガラスが散ったこの部屋は、まるで僕たちだけの秘密基地みたいだ。
「消していいの?」
僕は、浄化された空気を全力で肺に取り込んだ。窓が開いているせいか、クーラーによる涼しい風は瞬時に消えていく。僕の体内に溜まった空気は、まさに自然そのものだった。「まだ駄目」
「え?」
兄さんは、クリスマスカラーのロウソクを前に、準備していたホワイトチョコのプレートを立てた。
『英徒おめでとう!』
文字の大きさはチグハグで上下に傾いている。また、線が太すぎるあまり、英徒の“英”の字は潰れている。しかし、僕はその不器用さが愛おしく思えた。
「ありがとう! 嬉しい」
「初めてだったから汚くなっちゃった。もう少し上手くできたらよかったんだけど」
兄さんは、納得がいかない様子で下唇を噛んだ。
「いいんだよこれで! これがいい」
これは、決して変なお世辞や気遣いではなかった。僕たちは、この世でたった一人の兄弟なのだから、きっと言葉にしなくても分かり合えるだろう。
「ほんと?ならいいんだけど」
兄さんの愛情は、僕にとっての一番のプレゼントだった。
「もう火が消えちゃったね」
視界を遮るように、気体となったパラフィンが立ち込める。兄さんが灯した炎は、どうやら真夏の風に連れ去られてしまったようだ。「気を取り直してもう一度」
兄さんは、赤、緑、紫、青、橙、黄のロウソクを順に火を灯した。今は風速弱いので、そう簡単に消えることはない。
「消してもいい?」
「うん」
目を離した隙に、早くもロウソクのパラフィンは溶け出している。
「英徒お誕生日おめでとう!」
兄さんの掛け声と同時に、僕は息を吹き込んだ。しかし、一斉に消えることはなく、中心のクリスマスカラーのロウソクだけは、まだ永遠に炎を灯していた。
「もう一度だね」
僕は、気を取り直して、最大限の肺活量で息を吹き込んだ。
「ハッピーバースデー!」
兄さんは、それと同時に、今度はクラッカーを鳴らした。予想外のサプライズに胸が高鳴る。唐突な爆発音に驚いた僕は、反射的に肩を震わせた。黄金のテープが宙を舞う。
「ビックリした~」
宙を舞った祝福のテープが、僕の頭上に舞い落ちる。僕は幸せになってもいいのだろうか。当然至極の不幸に浸る僕は、しばし幸福を恐れていた。
「ごめんごめん。せっかくだし誕生日ムード出した方がいいかなって」
すると兄さんは、ポケットからクラッカーを取り出した。
「英徒もやってみなよ」
「え? どうやったらいいの?」
僕は、初めてクラッカーを手にした。紙の素材は滑らかで滑りやすい。そして、尻の突き出た部分には紐が垂れ下がっている。
「その下の紐を引けばいいだけだよ。でも人には向けないでね。危ないから」
僕は天井に向かって紐を引いた。爆発音と共に、再び黄金のテープが舞い落ちる。儚くとも美しい。煌めく初体験に僕は感動した。
「毎日こうだったらいいのにな」
火薬の煙に虚しさだけが滞る。
「そのうち俺らだって大人になる。大人になったら親がすべてじゃないって思えるよ」
兄さんは、希望の光に夢を照らした。僕が大人に成長したら、本当にそう思えるのだろうか。今はまだ想像もつかない。
「僕は大人になれるのかな」
誰しも歳を食えば大人になる。だがそういうことではない。僕が描く大人は、年老いた子供ではなく、成熟した人間なのだ。
「死んだらなれないよ」
「どういうこと?」
「だから死んだら終わりってこと。負けではないけどね」
「いや僕は死ぬなんて言ってないよ」
しかし、僕は、毎晩のように脳内で死を連想している。僕は、きっと天のパラダイスには行けない。どの道、絶望の淵を辿る運命だ。僕はハデスの闇の中、孤独に燃え上がる。そして最後の審判。そこで、僕はゲヘナに死を裁かれる。罪の意識はない。死んだら僕は、兄さんのことも忘れてしまうのだろうか。それなら僕は、下品にまだこの命を惜しみたい。
「うん、言ってないね。でも匂いで分かるよ。英徒からはいつも悲しい匂いがする」
僕は、動揺して、コップ一杯の水を腸に流し込んだ。
「なんだ。知ってたんだね」
兄さんはなんでもお見通しだ。僕の卑屈な態度も感情も、蓋をしたはずの涙も引き出してしまう。ただ、嘘を見透かされているようで、たまに嫌気が差す。しかし、それが兄弟というものだ。愛だけでは分かり合えない。
「大人になんていつでもなれんだよ。人は死ぬまで生まれ変わるから」
「きっとそうだね」
玄関の閉まる音。時計の針は五時を指していた。今宵誰かが、世界をゲヘナの闇に沈めようとしている。
「誰?」
僕は、兄さんの袖口を掴んだ。緊迫感のある磨りガラスのドア。覗き込むと、そこには肩幅の広い大柄の影があった。
「あああああアイツだ」
兄さんは、片手にしていたチャッカマンで咄嗟に火をつけた。聖書の断片が燃え上がる。「あついあつい。死ぬだろうが。消して。頼むから消して。死ぬのは僕たちじゃない」
火災報知器が作動する。壁画が消えゆく喪失の午後。秘密を知られたら、それはもう秘密ではない。暗黒の影が忍び寄る。教祖だ。教祖様だ。僕たちの秘密基地が、パラダイスへ帰天する。兄さんは、死に物狂いでそれを阻止しようとした。記憶を移行して、証拠となるこの場を焼き尽くしてしまえば、秘密基地は僕たちの脳内で永遠と生きる。記憶は死なない。死なないものは買えない。生は買えるけれど死は買えない。僕は人差し指を頭に突き刺した。
「インストールした?」
「一部失敗した。英徒がロウソクを消した記憶って連携できる?」
「うーん。できなくはないけど」
燃え盛る炎の中、僕は兄さんに記憶を連携した。記憶は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感によって成立する。その一部が欠けてしまっては、記憶は脳に都合のいい嘘を見せる。また、嘘は記憶を破滅に追い込む。だから僕は、上書きした細密な記憶を脳に囁いた。
「あ~そうそうこれこれ」
兄さんは納得した様子で頭を押さえた。
「記憶の連携って名前はかっこいいけど、やってること別に普通だよね」
「まぁ記憶を囁くだけだし、化学でも呪文なんでもない」
