16.五.二五事件

 二.二六事件。

 社会の授業でやったのは間違いない。が。


「……社会の教科書に、太字で書いてあったのは覚えている」

「うん、まぁそれが普通だと私は思うよ」


 太字で書いてあること自体を覚えているだけマシでは、と忍は思う。

 司は学業に対してそれなりに努力型であろうと思うが万能ではない。その普通なところが割と好きだ。


「清明さんは知ってそうですね」

「まぁ、国歴は仕事知識でもあるからね。……だからって中学時代に授業がだるくなかったわけではないよ」


 清明さんも人間だ。なんとなく底のしれない人であるがそういうことをしらっといわれると同年代だなと少し親近感を抱く司と忍。

 いずれ、陰陽師に必要な知識というのは一朝一夕どころか一、二年で身につくものではあるまい。さりげなく苦労も垣間見ながら話を続けるべきか忍が躊躇する前に清明は教えてくれる。


「日本最大のクーデター未遂ともいわれる。昭和11年に青年将校たちが維新の名のもとに重心たちを殺害したものの、失敗した事件だね」

「日本最大のクーデター未遂……そんなふうに教科書に載っていたら、私たちはちゃんと覚えられていたんじゃなかろうか。ねぇ司くん」

「そうだな」


 素直に同意を示して司も新たに情報を入れ込む。覚える気になって覚えたからたぶん、もう忘れないだろう。


「でも、どうしてそんなことを?」

「そういう慰霊碑があったからです。放送センターのとこに」

「あぁ。そういえばあったかもしれない。あの辺りは元々陸軍用地で軍刑務所があったから」

「え……」


 さらりと言ったが、慰霊碑と刑務所の跡地。それが同じ場所にあるということは


「……その青年将校はどうなりましたか」


 司が聞いてしまった。


「軍法会議の結果、首謀格全員の死刑が確定して、刑務所内で19人が銃殺刑に処されていたはず」

「……重いです。怖いです。病院で一人とか今日寝られない」


 想像は出来たのか、余計なことを耳にしてしまったとばかりに忍がやっと治った顔色をまた青くさせている。


「ごめん」


 これまたさらりと現地で起きたことを記録を読み返すようにそのまま言ってしまったことを清明は謝罪している。

 現在はひとり死刑になるだけでも珍しい。19人も銃殺されたらそれは慰霊碑ものだろうが、感覚的に何事もないように言ってしまうのは普段接している情報が一般のそれとだいぶ違うからなのだろう。気を付けないと、と清明は本気で反省している。


「でも今日はほら、白上くんが護衛しててくれるんだろう?」

「そんな話は聞いてません。今から退院します」

「もう少ししたら森も来るから。持ち直してくれ」


 どこまで嫌がるのかと普段の冷静さからは見て取れない反応を繰り出している忍。親友である妹が見舞いに来れば気も晴れるだろうと対応を保留にする。


「でもそれ、壊れてたんですよ? 私の具合が悪くなったの偶然ですか? ホントに怖い」

「……壊れてた……?」


 その言葉を聞いて清明がにわかに顔色を変えた。訝し気に眉を潜めて疑問の復唱をする。少し会話の流れが変わりそうな気配を感じたのか忍は声のトーンを戻して静かに応えた。


「えぇ。白いシートに覆われていましたが、事故の痕跡がありました。ひょっとして何かが突っ込みましたか」


 このセリフは質問というより確認に近い。司もその可能性に気づいてはいる。


「事故……? いや、それは……でも慰霊碑は……」


 清明のこの呟きは独り言に近い。

 俯いて、左手を軽く握って口元に当てている。何かを考えているのは司から見ても忍から見ても明らかだった。


「……二.二六……ではなく五.二五、か?」


 二.二六が2月26日を示すなら、五.二五は5月25日だろう。その日は間近だ。だが、その日が何を示すのか理解しかねる二人の前で再び「でも」と呟いてから清明は顔をあげた。


「その慰霊碑は僕の管轄外だ。”一般的な史跡としての慰霊碑”だから。でも今回の事件に関係はあるかも……いや、たぶんある」


 一般的な史跡としての慰霊碑、であれば本来術士が絡むような事件性は何もない。けれどそういう場所にこそ、トリガーが存在することがある、と清明はつけ加える。


「五.二五って何ですか?」


 忍が聞いた。今度は好奇心や日常会話の延長ではなく事件に関する質問としてだった。

 清明が答えるまでには間があった。

 その話を今聞かせるべきか、後にすべきか迷ったからだ。だがおそらく、忍は教えなかったら自分で調べるだろう。

 それよりは今話して、区切りもつけておくべきかと判断して口を開く。司にも聞かせるように。


「第二次世界大戦、東京大空襲で渋谷が焼夷しょうい弾により焼け野原となった日だよ。1945年5月25日、この時、その場所にあった東京陸軍刑務所が炎上。収容されていた米軍捕虜62名が犠牲になった」

「え……」


 世界が分断されていた時代の、戦争の話だ。だが、話に聞くのは街の凄惨な被害ばかりで、米軍が米軍兵を焼き殺したなどという話は聞いたこともない。

 日本人の間違いでは? と司と忍が思うのも無理はなかった。


「GHQの記録によれば、日本人の囚人はすべて脱出をしたが、脱出を図った捕虜は斬殺されたとも、他の記録では看守は扉を開いたが結局全員が窒息死したとも書かれていて真相が明らかになっていない」

「情報は公開されなかったんですか?」

「辛うじて非公開の事実として残るのは、当時の刑務所長は軍事裁判で死刑判決を受けたこと。爆撃により米軍兵62名は死亡したことだけだね」


 それは、日本側が非人道的な事態に対し適切な処置をしたとも、米軍側が都合の良い記録を残したとも、どちらとも取れる。公開されている記録にブレがある以上、確認するすべはないが……


「公式発表がないのは、アメリカにしてみれば自国の兵士を殺したことになり、日本にとっても刑務所長が非道な行いをしたという、当時の両政府に共通する後ろ暗さしかなかっただろうけど」


 清明はため息をつく。いずれにしてもやるせない話だ。歴史の闇に埋もれた犠牲者ということか。けれどそれが「米軍兵」であったのならば、今回の事件にかかわりのあることには違いない。


「この件は、以降、僕の預かりとするよ。この病院にいれば安全だろうけど、今晩は白上くんが一緒にいてくれるかい」

「はい」


 窓の外はすっかり暗くなっている。先ほどとは違う忍の不安気な視線を感じながら司は、事態が大きく胎動するのを感じていた。

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