005-03. 蕾と花殻

 

 柘榴が初出演する『ネクスタ』の収録日まで、残すところ一週間を切った。


「……え、えっと……どうでしょう?」

「うん、最初に比べて声量も安定したな。安心して披露できるクオリティになったと思う」

「……は、はい! ありがとうございます!」


 衣織の言葉を受けて、柘榴はぱあっと顔を輝かせる。


「……とは言え、本番まではまだ時間があるからな。ここで調子に乗って、変な癖をつけたりしないように」

「うっ、はい……肝に銘じます……」


 夜の屋上でトレーニングを開始して早二週間。

 二、三日あった雨の日を除き、衣織は毎晩柘榴の特訓に付き合っていた。


「それに、明日からはスタジオリハだろ? 怪我とかに気を付けて、しっかりやるんだぞ」

「あ、ありがとうございます……えへへ……」


 ふにゃっと眉尻を下げて、柘榴が嬉しそうにはにかむ。

 このあどけなく気の抜けた笑顔も、この二週間でだいぶ見慣れたものになった。


「しかしまあ、最初はどうなることかと思ったけど……ちゃんと見られるものに仕上がって良かった」

「……橄欖坂さんのお陰です」

「いやいや、俺は何も……と言いたいところだけど、事実かなりみっちり仕込んだからなあ。あそこまでしておいて謙遜するのはちょっと腑に落ちないな」

「さ、最初、そんなにひどかったですか……!?」

「……ぷっ、あっははは! ごめんごめん、意地悪言った……ふふふっ……」


 口をへの字にして情けない顔をする柘榴に、衣織は思わず噴き出す。

 こうして声を上げて笑うことは久々だからだろうか、ガーゼの下の頬が引き攣りそうになり、そっと手で押さえた。


「……うん、そうだな。言うほど酷くなかった」


 夜空を見上げ、呟く。

 雨こそ降っていないものの、空には梅雨の到来を匂わせるような雲がかかり、星の輝きは目に見えない。


「…………ごめんな、鈴鹿くん」

「え……?」

「最初、君に……酷いことを言った。態度と指摘だけでも酷だったのに……代わり、なんて……」


 紫乃の代わり――そんな、無神経なことを口走った自分を恥じる。


「紫乃は……君ほど歌は上手くなかったな」


 柘榴からの相槌はない。隣で静かに耳を傾けているようだ。

 そんな彼の顔を見ることができないまま、衣織は言葉を紡いでいく。


「あの日、ここで偶然君の歌を聴いて……ショックだったんだ」


 荒削りで、覚束なくて、披露するにはあまりにも稚拙。

 それでも……柘榴の歌は、衣織の心に深々と突き刺さった。


「……俺は心のどこかで、『新人の歌なんて大したことない、大したことなくあってくれ』――そう思っていたんだろうな」


 見かけ倒しであってほしい。

 不真面目であってほしい。

 救いようのないド素人であってほしい。


 紫乃を、超えないでほしい。


 あの廊下で会った時から……いや、ローザが新人の存在を知らせてきた時から、衣織は無意識にそう願っていた。


「けど、君はそれを軽々超えてきた。悔しいなんてものじゃなくて、あんな幼稚なことを言って……本当に、ごめんなさい」


 柘榴に向き直り、頭を下げる。

 今更言い訳をしたところで何にもならないが、心からの謝罪だった。


「……どうして」


 束の間の沈黙ののち、柘榴の小さな声が夜の空気に溶ける。


「どうして……今、それを俺に言ったんですか……?」


 その声は僅かに震えている。

 衣織はゆっくりと頭を上げ、目尻を緩めて苦笑した。


「……聞いてた通り、本当によく気が付くんだな」

「辞めるつもりですか」

「いきなり結論に飛ぶなよ」

「だって……っ!」


 泣きそうに顔を歪める柘榴の頭を、片手でぽんぽんと撫で叩く。

 ……それだけでぎゅっと唇を噛み締めて大人しくなるのだから、本当に素直で可愛らしいと思う。


「……恵良えら松治郎しょうじろう、知ってるか? 演歌歌手の爺さん」

「……それはもちろん、知ってますけど……どうして急に?」


 柘榴が訝しげに首を傾げる。

 そりゃあ、真剣な話の途中に関係のない名前を出されたら、表情が険しくなるのも無理はないだろう。

 ……まあ、今回は関係がないわけではないのだが。


「俺の祖父なんだ」

「……えっ!?」

「母方の祖父だから苗字は違うけどな。俺に歌を教えてくれた人で……俺がアイドルになるきっかけになった人だよ」


 ベンチの背もたれに体重を預け、衣織はぽつりぽつりと語り始めた。




 橄欖坂衣織は、概ね平凡な一般家庭に生まれた少年だ。

 サラリーマンの父と専業主婦の母、二歳年下の弟と五歳年下の妹、そして母方の祖父母と共に、二世帯住宅の一軒家に暮らしていた。

 ただひとつ非凡な点があるとすれば……共に暮らす祖父が、国民的と呼んでも差支えない程度に名の知れた、大御所演歌歌手であることくらいだろう。


 祖父は礼儀正しく、情に厚い人だった。

 駆け出しのころに結ばれたという祖母を深く愛し、家族にもファンにも誠実に、優しさをもって接する人だった。

 衣織はそんな祖父のことが大好きで、幼い頃は祖父が在宅とあれば祖母のカラオケセットを持ち出し、童謡や演歌を教えてほしいとせがんでいた。


 そんな幼い衣織に、祖父は優しく、時に厳しく、歌というものを教えた。

 歌は心であり、歌うということは心を曝け出すことであると説いた。

 嬉しい時も、悲しい時も、人生は歌と共にあるのだと。