「もっとファンタジーがいいんだけど」
「ファンタジーならそこにあるよ」
兄さんは、中指で僕のつま先を指して、顔をこわばらせた。確かな気配。そこには影を脱いだ教祖が立っていた。
「お前らなにやってんだ?」
僕たちを見下ろす教祖は怒っていた。割れた窓ガラスに、桜吹雪のごとく散った写真。取り返しのつかない事態に、僕は黙り込んだ。「なんもしてないです。家帰ったら勝手に燃えてて」
兄さんの下手な嘘は、かえって教祖の怒りに火をつけた。
「礼拝の途中だろ? 馬鹿なのかてめえは」
怒り狂った教祖は、急いで台所へ飛び込んだ。蛇口をひねる音。なにやら、掃除用のバケツに水を汲んでいる。
「消すのか?」
声が漏れないよう、兄さんは密かに僕の耳元で囁いた。
「そりゃそうでしょ。だって家燃えてるし」
「もう間に合わないよ」
焼き焦げた毛先が抜け落ちる。
「それか僕たちを助けようとしてるんじゃない?」
「アイツがそんなことするわけない」
壮大な被害を引き起こしたとはいえ、いざとなったら教祖は身代わりとなって命を張る。だって親だろう。親なら無条件に子供を愛するだろう。僕は、まだそんな淡い期待を胸に抱いていた。
「汚らわしい」
教祖はバケツを逆さにした。しかし、僕たちの火は絶えず燃え盛る。貴方は僕の親だろう。なのにどうして。
「ああああああ! ひどいひどいひどい」
兄さんは、波に飲まれるバースデーケーキを見て叫んだ。小さな水溜まりには、スポンジのカスと、悪に裁かれた林檎だけが浮いている。
「今日は誕生日なのに」
プレートは水に晒され、『英徒』の文字は記憶の奥に閉ざされた。それが貴方の生きる姿か。教祖はなんて無様で臆病なのだろう。可哀想だ。
「ただの偶像崇拝だろ」
偶像崇拝などではない。僕は人間をかたどった生き物だ。神でもなければ、盲目信者の祭る偽物でもない。
「知らないかもしれないけどさ。僕はずっと生きてたんだよ」
僕は、真実を口にすることで、一酸化炭素を喉の奥に詰まらせた。聖書を辿る行く先に答えはない。しかしそれがいいとか悪いとか、そういうことではなくて、部外者が人様の価値観に土足で踏み込むことはできない。人は皆、なにかに縋らなければ生きていけない。それは弱いからではなくて、無欠の人情があるからだ。僕だってそうだ。祈りの先が、アイドルだろうが神だろうが関係ない。信じるということは、愛するということだ。世を愛することに不正解はない。ただ、その価値観を他人に去勢してはならない。自由を去勢したら忘れてしまうだろう。そう、僕は僕が崇める人生を。そして、あるがままの未来を。
「お前が生きてるかどうか? んなこと知ったこっちゃない」
教祖は、ローソクの上に、空のバケツを投げつけた。ベチャッ。なんだ、親という肩書は自己満足のための名称か。あぁ、貴方を愛して損したよ。僕は期待を弄ばれた。
「おい、それよりコイツを唆したのはお前だろ。出来損ないは大人しくしとけよゴミが」
どうやら息子の名前もまともに言えないらしい。教祖は、兄さんを殺す勢いで蹴飛ばした。この欠落遺伝子は、もう救いようがない。熱く汚らわしい血が、僕の体内を巡る。あまりにも不名誉だ。これなら、リストカットで体内の血を全面に垂れ流してしまいたい。
「そうだよ、俺が唆した。俺は悪魔だった」
違うよ、違う。兄さんは悪魔などではない。兄さんは、僕が愛した人間だ。どうしてそんなことも分からない。その嘘は僕を庇うための恩情か。それなら僕は泣いてしまう。
「んなわけないだろ! これは僕の意思でやったことだ。どうせなら全部ぶっ壊してやりたかった。だって教祖が嫌いだからね!」
悲痛の叫びは届いただろうか。
「ごめんよ」
兄さんは、僕を置き去りにして、割れた窓ガラスを飛び出した。待って待って待って。まだ僕の傍にいてくれ。僕は必死でその背中を追ったが、間に合わなかった。兄さんは、弾け散る火花と共に、遠いどこかへと消えてしまった。
「逃亡か」
首元の十字架のネックレス。最後の審判。兄さんは、エデンから追放された。そして、ついに僕の祈りの先が決壊した。
「どうして。どうしてどうしてどうしていつもそうやって……」
僕は、庭に転がる壺を横目に、砂利を引きずりながら歩いた。鋭利な角が足裏に突き刺さる。ふと下向きに垂れ下がる一朶のダチュラを摘み取ると、僕はフェンスから身を乗り出して、それを天に向けて掲げた。
「夢の中でまた会おう」
第六章
神は死んだ。
「やっぱり思い出すんじゃなかった」
僕は、止まない雨に涙した。手首にある火傷の跡。そこには、忘れていた愛の記憶があった。僕は、生まれながらにして孤独というわけではなかったらしい。
「英徒は苦労したんだな」
記憶を連携した僕たちは、互いの傷を舐め合った。同情するよりほかない、救われない者同士だった。
「テルもでしょ」
テルの過去は、悲痛を通り越してもはや残酷なものだった。
「どうしたら許せるかな?」
親指のささくれを毟りながら、テルは意味のない質問をした。
「それは香川さんのこと?」
「うん」
果たして許す必要性はあるのだろうか。香川さんは、無害の通行人を勝手な憶測で死に追いやった。それと比較して、加害者となったテルのバックボーンは、あまりにも強い。殺るなら殺られる覚悟を持て。他者の記憶に針を刺すということは、そういうことだ。
「許したいなんて思えるの?」
「思えないよ」
「だったらなんで?」
「シンプルに疲れた」
「あぁ、ね。もうなんも考えたくないよ」
そうは言っても、僕は脳の神経細胞を消費しながら、ある計画について考えていた。
「教祖に死んでほしいって思ったことある?」「なんだよ急に物騒だな。そんなの英徒に悪ぃから言えねぇよ」
テルは、無気力な体を起こして背中を伸ばした。しかし、それでも脳はマイナスに吸い寄せられ、頭部は即座に下を向く。万有引力の法則か。いや、無意識に生じる猫背はただの癖だ。
「そういうのいいから。はい、答えて」
「じゃあオブラートに包んで言うわ」
「うん」
