第19話 遠い空

 メイは翌朝、エルーと共に出発した。

 武装はコンパウンドボウの矢をいつもの倍、50本を準備した。

 あまりに多すぎると怪しまれる。

 鏃は全て炸裂矢を装填し、別に先日買ったホワイトアッシュ軸の矢、6本を予備でもつ。

 兵站も最小にして、荷物を減らした。

 急がなければならない、脚力は十分のエルーだが負担は減らしてあげたい。


 街道を逸れて山道をショートカットして近道をする、昨夜のうちに宗一郎とエチダ藩までの行程について検討していた。

 1日目の宿泊は渓谷沿いにあるかつての繁華街跡だ、最近この一帯には野盗の報告がない、

山中で獣や野盗に神経を使うよりマシだろう。

 渓谷を登り切り、下りになったところでエルーから降りる、登りより下りの方が脚に負担が大きい、先は長い、休ませることは重要だ。


 「お疲れ様、エルー、少し休んで」

 首を撫でてあげる、シュンッと鼻を鳴らす、まだまだいけるぞっと言っている。

 「ありがとう」

 首に頬を寄せる、温かい体温と鼓動を感じる、イシス最後の時にエルーがアスクレイの元まで運んでくれなければ、今の自分はない。

 命の恩人、いや恩鹿だ。

 イシスがメイに変成するまで、逃げることなく近くの森で待ち続けていたエルー。

 メイとなってしまった主人、姿、声、匂いも変貌し、イシスの存在は脳の一部だけであったのに、手術後初めて外に出たメイを疑うことなく駆け寄り、親愛の仕草を見せた。

 ようやく歩けるようになったメイに向かって突然突進してきた大鹿にアスクレイは立ち塞がってメイを庇おうとしたが、メイの直前で立ち止まったエルーは膝を折り、腹を付けて騎乗を促すような仕草で応えた。

 エルーにもイシス同様の知覚共感能力があるのだろうか、イシスの身体は既に埋葬されてこの世にはない、しかし、その生存を疑わず待ち続けていたエルー。

 アスクレイはあの日、鹿が涙を流す姿を始めて見た。


 大事な家族、相棒で親友だ。


 注意深く廃墟に侵入していく、しんと鎮まり人の気配、生き物の気配はない。

 近くにあるのだろう、川が流れるせせらぎの音が僅かに聞こえてくる。

 念のためイージスを機動させて周囲を探ってみる、2km圏内に人はいないようだ。

 廃墟内を宿泊に良さそうな場所を求めて進んでいくと、森の中から出る脇道から巨大な足跡があるのに気付いた。

 一瞬オーガかと思ったが、そばには小さな足跡も同時にあった。

 一人と一人だ、奴隷商人にしてもおかしい。

 どちらにしても、近くにはもういないか既に死んでいるかだ。


足跡は道から回り込んだ廃屋に伸びていた、頻繁に出入りしていたようで踏み固められている。

エルーから降りて廃屋の中を覗くと誰もいないが生活感がある、その脇には馬小屋だろう草を引き詰めた小屋もあった。

浮浪者だろうか、それにしては整頓と掃除が行き届いている。

生活を放棄したものの住処ではないような気がした。


一宿お借りしようとも思ったが、どんな奴か分からない、不意に鉢合わせでもしたら危険だ。

住人の足跡がない離れた場所の廃屋を利用することにする、用心のため一度廃墟外まで足跡を残して、森を回り込み廃屋に戻る。

住人が戻れば監視できるだろう。

廃墟は何者も寄せ付けない壁に囲まれているように静まり返り、夜の闇に沈んでいった。

亡霊か幽霊の領域なのかと思ったが、よく考えると自分も幽霊のようなものだと少し可笑しくなって含み笑いを漏らした。

「いるなら話し相手になってほしいわね」

エルーのお腹を枕に不気味な雰囲気の廃墟をよそに、いつもの通り熟睡していた。


ミロクは一人、その小さな背に薬や薬草を詰めた袋を担いで、朝日が木々の間から漏れ始めた早朝の山道を蟻獅子ミルレオの後を追っていた。

森の中はエルフの庭であり、方向を失うことはないが、野盗や肉食獣に抗う術は少ない。

かろうじて毒を含ませた吹き矢を持っていたが即効性はない。

強い焦燥感と不安がミロクの足を止めなかった。

小さなスタンスが小刻みに丘を上がり、下る。

その貧弱な外見から想像されるより、原種アールヴの動きは森の中では早い。


昼前には森を抜けて宿場町手前の草原に出る、広く見渡せる丘は青さを失ったススキが風に揺れて波を見せている。

もともと深い森に続く草原、森に立ち入ろうとするものは限られている、稀に森の民、エルフ族たちが交易のために通るくらいで道はない。

背の高い植物を避けて進んでいく。

丘の上に馬に乗った漏れなく下衆な人相の男たちが、草原を行くミロクを見下ろしていた。

「なあ、あれアールヴじゃないか」

「お前もそう思うか」

「だとしたら、とんだボーナスだぜ」


男たちはマンハンター、奴隷商人の発注を受けてエルフや人間の子供を攫って集める犯罪者集団だ。

この日収穫した人間の子供を街の外で引き渡し森の隠れ家に還る途中だった。


「一人なら袋に詰めて街に持ち込めるんじゃないか」

「どうだかな、門番にいくらか包んだほうが確実だ」

「本当にアールヴなら賄賂なんてはした金になるぜ」

「しかし、なんだってそんな高級品が一人で歩っているんだ」

「そんなことはどうでもいいさ、要は金が転がり込んできたってことさ」

「日頃神様に祈りを捧げているご利益だな」

「違いねぇ、狩ろう」


 マンハンターたち3人は欲望の馬をミロクに向けて走らせた。


 ミロクは丘の上から駆け下りてくる馬に騎乗した男たちが自分を狙っているものだと悟り、半場絶望的に後悔した。

 この草原では馬から逃げ切れるはずはない、急いで森の中に引き返して走るが、草原の半場まで来てしまっていて森は遠い。

 「ああっ」

 せっかくミルレオ様に助けて頂いたのに、自分が余計なことをして奴隷に逆戻りになってしまう、なんて馬鹿なことをしたのだろう。

 言われる通り廃屋で帰りをお待ちするべきだった。

 悔し涙が風に乗って飛ぶ、役に立ちたかった、助けてもらった恩に少しでも報いたかった。

 このままでは、あの人はやがて人外の魔物になって死んでしまう、死んでもきっと心の中心にいる愛しい人とは会えない。

 きっと人の心も失くして本物の怪物、蟻獅子ミルレオになってしまう。

合わせてあげたい、叶えてあげたい。


草原を駆け下りる三騎は三角形にミロクを囲い込む、手慣れている。

正面の一騎が槍をチラつかせながら迫る、後ろ二騎が捕獲役だろう、投げ縄を回している。

「いいいっ」

まるで牛の首に縄をかけるように、歯を食いしばって走るミロクに縄が放たれる。

ギュッ 輪がミロクの身体を中心に引き絞られて自由を奪う。

縄を後ろ向きに引かれて草原に転げる。


仰向けに転がされて仰ぎ見た空、高くて遠い自由の空、昨日まで手が届いたものが再び遠くに逃げていく。

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