006-01. 残英の哀歌
あの曇り空の夜から、四日が経過した。
あれ以来、柘榴は屋上に行っていない。
学校から帰り次第リハーサルやレッスンに参加し、夜は授業の予習復習をこなして休む毎日を送っている。
衣織とは生活リズムが違うのか、普通に生活していると顔を合わせる機会すらない。
そうして日々を過ごしていると、社長から直々に呼び出しがあった。
「失礼します……」
「あっ、来た来た!」
「お疲れ、柘榴」
社長室のドアを開けば、そこにはローザとニゲラの姿があった。
奥にはいつも通り社長が座っており、手前には柴田が控えている。
「……よし、全員揃ったな!」
柴田の元気な声に呼応するように、尾崎がすっと椅子から立ち上がった。
……座っていない状態の社長は初めて見たが、相当に背が高い。柘榴ですら平均よりかなり大きいほうなのに、さらにその上から見下ろしてくる。
「伝達事項は二つ。まず、君たちのデビューについてだ」
そう言って、手に持っていたクリアファイルをローザへと差し出す。
柘榴とニゲラが横から覗き込めば、そこには『ToPプロジェクト 第一弾ユニットデビュー概要』と記された書類が挟まっていた。
「メンバーは鈴鹿柘榴、ローザ・ノーストピア、芦名ニゲラの三名。ユニット名については、君たちに候補を出してもらう」
ローザが書類を取り出し、ぺらぺらと捲っていく。
表紙の次にはユニットの概要、そしてデビューシングルリリースまでのタイムラインが記され、次のページからは三人のプロフィールをまとめた資料が続いた。
「……三人」
書類を最後まで捲り終え、ローザがぽつりと呟く。
「ねえ……これって、つまり……」
ローザが言わんとしていることを読み取ったのだろう。
尾崎は小さく息を吐くと、瞼を伏せて腕を組んだ。
「……二つ目の伝達事項だが、橄欖坂衣織の退所日が決定した。以前から要望があったことを考慮し、急な話ではあるが、今日から一週間後に契約解除とする運びになった」
その場の誰もが察していた言葉が、重苦しい空気を纏って投下される。
「…………」
沈黙が部屋を満たす。
衣織がそれを望んでいたことは、その場に居た誰もが知っていた。
「最近、元気になってきたと思ってたけど……やっぱり……」
しゅんと萎れるローザの背を、ニゲラが慰めるようにそっと摩る。
そのニゲラも、心なしかいつもより寂しげな表情をしていた。
「伝えるべきことは以上だ。柴田、五日後までにユニット名の候補を――」
「……待ってください」
考えるよりも先に、柘榴の喉から声が出ていた。
「俺……皆さんの間で何があったのか聞いていません」
「ざくくん……」
「あとから入ってきた奴が口を挟む筋合いはないかもしれないけど……でも、やっぱり納得いかないです。こんな状態でデビューって言われても困ります」
半ば脅迫のような言い草になってしまったが、ここで引く気はない。
柘榴の気持ちに思うところがあるのか、ローザもニゲラも口を挟むことなく黙って成り行きを見守っている。
「んん……そうは言っても、プライバシーの問題もあるからなあ。事務所が勝手に判断して公表すんのは……」
柴田はそう言いながら、後頭部の髪をわしゃわしゃと掻き回す。
個人的には教えてやりてえけど、と付け足すその表情は、歯痒そうにくしゃっと歪んでいた。
再度の沈黙。
それを破ったのは、この場で最も大きな裁量を持つ人物の溜息だった。
「……君の言い分にも一理ある。過去の事実を覆い隠した状態で、年単位でのスケジュールを見越した活動に参加しろと命じるのは、契約上の問題はなくとも不誠実極まりない」
「……いいのかよ、蓮。衣織の出方によっては問題になるぞ」
「やむを得ん。それに……企業体質がどうと言うなら、橄欖坂の要求をここに至るまで保留にしてきた時点で黒だろうよ」
「そりゃ、そうだけど……まあ、お前がそこまで言うなら、俺は別にいいんだけどさ」
柴田はお手上げと言わんばかりに両手を小さく挙げると、社長の書斎机に乗った資料をざっと端に寄せ、天板に思い切り腰かける。
尾崎はその不作法に一瞬眉根を寄せるも、再び溜息を吐いて柘榴へと向き直った。
「俺から話せるのは、一連の関係者が目にした事実だけだ。橄欖坂個人の胸中は知らん」
「……はい。それで構いません」
柘榴は力強く頷く。
その目に宿った決意を読み取ったのか、尾崎は一度頷き返し、淡々とした口調で語り始めた。
「事の始まりは三か月前――弊社所属ユニットのアリーナツアー。そのリハーサルの最中、一件の事故が生じた」
その日は、今後全国を巡っていくツアーの初日。
衣織の所属するネクストスカイはツアー全編のバックダンサーとして抜擢されており、途中の数曲を除いてパフォーマンスに参加する予定となっていた。
事故が発生したのは、ツアーの冒頭となる一曲目のリハーサル中。
ステージセットのひとつである、ワイヤー吊り下げ式の装飾が落下。
装飾が比較的軽量なパネルと軽量な金属で製作されていたため、死者は出なかったものの――セットの吊り下げ位置が後方であったことから、ステージ後方に立っていたバックダンサーの研修生が負傷し、救急搬送される事態となった。
