満たされた寝言
小野繙
満たされた寝言
そうして人類は永遠の眠りについた。人類最後の希望、カモゲロ・オケロが限界を迎えたのだ。数分前まで、ウガンダに住むオケロ一家は朝食の準備の真っ最中だった。その日はカモゲロの誕生日で、カモゲロの母親は朝から奮発してヤギ肉を焼いていた。五歳児になるカモゲロがこの世で一番好きなことは、歯磨きをせずに三日間溜めこんだ歯垢を爪で削り、その匂いを母親の前でクンクン嗅いで「オエッ!」をやることだったが、その次にカモゲロは焼いたヤギ肉の匂いを胸いっぱいに吸い込むことが好きだったので、台所から寝室にまで漂ってきた薫りによってカモゲロの意識は瞬時に覚醒し、最高の気分でベッドから飛び起きたのだった。カモゲロが奇声を発しながらリビングに転がり込むと、テーブルの上にはマトケやポショといったいつものメニューに加え、既に焼かれたヤギ肉が丁寧に長皿の上に寝かされていた。カモゲロの母親はこちらに背を向け、台所で追加のヤギ肉にこんがりとした焼き目を付けていた。
「マミィ!」カモゲロは頭を掻きむしって叫んだ。「あんた、最高だよ!」
「親に向かって『あんた』なんて言わないの」
母親は背中で答えたが、その声色は弾んでいた。カモゲロはますます嬉しくなり、母親の太い腰に抱きついた。
「ねえ、もう食べていい?」
「パパを起こしてからね」
カモゲロはリビングの椅子に飛び乗ってから、テーブルのヤギ肉を眺めた。湯気が立っている。カモゲロは舌舐めずりをしながら、寝室に視線をやった。部屋は暗く何も見えない。代わりにデカい鼾が聞こえてくる。カモゲロはふたたびヤギ肉を見つめる。湯気が立っている。カモゲロはヤギ肉から立ち上がる湯気を肺いっぱいに吸い込んだ。「ああ……」とカモゲロは呟いた。「うぁっ……ふああっ!」
視界がチカチカする。格別な幸福感がカモゲロの脳を支配していた。たまらずカモゲロは両手で素早くパントマイムをする。自分とヤギ肉との間に見えない壁をつくりながら、カモゲロは台所に向かって大声で叫んだ。
「ねえ、もう食べていい!?」
「パパを起こしてからね」
カモゲロは発狂し、ゴリラのようにドラミングした。カモゲロは父親を起こすことに反対だった。自分の取り分が減るからだ。とはいえ、はやく父親を起こさなければヤギ肉は食べられない。困ったことに、父親はウガンダきってのお寝坊さんだった。本人が言っていたのだ。「俺に睡眠で叶うやつなんていないね」次のようにも言った。「居たとしたら、それは後継者であるお前だ、カモゲロ」
そんな後継者は嫌だった。カモゲロの将来の夢はヤギ肉屋である。はやくこの家から出て母親の歯磨きから逃れ、今はまだ三日しか貯められない歯垢を一ヶ月くらい溜めてみたかった。その歯垢をヤギ肉で構成できれば、なおのこと素晴らしい。そうやって削り取った歯垢は、ありえないほど臭いはずだ。
カモゲロはドラミングする。視線はヤギ肉と寝室とを行き来する。カモゲロは葛藤していた。父親を起こせば取り分は減るし、起こさなければヤギ肉にはありつけない。答えは定まっているようだが、カモゲロは自分の取り分が減ることは絶対に許せないし、一種の屈辱であるとさえ思っていたので、どうしても寝室に踏み込むことはできなかった。カモゲロは咆吼する。いったい、僕はどうすれば?
