第9話
その日は、生きた心地がしない状況で働いた。
メリンダはそんな俺を気にかけていた。けれども何か話しかけられても俺が「ああ」とか「うん」といった生返事しかしなかったせいだろう。
そのせいで呆れてしまったのだろう。
結局この日はメリンダとまともに話すこともなく、彼女は17時になると退社していった。
「まいった……一体どうすればいいんだ?」
帰りの辻馬車の中で俺は頭を抱えていた。
今から義母に謝罪をしても、もう手遅れだろう。いや、そもそもエリザベスが実家に戻った日に離婚届を見つけた。
「もしや……メリンダとの関係がバレた……?」
思わず口にしていた。
だとしたら、一体何処でバレたんだ? 彼女との関係は周囲にバレないように慎重に交際していたのに。
たった月に二度だけの交際。
彼女と出かける日には偽名を使い、眼鏡にカツラ姿で行動していたのに……?
社長秘書という立場に置けば、盲点だと思っていたのに返って裏目に出てしまったのだろうか?
「駄目だ……絶対に離婚だけは死守しなければ……離婚などされてしまっては俺はもう終わりだ……」
俺は貴族ではない。
子爵家のエリザベスと結婚出来たからこそ、貴族社会に潜り込むことが出来た。
事業が拡大出来たのは、資金援助をしてくれた彼女と義理の両親のお陰だ。
多くの顧客を獲得できたのもヒューゴー子爵家の後ろ盾があったからこそ……。
つまり、俺はエリザベスに離婚されれば全てを失ってしまうということだ。
「よし、決めた。エリザベスから離婚を言い渡される前に、浮気のことを白状して謝るんだ。メリンダともきっぱり別れて、秘書を……いや、会社を辞めてもらおう。俺の誠意を見せるんだ。ついでに見舞いに行かなかったことを謝罪し、明日にでも義母の元を訪ねれば、きっとなんとかなるはずだ……」
馬車の中で、暗示をかけるように自分に強く言い聞かせた――
****
辻馬車を降り、3階建ての屋敷を見上げた。
今までこんなにも緊張する気持ちで帰宅したことがあっただろうか?
途中、辻馬車に行先を変えるように告げなかった自分を褒めてやりたいくらいだった。
「よし、まず離婚を切り出される前に謝罪して全て洗いざらい告白し、メリンダと別れることも宣言する。その次に義母の見舞いに行かなかったことを詫びて、明日にでも何かプレゼントを持参して訪ねることにしよう」
馬車で考えたことを改めて口にすると、意を決してドアノブを握ろうとしたその時。
突然眼の前の扉が開かれ、無表情メイドが姿を現した。
「ヒッ!」
まさかいきなり扉が開かれるとは思わず、口から小さな悲鳴が漏れる。
「お帰りになられたのですね、カール様」
「あ、あぁ……。それで、エリザベスは……?」
「はい、もうお帰りになっておられます。食事をしながら大事なお話があるそうです。既にダイニングルームでお待ちになっておられます」
「そ、そうか……大事な話か。分かった、すぐに向かおう」
「では、おカバンをお預かり致します」
「頼む」
カバンを託すとメイドは無表情で受取り、去って行った。
その後姿を見送りながら、思わず心の声が漏れてしまう。
「ハハハハハ……大事な話ね……。まさか夫婦としての最後の晩餐と言うことなのだろうか……」
こんなことなら胃薬を持参してくれば良かった。
重い足取りで、エリザベスの待つダイニングルームへ向かった――
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