テル、お前はどちら側の人間だ。僕はもう決心したぞ。僕は己に正義を委ねる。この人生に残された選択肢は、どれも不正解だ。しかし、エデンの頭を打破すれば、この連鎖する不幸は食い止められるかもしれない。同じ不正解であっても、僕は利益の生じる選択をしたい。どうして今の今まで、僕の主役である偽善は、黙っていたのだろう。僕が自己犠牲を払えば、もうそれでいいじゃないか。
「とっとと死ね! 死にやがれ! 俺はずっとずっとずーっとそう思ってるよ」
「それ全っ然オブラートに包んでないね」
「これでもまだマシなほうだよ」
それもそうか。教祖の過ちは、贖罪では償えない因果応報。そう、六法全書では裁けない罪。しかし、僕の下す判決は有罪だ。
「マジで言ったらどうなんの?」
「暴れるかもね」
「今日みたいに?」
「そう」
上履きの高じる音。職員室の角を曲がる。その足音は、腐敗した僕たちを探していた。
「ヤバい。誰か来た」
「あぁぁ! もうどうしよう」
焦る勢いで立ち上がると、僕は足音がする十二時の方向に目を向けた。ドキドキドキドキ。これはあの時の感覚に似ている。エデンがなければ、僕がこの世界を知ることはなかった。そもそも僕が生まれなければ、この痛みを知ることもなかった。罪を犯した後、僕はどうするつもりか。死ぬのか、死ぬのか。僕は、そんな自問自答を繰り返していた。
「ねぇ。そのバット借りていい?」
僕は、テルの父親が残した形見に正義を委ねた。本当に身勝手で申し訳ない。僕は、今こうすることでしか僕を救えないのだ。
「別にいいけど……なんで?」
言いたいけれど言えない。君を酷い目に合わせたくない。可憐なこの世界で、僕は死を望む。どんなに否定しようと、僕は教祖の血が入り混じった欠落遺伝子だ。そう、生きているだけで罪な人間。そう、今宵撲殺されし人間。
「終わらせる」
「ん?」
僕は、困惑するテルに知らん顔してバットを拾い上げた。重い、殺意が重い。
「きっと大丈夫だから」
「は? さっきからどういうことだよ」
「じゃ! ありがとうね」
ガラゴロガラゴロキー。僕は、バットを引きずりながら、物寂しい廊下を駆け抜けた。
「おーい! なにするつもりだ」
遠くから叫ぶ声に、僕は後ろを振り向かない。引き留めるな。もう振り向かないと決めたのだ。その純粋な顔を見れば、なくした未来が悔やまれる。
「待てよ!」
だからうるせーよ。いいからテルは僕に庇うな。いい加減、君は幸福になるべきなのだ。欲望に目覚めろ。君が幸福になることでしか、僕の人生は救われない。
「俺は分かってるぞ。これから英徒が……」
声が遠のいていく。僕が何だって。その続きの言葉が気になる。駄目だ駄目だ。考えるな。どうせくだらない。苦行からの責任逃れ。僕は、人生を諦めた途端、肩の荷が下りたように、自由から解放された。
「雨ニモマケズ……ってなんだよ。負けさせろよ」
僕は、降り止まない雨に口答えした。地を打ちつける強烈な雨。心臓に触れる重低音。東の教会に、激動の雷鳴が鳴り響く。しかし、雲隠れする放電光は目に見えない。あんな雷に打たれてたまるか。僕は、昇降口にある貸出用の傘を手に取った。ターコイズブルー。
「…………クソっ」
記憶のある色彩に、僕はやり場のない怒りを感じた。愛は僕を惑わせる。
「ぁぁぁぁ」
ずぶ濡れになろうと構わない。僕は、怒り狂ったように傘の骨を踏みつけた。そうだ、僕のように壊れてしまえ。完成された部品は、僕の一部ではない。
「英徒!」
またしても僕は振り返らない。幸福以外の選択肢を、僕は君に提示しない。靴の隙間から泥水が染み込む。清々しい。だけど、濡れた靴下は気持ち悪い。僕は、真に矛盾したアンビバレント。
「さっきから聞こえてんだろ」
テルは僕の腕を掴んだ。触るな。僕の欠落遺伝子が感染してしまう。これは不治の病だ。細胞を殺すことでしか治療できない。僕は難病に選ばれし者。君の血は、運がいいことに濁ったり汚れたりしていない。なぜなら、君には誠実な遺伝子が含まれているからだ。
「触るな!」
雨が運命を引き離す。僕は、腕を振り払い、濡れた靴で膝を蹴った。
「痛くない」
僕は、瞬時に目を逸らした。それは罪悪感があるからだ。君を傷つけてしまったこと、愛を忘れながらも後悔している。あぁ、傷口を直視することができない。
「平気平気。俺が言えたことじゃないけど、理性を忘れるなんてよくあるからさ」
残念なことに、返す言葉がどこにも見当たらない。
「…………」
「雨はいいな。俺という存在を隠してくれる。こんなに天気がいいなんて最高だよ」
テルは、汚れた制服を激動の雷雨で洗い流した。分かっている。僕がエデンを解体したところで、君は笑顔を見せない。エデンに刻まれた後遺症は、半永久的に残る。洗脳からの完治はない。
「庇うなよ。気持ち悪い」
僕は思ってもないことを口にした。ごめんね。本当に気持ち悪いのは僕の方だ。
「よく言われるよ」
「だろうね。事実だから」
「なぁ、お前だけ逃げるのか? ズルいな」
テルは、厭味ったらしい口調で言った。僕は、わざと君を傷つけているというのに。屈辱的だ。
「別に卑怯で結構」
大丈夫。君は僕にはなれない。困難に打ちひしがれようと、きっと君は笑うだろう。
「死ね」
僕は、君を孤独に突き落とす。それでも君は僕を見捨てたりはしない。嬉しいけれど、悲しい。このずぶ濡れのワイシャツは、涙ではない。僕は、芯が折れるまで強がりたい。
「ついに本性を現したな」
テルは僕の真理を悟った。もしかすると…………。欠落遺伝子であることがバレた。バレた。バレてしまった。僕は××。ヒューヒュー。恐怖に汗ばむ僕は、過呼吸を起こした。「おい、どうしたんだよ?」
僕は必死で脳を隠す。見るな見るな見るな。頼むから僕を視界に入れるな。早く僕の現像を殺さなくては。僕は、バットを片手に東の教会を目指した。雨の道路は、行く先を急かすワイパーで騒がしい。中央から左右、両側から内側。ワイパーのゴムがフロントガラスの水滴を拭き取る。いいや、アレは僕の不純物を取り除くためのものだ。危ない。僕は人目につかぬよう、草木に身を屈めながら歩いた。激しい鼓動に血液が流れる。犯罪者の血だ。おえええええ。僕は這い上がる胃液を抑えながら、ゲロを阻止した。
「セミナー勧誘してきなさい」
