後悔が残る
仕事に集中していても、ふいに思い出す。いつものようにドドドドッという勢いが出ない。
真面目な子だったのだろうと思う。アルバイトとはいえ、退職代行というものに金銭を払ってまで「退職の意志」を伝えるくらいなのだから。
はぁ、とため息を吐いたところで、隣の史哉から「あの」と声を掛けられた。
「なに?」
作業の確認だろう。そう思って、彼のパソコンの画面を覗き込んだ。
「……こっちが『なに?』なんですが」
「へ?」
「ため息」
史哉に指摘されて、思わず両手で口元を押さえる。
「ごめんっ! ため息、吐いてた?」
「……体調、悪いんですか」
あの史哉が体調を気遣ってくれているらしいことが分かって感激する。
「ありがとう、大丈夫! ぜんぜん元気!!」
どこがだよ、という視線を送られたが、気にしない。
「ちょっとね……。でも、もう大丈夫。ごめんね、集中します」
そう言って気合を入れようとしたところで、今度は嶺衣奈が遠慮がちに話しかけてきた。
「新人の私がいるせいで、清家主任がお休みできないとか……ですか?」
申し訳なさそうな顔をする嶺衣奈に、胸がぎゅううっとなる。お節介気質が爆発しそうだった。
「違うよ。普通に休めるよ? ただ私、めちゃくちゃ頑丈だから風邪とかひかないし、なので結果的に欠勤しないだけです!」
力強く、かつ笑顔で嶺衣奈に言う。
「それなら、いいんですけど……」
ああ、ダメだ。新人の子に心配をかけるなんて主任失格だ。自己嫌悪に陥っていると、史哉が作業の手を止めることなく「その場合」と、口にした。
「うん?」
「清家主任が欠勤の場合、自分と竹井さんは誰に指示を仰げばいいんですか」
なんというか、ちょっと感動だ。成長の度合いが著しい。成長曲線がえらいことになっている。
私は叫び出したいくらいのうれしさをぐっとこらえて、勤めて冷静に答えた。
「その場合は、課長にお願いしてあるので聞いてください」
「はい」
「わかりました」
史哉と嶺衣奈が同時に返事をする。
終わったことは、仕方がない。後悔があれば、それを次にいかしていくだけ。いま自分できることをやるしかない。そう思って私はパソコンのキーボードに指をおろした。
そして、ドドドドッと勢いよく仕事を再開した。
◇
それから二週間ほど経ったころ、藍里の退職理由が判明したと、実久から呼び出しがあった。
いつもの喫煙スペースで「杏も気にしてたみたいだから」と事情を説明された。
「同期で指導係だった子がね、ショッピングモールで偶然、佐々木さんと鉢合わせしたらしいのよ」
「……なかなか、気まずいですね」
想像するだけで、胸のあたりがもぞもぞする。
「どうやら、飼ってたトイの体調が急に悪くなったらしくて」
「佐々木さん、トイを飼ってたんですか」
トイは、トイ・プードル。小型で人気の犬種だ。ペット用の商品を取り扱っている会社なので、実際に犬や猫を飼っている職員は多い。
「ぐったりして、息も絶え絶え状態で。それで佐々木さんパニックになっちゃったみたい。結局、病院に行ったら雌犬によくある疾患で、手術も成功したようなんだけど……」
実久が、ため息と同時に白い煙を吐く。
「愛犬が生死の境をさまよってるときに、仕事なんてしてる場合じゃない! って思って、でも会社には伝えないといけない……と考えてたところで、ふいに退職代行が頭をよぎったらしいんだよね」
ペットとはいえ家族。愛犬を自分の子供のように思う飼い主は多い。
「しばらく休むっていう選択肢はなかったの? って、私なんかは思うんだけど。ほんとうに、ちょっと思考回路がよく分かんないわ」
実久が、なんともいえない顔でつぶやく。
「……大事にしてる子が目の前で苦しんでるのを見て、正常な判断ができなかったのかもしれないですね」
「それは、そうかもしれないけどさ」
納得したような、していないような顔で実久が言う。
「佐々木さんのトイが無事で良かったですよ。それに退職理由が分かって、指導してた同期の方も気持ちが楽になったんじゃないでしょうか」
いつだったか、落ち込んでいると実久が言っていた。正直なところ、藍里のことは私も気になっていたから、本当のことが分かって安堵した。
「そうね。うん、そう思うことにする。とにかく、これで佐々木さんのことは一件落着。さっ、仕事! 仕事しよう!」
実久がたばこの火を消し、指をポキポキと鳴らす。
そして近くを通りかかった製造部の部下を呼び止めて、さっそく仕事の話を始めた。
さっきまで藍里の話をしていたのに、もうすっかり意識が切り替わったのか、マシンガントークのように勢いよく部下に指示を繰り出している。
部下の男性職員は、慌ててメモに指示内容を書き留めていた。
その様子を見ながら、自分が猪突猛進に仕事を片付けていくのは、仕事を教えてくれた実久に影響を受けたのでは……と、今さらのように思った。
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