第13話 少年と少女I



誰もいない夕焼けが差し込む教室の中、一人の少年が佇んでいる。

6年1組と書かれたプレートがぶら下がるその中では、その少年が窓際の席で教科書を開いている様子が見えた。


けれど、少年の視線が向かう先は『算数』と書かれた教科書ではなく————十数人かが走っている、校庭の真ん中...........そして、その中心にいる少女だ。



「タイム、15.8!」



そう言われた少女は一瞬悔しそうな顔をする。

その顔を見た時、少年の椅子が思わずガタリと動いた。



「もう一回! もう一回だけ!」

「ダメだよ。もう今日の練習は終わり」

「でも!」

「部長なんだから、ちゃんと示しはつけなよ? 悔しそうな顔してるけど、それでも十分早いんだから」



タイム係の子に詰め寄った少女はその言葉を聞いて唇を噛み締める。

けれどそれよりもどこか落ち込んだように肩を落とした少年は、どこか元気がなさそうに教科書を紺色のランドセルの中に詰め込んだ。


そうして全てを入れ終わり席を立った瞬間、ドタドタドタ! というどこか騒がしい音と共に扉が開く。

その時、少年の少し落ち込んでいた顔が確かに綻んだ。



「みずきっ!」

「奏。早かったね」

「そりゃ瑞稀を待たせるわけにはいかないからね」

「僕が勝手に勉強してるだけだよ」



ニコリ、と少年が整った顔に笑みを浮かべると、少女の頬は鮮やかに色づく。

同じように自分の机から赤色のランドセルを背負った少女は、扉の前で待ってくれていた少年の横に並んだ。



「聞いて! 前は今回よりも0.3秒も速かったのに、遅くなっちゃった」

「それでも十分早いよ」

「そうやってみんなは言うけどさー」



どこか不貞腐れた口調で少女は唇を尖らすけれど、その表情はどこか明るい。

それを見て少年の顔も釣られて明るくなりながらも、二人は綺麗な夕陽が差し込む廊下を二人で歩く。


私は部長だからね、しっかりしなきゃ、と言った少女は、無意識に鼻歌を口ずさんでいる。

それをくすくす笑いながらも、少年は少女を優しい眼差しで静かに見つめていた。


————だから、聞こえてしまったのだろうか。

それは少年たちが静かに歩いていたからなのか。

それともその声の主達がもう誰もいないと思って大きい声量で話していたからなのか。


明確な理由はきっと誰にもわからない。

けれど、ただ声が聞こえたと言う事実が————声が聞こえて「しまった」と言う事実だけが、そこにあった。



「............最近の奏ってさ。ちょっと調子乗ってない?」

「わかる。自分のタイムが一番いいからってさ」



その悪意に満ちた言葉に、少年が息を呑んで隣を見る。

けれど少年の目には寂しそうにしている少女の姿があって.............それが、今回初めて起きたことではないことを示していた。


そして少年がそれを呆然と見ていると、少女はハッとして不器用な笑みをその顔に浮かべる。

夕日に当たってキラキラと輝く髪はいつもなら綺麗だと思うはずなのに、なぜか少年は泣きそうになった。



「あ.........私なら、大丈夫だから」

「かなで」

「本当に! 本当に大丈夫なの! 多分............私が何か、悪いことしちゃったんだと思う」



気のせいだろうか、どこか少年と目を合わせてくれない少女はそう言ってもう一度笑い、静かに俯く。

その姿に唇を噛み締めると、少年はその気弱そうな顔からきっと何かを決めた顔をする。


それから声が聞こえる部屋への扉を開けようと扉へかけた瞬間、冷たい感触が手に当たった。



「瑞稀。私は本当に、大丈夫だから」

「でもっ」



声を上げる少年に、少女は小さく首を振る。

その少年の視界は歪んでいて————それでも少女が立っている床の上には丸いシミができているのがわかって、少年は歯を食いしばった。



「なんで、なんで止めるの。だって、奏は悪くないのに、」

「違うよ。多分私が何かしちゃったんだよ」



そんなわけがない、と。

その言葉を飲み込むのに、数秒の時間を要した。

けれどなんとか飲み込んでも、胸の中では無意識に言葉が続く。



(だって、だって)



あの言葉に込められていたのは、そんな、純粋な嫌悪などではなかった。

『アレ』に含まれていたのは————とても醜い嫉妬と、羨望。



「............ねえ奏。僕、やっぱり我慢できないよ」

「ダメだよ。..............ダメなの」



ただただ泣きそうに首を振る少女に、少年は悲しくなった。

絶対に、彼女は悪くない。けれど、彼女は自分が悪くないことはきっとわかっていて————それでも尚、知らないふりをするのだ。


それが、少年には理解できなかった。

だって少年が知っている少女は、よくクラスのいじめっ子から揶揄われていた自分を助けてくれていた、ヒーローの姿だったから。



「なんで? なんで奏が我慢しなきゃいけないの?」

「…………だって、きっと私が悪いから」

「さっきからそればっかじゃないか!」



『きっと』とか、『多分』とか。

その曖昧な言葉で誤魔化して、有耶無耶にして、一体何が彼女の得になると言うのだろう。


ただ彼女が傷ついて、悲しんで、その先には————


「…………あ」



そして少年は、歪んだ視界の先に、どこか羨ましそうな表情で声の方を見ている少女を見た。

そして、気づいてしまったのだ。


彼女が望むのは『正しさ』でも『自分の感情』でもなく————ただ、『もう一度友達と仲良くする』ことだと。

いや、もう一度ではない。だってあいつらは、表向きではいつも通り仲がいい友達を演じている。


その瞬間、プツリと、何かが少年の中で切れる音がした。



「なんで!? なんであんな奴らなんか、あんな奴らなんかの、」

「あんな奴らって、言わないで。...........私の、友達なんだから」

「............そんな、奏なんて」



ほんの、一瞬。

文字通り瞬きの瞬間だけ、ずっと歪んでいた少年の視界が下に落ちて、鮮明になった。



「————奏なんて、大嫌いだ!」






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