一音六 洗礼 (3)良いこと…教えてあげる

【ここまでの粗筋】

 主人公「駿河轟」は、第一高等学校の一年生。

 中学卒業直後から交際を始めた同級生の盟友「三条亜惟」とは別々の進学先。

 高校で再会した中学時代の憧れ「小林先輩」と、強烈な第一印象で現れた「久我先輩」に「応援部」に誘われる。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-


 入学式の翌日から形だけの入校訓練が始まり、応援部は講堂の練習で見た時と同じ出で立ちで現れた。

 驚いたのは、応援部のテクに合わせて、既に運動部に入部済の新入生達も、もう大きな声で歌い始めたことだった。

 聞けば、何の練習よりも先に校歌と主たる応援歌を教えられたとのこと。


 *     *     *


「ちは、失礼します。私、第一高等学校一年、駿河轟と申します。以後、よ・ろ・し・く・お願い致します。失礼します。」


 男子の副将兼総務担当の福永さんは、僕の顔をぽかんと見た儘だったが、一瞬にして正気に戻った。


「ああ、宜敷く、三年総務の福永だ。小林ヘルツぅ~、お前の後輩か?」

「あら、よく分かったわね」

「分かるもなにも、いつまでもこれが消えないのは、お前のところくらいだ。」


 それから、ぱらぱらと、「失礼します」と一声を発しながら先輩方が部室に入って来た。


 男子八人、女子六人が揃った。福永さんが

「これで全員か?」

 と誰となく訊ねた。


「出欠板を見なさいよ、自分で。何の為にあるのよ?」

 久我ゾンネさんが足を組んだ儘、何か宿題でも片づけながら鬱陶しそうに答えた。


「あ? ああ、全員だな。じゃ改めて紹介するわ。此方こちら、本年度新入部員第一号の…何だ…ほら…。」

「失礼します。駿河轟と申します。失礼します。」

「だ。皆、よろしく頼む。出身は、言わなくても分かる小林ヘルツのところだ。」


「おし、じゃ、十六時に講堂ステージに集合。」

「今のが主将の今川君。愛称はKeiser。元四中ビシのリーダー部長。」

 小林ヘルツさんがそっと耳元で教えて呉れた。


「ああ、誰か…そうだな、久我ゾンネ、駿河君を安埜やすの先生のところに挨拶と部員登録に連れて行ってあげて。」

「Ja. じゃあ、一緒に行こうか。」

 久我ゾンネさんが、ノートを閉じ、よっこいしょ、とばかりに立ち上がった。

「はいぃ、よろしくお願い致します。」


 部室を出ていて行く。久我ゾンネさんの一歩後を連いて歩いて行くと、彼女は黙って指差し、自分の横に来るように促した。

「此処じゃ、先生以外、一歩後ろを歩く必要はないわよ。例え上級生でも横を歩いて良い。前に出たって構わない。」

「はい。」


「あと、形式より常識と理性を大事にすること。それは、追々教えてあげる。」

「はい。」

「そ、返事もそれくらいで充分。あと、安埜先生のところでは、普通に自己紹介して頂戴ね。」

「はい。」


【物理学教官室】


 これまた年代物で消え入りそうな文字の看板が掛かった扉の前で、久我さんは大きな音でノックをすると、今度は耳が扉に付くくらいの位置まで頭を近づけた。


「…どうぞ…。」

 中から消えそうな声が聞こえたような聞こえないような…。

 久我ゾンネさんが建付けの悪い重そうな扉を、フンっという勢いで開ける。

「失礼します。安埜先生はいらっしゃいますか?」

「あぁ~…此処だぁ~…。」

 奥の方から間延びした、気の抜けたような、幽霊が声を出せば此様こんなかもしれない、という声が聞こえてきた。


 一体何時の時代のものだろうかというような博物館がかった実験器具の間を縫って奥へと進んで行くと、水道で手を洗っている白衣の紳士が立っていた。


「ああ、久我か…。」

「先生、新入部員を挨拶と部員登録に連れて来ました。」

「ああ、そうか、入ったのか、それはそれは…。」


 まさに好々爺というか、ムンクの叫びの登場人物に似たような、細身で上品な背の高い紳士だった。白衣を脱いで、大きな机の横の洋服掛けに吊るすと、椅子に座り金縁の丸い眼鏡を掛けた。ベストから時計を取り出して眺めている。非常に高潔そうな印象の先生だった。


「もう…此様こんな時間か。…あ、済まん。君は?」

「一年、駿河轟と申します。」

「物理科の安埜です。宜敷く。頑張って下さい。あまり良くないことは真似しないように。」

「はい、有り難う御座居ます。」

「じゃあ、これに書いて呉れるかな。」


 入部登録用紙に記入を終えると、先生に提出した。

「ん、分かった。これで完了だ。ああ、久我、今川に伝えて呉れ、ちゃんと補習に出ないと今度こそ物理Ⅱが落ちることになるぞ、とな。あと副島に物理Ⅰの再試を忘れないように、とな。」

「はい、確かに。」

「失礼します。」


 *     *     *


「優しそうな先生ですね。」

「そうね、応援部がやっていけてるのも先生の御蔭よ。一高うちのOBで、応援部のOBでもあるし。」

「そうなんですか。」

「東京帝大に進学して首席で卒業。ベストから出ている鎖を見たでしょう? 天皇陛下御下賜の銀時計よ。それからずーーーーーっとあの穴蔵のような物理学教官室に居続けて数十年。」