「教祖……教祖……教祖様」
幻聴か。見知らぬ通行人が僕を弾圧する。
「教祖の息子ですって」
「なんて贅沢な」
「地獄は恐ろしい」
「今や光は闇にあり」
「同級生も勧誘してきなさい」
脳天に煌めくフラッシュバック。#国は安楽死を認めてください。何だ、死に際の幻覚か。目の奥に、この世の終わりを知らせる宇宙の一等星が煌めいた。
「うるせえぇぇぇぇぇぇ!」
痺れを切らす自己暗示の麻酔。どう足掻いても常人にはなれない。僕は幻聴と知りながらも、通行人に生の無実を訴えた。
「なんだあれ。叫んでる」
「やべーな」
誰も閉ざされた真実を知ろうとしない。
「明日三限空きコマ」
「うわ最高かよ。バイトできるやん」
「いやセミナー行こうかなって」
教祖の出身大学。頻繁に信者はここで勧誘を行っている。嘘も方便か。極刑の洗脳がつきまとう。嵐吹く夏の終わり。長い時を経て、僕はようやく辿り着いた。
「興味あります?」
教会を見つめていたせいか、僕は信者と思わしき女性に声をかけられた。大きな瞳にハーフのような顔立ち。美貌の無駄遣い、肌の質感や雰囲気からして、彼女は二世信者だと見受けられる。
「あ、いえ」
勧誘されることは想定外だった。断るにも断れない。それは信者に同情しているからだ。僕は、教祖の指示で勧誘を働いたことある。しかし、大学や近隣の住民は、僕に対して酷い罵声を浴びせた。『インチキ野郎』『人生つまんなそう』『可哀想な人』……そんな言葉は、言われなくても自覚していた。また時折、『宗教勧誘撃退! ほら吹きチキン』というタイトルで、ネットに動画を晒されることもあった。動画の切り抜きやコメント欄。声のエフェクトやモザイクなど、素性を隠すための編集は一切なく、僕はネットに殺された。匿名で悪を成敗したつもりか。無数の批判は、僕を悪の境地へ追い詰めた。
「早く逃げなよ」
またもや幻聴だろうか。いいや、僕が捉えた警告は真実だ。女性は、信者の末路を強い視線で訴えた。
「あら、教祖様の息子じゃない!」
その場を立ち去ろうとした瞬間、僕は上層部の信者に見つかってしまった。面倒なことになるぞ。
「英徒さん! 探してましたよ」
「帰ってらしたのね」
凄まじい勢いで、何十人もの信者が僕を囲った。懐かしいこの感覚。逃げ場がない。
「教祖様も心配されてましたよ」
赤子を抱いた女性が、そっと僕に耳打ちをした。
「あぁそうですか」
分かりやすい嘘で有難い。もはや嘘が嘘であると疑わずして済む。心配をしているのではなく、洗脳の手が足りていないのだろう。だってアイツは、子供を便利な商売道具としてしか見ていない。
「教祖様をお呼びしましょうか?」
ここで断れば不審に思われる。僕はイェスと言わざるを得なかった。
「はい」
ついにこの世界は滅びる。それでも、国や社会はこの世界に振り向かないかもしれない。命を張ってもまだ、世間は悪を野放しにするかもしれない。#エデンの光、#霊感商法、#二世信者……。マスコミやメディアの手を借りれば、エデンの悪行は瞬く間に拡散される。それと同時に、現実の世界では何者でもない匿名の評論家が、僕を炎上させるだろう。それでいい。むしろそれがいい。そこで僕は死に燃え尽きて灰となる。
「教祖様がいらっしゃいました」
アイツの気配に体を向けると、そこには祭服を身に纏った悪魔がいた。逆恨みだ。ユダの裏切りだ。教会に続く階段で、アイツは僕を嘲るように笑っていた。ほら見ろ、心配などしていない。
「生きてたのか」
それより、もう忘れているか。きちんと僕は親切に教えてやっただろう。『僕はずっと生きていた』って。
「今や闇に光なし」
僕は聖書に反駁した。
「え?」
「違いますわよ」
「変ね」
ざわざわざわざわ……信者が僕という存在を疑う。洗脳によって創られた心は純粋だ。それはかつて親の愛を信じていた僕のように。「教祖様にお目にかかれて光栄です」
心からエデンを信仰している者には、僕は申し訳ないと思っている。カルトを信仰する者は、異常ではなく繊細だ。繊細が故、現実に縋ることができないのだろう。乏しい心に、エデンが強い光を差したなら、それを破壊してしまうことに、僕は不甲斐なさを感じる。
「ごめんなさい。僕はもう死刑になりたい」
僕は、雨で濡れた階段を一段飛ばしで駆け上がった。闇のフォーカスが僕に当たる。
「来るなクルナくるな……」
狙いを定めろ。そして頭蓋骨を陥没させろ。顔を覆うアイツに、僕はバットを振り上げる。噂によれば、バットの一発で人は死なないらしい。それでもコイツは死ぬのだ。これでようやく楽になれ……
「まだ終わってない!」
僕は、背後からワイシャツの襟を掴まれた。天と地が交互に映る。僕は死んだのか。エデンに追放されたのか。未練があるとすれば、欠落遺伝子を撲滅できなかったことだ。あぁ、何一つとして救えなかった。僕が僕を救えないのなら、僕はこの世に救いを求めない。死んだバットエンドの聖書に落胆する。階段で凍りついた雨を吸収し、僕は地獄の底に落ちた。望み通り、僕は死刑になった。
「なにやってんだよ」
地獄を吹き抜ける風に、兄さんの声がした。淡い走馬灯が僕を駆け巡る。なんて心地いいのだ。地獄、大なりイコール、現実。脳が溶け出すほどの甘ぁぁぁい夢。
「兄さん!?」
ザーザー。ピシャッ。風に誘われたビニール傘が吹き飛ぶ。瞼を開けると、そこには現実という名の地獄が広がっていた。
「俺は兄さんじゃねーよ」
「なんだ……テルか」
「俺で悪かったな」
テルは、濡れた僕に傘を差し出した。互いに濡れているのだから、傘は必要ないだろう。それでもテルは、しつこく僕に傘を当てた。
「教祖様、大丈夫ですか?」
「神殺しだ! 神殺し」
信者は僕を罵倒した。
「裏切者」
「犯罪者」
「悪徳者」
僕は何者か。僕は僕でいいと思えた、あの夏はどこへ消えた。僕は僕を許せない。どうして未来は、この手をすり抜ける。
「余計なことしやがって」
僕は嫌われることで孤立したかった。
「お前はまだ終わってない。だからこんなとこで死ぬな」
チッ、僕はその命令口調が大嫌いだ。何があろうと、君は僕の人生を肩代わりすることはできない。死を咎める者は無責任だ。