唐突な金属音が思考を突き破った。カモゲロは身震いして振り返る。母親が倒れていた。熱したフライパンごと床にぶっ倒れ、ヤギ肉が周囲に散らばっている。
「ヤ……マミィッ!」
ヤギ肉という言葉を呑み込むことで、カモゲロはなんとか息子のかたちを留めた。母親に駆け寄りながらも、カモゲロの視線は床の埃を纏ったヤギ肉に注がれている。
「カモゲロ……」
「マミィ!」
「急に眠気が……」
「ジュウジュウ言っているよ、床でヤギ肉が」
「ああ、眠い……」
「湯気が立っているんだ、今も」
「病気かしら……どう思う、カモゲロ?」
「もったいないと思う」
「何が」
「ヤギ肉が」
「おまえ、さっきから何を話しているんだい?」
それが最後の言葉だった。母親は文字通り永眠した。カモゲロは泣きながら床に落ちたヤギ肉を、埃といっしょにかき集める。
ちょうどその頃、世界中の人々が永眠を始めていた。最悪なのが(あるいは最も幸福なのが)カモゲロの父親のように昨晩からぐっすり眠りについていた人たちだ。彼らは眠りながら起床という普遍的で健康的な概念を奪われ、昨晩に抱いた明日へのぼやけた希望を銘々の夢に持ち込んだまま、睡眠から永眠へと移行した。非常にスムーズな流れだった。人々は原因を探るよりも先に睡魔に屈した。テレビをつけていれば、アナウンサーが異常事態を報告する前に机に突っ伏す様子をリアルタイムで見ることができただろう。もっとも、それを見るより先に眠りにつく人間が殆どだったが。
カモゲロはそのどれにもあたらなかった。ヤギ肉をかき集めながら、彼はたった数秒にして世にも珍しい「覚醒者」になっていた。もちろん、そのことを世界は知らない。カモゲロ自身も知らない。彼は彼の知らないうちに、人類最後の希望になっていた。当然、カモゲロにも突発的な睡魔は襲ってきている。しかし、彼をギリギリのところで覚醒に押し留めていたのが、テーブルの上にあるヤギ肉だったのだ。すでにカモゲロは床に散らばっていたヤギ肉を埃もろとも口の中に押し込んでいた。その頃のカモゲロにはもう味が分からなかったが、自分が幸福であることだけは理解していた。そしてなお、カモゲロのヤギ肉への常軌を逸した執念が、彼をさらなる幸福へと導いていた。
「あああああッ! 寝ちゃダメだッ!」
カモゲロは床を這いながら叫んでいた。寝てはいけない。カモゲロはそう自分に言い聞かせている。彼の自意識の曖昧さを考えると、それはもはや寝言に近かった。けれどもカモゲロの目はしっかりと机の上に据えられ、身体は着実に机へと近づいている。カモゲロは右手でテーブルの脚を掴んだ。自らの身をたぐり寄せる。鼻をクンクンやり、まだ微かな余熱を残したヤギ肉の香りを肺いっぱいに詰め込んでいく。上だ。まだテーブルのうえにヤギ肉が残されている。カモゲロは自分でも分からないやり方で立ち上がり、自分でも説明ができないやり方で椅子に座り込んだ。目の前にはヤギ肉が並べられた長皿が置かれている。カモゲロはほとんど白目で、蚊でも潰すかの勢いで両手を合わせてから、食前の祈りを叫んだ。
「父よ! あなたの慈しみに感謝し」
ゴン!とカモゲロの頭がテーブルに落ち、長皿とヤギ肉がひっくり返った。カモゲロは合掌をしたまま、玉ねぎのジェスチャーでもしているかのようにテーブルに突っ伏し、二度と起き上がらなかった。
カモゲロ・オケロ、永眠。
そうして人類は永遠の眠りについた。
そのはずだった。
ウガンダから北東に11,521km進むと、ユーラシア大陸からやや離れて日本列島が浮かんでいる。
日本はウガンダと比べて六時間も時計が進んでいるため、ウガンダの人々が眠りだしたとき、日本は昼を迎えていた。午後一時十二分のことである。奇しくもその時間帯は昼食を食べて眠くなる頃合いで、人々が眠り出すことに多くの人間は疑問を抱かなかった。抱いた人間もすぐに寝た。さらに勘の鋭い人間は催眠ガスだと判断し、慌ててハンカチで鼻と口を押さえて床に這いつくばったが、そのままぐっすりと眠りに落ちた。だいたいそういうものである。
各地の職場で、家庭で、施設で、トイレで、高架下で、秘密基地で、人々は次々に永眠した。いきなりだったので交通網はパニックに陥った。車はあちらこちらに衝突したし、かと思えば何かを轢いたり吹き飛ばしたりぺちゃんこになったりして、車本来のパワーを思う存分に発揮した。電車はカーブを曲がったり曲がりきれなかったりして、建物にブスブス突き刺さっていく。挙げ句の果てに飛行機は餌を狙う鳥のように、海のなかへと次々に飛び込んでいった。幸運なことに、これらのパニックを怖がる人は誰もいなかった。みんな眠っていたからである。
一方その頃ウガンダでは、寝ぼけ眼のカモゲロが埃とヤギ肉をかき集めていた。そのすべてを口に含み飲み込んでから、ずるずると床を這う。この時には既に全世界の人間が眠りに就いていたが、カモゲロはそのことを知らない。彼はヤギ肉の香りを頼りに机にしがみつき、なんとか体勢を持ち直して椅子に座る。そして合掌し、食前の祈りの途中で頭を派手に机にぶつけるのだ。
ゴンッ!
