第三話 二人きりの生活 一日目③

 教室へ入ると、健一は窓際の一番後ろにある自分の席に着いた。

 始業までにはまだかなり余裕のある時間だった。

 教室にいる生徒は全体の半分弱ぐらいだった。

 ――この時間だとこんなもんしかいないのか。

 いつもは割と始業ギリギリに登校している健一はその事を初めて知った。

 なぜ、そんなに早く学校に来ることになったのか。

 朝食後、健一は家事全般を行う権利を失い、自宅にいると邪魔だからと玲香に追い出されたからだ。

 既に真田家での序列が決まってしまった気がする。


 席に着いたまま教室を見回す。

 当然ながら玲香はまだ来ていない。

 健一が家を出てから、朝食の片付け等をやると言っていたので、もう少し掛かるだろう。とはいえ、まだ余裕ある時間なので、遅刻することはないはずだ。

 ――どっちにせよ、登校時間はずらした方が良かっただろうし、結果的に良かったのかな。

 そもそも玲香と一緒に登校なんて想像も出来ない。間違いなく噂になってしまう。

 健一は、今後も先に家を出るようにしようと心に決めた。


 やがて、玲香も登校してきた。

 玲香が教室に入るやいなや、教室内の空気が変わる。

 なにかをしたわけではない。

 ただ教室に入ってきただけ。

 それだけで、教室にいる誰もが、玲香の存在を自然と意識してしまっている。

 腰まで伸びた黒髪に白い肌、切れ長の目に整った顔立ちは、人目を引き、高校二年生とは思えない大人びた魅力があった。黒のセーラー服姿がそんな彼女にはぴったりで、古風な女学生を思わせる佇まいをしている。

 その表情はあまり感情を感じさせず、静かな威圧感を漂わせ、否応なしに周囲の注目を集めているた。

 玲香は、特に急ぐことなく、ゆったりとした足取りで自分の席に向かう。

 玲香の席は、窓際の一番の席だった。

 つまり、健一の座っている席の列の一番前だ。

 その間、騒がしかった教室内が不思議なほどの静寂に包まれていた。

 玲香の一挙手一投足に、皆気を配っているようだった。

「…………?」

 玲香はそんな教室の様子にほんの僅かながら戸惑いを見せながら、とくになにも言うことなく席に着いた。

 席に着く直前、こちらを見たような気がするが――気のせいかも知れない。

 玲香は鞄を開け、授業の準備をしているが、特に話しかけてくるクラスメイトはいない。遠巻きに見ている生徒はちらほらとはいるが、話しかける勇気が無いようだった。

 嫌われているというわけではない。

 その存在感に皆、一歩引いてしまうのだ。

 これが、玲香に友人が少ない理由だった。

 と――

 一人の女生徒が意を決して玲香に近づく。

「お、おはよう、神楽坂さん」

「おはよう。高橋さん」

 玲香の返答を聞くと、女生徒は、玲香に一礼をするとその場を離れ、友人たちの元に戻った。玲香からは背を向けていてわからないだろうが、女生徒は友人たちとうれしそうに盛り上がっていた。

 その雰囲気は憧れのアイドルと話したかのようであった。

 だが、それもあながち間違いではないかもしれない。

 良くは知らないが、玲香のことを密かに崇拝している者がいるらしいのだ。

 秘密のファンクラブ的なものがあるという噂もある。

 そのファンクラブでは、推し――玲香への過剰な接触は禁止されているとのことだ。そのせいで、玲香からすればただ挨拶だけされてすぐ離れていくというよくわからない状況になっているのだ。

 ――これで『地味で目立たない存在』だもんなぁ。

 確かにこの状況だと、自分が注目されるような存在であることに自覚が生まれないこともあるかもな、と思った。


「よお、真田。『黒姫様』を見てるのか?」

「な、なに言っているんだよ。片山君」

 健一の数少ない友人の片山嵩広かたやまたかひろがからかい気味に言ってきた。

 ちなみに『黒姫様』とは、玲香のことである。

 艶やかな長い黒髪と、南城高校の黒のセーラー服が似合いすぎていて、自然とそんな呼び名が広まっていたのだ。

 もちろん、本人の知らぬところで、だ。

 もしかしたら噂のファンクラブが広めている可能性もあるかもしれない。

「さすがに、狙うにはレベル高すぎじゃないか?」

「だから、狙ってないって、ちょっとたまたま目に入っただけだから」

「そうなのか? まあ、真田が神楽坂を狙うほど無謀じゃないか。――住む世界が違うって感じだよな。噂だと凄いお嬢様とからしいじゃん」

「……そんな噂もあったね……」

 その上品なたたずまいから玲香がお金持ちの家のお嬢様なのではないか、という噂は確かに聞いたことがあった。

 ――でも、実際は、神楽坂さんはお嬢様ってわけじゃないんだよね。

 玲香の前に住んでいた家は、普通の賃貸アパート暮らしで、大きな屋敷で暮らすようなお嬢様ではなかった。

 そもそも話しかけてくる人が皆無なので訂正する機会がないのだろう。

「きっと、家では広い屋敷の庭で、高い紅茶とか優雅に飲んでるんだろうな」

 片山はお嬢様と思い込んでいるからか玲香に対して偏ったイメージを持っているようだった。

 まあ、かつては自分も同じような考えだったのだから、なにも言えない。

「……どうだろうね……」

 もし、義理の兄妹になっていなければ知ることもなかったことだった。

 片山に気づかれないように、玲香の方に視線を移す。

 ――神楽坂さんは、お嬢様と思われていることに気づいているのかな?

 健一は、神楽坂玲香――今は真田玲香か――という存在に、興味を持ち始めていることを自覚し始めていた。

 

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