「ムカつくね。その説教」
「俺もムカつくよ。生きるなんてくだらない」「ならなんで?」
「俺はどうなってもいい」
会話に夢中だった僕は、交感神経を鎮め、晴れない空に油断していた。
「独房で餓死させろ」
指示を合図に信者が動き出す。考える余地はない。僕の負けだ。未来に諦めがついた途端、僕は潔く教会へ跪いた。
「立て! 早く立て!」
「テルだけ逃げなよ」
生死の欲望を失っていく。体が思うように動かない。
「嫌だね」
不思議と僕の見える景色は、涙を搔っ攫う太陽のように眩しい。テルは、教会から僕を連れ去った。晴れた空に虹が掛かる。これが兄さんの言っていたスペクトルか。綺麗だ。
「これは誘拐かな?」
テルは、僕の顔色を窺った。どうしてそんなに不安げな表情なのか。僕はもう泣いたりはしない。神に誓っては言えないけれど。
「ううん。救済だよ」
いつの間に、僕たちの立場は逆転したのだろう。手を差し伸べる勇気と、その手を掴み取る勇気。どちらかが一方通行では、その手は救済とは言えないのかもしれない。
「よっ」
僕の手を引いて、テルは乱反射する水溜まりを飛び越えた。水沫がポトスを呼び寄せる。僕はまだ、この不治の病を恐れていた。
「手離してくんない?」
「同性愛者に見えるから?」
「ううん。そうじゃない」
僕は即座に否定した。
「まぁ暑いしね。いいよ」
テルは、僕の手を離した。僕はこの真実を告発するまで、この水溜まりを跨ぐことはできない。
「だって僕は欠落遺伝子なんだ。テルに感染するかもしれない」
僕は声を震わせた。嫌われることは百も承知だ。それでも僕は、生きる資格が欲しかった。
「欠落遺伝子? スピチュアルか?」
「そういうんじゃない。僕は教祖の息子だから、あの汚い遺伝子が僕の体内にあるってこと。あの血液が流れてるなんてキモイだろ」
「あぁなるほどね」
テルは、考え込んだ様子で腕を組んだ。
「英徒は英徒で、俺は俺だろ?気にすることないって」
「そうだけどさ」
ありきたりな回答に、僕は頭を悩ませた。
「でもそういうのってさ、どうしても気になるんだよね。『気にするな』って言われても、そんなことできたら苦労しねーのに」
テルは、意外にも僕と似た感性をしていた。「そうそう、それ。まさに僕」
「でも感染はしないよ。信じてないからね」
「信じてない?」
「偽薬みたいなもんだよ。信じてれば作用するし、信じてなきゃ作用しない」
「つまり、僕が劣性遺伝を信じてるから作用するってこと?」
「そうだよ」
テルは思いの外、奥深い思考をしていた。客観的に見えて、実は主観的。それは、劣等生を演じていた兄さんによく似ている。
「でもこれはあくまで仮説だから、本当の答えは英徒が見つけてね」
「今のが答えじゃダメなの?」
僕は、善悪の判断に自信がなかった。
「ダメ駄目! 他人の答えなんて当てにならない」
「そうかな?割と納得したけど」
「『割と』ってことは、どこかしら妥協してるんだね」
核心を突かれたようで、僕は悔恨の念を押し殺すように唇を噛んだ。
「妥協しない答えなんてなくない?」
「自分で導き出した答えは妥協じゃないよ」
「うーん」
僕は視野が狭いのか、その言葉の意味が分からなかつた。
「人は相談したり悩んだりするけどさ、ホントはある程度答えなんて決まってるんだよ」
「あ~あるね。そういうこと、僕もあるよ。自信がないから、他人に一押し求めるんだ」
つまりは、世間体を気にしているというわけだ。
「もし他人が一押ししてくれなかったら?」
「そりゃ考え直すよ」
そうか。だから僕は駄目なのだ。
「待って!やっと答えが分かったよ」
内に秘める原石の答えを、僕はようやく発掘した。
「よかったな」
僕たちは虹のふもとを目指した。茨の抜け道を通る。地図には記されていない道。僕は、靴底で蝉の抜け殻を砕いた。成長した僕に、
保守的なバリアは必要ない。僕は僕のままで、弱いまま生きていく強さがある。
「あ……」
茨を抜けた先は、僕の住む公園だった。そこに浩一さんの姿はない。僕が黄泉の国に辿り着くまで、再会はお預けのようだ。
「どうした?」
「ここが僕の家」
馬鹿にされても無理はない。ここは、解体費用不足で残存する事故物件。ドアもなければ、屋根もない、路上に朽ちた廃墟だ。しかし、テルはそんな僕を見て笑わなかった。
「いいね。秘密基地みたいで」
「うん。本家は火事で燃えちゃったけど」
僕は、コンクリートに咲く彼岸花を摘んだ。花弁を太陽光に翳す。この怪力乱神な魅力は、死を兼ねて美しい。
「一人暮らし?」
「そう。前までは同居人がいたんだけどね」
「へー、その人は何歳? 性別は? 職業は?」
妙に食いつきがいい。亡き者に運命を感じているのか。余計な一言はいらない。僕は、聞かれたことだけに答えた。
「男性だよ。何歳くらいかな? ハッキリとは分かんないけど、五十代前半くらい。昼間は現場仕事してるって聞いた」
話を振ったくせに、最後まで聞いていない。テルは、公園の一角にある段ボールハウスを見つめ、物思いにふけていた。
「どんな人だった?」
わざわざ僕に聞かなくとも、それは君の方が知っているだろう。
「優しい人だった。僕を息子のように見てくれて……でも実の息子には敵わないよ。あの人にとって、息子は生けた生命線みたいなものだったから」
僕の言葉に、テルは確信がついたようだった。モノクロの瞳に光が放つ。
「そうなんだ。ありがと」
「おう!」
僕はテルの丸める背中を押した。助走をつけて、行く先のない目的地を目指す。水面に映り込む劣等感。僕は、全反射する水溜まりを飛び越えた。過去に後ろ髪を引かれることはない。生きていてよかった、生んでくれてありがとう。悪いが、僕にはそうは思えない。生まれてこなければよかったなんて、今でも考えてしまう。それでも、僕は果てしない希望を思う。
「テルは僕の兄さんに似てるな」
「英徒は俺の父さんに似てるな」
幸福は最後ではないらしい。僕は幸福になっていいのか。悲観的な人々は幸福を恐れる。いわゆる“幸せ恐怖症”ってやつだ。だけど、僕は治療をしない。治療をしなくても、僕は生きていけるのだ。どうだ、強いだろ。願わなくとも神はいた。それは僕の中に。