その衝撃によって、中瀬緑はむくりと起き上がった。
もちろん、そう見えただけだ。事実、緑は周囲を見渡しているが、カモゲロの頭突きの音を聞いた訳ではない。当たり前のこととして、ウガンダの一家庭で発せられた頭突きの音を聞くには、新潟県の深山学院は遠すぎた。では何故起きたのかという質問に、緑はきっと答えられないだろう。しかし答えは単純である。
緑は夢遊病なのだ。
つまり、緑は覚醒したわけではなく、今もなお眠り続けている。緑の睡眠は、分類上ノンレム睡眠に該当し、脳は寝ているが身体は動く状態になっている。同様の現象は世界各地で見られた。新潟市で十三例、新潟県で五十四例、日本全体で三千とんで二例。世界規模で見ると数十万単位の夢遊病患者が崩壊した街を彷徨っている。夢遊病は決して珍しい病気ではなく、小児をメインターゲットにしつつも、青年から老人にかけて幅広く見られる症例である。人類はみな生命活動を停止したわけではなく、あくまで永遠に眠りについているだけなので、人々は各自の心肺機能が働く限りレム睡眠とノンレム睡眠との間を行き来するのだ。中瀬緑もそのうちの一人で、彼女はちょうどカモゲロが限界を迎えたのと同時にノンレム睡眠に突入し、本人も懸念していた「いつもの」夢遊病が始まったのである。
さて、夢遊病における行動は中瀬緑の意志を完全に反映させたものではないが、決して別人になるというわけでもない。寝ぼけた人間の言葉遣いが幼児を思わせるものになるように、夢遊病に陥った中瀬緑の思考は極端に単純化される。言語のニュアンス的には『なかせみどり』になるのだ。
『みどり』は立ち上がり、廊下に向かった。眠っているので周囲がちゃんと見えるわけではない。心許なげにふらふら歩く。途中、近くで眠る生徒の机や椅子に太ももをガンゴンぶつける。緑なら痛いと思うが、『みどり』は気にしない。彼女は本能に従って廊下に出る。休憩時間になると、中瀬緑は親友を求めて隣のクラスに移るのが常だった。
『みどり』は隣のクラスを覗いた。教室は年頃の男女数十人の疎密な鼾で満たされており、その中心で何かが飛び跳ねている。女子生徒だった。スカートをタコのように広げながら、机の上でジャンプしている。
「きゃっほう」
及川瞳、十六歳。中瀬緑のたったひとりの幼なじみである。彼女も当然目覚めておらず、眠りながら騒いでいるに過ぎない。瞳も夢遊病なのだ。緑と瞳は毎日のように顔を合わせてケタケタ笑い合っていたが、流石に夢遊病の状態で逢うのは初めてだった。『みどり』は緑がいつもしていたように、教室の入り口から顔を覗かせ「ひとみ~」とその名を呼んだ。
『ひとみ』はそちらに顔を向けて笑う。『ひとみ』は声のした方に向かって飛び跳ねた。その挙動は高低差のために「跳ぶ」というより「落ちる」の方が正しかったが、ともかく『ひとみ』は夢遊病患者にあるまじき身体能力で教室の床に降り立った。
「ひとみぃ」
「う~ん」
『みどり』の呼びかけに、『ひとみ』は唸る。それは会話ではなく寝言の応酬に過ぎなかったが、ふたりは互いに馴染みのある声に導かれるように近付きあって、同時に目の前の机に太ももを打った。
「「ぐえっ」」
ふたりの間には二列の座席が並んでいる。どの席にも生徒が座っていて、誰もがめいっぱいに椅子を引いて永眠しているので、ふたりが通り抜けるだけのスペースは無かった。ふたりは目の前にある一連の座席(と人間)が、どういう物体で、何のために、どうしてここに存在しているのかをぜんぜん理解していない。もしかしたらこの座席は延々と左右に伸びているのかしらとか、そういうことすら思わない。ふたりの認識は「前に進めない」と「障害物がある」の二点によって構成され、それがふたりの不快感に繋がっていた。
ふたりは前に行きたかった。
