第8話 契約の終わり、その約束の日まで⑤
雪乃は奈々恵にだけ本当のことを話したのだ。
それは後にも先にもその日の、一度きりのことだった。
それ以後は会ってもそんな話は出なかった。会った時には、ただ一緒に川を眺めて、空を見ていた。なんてこと無い話をした。だから夢だったようにも思えた。夢じゃないことはわかってる。ただそう思ってみたりしていた。束の間の平穏が生まれるような気がしたから。
事件も、原因も、加害者も父親だった。
被害者は、子供たちだった。
「何のために産ませたと思ってるんだっ」
ある時、長く勤めていた女子店員にあんまりだととがめられて、父親が逆上して言った言葉だったそうだ。その女子店員も好んでなのか被害だったのか今となってはもうわからないが、その父親と関係があったようだった。母親にも何度かその事実が知らされたようだが動きは無かった。無いままに、今日がある。
子供たちは、それぞれが別々の時に被害に遭っていた。大柄で大きな包丁を手にして仕事をしている人だった。逃げ場は無かった。
兄妹はどこかで辛さを持ち寄ったのだろうと思われる。例え周囲にそれがわかってしまうことが起きたとしたって、それが間違いだと責めることなんて出来ないと思った。大人達はもっと当り前の顔をして自分の抱えているものから逃げ出している。目の前の弱き存在に逃げ込んでいるのだ。
何が悪くてそうなるのか。どうしたらこういうことが無くなるのか、考えたっていつまでも答えは出ない。急いでいるのに。
そしてそれがまだ続いている、この話が続くのだという。
(ありえない……)
そんな話、絶対にあってならないことに思えるが、奈々恵にも助けらしいことは何も思い付かなかった。あれもこれもグルグル巡って、結果的に実際に出来ることというのがまるで無いように思えた自分が情けなかった。どんな方法もきっと救いじゃなく、彼女をもっと傷付けることになるように思えた。
なぜなんだろう。救いが無いなんてことあるわけが無いはずなのに、目の前に居る彼女やその兄が地獄の中にいるように思えた。けして自力でも他者の力でも抜け出ることの叶わない地獄。この町はきっと狂っているが、だれもそれを問題にしてなどいない。いや、他の静かな町の片隅でも、誰も知らないところで本当はもっといろんなことが起きているのかもしれない。
(これも約束なんだろうか……)
自分が決めてきた地球でのあり方、そんなこと、あるんだろうか……と思った。
考えていると、雪乃が奈々恵の方を向いて言った。
「言ってくれたじゃない。奈々恵ちゃん」
「えっ、なに……」
「願えば……叶うって」
「う……ん……」
「濃く描いて…描き倒して行く先に、それはやってくからって」
「……で、も」
そうだって言えなくなっている自分が苦しくて…返事は出来なかった。
なのに雪乃は続けた。
「わたし、信じてるんだぁ」
「奈々恵ちゃんの言ったこと、本当だって思えるから」
「兄ちゃんにも話してあげたの」
「いつか飛び立とうって」
「いつか自由になって、全部忘れようって」
「全然違う人生、生きようって」
「だから描いてる、いつも」
「描いてるの。兄ちゃんにもそうしてって、言ってる」
「奈々恵ちゃんのこと忘れるわけ無いけど、けどね、そういう時がやって来たら、わたし迷わず行くから」
「そしたら、ごめんね」
「急に居なくなったり、したらごめんね。知らん顔したら、ごめんね」
「これまで……を、ぜんぶ……きっと捨てる日が来るから。だから、奈々恵ちゃんのこともわたし……」
「だけど、わたし、行くんだ、知らない世界へ」
「なってみせるんだ。みんなから聞く、幸せとかってやつに」
「……そう、ならなきゃ、いけないの」
ただただ、奈々恵は聞くばかりだった。
「いいよ、いいよ」
(いいよいいよ……何もかも、全部ね)
「うん……うん……」
頷いた。精一杯だった。
頼む、お願いだから捨ててください。
奈々恵は涙を堪えてそう思った。
雪乃と、それがちゃんと話をした最後だったように思える。
中学を卒業する頃、雪乃はさらに奈々恵から離れていった。高校が違ったのが一つの理由だったと思われるが、奈々恵が度々いる川のいつもの土手には彼女はやって来なくなった。時々登下校の通りすがりに自転車で会うことがあった。並んで走って少し話したり、挨拶だけの時もあったが、徐々にそれも減っていった。
高校を卒業してすぐ、早くに雪乃は結婚していた。
もちろん声は掛からなかったから、どんな綺麗な姿でお嫁に行ったのか知らないままだった。お金持ちの家の長男と結婚したんだと噂で聞いた。見えない契約から自由になる日。それは結婚する日だったのだろう。その家系から出て行ける。長男を選んだ。
彼女にとっての約束の日。その日を虎視眈々とネライ続けていたのかもしれない。
それほどまでの彼女の中にあった生き抜きたい欲求みたいなものが、自分の中には無いような気がした。
さらに数年後、豪邸を建てて男の子を三人産んで、忙しい日々を過ごしているようだという話も聞こえて来た。
その後二十歳を過ぎて数年経った頃、男の子を連れた彼女に、街のスーパーで出くわしたことがあるが、確かに目を合わせた私たちは、あの時の約束を守った。
雪乃の父親と母親は、彼女が結婚した後、続いて病でこの世を去っていた。それは朝刊を見て知っていた。
奈々恵は何年も経ってから気が付いたことがあった。気が付いたというより、確認は出来ないから想像である。中学や高校の時の自分には考え付きもしなかったこと。
あの日、兄は妹に置いていかれる形で、そこからようやく自分の人生を歩き出したのだろう。彼は新しい世界へと嫁いでいく彼女を見送ることを許されただろう。雪乃のその日を思った。ああ、そう…それは一番嬉しくて一番悲しい日…だった。
きっと雪乃は必死だった。
彼女がこの世で一番好きな人、それが誰かを知っている。
私はそのたった一人かもしれない。
あの日から、今も雪乃は一生懸命でいる気がした。 彼女が生き抜こうとした理由、それは最期の瞬間まで続くのかもしれない。あの二人は無言を貫くのだろう。
奈々恵も小さく環境が度々変わっていく中に居た。さらに自分の歩くはずの道を、その味わうはずの実感を信じて探し求めていた。空気中の匂いを嗅ぐように。必ず到着する、そこに不安はあったが疑いは無かった。
ここから先は、二度と会うことも無いだろう。
(でもね、私たちは友達だったよ。今までも、今も、そしてこれからも)
やがて、奈々恵はこの土地を後にすることになる。
それが自らの大きく失われた記憶を取り戻すための旅だったということを、また後々に知ることになる。
「ここは……地球っていう星だからね」
とある年の初夏。
青空が濃い日。雪解けで水量が増え始めた川の透明な流れを見に行く。山は今も何も変わらない。あの日と同じ。白い山はどこまでも毅然としているように見えた。
完
次のお話に続く。
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2024/05/27 スタート
2024/06/02 90%、直し同時
2024/06/04 公開
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