「俺はここでさよならだ」
テルは、六道神社を前に立ち尽くした。残念だけれど、受け入れなくては。刑期が半年であろうと、二年であろうと、僕は希望を絶やすことなく、君を待ち望む。友情に賞味期限はない。僕らまた、色褪せない普通の日常を生きよう。
「どうせまた会うよ。会いに行く」
僕は、ポケットにあるメモ帳とボールペンを使い、永続的な最終列車の切符を作成した。あえて有効期限は記さない。
「見せろ!」
テルは、僕の手元にある、未完成の切符を強引に取り上げた。ペン先のインクが、袖口に付着する。油性インクを洗い流すのは面倒なのに、まったくどうしようもない。君のそういうところは、ちょっとだけ風変わりで腹立たしい。唯一の欠点。完璧でないだけマシだ。欠点を殺したら、君は何者でもない。僕は、君のその個性が羨ましい。羨ましいからこそ腹が立つのだ。
「ちょっと! まだ書き途中だよ」
「なになに。エデン▼未定……え、行き先は決まってないの?」
「うん。だって決まった路線を渡ってもつまんないじゃん」
「あっはっは、それ俺たちの教訓だな」
テルは大袈裟に笑った。これから少年院に送致されるかもしれないというのに、なんて能天気なんだ。そんなふうになれたらどんなにいいことか。隣の芝は青いけれど苦い。僕は、突っ返されたメモ帳を一枚切り離し、その切符をテルに託した。
「ほらよ」
切符が鳥居の正中に吹き飛ぶ。
「おっと」
テルは慌てながらも、宙に舞う切符を掴んだ。ナイスキャッチ。やっぱり野球の素質があるみたい。あのスイングは、またこれからも生かすべきだ。それはもちろん、鬱憤を晴らすためではなく、君の世界を広げるために。「なんだ?」
「お守り。寂しくなったら思い出せよ」
僕は、皮肉なことに、ダブルピースを二回折り曲げて、エアクオートと呼ばれる欧米ジェスチャーをした。
「んなことあるか」
テルはドヤ顔で余裕をかます。もはやなんだか気味が悪い。エセエキセントリックの常人にはありえない、泰然自若とした態度だ。「いいから大人しく持っとけよ」
「なんか効果あんの?スピリチュアルとか」
「ないないない。そんなんなくていい」
「ふーん。そんじゃありがたくもらうわ」
テルは、四つ折りにした切符を胸ポケットにしまった。
「てかサツおっせぇな」
あれから二時間が経過した。しかし道路を走るのは、大型トラックか軽自動車。パトカーや警察の姿は、一向に見られない。
「どっかテキトーに探してんだろうね」
不敬ながらも、僕は狛犬の頭を撫でた。口を開けた阿形が君で、口を閉じた吽形が僕。エデンが制定したアダムとイブは、誓って僕たちではない。
「よしっ! そうとなればファイナルプレイだ」
「プレイって遊び?それとも祈り?」
「へ?」
うっかりしていた。まるで思考回路がバグったかのように、脳がオーバーヒートした。文脈から意味を推測するにあたり、祈りというニュアンスは込められていない。欠落遺伝子……いや、神に生かされし僕よ。しっかりしてくれたまえ。
「あぁごめん。クリスチャンが英単語帳に載ってたせいか、頭から離れなくって」
「それ俺も見た! 信者が鏡に祈ってるイラストでしょ!? あれオモロイけど意味わかんね」
僕からしてみれば、とりわけ分からないこともない。“神は我にある”ってか。ともかく、思想が行き過ぎてしまった原理主義者は、厄介だ。
「テルって単語帳見たことあるんだ」
「あったりめぇだわ! こう見えて進学志望だもん」
それは初耳だ。僕たちはこれまで、夢を語る暇などなかった。理想はあっても、妄想で終わってしまうような、それはそれは空虚な現実だった。
「ぜんっぜん知らなかった。じゃあ大学とか決まってんの?」
「そうだなぁ。私立は金ないし国立かな。奨学金なんて借りれないし」
「国立なんてさぞかし大変だろうな。青春捧げないと」
僕は、阿形の狛犬に手を突っ込んだ。鋭い牙に厳つい表情。これが邪気を祓い、神前を守護する霊獣か。どこの神様も、二流どころの一柱では不可抗力なのだな。
「もっと気楽にイコーヨ」
高二の夏の終わり。国立志望であれば、スタートダッシュの時期だ。
「マジでテキトーだな」
もしかすると、君はもうすでに手遅れかもしれない。大寒、敗北に打ち敗れる姿が目に浮かぶ。
「ってかなんで進学したいの?」
「父さんみたいになりたくないから」
僕は一瞬耳を疑った。君は、復讐までして浩一さんを庇っていたじゃないか。それなのにどうして。
「えぇ、そんな言い方しなくても……」
「いい人は短命なのさ」
テルは、そう言って吽形の狛犬を撫でた。
「なら僕たちは長命か」
「ラッキーじゃん」
風が過去を見送るように背中を押す。拝殿を目掛け、颯爽と走り出す。時間を持て余した僕たちは、石段の手すりに腰を掛け、霞がかる背景を滑り降りた。
「そうだ! 合格祈願しようよ」
僕は、鏡内にある絵馬掛所を指差した。
「そんなん意味ないって」
テルは、蹉跌の前例に囚われている。僕が思うに、夢が叶うかどうかなんて関係ないのさ。僕らこのまま、可憐な夢を見て笑えたらいい。成功は一度きりでも、挑戦は無限級数だ。
「僕が書いてやるよ」
絵馬を買う金がないので、僕はメモ帳に願いを綴った。膝の上では書きにくい。お世辞にも綺麗とは言えないが、その心は一生懸命だった。
「なぁ、俺にも書かせてよ」
餓鬼のようにしつこくせがむので、僕は仕方なくテルにメモ帳とペンを貸した。
「ほらよ」
「サンキューな」
パトカーのサイレン音。なんて厄介な。正義を武器とする警察に、結界を張った秘密基地。勝敗が目に見えていても、戦わずして敗北することは、途轍もなくダサい。
「我ながら上出来だ」
「どれどれ」
完成を合図に、僕はまがいの絵馬を覗く。そこには確かな優性思想があった。
『大学受験合格しますように 横須賀英徒
あとついでにダメなオレでも生きてゆける優性区別のない世界になりますように 赤坂テル』
僕もそう思うよ。この世界では優性と劣性が並行している。故に劣性と化した人間は辛いのだ、苦しいのだ、死にたいのだ。僕たちは、好き好んで不幸を選択したわけではない。だから、せめて生きる資格を与えてほしい。
