波のゆく先
朱
−1
あばれる操縦桿をおさえながら、あたりを見まわした。
青い翼の足もとに軍港があり、停泊中の艦艇が数隻、応射の曳光弾を上空にむけて撒いている。
三方を山で囲むその湾の海面に、爆弾の白い水柱が立ち、灰色の港湾施設からも数本の黒煙があがっている。
だが、彼の機は、現在、まっすぐ飛ばすのもままならない。チャールズは気を取り直し、危機的状態にある自分の呼吸をまず、おちつけ、革ジャケットの袖をめくって腕時計と、燃料計、そして、ほぼゼロの位置で振れている油圧計を見た。
遠い地上には、蛇行する河をしたがえ横たわる馬の背のような山脈が見える。
機体は傾き、青い翼の胴体の左右を、エンジンカウルの排気が、シルクのウエディングドレスのような濃厚さで過ぎていく。
エンジントラブルに違いない。風防の隙間からもオイルの焦げつく臭いが入ってくるし、後部でも、舵付近でボディが
チャールズは、その機を反対の右にむけ、押さえこもうと操縦桿に身体ごと寄りかかって倒すが、手はとっくに異常振動で痺れあがっており、エンジンのノッキングが彼を暴れ馬のようにシートごと蹴りあげる。
自らが空にひく純白の雲の下をくぐって、大きく機は旋回し、また一つ高度を失なった。
せめて潜水艦の待機する湾外へ彼が向ける
小遣い目当てのちんぴらが鉄板入りのブーツの先で機体の鼻を蹴りあげるような、この厄介なエンジンのノッキングが少しでも減る位置をさがしてスロットルレバーを調整しつつ、彼は操縦桿を身体で押して右にむけているが、重力は、地獄の底からツメの生えた太い手で青い機体を掴んだまま放そうとしない。
だがもし仮に、いま、上昇気流を見つけられたとしても、この舵の状態ではなんともならない……
高度計と、時計と、かなたの尾根の稜線に消えた戦闘空域を見比べ、意を決したチャールズは、飛行帽の上にあげていたゴーグルをさげ、スライドしてハッチを後方に展開した。
剥き出しになった空には、暴力的な風圧と、気化したエンジンオイルが白いシーツのようにたなびいている。
交互に青空がのぞくその空の色にむけて、彼は風防前部の端を両手で掴み、床を脚で押し、嵐の日に窓から出した顔をもぎとるような強烈な風に額をのけぞらせ、あごを引き、彼は風速に耐えた。
そして、窮屈なシートの座面に両膝を折ってしゃがむように座り、機と自分を繋ぐ訓練通り、スライドした風防の後方に当てた左の腕で突っ張り、右手は風防の前部を掴んでひっぱって、ブーツの土踏まずを、コクピット左舷のへりにそろえ、白煙と暴風を交互に浴びながら、とにかく前部風防のかげに縮こまり、時速150マイルちかい風圧に、身をさらさないよう耐え、
──機から生きて脱出するために、お前らはまず、死んでも機にしがみつかなきゃならない。機速が40マイルならいい。だが150マイルを越えてみろ。その風圧にまけてしまえば、機体の尾翼と水平尾翼が、お前らの唱えるお祈りが終わる前にお前らを真っ二つにしちまう──
そう地上の風洞前で、怒鳴りちらした教官の言葉だけが、このエンジンの最後の咆哮が生みだす暴風前に紙切れ同然なチャールズの耳のなか、響いている。
パイロットと、操舵をコクピットから失った機は、自由を取り戻したカモメのように思うさま左にむけてロールをはじめ、そのまま垂直方向に翼を立て、失速するのを待たず、チャールズは、地に向け手を挙げて機を蹴って跳んだ。
頭上を一瞬、尾翼がすぎて音を消し、
乗機は、海色の腹をみせてロールをし、帰投時のランドマークだった南の山脈の猛禽のような山にむけ、死の弧を描いた。
天を見あげると、パラシュートは無事に開いている。
彼は、その先にいる神に感謝した。
静かな、あまりに静かな空を、横風に流され降下する。
遊軍機のペラがうなる音、そして祭り花火のような破裂音は、もうしない。
戦闘空域は彼方に遠のいて、かつて乗機だった金属のかたまりが、彼に先んじて尾根に没する音と、付近からとびたつ鳥の上空にむけてふためくさまを、チャールズは風に流されるまま見て、パラシュートはまたひとつ、尾根を越えた。
そして次の尾根までの、その山間を東西に流れる渓谷の底の流れが反射するまぶしい陽光を下から浴びながら、さらに南へと彼は流れ、
谷と森のあいだにあるわずかな平地を、セミのハネの模様のような
その草葺きの家屋や、丸見えな壕から駆けでた男女の服のカーキ色や、紺のズボンの頭巾を被る女たちの見上げる目が、チャールズの目と合うようになってきた。
尾根の斜面を指さす男、ヘルメットの星、そして、彼らの怒声さえもが届くほど近づいた地表をなめるように斜めに流されながら神の御名と、家族への愛を口にしてチャーリーは、手順通り、身体のどこからも火があがっていないことを確認し、左右のブーツの足首を、固く交差し、ロックし、両腕も交差し、顔面と喉首を覆い、目を閉じ、流されるまま、三つ数える間もなく、ついさっきまで山の斜面にみえていた森のなかへ、樹木が葉になりそして揉みくちゃの横向きに枝を折りながら胴体がどう回転したのか突っ込んだ。
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