いつまでも輝く母へ

錦魚葉椿

第1話

 重厚な執務室の机の上に、籠に盛られたたまご。

 数にして30個ほどだろうか。

 こんもりとした白いたまごの隙間に突き立てられた白いユリと赤いバラ。

 ユリはあくまで大輪の純白で、バラは赤よりやや深紅。


 何の隠喩か。

 暫く眉をひそめて、ネルは自分の机の上に飾り立てられた芸術作品ごときものを眺めていた。

「ネル様、いかがなさいました」

 いつまでも椅子に戻らない彼に対し、些かのんびり過ぎるタイミングで、秘書が問いかける。よいしょと腰を上げ、書類の山の向こうを覗き込む。秘書は出しかけた悲鳴を吸い込んで「ひゅえっ」というような奇妙な音を喉から出した。

 奥まった執務室まで誰の目にも見とがめられず入り込むことは、いくらなんでも困難。となれば身内の犯行と考えられる。

 異様な作品の送り主が誰なのか。

 その場にいる者たちには一瞬で、確定した。

「奥様・・・」

 前回届けられた荷物は結構な威力のある爆発物だった。

 事務所の従業員はのけぞり、皆一気に壁際まで飛びのき逃げた。



 エリンズ商会において”奥様”と呼ばれるのは先代の会頭、女傑エリン。

 新しい商品を次々と見出す嗅覚と判断の俊敏さは“獣の如し”と称えられ、流行を自ら作り上げて国境を越えて売りまくり、商会を巨大化させ、国王をしのぐ富を集中させ、そしてなにもかも巻き添えにして一瞬で倒産させた。





 5年ほど前のある暑い日に、突然その通告書は送られてきた。

 よく覚えている。

 この薔薇のような真っ赤な封筒だった。


 当時、ネルは第一秘書と呼ばれる立場で、いつも通り書類の整理をしていた。

 その日も彼らの上司はひどく機嫌が悪かった。

 上機嫌なときは客にも部下にも何でも買い与え、不機嫌なときは鞭を振り回し暴徒のように破壊の限りを尽くす。機嫌が悪いのは通常運転なので、彼らは特に気にしていなかったが。

 商品のやり取りに関するあらゆる手紙の間に、いままで見たこともない光沢のある赤い封筒が挟まっていた。

 そのころは「ペーパーナイフで封を開けるだけ」の者、「紙を広げるだけ」の者、「簡単に分類する」者。そんな担当がいなければ捌き切れない量の書類が送られてきていた。

 ネルの仕事は請求書、納品書、見積書、要求仕様書など定型なものではなく、企画書や事業計画、その他一般的ではない書類の重要度を判断する担当だった。ざっくりと指示を記入し、各担当に配分する。

 もう数年、その業務に従事していた彼にも、その手紙は全く判断のつかない内容だった。

「奥様、どういうことでしょう。計測装置の専売権を侵害しているという警告書です」

 その商品の専売権は最初にそれを見出したエリンズ商会にあることは世間にも周知の事実だ。奥様は目玉がこぼれるほど目を見開いた。

「どうしてあんたは人あての手紙を勝手に開封するのっ」

 通知書をひったくられて、浴びせられた怒号はあまりにも無茶苦茶なものだった。

 自分はそのために雇われているのではないのかと疑問に思いながらも、この状態になった上司をつついてはいけないことは経験上よくわかっていたので、みな静かに次の指示を待っていた。

 彼女は手紙を読み終わると、静かに封に戻し、そっと机に置いた。

 みたこともない静かな無表情。

 長年彼女に仕えてきたが初めて見る顔だった。

 しばらく彼女は沈黙を守り、ややあって真っ赤な口紅を引いた唇を歪めてにやりと笑った。

「この商会はネル、あんたにやるわ。好きなようになさい」


 彼女は淑女らしくなく、のっしのっしと大股であるく。

 ネルの机の前を横切り、それ以外の誰にも声をかけず、ふらりと執務室を出ていった。



 会頭エリンがそうやって職場放棄して、二、三日でてこないことぐらいはよくあったので、誰も不審に思っていなかった。

 三日後、会社の名義変更が受理されたという届け出と、突如押しかけてきた債権者たちの集団に遭遇して初めてネルとその部下たちは会社のすべてを押し付けられたことに気が付いたのだ。

 会社の主要な三品目の特許が、彼女の盆暗息子によって盗み出され、売り飛ばされていた。違約金の支払いと、生産中の商品の没収と、それに伴う貸付金の回収、従業員の脱走とあらゆる怒涛の経営危機が襲い掛かってくることになった。

 一歩でも引いたら斬り殺されるような状態で前に進むしかなかった。

 それから5年。

 200人を超えていた商会は15人ほどの小さな商会に落ち着いた。

 沈没する船から逃げ遅れた鈍臭い被虐趣味の愚かな忠義者ばかり残った。



 彼女はすべてを放棄して逃げた。

 あそこで何かしようとせず、なにひとつ持ちださず。

 商会の財産名義はすべてネルにかきかえてくれていたので、処分は容易だった。

 債権者たちも、罪と後始末を押し付けられて残されたネルたちを憐れみ、可能な限り譲歩してくれた。

 奥様は何も残さなかった、ということはない。我々一人一人を残した。

 私たちは誰一人として奥様が居なければこのような人生は送っていない。

 もしかして、奥様はあの一瞬で最良の手を打ったのではないか、と思うのは、あまりにも奴隷根性が染みついているかもしれないと苦笑する。

 誰もこの商会の看板を掛け変えようとはしない。

 ここはエリンズ商会。

 彼女は我々を産み出した母なる存在。



 そして執務室の机の上の卵。

 長い棒でつついてみたが、爆発する気配はない。

 卵を割ってみる勇気はない。

 まして食べるのは愚行だろう。

 残念ながら奥様の良心をそこまでは信じきれない。


「ネル様、これはどうしましょうか」

「そうだな、食用かどうかわからないから他の者の目に留まらないよう厳重に梱包して土に埋めておけ」

 花の側にも何かの加工が施されているかもしれないので、すべてそっと慎重に木箱に詰められて担架で運び出されていった。




 さて、とネルは美しい柄の便箋を取り出して、お礼文を認めることにした。

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