「いいじゃん。その世界」
「だろ?」
パトカーのサイレンが止む。さらば青春よ。あの世ではないこの世で、僕らまた逢おう。
「やっべ」
六道の結界が崩れる。玉砂利に迫りくる足音。とっとと願いを掛けなくては。焦燥感に駆られた僕は、絵馬のごとく、メモ帳を絵馬掛所に奉納した。
「なんだよコレ」
テルは、赤文字で呪縛された絵馬を見た。『死ね! 恩知らずの餓鬼は報いを受けるべきだ! 流産しろ 香川美琴』
望まない妊娠とはいえ、流産するよう自己暗示をかけることはないだろう。香川さんではない他の誰か。その正体は、僕にも分からない。
「気味悪いな。さっさと捨てよう」
お狐様お許しください。この世には、善悪の判断が曖昧な野郎がいるのです。しかし、そう悪いことばかりではありません。完全無欠の人間がいないように、不完全無欠の人間もいないのです。神が創作した虚像は、今もなお生きています。僕は、紅緋の紐を解き、呪縛の絵馬を山に投棄した。
「毒親らしいぜ。アイツの親」
僕は妙に納得してしまった。
「やっぱりね」
過干渉な親であれば、娘の男など歓迎しないはずだ。ましてや未成年。毒親は男の存在を認めないだろう。
「俺もう行くよ」
テルはさりげなく手を振った。そこに未練はない。また、別れを惜しむこともない。とかく、この世界に君がいてくれてよかった。
「じゃあな!また明日」
僕の悲壮に君は振り返らない。まさか泣いてるのか。馬鹿か。もっと現実に甘ったれろ。僕は六道に宣言する。僕はこれから、逃げも隠れもしません。いいや嘘ですごめんなさい。僕はこれから、逃げも隠れもします! だって、逃げたり諦めたりしても、どうせ人生は終わらないのだ。正直に咲く花は、嘘に枯れる花よりもずっとずっと綺麗だよ。
第七章
大衆のフォーカスに沈黙の聖夜は崩れ落ちる。ありもしない答えを探って、僕らはなにがしたいのか。拝啓異端な君へ、今宵僕はなにを話したらいい。
「よ! 元気してたか?」
補修を終えた下校途中。今や今かと、待ち構えていたかのように観客が踊り出る。想定外の忌まわしき事態。
「……うん」
苦手なんだよな、原田くん。それに頭を下げる連中も。
「なんだよオイ! ビビってんのか?」
原田くんは僕の肩に腕を回した。馴れ馴れしいというかフランクというか、コイツは距離感バグっているな。
「いや……」
否定をしたら嘘になる。ならば肯定をしたらどうなる。否定と肯定、正解はどちらか。しばし僕は、この二択の狭間を迷走した。
「まぁ、んなことどうでもいい」
どうやら僕は、不正解を回避したようだ。原田くん、どうかこのままお引き取り願います。コイツは、バイクを乗りこなす半グレ集団の一員。通称アンチ・キラー。アンチ・キラーは、いかなる場合でも敵に回してはいけない。見るに堪えないグロテスクなのだ。
「横須賀、お前ってエデンの二世信者なんだろ?」
どうして今になってそんなことを。僕はあれから、現世のエデンを知らない。知りたくもない。教祖及び信者、僕は絶縁したのだ。
「……まぁ昔のことだよ」
「昔だろうと関係ねぇ。これはネタになる」
「……」
「俺らユーチューバーやっててよ、そろそろ登録者百万人いきそうなんだわ」
「へぇ……おめでとう」
いまだかつて、こんなにもめでたくない祝福は他にあっただろうか。
「なんでテメーは他人事なんだよ。テメーも協力しろや」
どういうわけか、コイツは僕の後頭部を押さえつけるなり、強制的にお辞儀をさせた。全くもって掴みどころがない。コイツが求める正解はなんなのだ。アスファルトとにらめっこ。後頭部の重圧に敗北した僕は、鼻先から顔面を強打した。
「だっっっ」
血……血……鼻血だ。口元に滴り落ちる、生暖かい鉄分の味。
「わりいな。手が滑っちまってよ」
「あ、あぁ、だいじょぶ、」
僕は止まない流血に手を添えた。赤く染まりゆく生命線、メリークリスマス。
「顔上げろや。今日はお前がメインだ」
「ぼ、僕が?」
「あたりめぇだ。二世ってのは苦労してるらしいからな、動画で取り上げてやるよ」
それは、バズるためにカルトを利用するということか。しかし、チャンネル登録者数の増加に伴い、二世信者の実態が明らかになれば一石二鳥だ。ひょっとすると、僕が二世の意向を汲むラストチャンスかもしれない。いや待てよ、それにしては話がうますぎる。チャレンジ企画や大食い企画、バズる企画が無数に存在する世の中、僕を利用する価値はどこにある。そもそも、コイツはそんな良心的な奴ではない。悪いが、この企画には裏があるとしか思えない。
「……ごめん。ありがたいけど断るよ。僕が代表ヅラするなんて二世に悪いからさ」
ワイシャツで鼻血を抑える僕を前に、原田くんはなりふり構わずヤンキー座りをした。
「遠慮すんな。横須賀は質問に答えるだけなんだからよ。余計なこと考えんじゃねぇ」
応答するだけなら問題ないか。応答すればいいだけ、応答すればいいだけ。僕は妥協で頷いた。
「んじゃカメラ目線。塩野が撮ってるからそっち見ろ」
塩野……塩野……あぁ、あの天パで冴えない奴か。血濡れた僕は、塩野が構えるスマホのレンズに視点を合わせた。
「どうも、アンチヒーローです!今回は、神座高校で起きた殺人未遂事件について徹底解説していきますっ! と、その前にチャンネル登録と高評価よろしくお願いしまーす」
いや、いやいやいやいや嘘だろ。話と違うじゃないか。先ほどまで、コイツは殺人未遂事件のことなど、一言も口にしていなかった。
「スペシャルゲストはこちら! 妊婦の女性に傷害を負わせた、赤坂テルの友人です」
コイツはいわゆる、暴露系ユーチューバーってやつか。テルを出しに使って、チャンネル登録者数を稼ぐ。やれやれ魂胆が見え見えだ。不幸な人間は不幸に群がる。そう、あら捜しに飢えた匿名者。
「加害者はどんな人でした?」
守る被写体がクローズアップ。僕の友人は、たった一晩で語りきれるような人間ではない。優しいだの不器用だの、そんなありきたりな言葉では終われない、どうしようもない奴なのだ。