「凄いですね。」

「そういう先生がゴロゴロしているから授業は最高よ。受験準備には向かないかも知れないけど。」


 物理学教官室から講堂に向かう道は地下一階の一本道で、薄暗い廊下が続いている。

 丁度、古めかしい病院のそれのようで、所々切れている蛍光灯に、天井を走るパイプ類が怪しい雰囲気だった。

 足音だけが妙に響く中で、久我ゾンネさんは、いきなり僕の両肩を掴むと、むんずとばかりに背中を壁に押しつけた。


「駿河君!」

「は、はい…。」

「ときに君、彼女が居るって言ったわよね?」

「はいぃ…。」

「同い年?」

「え、ええ、応援団の同期です。」

「そう。其様そんな若い娘より、成長したお姉さんに乗り換える気はない?」

 久我ゾンネさんは、耳元で囁くように問いかけてきた。


「…い、いえ。有り難いお言葉ですが、大変僭越ながら、ご、ご辞退申し上げます。」

「本当? 同級生じゃ知らないような良いこと…、教えてあげるわよ?」

「も、申し訳御座居ません。」


「そ。じゃ、許してあげる。さ、練習、練習。」

 彼女は、其れまでの口先が嘘のように、意外にあっさりと切り返し、スタスタと歩き始めた。僕は、狐につままれたように其の後を小走りに連いて行った。


 *     *     *


 着替えが済んでいた分、僕は久我ゾンネさんよりも早く講堂に着いた。すると福永さんが寄って来た。


「エヘン…。」

「あ、只今安埜先生にご挨拶を済ませて来ました。」

「ん、其の後、何か無かったか?」

「あ…。」

「あったか? 久我ゾンネに迫られただろ?」

「ん~…。」

「良いんだよ、あれはウチの通過儀礼みたいなもんだから。彼女、男を見ると絶対に迫って誘惑するんだ。『良いこと教えてあげるから』って。」

「『良いこと』って何ですか?」


「…秘密だぞ…。」

「はい…。」

今川カイゼルは、誘惑に負けて、教えて貰ったそうだ…。」

「何です?」

「『早起きは三文の得』、だそうだ。」

「…成る程、それは確かに良いことですね…。」

「だがな、今川カイゼルはそれが元で、当然当時付き合っていた彼女にフラれた。悪徳商法そのもののような女だからな、気をつけろよ。久我ゾンネには。」


 *     *     *


 練習は思ったほどきつくはなくて、正直、中学校と比べれば楽な方だと思った。十七時、主将の集合がかかり、全員が集まった。


「お疲れさま。」

 方々から「ウィ」だの「ウシ」だの、「ン」だの、思い思いの声がかかった。


「目下のところ、一番近い応援は、五月半ばの東京四校戦。」

「ウシッ。」


「三年は、もうあと半年ちょいしかない訳だから、悔いのないようにいこう。」

「ウィ。」


「今日は駿河君が今年度最初の新入部員として入って呉れたから、此の後、軽く新歓。」

「ヨシッ。」


「他に何か? 無ければ解散。」

「したっ。」

 何か最後だけ妙に元気のよい集合が終わり、男子は部室で着替え。


「駿河ぁ。」

「はい。」

「明日、朝練があるから七時半に部室集合。」

「はい。」

「新歓は十九時頃にはお披露喜にするから、お家に電話いれとけ。」

「はい。」


 女子の先輩方の着替えも終了して、講堂前に行くと、見事な桜の木の下にシートが敷いてある。どう見ても花見の様相だ。


「誰か、安埜先生に案内に行ったか?」

「手が空き次第見えるそうです。」

「安心しろ、酒はない。」

「酒なんぞなくたって酔えるんだ人間は。脳内活性物質でな。」


「おう、駿河は、もう久我ゾンネの洗礼は受けたのか?」

「はい、先程。」

「で、どっちに転んだ?」

「ご辞退致しました。」

「おぉ、お前は彼女持ちか、羨ましいなぁ」

「俺らのような独り者は、あれに引っかかって笑い者になるのが関の山だ。」


 其のうち、安埜先生が大きなボトルを持ってみえた。

「あれはお酒じゃないんですか?」

「違う違う。」

「済まないね、学会の連絡が長引いて…。」


 先生は袖についた桜の花びらをふっと吹き飛ばしてから語り始めた。

「さて、諸君、桜の木の下には死体が埋まっていると言う。」

「ヨッ、梶井基次郎!」

「コレッ…ま、左様。かくも麗しき咲き姿に散り際を持った花木は、世界の何処を見渡しても桜の他にはない。其の言葉の通り、人の精を糧として、今宵、一時の花を咲かせようではないか。」


 先生は、ボトルの蓋を開けると、桜の木の根本に其の深紅の液体を垂らした。

「ブラッドですね?」

 久我ゾンネさんが目を輝かせる。


「ブラッド? 血ですか?」

「まあ、飲んでみれば分かるわよ。」

 小林ヘルツさんが笑っている。


「戴きます。あ。オレンジ・ジュースですね。」

「ブラッド・オレンジは地中海原産…。」

 其の日が平和に暮れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る