もちろん、ふたりとも視線の先に友人がいることを認識しているわけではない。聞き覚えのある声に寝ぼけながら反応しているだけである。それでも、ふたりはなんとなく「ほしいもの」が、あるいは「つたえたいこと」が目の前にあるように感じていた。
ふたりは前に行きたかった。
中瀬緑と及川瞳は「たかやまこどもクリニック」で出逢った。十年前のことである。ふたりはなぜ自分がここに連れてこられたのかを理解していなかった。身体はピンピンしていたし、気分もすこぶる快調だったからだ。母親に頭を撫でられている気怠げな子どもがひしめく待合室のなか、中瀬緑は大声で据え置きの絵本を音読し、及川瞳は椅子のうえで飛び跳ねていた。ふたりの母親は小声で何度も「やめなさい」と叱りつけていたのだが、緑も瞳も、一発殴ったら吐血して死んでしまいそうな子どもの群れに自分が入れられていることに腹を立てていたので、絶対にやめようとはしなかった。
多くの病気がそうであるように、夢遊病の治療にも正解はない。緑と瞳の母親に求められるのは忍耐だった。母親はふたりとも最悪な気分で通院していたのだが、ある日ふと、緑の母親は待合室にもうひとりの自分がいることに気が付いた。よく見ると自分ではなく瞳の母親である。その日、ふたりはたまたま同じカーキ色のブラウスを着ていた。そのうえ、馬鹿みたいに騒いでいる子と死にそうな顔をした母親の組み合わせが、鏡映しのようにそっくりだったのだ。
母親たちはすぐに仲良くなったので、中瀬緑と及川瞳は、母親に連れられて互いの家を行き来するようになった。最初は警戒していたふたりだったが、小児科での互いのスタンスが似ていたこともあり、親友になるまでそう時間は掛からなかった。
『ねえ、ヤバいこと起きちゃった』
ある日、瞳からチャットが飛んできた。中学一年生の時である。「ど、う、し、た、の」と緑が文字を入力するより先に、瞳から追撃が来た。
『わたし、寝てる間に押し入れでうんこしてたんだけど(爆)』
最初、緑はその文字が何を意味するのか理解できなかった。緑は瞳に電話をかける。
「もしもし」
『あー、もしもし』
「ねえ、今くれたやつ」
『ああ、見た?』
「あれどういうこと?」
『え、そのまんまの意味だけど』
「押し入れでうんこしたの?」
『したけど』
「ヤバくない?」
『だからヤバいって言ったじゃん。あ、写真いる?』
「は? 絶対にいらない」
電話の向こうで瞳は笑った。
『お医者さん曰く、夢遊病あるあるらしいよ』
そんな「あるある」があってたまるかと緑は思う。同じ夢遊病である緑にとって他人事とは思えないからだ。
『でもそっか~、緑ならあるかもと思ったんだけどなあ』
「なんであたし」
『え~、だってしてそうじゃん』
「あたしが?」
『うん』
「押し入れで?」
『うん』
「うんこを?」
『うん』
緑は通話を切った。すぐに瞳から電話がかけ直される。通話を開始する。
「もしもし」
『ごめんって』
「あのさ、普通はしないから」
『ごめんね』
「しないよ、押し入れでうんこなんて」
『でもトイレではするでしょ』
「まあ、トイレではするけど」
『なら気をつけた方が良いね』瞳は声を低くして言った。『結局は場所の問題だからさ。人間がうんこをする以上、誰でも寝ぼけて押し入れでする可能性があるんだよ』
確かにその通りなので、緑は何も言い返せない。
『ていうか、私たち夢遊病のときの記憶がないわけじゃん? 緑だって知らないうちにどっかでうんこしてんじゃないの?』
瞳がケラケラ笑った。緑は絶句する。
その日、緑は居ても立ってもいられなくなって、半泣きになりながら家中の物置を開け、ありとあらゆる引き出しをひっくり返した。自分の知らないところで自分のうんこがどこかに転がっているかもしれない。すでに時間が経ちすぎてカピカピになっているかもしれないし、できたてホヤホヤかもしれなかった。緑はそのとき精神的に参っていたので、疑心暗鬼で開けたクローゼットの引き出しの中から茶色い靴下が出てきた時には力の限り絶叫した。