「あ?さっさと言えよ。なんのためにテメ―がいると思ってんだ」
ついに原田くんは、黙秘を貫く僕に痺れを切らした。頬骨に靴裏の砂利が食い込む。
「ッッ……」
悲痛を訴える細胞は、瞬目反射をする間もなくエラを殺した。それでも心は屈しない。
「ったくしゃーねーな。これでいいだろ」
福沢……福沢……なんだ野口か。成田くんは、申し訳程度に千円札を差し出した。
「どうだ? なんとか言えよ」
野口だろうが福沢だろうが、僕が正解に惑わされることはない。
「断るよ」
「んだって?聞こえねーな」
「二度も言わせんじゃねぇ。断るよ」
義憤に駆られた僕は、差し出された千円札を真っ二つに引き裂いた。
「テメェ……」
殴れよ。殴れるもんなら殴ってみろ。それが僕に対する不当の証明だ。
「これがお前の価値だ」
千円札を口に放り込んだ僕は、それを唾液に絡ませ、富士の桜と共に吐き出した。無数の手垢が舌に残る。気持ち悪いというか、何というか、ゲロをぶちまけてしまいそうだ。使い古された紙幣など食えたもんじゃない。
「どう落とし前つけるつもりだ」
原田くんがシースナイフ手にすると、塩野は撮影を一時中断した。
「さぁ? どうしようか」
「いい加減舐めた口聞いてんじゃねーよ」
鋭利な先端が首元に触れる。
「それじゃあまたね。お元気で!」
外野に殺されて堪るか。僕は、ナイフ握る片手を両手で押さえつけ、隙あらば原田くんの股間を蹴り上げた。
「クソが」
ざまあみやがれ。
「ブーメランブーメラン」
反撃を恐れた僕は、一目散に逃げ出した。兄さんありがとう。あの日があったからこそ、僕はまた全力疾走できるよ。月明かりの逃亡者、闇を祓い君へ逢いに行く。腕時計が示す時刻は、午後八時十五分。回送列車が僕の行く手を阻む。済まないが君を一人待たせるよ。僕は約束の地へ向かう。
「おっせーよ!」
約束の地、六道神社。テルが少年院に入所してから約五カ月。僕らはようやく再会を果たすことができた。
「ごめんごめん」
「ってかその顔どうしたんだよ! 血だらけじゃねぇか。喧嘩でもしたのか?」
テルは、僕の頬にハンカチを当てた。
「ありがとう。まぁそんなところかな」
「英徒にしては珍しいな」
「それより大丈夫だったか?少年院」
一夜を明かす長話になりそうなので、僕たちはベンチに腰を下した。
「マージで最悪だったよ。自業自得だけど」
「頑張ったね。あ、そういやテルに渡すものあるんだった」
僕は、厳重に保管していた赤坂テル宛の封筒を、リュックから取り出した。
「手紙?」
「そう。渡すよう頼まれた」
「誰に?心当たりないな」
テルは、糊付けされたフタの部分を破ると、金魚が描かれた季節外れの便箋を広げた。
『拝啓 いかがお過ごしでしょうか。私は無事に出産することができました。ごめんなさい。それよりも私は、赤坂くんに過去の代償を払わなければなりません。本当に申し訳ありませんでした。私は天を仰ぐばかりで、自己満足な罪滅ぼしで過去を悔やんでいます。もし赤坂くんが過去に囚われ、どうしようもなくなったときは、私に逢わせてください。そして怒ってください。それがせめてもの償いです。
敬具
十二月十五日
香川 美琴
赤坂 テル様』
手紙を読み終えた僕は、月の彼方を見上げる。悔やんでも悔やみきれない過去。それは彼女の人生に課された使命である。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。罪悪感は、自己破滅に歯止めをかける救済処置だ。
「どう思う?」
「許さねーよ。殺してやる」
「やっぱそうか」
「いやジョーダンジョーダン。もういいよ、復讐なんて父さんも望んでないだろうし」
やはり君は、僕の知っている君のままだ。
「テル、僕は君の友達でよかったよ」
「英徒、俺もだよ」
純白の聖夜、僕は未来に問いかける。
「そういや受験勉強は順調か?」
「出所してすぐに模試受けたよ」
「手応えは?」
「それがさ……」
テルは、ポケットからシワのついた一枚のメモ用紙を取り出した。
「それがどうしたんだよ」
行き先未定の切符。それは僕が託した手書きのお守りだった。
「コレと間違えて受験票忘れた」
「え?んでどうなった?」
「追い返されたよ。遅刻してたしね」
僕は、のどちんこを前歯で隠せないくらい大袈裟に笑った。
「はははっ、馬っ鹿じゃねーの?」
「それくらい大事にしてた」
「らしくないな。悪くはないけど」
「そうだな、俺に孤独は似合わねぇ」
テルは遠くの一点を見つめると、手招くようにして僕の片割れを導いた。
「俺からのサプライズ」
「サプライズ?」
月明かり、僕の視線の先に映る実像は、この世でたった一人の家族だった。
「ごめん、英徒。俺は裏切りたくなかったのに……」
兄さん、頭を下げてしまっては顔が見えないよ。どうか悪く思わないで、これからは消失した過去の裏側を生きてくれ。
「おかえり」
行ったり来たり、やはり僕らは遠回りをして正解だった。
「ただいま」
兄さん、生きていてくれてありがとう。それと僕、死なないでいてくれてありがとう。
「これお土産」
それは、あの日見たような祝福のケーキだった。
「覚えててくれたんだ」
「もちろん。そうだ、テルもおいでよ」
しかし、テルは兄さんの声に耳を貸さない。瞬く一等星に目を奪われていた。
「テル、聞こえてんだろ?」
背後から僕は肩に手を伸ばす。
「父さんは星になったのかな?」
その手はまだ届きそうにない。
「どうだろう。月なら一年中見られるけど」
「なら月になったんだね」
兄さんは、可視光線のロウソクに火を灯す。
「メリークリスマス!! さぁ消して、ロウソクが溶けないうちに」
「じゃあいくよ?」
二人は頷きながら顔を見合わせた。
「兄さん、テル、ありがとう。今宵はメリークリスマス」
この世で失くした未来に命を吹き込む。過去に完敗、未来に乾杯。今日だけは、今日だけは、僕はどうしてか明日を生きたい。
それは確かな優生思想 @yamaneko0510
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