疑惑のタイムカード

 昼休み、予想通り実久に呼ばれたので喫煙所に向かった。


 彼女は難しい顔をしながらベンチに座っていた。私は、その隣に腰を下ろした。実久がふーーっと大きく煙を吐き出して、ぽつぽつと語り出す。


製造部うちにいる加賀谷って知ってる? 彼女の件で呼ばれたんだよね。出勤時のタイムカードの押し忘れがやたら多いって湯田に指摘されてさ」


 加賀谷というのは、五年ほど前に入社してきた女性スタッフだ。年齢は、おそらく四十代半ばくらいだと思う。おしゃれで派手好きな印象だった。


 部署が違うこともあり、ほとんど話をしたことはない。


「顔と名前は分かりますけど……。押し忘れが多いから、注意しろってことですか? まぁ、大事ですよねタイムカードの打刻は」


 ちなみに、我が社は印字式のアナログなタイムカードを使用している。ボタンを押してタイムカードを入れると、ジジッという音と共に時間が打刻される、あのタイプだ。


 こじんまりした会社とはいえ、そろそろクラウド上で管理するようにしても良いのでは? という声をときどき社内で耳にする。


「手書きで時間を書いて、私のハンコを押してるから社内ルール上は問題はないけど、ちょっと多すぎるってチクチク言われたんだよね」


 実久が難しい顔をしながら、足を組み替える。


 タイムカードは、まれにインクが滲んで時間が不明瞭になることがある。出勤時に押し忘れる社員も少なからずいる。その場合、上長に確認して正しい時間を手書きしてもらい、印鑑をもらうことになっている。


 加賀谷のタイムカードには、実久の印鑑が多数押されているのだろう。


「印鑑押し過ぎだと、逆に何が何だかって感じですよね」


 印鑑だらけで真っ赤になったタイムカードを想像しながら、呑気に笑う私とは反対に、実久はぜんぜん笑っていない。


「私さ、押した記憶ないんだよね」


「はい?」


 押した記憶が、ない……? 一瞬、頭の中が「?」だらけになる。


「そりゃ確かに、過去に一度や二度は、彼女のタイムカードにハンコを押したことはあったと思うよ。加賀谷が入社してから、もう数年は経ってるし。それこそ、出勤時に押し忘れましたって声を掛けられたりとか。でも」


 一度、言葉を区切って大きく煙を吐く。


「最近は押してない」


「えっと、それは……。加賀谷さんが、勝手に主任のハンコを押したってことですか?」


「……分からない」


 実久の眉根が、ぎゅうっと寄る。


「盗まれてはなかった。今日もいつもの場所に私のハンコはあったし。持ち出してるのかも……」


「普段、印鑑はどこに置いてるんですか」


「事務所の自分のデスク。上から二番目の引き出しの中」


 あの、散らかったデスクか……。ファイルやら資料やらがてんこもりになった惨状を思い出して、なんともいえない気分になる。


「……だとしたら、持ち出してるんじゃなくて、勝手に「宮野」の印鑑を作って押してるかもですね」


「なんでそう思うの」


「他人からするとですね。あのデスクから探し物を見つけるのは至難の業ですよ」


 実久から資料を確認して、と言われて探したことがあるけれど、見つけるのは容易ではなかった。


 それで以前、片付けたいと申し出たのだ。


「とりあえず、真実を突き止めるわ」


 そう言って、思いっきり吸引して肺に煙を入れる。


「真実って?」


「総務部の湯田には、言ってないんだよね。私がハンコ押してないこと」


「へ?」


 それってマズいのでは?


製造部うちの問題は、私が責任を持ってカタを付ける」


 そ、そんな……。任侠の世界じゃあるまいし。


 きちんと湯田に相談し、社内の問題として解決したほうがいいのではないだろうか。しかし、実久はかなり頑固だ。説得できる気がしないけれども、なんとか意見しようと口を開きかけた瞬間、史哉が現れた。


 煙草に火を付けながら、しれっと「その加賀谷さんってひとが事務所から出てくるの、何回か見ましたよ」と言う。


「それっていつ!? 何日? 時間は?」


 実久が矢継ぎ早に質問する。


 史哉は、かつての指導係に臆した様子はなく、自分のペースで煙草を吸っている。


「何日とか覚えてないですけど。何回かありました。たいてい朝の8時を少し過ぎたくらいです。俺はいつも早めに来て、ここで一服してるんで」


 喫煙所からは、事務所の出入り口がよく見える。


 史哉の言葉は、ほとんど核心をついているような気がした。


 私たち事務方の始業時間は9時なのだけど、製造部は8時から仕事を始めているのだ。


「遅刻した際は、タイムカードを押さずに自分で時間を書いて、それで事務所へ行って……?」


 8時過ぎなら事務所はまだ無人の状態だし、施錠しているわけではない。こっそり入室することは可能なはず。運悪く、史哉に目撃されてしまっていたけれども。


 私の言葉に、実久が頷く。


「勝手にデスクを漁って、私のハンコを押してるんだと思うわ。それだと遅刻はしていないことになるし、社内ルールにも違反していない」


 実久は厳しい顔つきで腕を組んでいる。その隣で、特に何とも思っていなさそうな顔で史哉が煙草を消した。


「ハズレましたね」


 私に向かって、史哉がボソッと言う。


「なにが?」


「清家主任の説。印鑑偽造説」


 切れ長の目元をわずかに細めている。初めて笑った顔を見た。まぁ、これを笑顔といっていいのかは疑問だ。鼻で笑われた感もあるし。


 それにしても、まったく。どこから話を立ち聞きしていたのだ。

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