 ……幼い衣織には難しい話であったものの、祖父が力強い声で何度も繰り返した言葉だけは、深く魂に刻まれている。


『心のままに、歌いなさい』

 それが、祖父の口癖だった。


 そんな祖父が亡くなったのは、八年前。

 御年七十歳――大往生と言うには幾分か早かったが、その人柄を表すかのような、穏やかな眠りだった。

 家族は「お爺ちゃんらしい潔い最期だった」と納得し、悲しみの中でも前を向いていた。

 ……祖父と特に繋がりの強かった、祖母と衣織を除いて。


 祖母は、祖父に深く愛された人だった。

 祖父の名が今のように知れ渡るよりも前から……先の見えない暗闇の中でも、眩すぎる光の中でも、寄り添って支え合って生きていた。

 祖母の人生のほとんどが、祖父と、祖父の歌と共にあった。


 祖父が旅立ってから、祖母の背中は目に見えて小さくなった。

 威風堂々とした祖父に負けない凛とした佇まいは今では見る影もなく、晩年の祖父が好んでいたサンルームの椅子に腰かけ、空を見ながら祖父の遺した歌たちに耳を傾ける。

 ぽつねんと座って毎日を繰り返す祖母の姿は、祖父を喪ってぽっかりと空いた衣織の心の穴に、冷たい風を吹き込ませるようだった。


 そんな日々に変化が訪れたのは、一周忌の時である。

 受付を訪れる参列者の中に、よく名の知れた顔があることに気がついた。

 九十九つくも蓮――今は尾崎蓮と名乗り、芸能プロダクションの社長をしている男だった。


 母に聞けば、彼の養父にあたる尾崎泰山たいざんは、祖父と知己の間柄だったのだという。

 祖父が売れ始める少し前、銀幕スターとしての階段を登り始めた尾崎泰山が祖父の歌を絶賛したのがきっかけとなり、以降交流があったようだ。

 その養子にあたる尾崎蓮とも、多少なりとも縁があったのだろう。


 法要が終わったあと、衣織はホテルのエントランスを颯爽と歩く尾崎蓮を呼び止めた。


 その時、自分が何を口にしたのかは覚えていない。

 ただ、祖母の背中を包む術を、心の穴を埋める術を、何とか手にしようと躍起になっていた。

 祖父と自分を繋いでいたものを、手放すまいと必死だった。


 衣織がテイルプロダクションの研修生となったのは、その一週間後のことだった。




「……それからは、歌に没頭した。誰よりも響くものを、誰よりも上手く歌うことに必死になった」


 そうして歌い続けているうちに、気がつけば四年が経った。

 デビューの話も何度か出たが、自分と組むはずだった相手は次々と辞めていった。

 社長やマネージャー越しに伝えられる言葉は、いつだって「ついていけない」だった。


「別に、歌が歌えればそれで良かったから……納得できない相手と組むくらいなら、デビューなんてしなくたっていいとも思った。大抵の奴らは、俺が口出ししようものなら逆恨みか逆ギレするからな」

「それは……」

「……そんな中で、何度目かのユニット参加の話が来て。いつも通り、一緒に組む奴と顔合わせしてさ」


 マネージャーに連れてこられたのは、数日前にオーディション会場で目にした少年だった。

 ダンスオーディションのお手本係として呼び出された衣織の記憶にも、社長の前で情けなくすっ転んだ無様な姿はしっかりと焼き付いていた。


「そいつ……紫乃は、俺がどんなに厳しく言っても食らいついてくるんだよ。歌もダンスもへったくそな癖に、精神力だけは一人前で……」


 そうしてやり取りをしているうちに、紫乃との間には不思議な繋がりが芽生えていった。

 きっとあれは、信頼だったのだろう。


「しばらくそうやって活動してたら、次第に二人で注目されていって……いつの間にか、ユニットのダブルセンターって呼ばれるようになってさ。『ああ、こいつとデビューするんだなあ』って……」


 そこまで言って、衣織は瞼を伏せる。

 もうなんてことないはずのガーゼの下が、じくじくと熱を持つような錯覚を覚えた。


「……一人になって、気付いたんだ。いつの間にか、歌う目的が変わっていたんだって」


 絞り出すように、衣織は告げる。

 祖父を追って歌っていたはずなのに、一人で歌っていたはずなのに。


「……楽しかったんだよ、あいつと歌うの。呼びかけたら返ってきて、声が重なって……けど、気がついた時には、もう……」


 瞼の裏には、何も映らない。

 ……去り際の紫乃の顔すら、自分は目にすることができなかった。


「だから、もう終わりだ。こうしてズルズル先延ばしにしてきたけど……君とこうして接しているうちに、やっと整理できた」


 顔を上げ、衣織は柘榴に向き直る。

 柘榴は膝の上で拳を握り、俯いていた。


「……明日、社長としっかり話をしてくるよ。近いうちにそっちにも何かしらの連絡が行くと思う」

「…………」


 柘榴の目元は前髪に隠れ、その色は窺えない。

 ただ、唇を強く噛み締めているのだけは見て取れた。


「……明日からは、夜はちゃんと休息取るんだぞ」


 ベンチから立ち上がり、再びぽんぽんと柘榴の頭に触れる。

 されるがままの柘榴の拳に、一際強く力が込められたようだった。


「それじゃあ、本番頑張ってな。今までありがとう」


 それだけ告げて、衣織は柘榴に背を向けた。

 追いかける足音は、聞こえてこなかった。

 

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