結局、家からうんこは出て来なかったが、緑はそのことを手放しには喜べなかった。安心したのは確かである。押し入れのなかで用を足している自分なんて、想像しただけで震えが止まらない。
けれども、これでは瞳が可哀想だと思った。
緑も瞳も夢遊病であり、粗相の責任はすべて夢遊病に押しつけたいと思っている。事実、そうするしかふたりが救われる方法はないはずだ。けれども、押し入れにうんこをしない緑がいる限り、夢遊病は瞳の腕からするりと抜けだし、残された瞳は自らのうんこと向き合わなければならない。
そんな残酷なことって、ないはずだ。
次の日、緑は瞳にチャットを送った。
「ねえ、ヤバいこと起きちゃった」
すぐに瞳の既読がつく。緑は一生懸命にフリック入力をする。
「私も、押し入れにうんこしちゃった爆」
既読がついているのに、なかなか返事は来なかった。暫くしてようやく、『嘘でしょw』と返信が来た。掛けた時間の割に短い文章だと思う。
今度はゆっくりと時間をかけて入力した。「嘘じゃないよ」と口にも出した。すぐに既読がつき、電話が掛かってくる。瞳からだった。
「もしもし」
『あー、もしもし』
「どしたん」
『いや、どしたんじゃないが』
瞳の声は微かに震えていた。
『うそだよね?』
「嘘じゃないって」
『本当に押し入れでうんこしたの?』
「したっぽい。押し入れにうんこあるから」
『気のせいじゃない?』
「だから気のせいじゃないって、ガチうんこだよこれ。写真見る?」
「見る」
緑は顔を顰めた。本気で要求してくるとは思わなかったのだ。
「あっそ、じゃあ写真撮るから切るね」
通話を切り、緑は深い溜息をついた。なぜ自分はここまでしているのか、今となってはさっぱり理解ができない。きっと昨晩の自分はどうかしていたのだ。寝る前にトイレで捻りだした本当のうんこを古新聞で受け止め、誰にも見られないようにこっそり自室に持ち込んで押し入れに放り込むだなんて――明らかに常軌を逸している。いくら友人のためとはいえやりすぎだろう。今も自分の部屋がありえないほど臭いのだ。とても年頃の女の子の部屋とは思えない。臭い。窓を開けても臭い。臭すぎる。一度慣れたと思ったが、改めて意識すると尋常じゃないほど臭かった。最悪だ。
でも、その最悪な環境に瞳は投げ込まれているのだ。
ああ、臭いなと緑は思った。臭い、ここはあまりに臭すぎる。
緑は考えるのをやめてガラリと押し入れを開けた。悪臭が鼻孔を刺激する。そこに自分のうんこが落ちている。半目でうんこの写真を撮った。すぐに送る。電話が掛かってくる。瞳からだ。
『ガチうんこじゃん!』
瞳はめちゃくちゃ興奮していた。『ガチうんこ、めっちゃ臭そうじゃん!』
緑は死んだ目で、「そうだよ、ガチうんこだよ」と言葉を返した。
『ね、ね、くさい?』
「くさいよ」
『どれくらい臭いの?』
「鼻がねじ曲がるくらい」
『ヤバ~!』
瞳はこれ以上ないくらいに嬉しそうだ。その声を聞いていると、なんだか緑まで笑えてくる。
「ねえ、ていうか私だけうんこの写真送ってるの不公平じゃない?」
『え、そうかな』
「そりゃそうでしょ。瞳も送ってよ」
『や~、それはちょっと』
「送ってよ。見たいんだけど」
『ん~……無理!』
「はあ? なんで」
『だって昨日の話、ぜんぶ嘘だし』
「ん?」
『だから私、押し入れでうんこしてないの』
緑はスマホを床に叩きつけて破壊した。
翌日の放課後、緑がうんこ臭くなった服を近所のコインランドリーで回していると、シーツを抱えた瞳の母親に出くわした。緑を見るなり目を輝かせ、「あらあ緑ちゃん久しぶり、ねえちょっと聞いてよ」と興奮気味に詰め寄ってくる。
「夢遊病も困ったものよねえ~!」
