幸せな人が襲われる


 2024年2月4日。

 通報があった現場というのは10階建ての立体駐車場であった。

 近くにショッピングセンターもあることから、普段は利用客も大勢いるかと思われるのだが大雨の降る夜中ということで、車の数も普段より少なく見受けられた。


 無論、そこを歩く人も見ない。

 まるで車だけが置き去りにされた物小屋であろうが、誰もそんなことは思わないだろう。


 さりとて立ち入る人間はいる。

 車を置いていた人間だ。


 そろそろ帰宅の時間だと二人の男女が仲睦まじく歩いていた。

 一人はブロンド髪に染め上げた長髪の女性、もう一人は黒い短髪の男性。夫婦である男女は互いに荷物を持ちながら、さて今日の夜はどうしようとか、明日はどうしようだとか笑顔で語り合っている。


 そんな雨の中でも幸福に満ちた会話が響いていても、この広い駐車場の雰囲気は一切変わりはしない。

 コンクリートの壁にただ、雨の音が反響するだけ。


 その内部の照明は二人の男女を照らし続けても、変わりはしない。

 自動車に当てたライトを人間に当てるだけ。


 そう、駐車場という箱はただ見つめるだけ。

 もしするなれば、駐車場の各階層に取り付けられた監視カメラ、その奥にいる者。


 だから監視カメラはようやく歩く姿を捉えていた。

 二人の男女───黒い一体の怪物。


「な、なんですか……あなた」

「誰だよ、お前!」


 男女は立ち止まった。

 その怪物の姿の実に滑稽なことか。

 人間の裸体のような姿をしながら、ジャガーのような顔をした人間。

 女の方は異物を見て、すぐに恐怖を感じていた。

 男の方はマスクをした変質者だと思い込み、一度は怒声を上げた。


 しかしそのマスクは作り物にしては出来すぎていた。

 その瞼はまばたきするように自然に開放していたし、何より牙を剥き出しにさせた時にだらりとでた涎は作り物だと到底思うことができなかった。


 何より───。


「オマエ……オマエ……」


 そのカタコトのような辿々しい言葉は、人間のように自然ではなく、開かれた口内の舌は獣のように長く伸びていた。


「か……怪物……!」


 女は恐怖のあまり怪物を指差して、声を上げた。

 そして怪物の方は……その黒い目を突然に赤く染め上げ、女を指差した。


「オマエ……!オマエ……!シヌ……チチ……シヌ……シヌ……オマエ……!」


 言葉を羅列した。その文章に繋がりはないようにも思える。

 だが黒い怪物……黒のジャガーノートは明確に殺意を持っていた。

 何も関係がない、ブロンド髪の女を。


 だから一歩。踏み出し。

 そして一歩───跳んだ。


「───!」


 男はブロンド髪の女を庇うようにして背を向け───斬りつけられた。

 黒のジャガーノートが持つ鋭い爪によって、深々と。

 衣服を身に纏っているにも関わらず、あっさりと。


「あァッ!?」


 ブロンド髪の女を抱きつつも、なんとか立つ男だがその顔は苦痛に満ちていた。


「だ、大丈夫───」


 ブロンド髪の女が男を心配するような声を掛けた時。

 男は一瞬、力をなくしたようにだらりと倒れた。


「あ……あぁ……」


 女は言葉を無くしたような声を絞り出した。

 それは男が目の前で倒れ、地面を赤く染め上げたからではない。

 ブロンド髪の女の胸部もまた、赤く染め上げられたから……。


 そしてブロンド髪の女は逆流して口元を赤く染め上げながら、力無く倒れる。


「………シヌ……シヌ」


 ブロンド髪の女は荷物を全て落とし、また自分の命も落とし掛けていた。

 誰か助けがあれば、と声を上げようとした。


 しかしそれは無理だった。


 ブロンド髪の女はふと顔を反らす。

 そこにはいまだに黒のジャガーノートが赤い目でこちらを見ていた。

 その腕を濃い赤で染めながら。


「シヌ……シヌ……」

「や……だ……いや……だ」

「シヌ……シヌ……チチ……シヌ……オマエ……シヌ」

「や……だ……しにたく……ない……たすけ……て」

「シヌ……シヌ……オマエ……シヌ」


 ジャガーノートはその爪を研ぐように両手を触った。

 シヌ……すなわち、殺す。

 父……斑目のジャガーノートは殺された。

 誰に?手掛かりはそう、金髪の女。

 だが目の前のブロンド髪の女は関係がない。ブロンド髪は確かに金髪であるが、少なくともこの女ではない。

 今地面を赤く染め上げているこの女はただ幸せに生きているだけだ。

 だから何も関係はない。


 だが黒いジャガーノートには関係がない。

 金髪の女のせいで父である斑目のジャガーノートは殺された。

 そして人間たちがいるせいで自分たちは日陰に隠れた生活を強いられている。

 だから黒いジャガーノートは怒りに、そして自らの憂さ晴らしのように、その爪を女に突きつけた───。

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