「この事故で負傷したのが、深山紫乃と橄欖坂衣織の二名。深山は手首に捻挫を負う軽症、そして橄欖坂は――上腕骨の骨折の他、右頬に大きな裂傷を負った」
衣織の長い前髪と、頬に当てられていた真っ白なガーゼを思い出す。
この時に負った傷を隠すために、ああして覆い隠していたのだろう。
「あの怪我、そんなに深いんですか……? 今でもガーゼが必要なほど……」
柘榴は恐る恐る問う。
その問いかけに対し、尾崎は首を横に振った。
「いや……顔も傷跡こそ残っているだろうが、予後は良好だったはずだ」
「……隠しておきたいんだと思う。あの時のことを思い出さないように」
社長の言葉に続けて、ローザが苦しそうな表情で呟く。
「あの時――セットの真下に居たのは、しのちのほうだった」
「……でも、怪我の程度は、」
「庇ったんだよ、おりくんが」
その場を目撃した関係者の証言によれば、落下物が紫乃に接触する直前、衣織が紫乃を突き飛ばすようにしてその場から退けたのだという。
「自分を庇った結果、おりくんの顔に傷ができてしまった……その事実に、しのちは罪悪感を感じてた。自分のせいで、おりくんのアイドル生命が断たれるかもしれないって」
顔に傷を負う。
それが、ルックスをひとつの武器とするアイドルのキャリアにどのような影響を与えるか――それは、少し考えれば理解できることだった。
「その罪悪感で、紫乃さんは退所を……?」
「……いや、そう単純な話じゃなかった」
柘榴の呟きに、今度はニゲラが首を振る。
「傷を負って、病院に搬送されて――施術が終わって戻ってきた衣織が、紫乃に言ったんだ」
今日は休んじゃったけど、明日はよろしくな。
「……大丈夫なわけないんだよ、腕は折れてるし、顔も縫ってるんだから。それなのに、衣織はステージに立つつもりでいたんだ」
平然と言ってのける衣織の姿は、その場に居合わせたローザやニゲラの目にも異常に映ったという。
……今にしてみれば、きっとあれは現実逃避だったのだろう。
「当然、そんな満身創痍の人間をステージに上げるわけにはいかないからな。衣織は翌日以降、強制的に活動休止にしたよ」
机に座ったままの柴田が、靴の爪先を左右に動かしながら言う。
「まあ、そっちは妥当っちゃ妥当なんだけど……この一連の流れで、残された紫乃が相当滅入っちまってさ」
自分を庇って、衣織が今後に影響する可能性のある怪我を負った。
衣織は、顔に傷を負ってなお、ステージに立つと言って聞かなかった。
自分が衣織の未来を奪い、狂気を起こすほどの強い絶望を齎した。
「しのちは、罪悪感よりも……恐怖に耐え切れなかった」
以降、紫乃はステージに立つことができなくなった。
ステージの滑らかな床を一歩踏むだけで、息が乱れ、手足が震え、声が出なくなった。
そして、その悲痛で凄惨な様相は周囲の関係者にまで動揺を与え――テイルプロダクションのタレント管理体制に関する風評が囁かれるまで、そう時間はかからなかったという。
それから間もなくして、深山紫乃の名が研修生の一覧から消えた。
事故から一か月――衣織の活動休止期間が終わる、ほんの三日前のことだった。
「しのちが挨拶もなしに居なくなって……おりくん、すごくショックを受けてね」
「毎日のように蓮のところに押しかけて、『自分も辞める』って大荒れするようになってさ。辞めるにしても次の仕事を決めてから、ってなんとか宥めて、カウンセリングも受けさせて……まあ、結果は芳しくなかったけどな」
柘榴の脳裏に、廊下で叫んでいた衣織の姿が蘇る。
今から二か月ほど前……ちょうど、衣織が復帰して間もない頃だったのだろう。
「……けど、柘榴と接するようになってから、少しずつ状況が変わり始めた」
「うん。最初はトゲトゲでツンツンだったけど、日を追うごとに前のおりくんに戻っていって……そのまま、戻ってきてくれるかも、って……」
ローザの声がどんどん涙声になっていく。
隣に立つニゲラも眉を僅かに寄せて唇を噛み締め、こみ上げる気持ちを抑え込んでいるようだ。
そんな二人の様子に、柴田は困ったような笑みを浮かべた。
「契約解除に至ったってことは、蓮的にはもう大丈夫って判断したんだろ?」
「……憑き物が落ちたような顔をしていたからな。俺が見張っておく必要もない」
尾崎は静かな声でそう返し、「いい加減降りろ」と柴田の太ももを叩く。
柴田は大人しくそれに従うと、先程乱雑に寄せた書類の山を元に戻し始めた。
「……さて、これが事の顛末だ。他に提供できる話はない」
「………………」
「これでも納得が行かないなら、あとは本人に話を聞いてくるといい」
それだけ言って、尾崎は定位置である革張りの椅子に腰を下ろす。
そしていつも通り書類を手に取ると、さっさと次の仕事に移ってしまった。
「……ユニット名については、『ネクスタ』の収録終わってから考えるか。とりあえず、今日はもう上がってしっかり休めよ」
柴田に優しく諭され、柘榴たちは黙って頷くしかできなかった。
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