聞けば一昨日、瞳が遊行中に押し入れでうんこをしてしまい、そこに仕舞っていた服が全部うんこ臭くなったらしい。瞳は起きてから押し入れの惨状を目の当たりにして、めちゃくちゃに凹んで部屋に閉じこもっていたのだけれど、昨日、緑も寝ぼけて押し入れにうんこをしたのだと知って、ゲラゲラ笑いながら学校に飛び出して行ったのだと言う。
「もうぜんぶ緑ちゃんのお陰よ!」
「はあ」
「やっぱりアレね、夢遊病って怖いのねえ!」
「そうですねえ」
回る洗濯物を見つめながら、緑はそんなわけないだろと思う。押し入れでうんこをするような夢遊病患者は、お宅の娘さんのような一握りの逸材だけですよと言ってやりたかった。けれどもぐるぐる回る洗濯物とか、その日の元気そうな瞳の様子を思い返していると、別に瞳がうんこをしてようがしてまいが、元気そうならそれでいいやと思うのだった。
スマホの修理費は絶対に請求するけれど。
その日は。ウガンダのカモゲロがヤギ肉の香りとともに迎えた誕生日は、中瀬緑の誕生日でもあった。及川瞳はこの日のために特別なプレゼントを準備していて、こっそり通学鞄のなかに隠していた。ふたりは晴れた日には屋上に行ってお弁当を食べることにしていたので、瞳はこれ幸いと通学鞄を屋上に持ち運び、プレゼントを渡すタイミングを伺っていた。一方で、緑は幼なじみがそわそわしていることに気が付いていたのだけれど、気恥ずかしさゆえにその理由を指摘することも出来ず、ずっと視線を空に逃がしていた。困ったのは瞳で、こちらを見てくれない緑に対しての話しかけ方がすっかり分からなくなったので、結局ふたりは昼休憩が終わるまで、ぼーっと空を眺めていた。
ふたりは昼休憩が終わるチャイムを聞きながら、廊下で「またね」と別れる。
瞳は自分の席に着きながら、放課後になれば渡せるだろうと思っていた。
緑は自分の席に着きながら、放課後になれば貰えるだろうと思っていた。
その数分後に、カモゲロは机に頭をぶつけることとなる。
夢遊病患者が動けるのは、ノンレム睡眠の時だけだ。脳は眠っているのに身体が動く。それが夢遊病を支える論理であり、逆に言えばレム睡眠に切り替わったときに、夢遊病患者は動きを止めてしまう。
『みどり』と『ひとみ』が机を挟んで膠着状態に陥ってから、もう数時間が経っている。睡眠周期的に、そろそろレム睡眠に切り替わる頃合いだ。ふたりは手を伸ばしあっても届かない二列の机と人に阻まれながら、何度も何度も意味の通らない寝言を投げつけあっている。
「とびらしめて」
「パパイヤ」
「はやくおきて」
「メタセコイヤ」
「もうたべられないよう」
「ハルキゲニア……」
緑と瞳なら言い合えることが、『みどり』と『ひとみ』には言い表せない。ふたりとも自分が何を言っているのか分からないし、お互いの声が聞こえているのかも分からない。それでもふたりはここにいて、言葉を交わし合っていて、レム睡眠に移行するまで残り数秒となった今、ふたりの横顔はとても綺麗だ。ふたりはやがてレム睡眠に移行する。次にふたりが夢のなかを歩けるのは、レム睡眠がノンレム睡眠になるときだ。それが何時間後のことなのかは分からないし、ふたりの睡眠周期が合致するのかすらも見通せない。けれどもその波は確実に訪れて、ふたりの口から寝言を引きずり出していく。その言葉が無数のかたちをとって、誰にも受け取られずに跳ね返って、その意味のないやりとりができることを、ふたりはきっと夢見ている。
「みんな、いい夢を!」
カモゲロの父親の寝言が寝室に響き渡る。わざわざ言われなくても、カモゲロは安らかな顔で眠りに就いている。それでもカモゲロは嬉しかったに違いない。例えそれが外側だけの言葉だったとしても、中身がちゃんと伴っていく。言葉ってきっとそういうものだ。そうして言葉を覚えていくのだ。
満たされた寝言 小野繙 @negishiso
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